鳥かごのヴァイオリニスト
これは、海の向こうの何処か、遠い遠い国での話です。街では、その国でも、車が排気
ガスをまき散らしながら沢山走っていました。人々は、日々の決して良くない暮らしをそ
れでも努めて明るく生き、うらぶれた街ではときおり銃声が聞こえていました。
そんな排気ガスが籠もる国の、ビルが建ち並ぶ街の中心から少し外れた所に、中位の川
が流れていました。
中位といっても、私たちの国と規格が違う国ですから、立派な川には違いないのですが。
その川のほとり、綺麗に刈り揃えられた芝生の横の、石畳でできた路地のベンチに、一
人の黒い上品な服を着た女の子が座っていました。名をジェシーと言います。ジェシーは、
今、大きなため息を吐きました。そしてぴかぴかの、白いリボンが付いた靴を、こつこつ
とぶつけあいました。さらに空を見あげ、飛んでいる大きなペリカンを見送っていました。
そこに、これまた大きな鞄をかついだ大男が一人、あたりをきょろきょろと見回しなが
ら足を止めました。
男はジェシーと同じように、ため息を吐きました。そして、
「この辺にするか」
と鞄をおろすと、注意深くその鞄を開けました。
そこには少し年期の入ったギターが入っていました。大男はそのギターをほんの少しの
間、眺めました。
「さぁ、始めよう」
男はそう、自分に言いきかせるかのように言い、ギターの練習を始めました。
ジェシーはそれまで、男の事を気にもとめていなかったのですが、ギターの音を聴くとや
っと気付いた様子でした。
しばらく川には、ギターの音と、水のせせらぎだけが際立って響いていました。
ジェシーは耐えかねたようにベンチから立ちあがり、男に近付いて行きました。
「あなたって下手くそね」
男は、それはもうびっくりして、思わず演奏を止めました。しばらくその言葉の意味する
事を思い出していましたが、
「なにぃ」
ようやく不愉快な気持ちが沸いてきました。
「一体、どう言うつもりだ。誰の許しがあって、そんな事が言えるんだ」
「それに、楽器は大事に扱いなさいよ」
ジェシーは気にしない様子で続けました。男は少し戸惑いました。自分の体格と声で、震
え上がらない事を不思議に思いました。
しかし、ジェシーの服を見て、何処かのいいお嬢さんだと思ったので、
「まったく、親の顔が見てみたい」
そうぶつぶつ言いながら、立ち去ろうとしました。するとジェシーは、なぜだか困った顔
をして、
「ちょっと待って」
と大男に言いました。男は聞こえない振りをしましたが、ジェシーが手をつかんできたの
でぎょっとして立ち止まりました。
「今の音楽って、ジャズでしょう?」
そうジェシーが言いあてたので、男はいよいよジェシーが不気味に見えてきました。
「ね。そうでしょう?あなたはもしかして、旅芸人のジャズの演奏者ね?」
「そ……そうだけど」
男はなんだか胸をはれない自分が恥ずかしくなりました。
「私知ってるわ。ママは私にクラシックばかり聴かせるけど、私はジャズが好き」
「そうかい」
男は関心がないように言いました。
「私、夢があるの。ヴァイオリンをママと一生懸命勉強して、将来は世界一のジャズ・ヴ
ァイオリニストになるのよ」
男はそれを聞くと、哀れみに似た表情でジェシーを見下ろしました。
「ね、私にジャズを教えてくれない?おこづかいをその為に貯めているの」
「駄目だ」
男はぴしゃりと言いました。ジェシーは少しびくっとしましたが、
「どうして?」
そう言いました。
「どうしてだと?俺が聞きたいね。なんで他人のお前に、ジャズを教えなくちゃなんない
んだ」
「お金なら払うわ」
「ふん。気に入らないね。お金でなんでも解決できると思ったら、大間違いだぞ」
