二十六話
夏の空の日暮れは遅い
空の一角が微かに朱に染まる頃合のアーケードには帰宅途中の学生や提示帰りの会社員。食材を買い求める主婦、遊び帰りの中高生などで町に隣接する住宅街ならではの賑わいを
見せていた
真那が幼少期に過ごした街は此処まで人に溢れた場所ではなかった
母親がまだ生きていた頃は田んぼが点在し、店も少なく雑誌などのメディアが発売日からに三日遅れで店頭に並ぶような田舎だった
精々覚えているものといえば小さな商店街に場違いのように立てていた本屋と其処から一駅分ほど離れた病院だ
顔も覚えていない彼女の本当の父親が母の病状を看破して静かな街に引っ越していたのだという事は幼かった彼女にも予測が付いた
覚えている限り今より生活は貧しかったような気がする
血の繋がっていない父親の行雄は自身の暴力を振るう狭量な人間である事は真那自身了解していたのだが、彼はどういう訳か学業に限らず私生活の面でも彼女が困らないほどの金額
は小遣いとして支給していたので、現状で生きていくのに不足は無い。
公務員である行雄は恐らく世間体を気にしているのだろうとも思う
尤も明日にも追い出されるかもしれない身なのでこの情況が何時まで継続するかは彼女自身にも判らなかったが
少なくとも彼女の生活は時に暴力を・・・今朝は彼女にしては珍しい寝坊で朝食が遅れたのが原因だが振るう事はつきに三、四度の頻度でしかない
公共の電波で意図的かつ恣意的な世論誘導を好み、場合によっては広告収入を盾にスポンサーからの要望で、マスコミが好き好きに尾鰭背鰭を好き勝手に付け足して真実の『報道』が
されるような無責任かつサディスティックな下種が好むようなエンターテイメント的な要素が付加される虐待児童の実態とは彼女は無縁だった
いや、解釈によってはそれ以上に陰湿な境遇なのかもしれないが
少なくとも五十年前とは比べ物にならない程に教養のレベルが下落してあるこの国の国民から視聴率を取るにはその位の工夫は必要なようだ
そんな人間を真那は嫌った、暴力で相手を従わせる人間は例外なく下劣で卑屈なのだ。彼女の義父、行雄がそうであるように
それでも彼女は想う
自分は世界から嫌われているのかもしれないと。見捨てられていると蒼穹に染まった空を見上げる度に、同世代の少年少女たちの笑い声を耳にするたびにそう感じるのだ
周りの人間が特別なのではない、義父が特別なのでもない、自分がそれ以上に異常なのだ
周囲に溶け込むことも出来ない自分が憎いと思ったことがある、しかしそれ以上に憎たらしく、許せないのは・・・・
(駄目・・・これ以上考えたらいけない。全部私が全て悪いんだから)
虐められる側に原因があるとは最近のマスメディア等で良く聞く論調だ
被害者の態度が横着だったり、ふとしたトラブルが原因で虐めに発展してしまう事もよくあるという
自分も同類だと真那は思っていた。思うようにしていた
彼女自身、他人に横柄な態度も悪意を表面的に他人にぶつけた事も無い、つまり根源的な理由は全て自分にあるのだと考えていた。そのほうが楽だから
他人が与える苦痛の原因なんて大概のものは吐き気を催すような単純な動機から来ている。そんなものを真那は知りたいとは思わなかった
『あなたは、人を恨んじゃいけない、妬んでも駄目、怒ってもいけない、なぜなら貴方は特別だから』
実の母がまだ生きていた頃によく言われた言葉だ。良く分からないが自分は昔から成績は良かったしかし何故か致命的に他人に嫌われる性質があったような気がした
この身は隔絶されていると蒼穹の空の下の元自分だけが透明な壁に阻まれたかのように
自分は世界の一部なんかじゃない。解っている、理解はしている。己の世界は母親が死に、行雄が自分を引き取りに来た時点で、いや自分が生まれたときから狂い始めていたのだ
運命の歯車は狂い始めている。いや、自分が狂わせたのだ。自分はそれを是正する事は当の昔に諦めたのだ
今更世界と向き合う勇気なんか持てる筈も無い。第一その気があるのならば自分は義理の父である行雄の元から抜け出している
それが出来なかったのは怖かったからだ。義父の暴力より動かなくなった母の近くを離れる事は出来なかった
