薄くて分厚い雨の向こう
そのお社は、夏でも涼しい御山の中にひっそりと佇んでいた。
伸び放題の雑草を見るに、長らく人の手が入っていないのは明白だったが、何故か朽ち果てる様子もなく御山の中でも殊更涼やかに存在していた。
「こんこんこーん、狐しゃ、きましたよー」
がさごそと茂みをかき分けて、5、6歳程の女の子がお社の前に顔を覗かせる。
楽しそうに、こんこんと扉を叩く音なのか狐の鳴き声の真似なのか分かりかねる声をあげて。
するとどこからか一陣風が吹く。
顔を撫でる風の感触に女の子がその瞼を下ろす、と。
「来たね」
低く、滑らかに、楽しそうな響きが存分に含まれた男の声が周囲に木霊する。
ぱちりと女の子が瞼を開くと、目の前には確かに瞼を閉じる一瞬前までは居なかった筈のその存在が居た。
姿形は人間の青年のそれだが、大きく尖った耳に、たっぷりの艶々とした尾をしなやかに揺らすそれは恐らく、妖狐と人に呼ばれる化生の類。
「狐しゃん!きた!」
その姿を瞳に写すや、女の子はぱああと頬を赤らめてとててと駆け出し妖狐の着物を掴む。
足元をちょろちょろと動き回ろうとするその小さな塊を存外丁寧に抱き上げると、妖狐はそのままゆっくりとお社へ向けて歩き出す。
ゆらゆらと怪しく揺れる尾に視線を奪われている女の子の顎下を、猫の仔にでもするように鋭い爪が伸びる指先でちろちろと擽りながら、移ろい易い幼児の興味をひこうと試みるのだ。
「さぁて、今日はお前さんの母さんは夜遅くまで帰らないのだっけ」
いつの間にか開いていたお社の戸をするりとくぐる。
「うんー、今日はお母さんもおしごとー」
緑色の美しい畳の上に妖狐は腰を下ろす。今度は尾を使って膝の上に抱え直した女の子の顔を擽る。
きゃらきゃらと楽しそうに尾にじゃれつく女の子に妖狐は満足そうにその切長の美しい双眸を細める。
「じゃあ今日はいつもよりも一緒に居れるね」
「ほんと!?やったぁ!」
「そんなに嬉しいのなら、いっそ嫁に来るかい?」
「よめってなーに?」
「ずっとお前さんと居るって約束さ」
それまで尾に夢中だった女の子のきらきらとした瞳が勢いよく後ろを振り返り、笑みをたたえたままの妖狐をじっと見つめる。まるで何かとんでもなく素敵な宝物を見つけたかのように、その瞳には星が瞬いている。
「よめ、なる!ずっと狐しゃんといっしょにいる!」
「ははは、そりゃいい、輿入れの日にはうんと上等な着物を用意しよう」
するすると、音もなく戸がひとりでに閉じる。
するといつの間に用意されたのか、もしくは始めからあったのか、ふたりの周りには巻物やら筆やらお茶やら様々な物が溢れている。
「さて、じゃあいつもの絵物語でも読んでやろう、お前さんはこれが好きだろう?今日はどいつの話をしてやろう」
「あのねー、わたし、鬼しゃんと女の子のお話がいいー」
「はいはい、あの間抜けの話だね…」
一人と一匹の楽しげな話し声が聞こえてくるお社の周囲には、青白い炎がゆらゆらと揺らめては消え、揺らめいては消え。
薄くて分厚い戸の外側、こちら側は珍しくぱらぱらと天気雨が降り出していた。