するとジェシーはうつむいてしまいました。大男は少し可哀想に思い、仕方なく説明しま
した。
「……クラシックとジャズでは全然、演奏の仕方が違うんだ。それにジャズは、音楽にあ
わせて即興で演奏しなきゃならない事もある。分かるか?」
「……」
「今、ジャズの事を教えたら、お前のお母さんがすぐにでも気が付くだろうよ。それくら
い、クラシックからジャズに変えるのは難しいんだ。あきらめな」
「いやよ!」
大男はまた、びっくりしました。ジェシーは続けました。
「私はあなたがうらやましい。私は、毎日勉強とお稽古だけ。友達と遊ぶ暇さえないわ。
あなた達旅芸人は、そこらを旅しながら、色んな国の人と話をして、それから好きなよう
に演奏して生きているんでしょう。私は、決まりきった生活はもう沢山なの。さっきの即
興で演奏する事はアドリブっていうんでしょう?それって素敵じゃない?自由に音をつく
り出せたら、これ以上の事はないわ」
「……」
大男はジェシーを見つめています。しかし、こう言いました。
「ふん。金持ちのお嬢様に、自由が表現できるもんか。」
負けじとジェシーも言いかえします。
「鳥かごの中で生まれた鳥だって、空を飛ぶ事はできるわ」
大男は今度は、あたりを見回しながら声をひそめて言いました
「それだけじゃない。今のこの国は、ジャズで生きて行くのは危ないんだ。ジャズが演奏
されるのは、地下で賭博とか、悪い事をしているバーが多い。そんな所で悪い奴らに気に
入られてみろ。二度とお天道さんのツラは拝めねえんだぞ」
ジェシーは「悪い奴ら」が何を指しているのか分かりませんでしたが、それでもきっと大
男を見据えていました。
しばらくの間二人は睨み合っていましたが、大男は何かを悟ったようでした。
「分かった。そんじゃ明日の午後四時に、噴水のそばに来てみろ」
「その時間はお稽古だわ」
「じゃあ来なくていい。この話はなかった事に」
「……分かったわ。行くわよ」
そう言うとジェシーは時計台を見上げ、
「いけない。ママがかんかんだわ」
そう行って走り出しましたが、足を止め、
「あなたのお名前は?」
そう言うと大男は、
「ヘンリクだ」
そう答えました。
家に帰ったジェシーは、早速ママに自分の要望を伝える事にしました。
「ママ、明日の午後四時に、稽古を止めて外に言っていいかしら?」
「駄目よ」
ママがぴしゃりと言うと、ジェシーは少しうろたえましたが、
「どうしても、友達と会いたいの。明日だけだわ。お願い」
そう懇願しました。ママは、困り果てた顔をして、
「ねぇジェシー、休憩は今日だけと言ったでしょう。今日の休憩だけでも、他の奏者との
差は開いてしまったわ。一日でも、後れを取るわけには行かなかったのよ。あなた、本気
でクラシック演奏者になるつもりはあるの?」
と言いました。
「……はい」
ジェシーは少しうつむきがちに言いました。ジェシーはママに、ジャズの奏者になりたい
という事は隠していました。だから、今日あった事も全て、隠さなければなりませんでし
た。だから、ジェシーは今度はママの了承を受ける事も、事情を話す事もできませんでし
た。
ジェシーにはもう、あと一つだけしか明日、ヘンリクに会える術はありませんでした。
次の日、噴水のそばにきたジェシーは、あたりを見回しながらため息をもらしました。
しかし今日のため息は、格別のものでした。あまりにも素晴らしくって、感激してもらし
たため息でした。
噴水のある広場は、大変に賑やかでした。それも、色んな何だか分からない言葉で、ご
ちゃまぜになった賑やかさでした。肩を並べ歩いている水夫の二人。ジャグリングをして
いる白い顔の道化師と、それに集まる大人達。身を寄せあい、愛の言葉を宙に浮かべてい