それ以上に入院中の母と再婚し、彼女が死ぬまでの間に入院費を肩代わりした義父を裏切るのも申し訳ないような気がして現状に甘んじているのだ
死ねばいいと思う、自分が居なくなる事で他人が救われるならばそれもいいと思う
今と違い、昔は自分を守ってくれる人間は死んだ母しか居なかった
本当の父のことは覚えていない、自分が薄情だったのかそれとも父の存在を忘れてしまったのか分からないが、そのことで真那は自分を責めることがあった
母のことしか覚えていない自分は薄情物だと、しかし父親の事を母に尋ねても彼女は何も答えてくれなかったように思える
もし、自分のせいで父と母の仲が引き裂かれ両者がそれが原因で会うことすら出来ないのだったら自分はとんでもない親不孝物だ
生きている価値さえないのかもしれない
今考えると母が生きていたときも自分を取り巻く世界は狭いものだったのかもしれないという思いが頭をよぎる
母と一緒に昔の家に引っ越して一年もたたないうちに彼女の『本当の父親』は自分達の前から姿を消してしまった
病院に見舞いに来た頃に看護婦の話を立ち聞きした情報によると父は母の介護に疲れただの、愛人を作って駆け落ちしただのあまりよろしくない情報も入ってくる事間あったが
彼女は父親を信じていた。彼は誠実の塊のような人柄だった事を母から聞いていたしかし実際に帰ってこなかった事を見るとそれは上っ面の仮面だったのかもしれない
しかし、母は父を信じていたようには見えなかった
母も自分も父を待っていた。しかし皮肉にも彼女の元に来たのはあの偽の父だった
少しずつ痩せ細り皮と骨のような醜い姿になりながらも、帰ってくれると。真那の髪を撫でながらそう言ってくれた
真那が髪を手入れするが、あまり短く切らない理由もそれだ。母が元気だった頃はよく透かしてくれたこの髪は形見代わりのようなものだ
そのせいで、真奈美に目を付けられるような気がするのだが、気にしなかった
遺品を一つも持たせてもらえなかった自分からすればこの長い黒髪は只一つの形見だった
過去をいくら悔やんでも仕方ないのは知っている。しかし今でも悔やむ事がある
あの時父が帰ってきてくれたらと、母も退院し今も自分達は食卓を囲っているのだと、ありえない夢を見てしまう
そんなの逃避だとわかっているのに。現実から目を晒し前に進む力を失う妄想だと理解しているのに頭は普通の、しかしささやかな幸せのビジョンを描いてしまうのは
現実との落差を感じさせ苦痛にしかならないとわかっているのに、それをやめようとしない自分も居るのは、苦難と諦観の果てに空っぽな人間と化すのが怖いのだろうか?
では、自分の周りを我が者の様に闊歩している雑踏はどうなのだろう
彼らもまた日常という名の怠惰な檻の中から這い出せずに苦しんでいるのか?それとも甘んじて檻の中に留まっている只の人間なのか?
真那には彼等が楽しそうには見えなかった
彼らも目に見えているものに囚われて本質が見えていないのだろうと思う
自分とは違うのに、己を飛び立たせるだけの翼を持っているはずなのに彼等は自ら翼を自分の手で手折ってしまって飛べない事に気付いては居ないのだ
翼をもがれてしまった自分には自由が無い、しかし雑踏を歩く彼等は自由の無い箱庭に自分から閉じこもろうとしているようにも見えた
始めから翼を持っていてあえて巣穴から飛び立てない小鳥、翼をもがれてしまって飛べないまま親鳥に見捨てられ巣穴から突き落とされる小鳥
どちらが不幸な存在なのか、今の自分には答えが解らなかった
真那は空を見上げた。蒼く染まった天空を、
今の彼女にはこの空もまた昔、幼い頃に見たものよりも色彩が薄く、灰色に染まっているようにも見える
周りの雑踏はただただ自分の周りを流れていくばかりで色彩の薄さを感じ取り様子も無い。彼らには恐らく見えないのだ自分の目の前の事意外は
だがいくら青空に恋焦がれようと、夢見ようと、自分は其処に行けないのだ『あの人たち』のお陰で
真那は再び自分と世界との隔絶を覚えた
自覚せずには居られない、胸の中の暗黒の空洞。自分で埋める事も出来ない夢幻の空間
虚無の中に暗黒の靄が生まれ負の感情が彼女を多い尽くしそうになる
――――――みんな、燃えてしまえばいいのに。どうせ飛び立てないのなら灰になって空に舞ってしまえばいいんだわ。
(、、、何?)
