遠雷に鳴く
ひゅーい、ひゅーい、と、どこか物悲しげに耳に届いたあの声を、今でもふいに思い出す。
その日、俺はふいに裏山を通り抜けて行った方が早く家に帰れるんじゃないかと思い立ち、何も考えずに学校を出て裏山を歩いていた。
そして出会した。道から少し外れた先の、開けた場所。鬱蒼とした山中で、日光が眩しくない程度に降り注ぐそこ。
そこに彼女は居た。
「…何してんの?」
肩で切り揃えられた艶々とした黒髪、ぱっちりと開いた大きな瞳、学校で一番可愛いと評判だがミステリアスで話しかけ難いとも言われているクラスメイトが一人で佇んでいた。
「鵺呼んでる」
「ぬ、ぬえ?」
「鵺」
「…って、何?」
「強くて、気高くて、美しいもの」
「…?」
成る程、言ってる事はよく分からないが、以前からちょっと気になっていたクラスメイトと二人きりというシチュエーションに、俺は家へと向けていた足をくるりと変えて、どきどきしながら彼女へと近付いた。
「な、なぁ、普段からよくここ来んの?」
「時々かな…お稽古厳しいから」
「へえ、何やってんの?」
「お琴と、花道と、歌と、お茶と、踊りと…」
つらつらとまだまだ続きそうな彼女をぎょっとして止めた。俺が想像していたのは、習字とかソロバンとか、忙しいと言っても精々二つくらいだと思っていたからだ。
「ちょちょちょ、待った!え!?何、そんなにいくつもやってんの!?」
「うん…だから、たまに疲れた時は、こうしてここに来て鵺を呼ぶの…」
「なんでそんなに沢山…好きでやってんじゃないのかよ?」
「…おばあちゃんが、やりなさいって。その方が女の子は幸せになれるのよって」
「うーん…俺は自分が好きな事やる方が幸せだと思うけどなぁ」
ぽり、と頭をかく。
こんな田舎の村で、そんなスパルタなばばぁが居るだなんて考えてもみなかった。
周りの友達は男も女もみんな、山に分け入り川で魚を釣り、泥だらけになって遊ぶ。
勉強なんてのは、学校に居る間、授業だけ。
いや、田舎だからこそ、なのだろうか。女の子らしく、なんて古臭い習い事ばっか孫にさせるのは。
「好きな事をやるの、幸せ…?」
まるで初めて知ったように、彼女は大きな瞳がこぼれ落ちそうな程に目を見開く。
「おー、幸せだろ。俺はサッカーやってる時が一番幸せだな」
「そっか…幸せか…」
俯いて、初めて見た彼女の緩んだ口角に、控えめだけれど花が咲いたようなその笑みに目を奪われた。
嗚呼、俺は───
その時、聞いた事もないような大きなバサバサとした音が鳴り響き、地面が揺れた。
思わず尻餅をついて、急いで彼女の方へ顔を上げるとそこには、一匹の獣が居た。
「………っ」
俺はその光景に息を呑む。
凛と立つ彼女の目の前に、大きな翼を折り畳んで、すりすりと猿のような顔を彼女の手に擦り付けている。
蛇のような尻尾は彼女の足に巻きつき、自分からそれに一歩近づいた彼女は、片手で虎模様の毛並みを撫でる。
ゆっくりと、愛おしそうに、慈しむように。
「鵺…聞いて、私あなたと居る時が私の好きな事で、幸せなんだって」
「好きな事をするのが、幸せなんだって」
綺麗だけれど、どこか青白く生気のなかった彼女の頬に紅が差す。
噛み締めるように幸せ、幸せと呟いて、やがて彼女が俺を振り返る。
「ありがとう、貴方のおかげで、私は幸せが分かった」
「…え?」
牙を剥き出した獣が彼女を掴み、折り畳んだその翼を広げる。
「さようなら、貴方も幸せにね」
「ちょっ、待って!」
瞬間、強烈な風が舞い上がり、目を開けていられずにぎゅっと瞑る。
ごうごうとした風の音と共に、耳にひゅーい、ひゅーいという人とも動物の鳴き声ともつかぬ声が届く。
そして、やっと静まった風に目を開けると、そこにはもう彼女も獣の姿も無かった。
これは俺が大人になってから知った話だが、実は彼女は当時、祖母から虐待とも取られかねない執拗な躾を受けていたらしい。
彼女の母親は奔放な女性で、どこの誰とも知れない男と駆け落ちをし、そして赤ん坊の彼女だけを置いて消えたという。
祖母は二度と同じ轍は踏まないと、厳しく厳しく孫娘を育てようとし、結果孫娘もどこかへ消えてしまった。
俺はふと疲れたな、と思う度に、あの日の彼女のようにあの場所へと足を運んでみる。
ゆっくりとただ空を見上げて、「貴方も幸せにね」と微笑んだ彼女を思い出す。
俺の初恋の彼女は、今も好きな事をして幸せでいるのだろうか、と。聞こえてくる筈もないあの声を想像して。