る恋人。パイプをふかし、眼鏡を夕焼けに染めているひげ面の老人。そのどれもが、街灯
に照らされて怪しく、闇に浮き上がっていました。今まで見た事もない、街の表情でした。
「こんな景色、知らなかったなんて!」
ジェシーは心の中で、叫びました。そこにいる人皆に挨拶をして回りたい気分でした。
しかしジェシーはかぶりを振って、思い直しました。
「約束の時間は、もうすぐだわ。噴水のそばと言っていたけれど、一体何処で待っている
のかしら」
噴水に腰かけようと思った、その時でした。
「レディース・アンド・ジェントルメン!今宵のセンチメンタルな気分に、グレイテスト
なスウィングを!ヘンリクとその仲間達、ジャズ・クインテットだ!」
どことなく荒々しいその声とまばらな拍手は、右斜め後ろから聞こえました。
「ヘンリクだわ」
ジェシーは一歩目で躓きそうになりながら、その方へ駆け出しました。
ヘンリクは内心、複雑でした。まだ若い女の子に、こんな事を見せつけて良いものか。
昨日裏町の安宿の、粗末なベッドの上でそう考えていました。お祈りをすませ、寝床につ
いた後も、なかなかジェシーの燃えるようなあの瞳を思い出して眠りに入る事ができず、
何度も寝返りをうちました。
でも、そう。ヘンリクは思いました。あの燃える瞳は、危ない。何処までもずんずん周
りを見ずに走って、走って、走って……。自分が何処にいるかも分からずに走って、しま
いにはその炎に身を焼かれ、苦しみながら煤になって燃えつきちまう。俺はそんな奴を沢
山見てきた。汚い金を受け取ったばかりに、どんどん裏の社会に飲み込まれ、ある日街の
片隅でボロ雑巾のように捨てられていた奴を何人も知っている。残酷だが、それが現実な
のだ。
ヘンリクはおもむろにギターを取り出すと、合図を出しました。
演奏が始まりました。
これは、俺の故郷だ。そう思いながらヘンリクは一心不乱に、ギターを弾きました。こ
れは、うちの家の中。決して大きくなかったが、笑顔が溢れていた。お袋が毎朝、スクラ
ンブルエッグをつくってくれたっけ。似合わない立派な柱時計は、結婚念日に買ったんだ
そうだ。それから裏の畑を、兄と一緒に耕す。ふと目を上げると、地平線のそのまた向こ
うまで、見渡すかぎりの草原だった。シギが2匹、右から左へつばさをはためかせ横断し
て行った。時間を数えると、かっきり30秒かかった。そんな事をしていると、兄に頭を
叩かれたっけ。
ふと、ヘンリクはジェシーと目が合いました。ジェシーは、大変困惑した表情でした。
ヘンリクは見えなかったふりをし、足元のお金を入れる箱を見ました。
箱にはただの1セントも、入っていませんでした。
ヘンリクはまた、演奏に集中し始めます。聴いていた人が、一人、また一人とその場を
離れ始めました。ヘンリクはただ、演奏を続けました。
ヘンリクが全ての演奏を終えた時、そこにはジェシー一人しか立っていませんでした。
ヘンリクは、ぺこりと頭をさげると、いそいそと楽器を片付けました。そして挨拶も早々
に、立ち去ろうとしました。
「……何処へ行くの?」
ジェシーが前に立っていました。
「誰?このお嬢さん」
ベースを弾いていたほかのメンバーが素っ頓狂な声を上げました。
「……これで分かっただろう。世界はお前が思ったほど、優しくはないって事さ」
ヘンリクはぶっきらぼうにそう、吐き捨てました。
「…………素敵だったわ」
「はん?」
ヘンリクは上ずった声で言いました。ジェシーは続けました。
「あなたの演奏、素敵だったわ。とても」
「嘘はついては行けないとママに教わらなかったか?」
ヘンリクはそう言う自分の事を心底、軽蔑しました。
「嘘じゃないわ。そこって、あなたの家族が住んでいたのね?」