いつの間にか自分に語りかけてくる虚無の存在に真那は恐ろしくなった
己には翼が無いものと知りながら結局は暗い情動に身を委ねようとしてしまう甘美で黒い思惑、そうした方が楽だから
―――――――そう、貴方にはその力がある今は眠っているけれど呼びかければ直ぐに取り戻せる、強い力
(私はあなたなんかの力に頼りたくない)
力に頼れば自分も堕ちてしまうのだ、あの義父のように
―――――――いいわ。貴方がその気になればいつでも力は取り戻せる
気が向いたらいつでも呼んで・・・奪われた翼を取り戻して大空に羽ばたきたいのなら
突如となく聞こえてきた『声』真那はこの存在を知っている様な気がした。
(そう、これは私の心の声。本心なんだ・・・)
真那は立ち止まり自嘲の笑みを浮かべた。通行人と肩がぶつかったが彼女は気にしてられなかった
虚無を抱えている事自体が周囲の人間との隔絶感を確かなものにしていると感じた瞬間真那は人通りの中で蹲った
道中にていきなりしゃがみ始めた彼女に道行く人々は一様に視線を向けたのも一瞬の事で集められた注目は真那の事を周囲の人間が異物と認識し意識の外に追いやる事で彼女の存在を
無かった事にした
奇怪な行動を取る少女に関わりたくなど無い。これが群集の心理なのだろうと同時に彼女が世界の枠外に置かれている事に対しての証明でしかない
拒絶は拒絶で返される。人間の道理だが残酷で冷たい理屈
真那は立ち上がりおもむろに駆け出す。そうでもしないと自分という存在が彼らに飲み込まれ霧散してしまうのではないかという恐れがあった
どこか、静かな場所。それもここに居る肉たちの存在から離れた場所で落ち着きたいと彼女は思い、駆け出していた
人々はまた奇異なものを眺めるような視線を投げてよこしたが、それの一瞬のもので彼等は己が所属する世界へと帰っていく
隔絶され孤立した彼女の世界に気づいてやる事も出来ずに其々の時間を満喫する群集
その認識を得た瞬間。彼等が人形のように思えた
群れから遠ざかって行く
築いたときには公園の前に立っていた
とぼとぼと頼りない足取りで中に入る。中には数羽の鳩くらいしか先客は居ない
少女は歩く
混乱しきった頭で
もう何も考えられなかった自分だけが不幸だと妄信するつもりは無いがそれで現状に納得し受け入れるような事があれば自分の生きてきた十七年間が否定されてしまうような気がした
何も考えないほうが気が楽なのかもしれない、そう考えた矢先の出来事だった
「あっ・・・」
いきなり体のバランスが崩れぐらりと前に傾く
重力に従うまま肉体が前に引っ張られていく。
だんだん近づいてくる地面
何も解らなくなった
堕ちる、闇の中に落ちていく。『あのとき』×××が××××に××××されたように
近づいてくるコンクリートの灰色の路面、しかし彼女が予想してきた重たい衝撃は無かった
そして力強い感触と共に倒れそうな体を支えてくれる手が彼女の腕を掴んだ
「え?」
真那が見上げる、そこには腕の持ち主。どこかで見たような少年の姿があった
「おい、大丈夫か?」
気だるそうな声と共に彼女を助け起こす力強い手
胸に沸き起こる懐かしい想い、
その声が記憶の中に在る『彼』の声と重なり彼女はますます困惑を隠せなくなるのだった