ヘンリクは目を丸くしました。ジェシーは言いました。
「私にも見えた。あなたの演奏で初めて、景色がはっきり見えたわ。それって心象風景っ
て言うんでしょう?」
「……」
「レコードで聴いたどの曲より、素敵だと思ったわ。あなたの家族の事もね」
「……それなら、尚更だ」
ヘンリクは声を絞り出しました。
「え?」
「お前が素敵だと思った演奏は、いくら集められたと思う?この通りだ」
ヘンリクはお金の入っていない、箱の底を見せつけました。
「音楽は確かに、神秘性がある。そんな奇跡を起こす事もある。でも、俺の演奏は」
ヘンリクは言葉に詰まりましたが、お構いなしだ、と言った風に喉に声を出す事を強制し
ました。
「この国では、売り物にならないんだよ」
「そんな」
「分かったら、さっさとお家にかえってレッスンを続けな。時間を取って済まなかった。
じゃ」
ヘンリクはそう言うと、何か言おうと思案しているジェシーの脇を通り抜けました。
ジェシーが後ろから何か叫んだ気がしましたが、ヘンリクは鼻をかむ音でそれをかき消
しました。さっき堪えた涙が、今度は鼻から出てきたのでした。
「お前らしくもない、あんな事を年端も行かぬ女の子に言うなんて」
次の日、安宿の、燦々と朝陽が差し込む窓に面した席で、朝食のサンドウィッチを頬張
りながら、ベースの演奏者であるルイスはヘンリクに言いました。ヘンリクが黙ってブラ
ック・コーヒーをすすったので、お構いなしにルイスは続けました。
「お前とあの子にどんな関係があったかは、聞かないでおくよ。しかしお前が自分を責め
るような事を言うとはね」
「ふん」
そのふん、でパンの粉をとばしながら、ヘンリクはテーブルの塩のあたりに視線を落とし
ていました。
「お前の音楽性からは考えられないなぁ」
ルイスは宙に目を浮かばせます。ヘンリクはルイスに横目を向け、
「ルイス、俺とお前の仲だ。昨日の事は誰にも言わないでくれよ」
と言いました。するとガチャ、と扉を開ける音がし、ルイスは
「俺が言わなくたって」
と言い、そこで後ろを向くと、
「やぁ、ハニー!昨日は眠れたかい?」
と、部屋に入ってきた3人のうちのサックス吹き、アンナにウインクを送りました。
「ハイ、ねえヘンリク、昨日の女の子って何なのー?」
とアンナも好奇心に満ちた目でヘンリクの顔をのぞいてきます。
「……」
ヘンリクはまたコーヒーをすすり、
「やれやれ」
そうつぶやきました。
「ジェシー、さっきからなんなの、その気の抜けた演奏は!」
ジェシーの家の中にある殺風景な練習場にジェシーのママの声が響きました。
「前のコンクールよりなんとしてでも上に行かなきゃならないってのに、お前はママに恥
をかかせたいの?」
ジェシーは黙ってうつむきます。ママは首をかしげ、ジェシーを一時見つめると、
「いい?ジェシー、優れた演奏家は、いついかなる時も最高の音を作り出すものよ。練習
でも本番でも、一音一音にその人の人生や考えが出るの。ジェシーの才能を傷つけたり、
曲げたりしないようママも一生懸命やってきたわ」
ママは教鞭をぱち、ぱちと手に振り下ろしながら続けました。
「それなのに、昨日のお前は最悪よ。学校を休んで、よりによって大道芸を見に行ってい
たそうじゃない?ママには学校が長引くと嘘をついて。こんな事が許されると思う?ママ
はあなたをお遊びで演奏するような奴らには触れさせたくないわ。ジェシーは他の人とは
比べものにならないくらい、高い所に行ける。それは間違いないわ。でもその為には少し
の汚れも許されないのよ。寄り道している暇はないの」
するとジェシーは不意に顔を上げ、
「ママはお金をどんなものだと思う?」
と言いました。
「お金?そうね、お金はとても汚いものだわ。お金を稼ぐ事ばかりに気を取られる人はと
ても汚い人。そして私たちにはお金は自然と付いてくる。綺麗な人に集まり、汚い人から
は離れる。それがお金よ。でも」
そう言うママは険しい顔でした。
「今、その事が何に関係があるの?」
ジェシーは、
「じゃあ、綺麗な人は汚い人よりもっともっと汚い人ね。汚い人からお金を取ってるのだ
から」
そう答えました。ママは上気して、ぷるぷる震えました。ジェシーが口答えをするのは初
めてだったからです。しかし、ママが教鞭を振り上げるより前に、ジェシーは叫びました。
「こんな家も、ママも大っ嫌い!私出て行く!」
そう言うなり扉を勢いよく開け、飛び出して行きました。
川に来た5人のうち、ヘンリクは、ぎょっとしました。一昨日と同じ場所にジェシーが
いたからです。ジェシーはひどく沈んで、そこだけ空間が暗くなったようでした。ジェシ
ーはふとヘンリクの方を見ると、猛スピードで駆け寄ってきました。ヘンリクは、ジェシ
ーが何か言う前に、
「だ、駄目だ駄目だ!昨日言っただろう!」
と手を体の前でぶんぶん振りました。しかしジェシーはお構いなしに、
「お願い!私に一回だけジャズを演奏させて!」
そうヘンリクに飛びつきながら言っていました。
「駄目だ!」
「お願い!」
「駄目だ!」
「もう私には家がないの!」
え、とヘンリクは言葉に詰まりました。するとジェシーは、わーっとヘンリクの服に覆い
被さって泣きました。ヘンリクも他の四人も、怪訝そうに顔を見合わせました。
「と、とにかく落ち着いてくれ。何があった?」
しばらく泣いていたジェシーは顔を上げ、ヘンリクの服との間に鼻水の架け橋をつくりま
した。ヘンリクは鼻水をハンケチーフで優しく拭ってあげました。
「ほんと、ヘンリクがあんなガラス細工みたいな子としゃべってるなんて。あの様子を絵
にしたら、売れるんじゃない?」
ヘンリクとジェシーがベンチに座って話しているあいだ、他のメンバーは立ち話をしてい
ました。ルイスは、
「けっこうお似合いだけどね」
とそちらを見ながらふふっと笑いました。アンナは、
「あら、そう?私は昨日まで、ヘンリクに女っ気はおそらく永遠にないだろうと思ってた
から、こんなの想像だにしなかったわ」
といじわるそうにほほえんでいます。
「おや、話が終わったみたいだ」
ルイスがベンチの方を見やると、二人は立ち上がりました。
「こっちにくるね」
「やっぱり、駄目だ、と言った」
そうヘンリクが言うと他のメンバーは一瞬沈黙した後、一斉にブーイングを始めました。
「おいなんだそりゃ!俺はこの子の事を思って……」
とヘンリクが怒鳴ると、ルイスは、
「面白そうなのに!」
と肩をすくめました。
「面白い面白くないの話じゃないんだ!この子はクラシック奏者なんだぞ」
とヘンリクは続けましたが、今度はワオ、と声が上がりました。口笛を吹いた人もいます。
「面白そうじゃないか!一回くらい、いいだろう?」
「俺は絶対やらせないぞ!」
とヘンリクが目をぎゅっとつぶって言うと、アンナが、
「じゃあ、なぜあなたは今日わざわざここにきたの?」
と言いました。ヘンリクがはっと目を開けると、アンナは
「分かってるのよ。あなただって、本当はやらせてあげたいんじゃなくて?」
と腕を組んでポーズをつけました。
「本当に、一回だけだからな!」
そうヘンリクが言うと、ジェシーは
「ええ」
と満面の笑みで答えました。ジェシーがヴァイオリン奏者から楽器を借りると、弦を一本
ぴん、とはじきました。
「よろしくね」
そうジェシーはつぶやきました。
「曲は?」
ルイスが言いました。
「『old man river』で行こう」
ヘンリクが言うと、ジェシーはきゃー、と飛び上がりました。
「この曲大好きなの!」
「知っているようね。じゃあ、一発限りの幻のチューンを」
アンナが楽器を構えると、
「客がいないのは初めてだ」
ルイスも真剣な表情になりました。するとジェシーは、
「客ならいるわ。私、いつも一人で練習している時、聴いてくれる人がいるような気がす
るの」
と言いました。
ルイスが、
「そいつは誰だい?」
と聞くと、少し考えながら、
「うーん。神様かな?」
そうジェシーは答えたのでした。
ヘンリクは我に返りました。演奏は始まったばかりでした。老人が一人、日よけ帽をか
ぶりながら、その歌を口ずさみ、河原を散歩している。枝を踏みしめ、白い息を吐いてい
る。そんなイメージが、鮮明に頭の中に浮かんできたのです。老人は茶目っ気のある笑み
を浮かべると、ふっと消えてしまったようでした。
誰なんだ、一体。
ジェシーは、初めてのものとは思えないほどジャズを難なく弾きこなしていました。い
や、今や、他の四人の演奏をリードするようなものでした。その表情には鬼気迫るものが
ありました。
いけない。いけないよ。
その子を、お前が連れ去ってしまっては。
ヘンリクは確かに、老人の声を間近で聞きました。
分かってる。そうヘンリクは頷きました。
演奏が終わりました。いつの間にか集まった観客が熱狂的な拍手を送りました。ジェシ
ーがお礼を言います。するとジェシーの手をヘンリクが握っていました。ジェシーがきょ
とんとしていると、
「ありがとう」
そうヘンリクは言いました。
「ありがとう。俺をそこまで連れて行ってくれて」
他のメンバーも、深刻そうな表情でそれを見つめていました。
「お願い、私を旅芸人のメンバーに入れて」
夕焼けが沈むころ、黒いシルエットのジェシーは祈るように言いました。
「駄目なんだ」
ルイスは言いました。
「私、一生懸命手伝いするわ。できる事なら何だってやる。ジャズで生きて行けるような
気がするの。その為なら怖くないわ」
「怒られちゃうからね」
ルイスはふっと笑いながら言います。
「誰に?」
ジェシーがそう言うと、
「あなたのママよ」
アンナが口をはさみました。
「そんなのどうだっていいわ。いいわ、断られても無理やり付いて行く」
「ああ、忘れていた」
ヘンリクがわざとらしい明るいトーンで言いました。
「明日、最後の演奏があるんだ。場所はいつもの噴水のそば。俺たちもお前に負けないよ
うな演奏をするから、ぜひ見に来てくれ」
「飛び入りで演奏してもいい?」
ジェシーがそう言うと、
「もちろんだ」
ヘンリクは寂しそうに笑いました。
その日、家に帰ったジェシーを、ママは泣いて迎えました。私が間違っていた、あなた
を苦しませてばかりいてごめんなさい。だからもう、遠くへ行かないで。そんな事を喚い
ているママを、ジェシーは今だからこそ、すんなりと受け入れる事ができました。ママは、
もうジェシーを縛り付ける事はしないと約束しました。そして、ジェシーが良ければ、ヴ
ァイオリンを止めてもいいと言いました。ジェシーは、そう聞いて胸が少し痛みました。
そこまで、自分がママを傷つけていた事に、後ろめたさを感じたのでした。だから、その
夜、ジェシーはベッドの上でずっと、明日ヘンリク達に付いて行こうか、ママの元で幸せ
に暮らすか、考えていました。答えは最初から決まっていました。しかしジェシーは初め
て、ママを独りにさせる事を悲しく思いました。そこから先は、ママが許してくれる理由
を探す時間でした。
次の日、噴水のそばにかけつけたジェシーは、ヘンリクの事を待っていました。
いつまでも、いつまでも、ジェシーは演奏が始まるのを待っていました。