二十四話
真那は休み時間のチャイムがなったと同時に教室を出た
なるべく早くクラスから逃げるようにして足早にトイレへと急ぐ
彼女にとって自分の家と学校の教室という空間ほど居心地の悪い場所は無かった
家では行雄による虐待を受け、学校でも女子生徒達から攻撃目標にされていた真那にとって学校で過ごす時間もまた苦痛と呼べるものでしかない
女子からは全く相手にされない彼女だったが、稀に男子が話しかけてくることもあった
しかし真那は彼等が裏に抱える何らかの下心を敏感に察し、彼らともあまり関りを持とうとはしなかった
怖いのだ。彼女にとっての人とは十五年前に死に別れた母親と過去に虐めから彼女を助けてくれた思い出の中だけに存在する男の子以外は
真那自身にとって恐怖の対象でしかなかった
生徒達であれ、教師であれ、家族であれ自発的に真那に話しかけてくる人達は目的が違えど真那を貶めようとしている気がしてならないのだった
みんなが、世界が真那を拒んでいる
母が死んでからの彼女の中の世界はひどく歪に見えた
(どうして、私は人を好きになれないんだろう。)
真那は他人を見て嫌な気持ちになってしまう自分自体をおぞましい物だと考えていた
彼女は他人から関りを拒否される自分のことも好きになれないでいた
朝、絶望感のあまり鏡を見て自分の肌に果物ナイフを突き立てそうになった事もある
もしかしたら、そうすることで誰かが振り向いてくれるかもしれないから
(みんな、私が変だから・・・嫌っているのかも・・・・。)
真那は自分が人と異なっているところを自覚していた
極度な人見知りと人間不信から来る不安
定期的に揃えているだけの長い黒髪
そして、白磁のように白い肌
(これだけ違っていれば嫌われるのも当然なのかな・・?)
内気で謙虚な彼女が心を落ち着ける場所は女子トイレの個室だった
誰も居ない静かで狭く半畳の広さしかない個室は大きく歪んだ世界から彼女自身を守ってくれるオシアスだった
食堂が近い事もあって幸いこの場所のトイレに入ってくる生徒は誰も居ない
校舎の一階に教室を持つ真那のクラスはこのトイレよりも食堂のほうが距離的に近い事もあってか休憩時間は其方の方に人が流れる事が多かったのだ
真那は個室に入るとふう、と一息吐く
これで後七分は静かに過ごせる。時計は持っていないので勘みたいな物だが
教室の喧騒は彼女には毒にしかならない
あそこにいると余計に気が張り詰めてしまう。人の目を警戒しすぎて息が詰まってしまう
集団が発する異様な雰囲気が真那は苦手なのだ
他のクラスはどうか知らないが、真那は自分のクラスがインドのカーストみたいに見えない制度で生徒ごとに区別されているような気さえした
自分はもちろん最下層、人と満足に話す事ですら出来ない「奴隷」の立場。そして彼女を虐め学校生活を満喫している者達「貴族」には決して逆らえない
「あれぇー。このトイレ誰か入ってるのー?」
「さあ?鍵が壊れてるんじゃない?」
いきなりの事だった。外から数人の女子生徒の声が聞こえてきたのは
(もしかして?、奈美姉さん!)
真那は身を縮ませた。声に一つに聞き覚えがあるからだ
と、同時に声の主に見つかってはいけないと思い必死に息を潜めた
あの中の声の一つは自分の姉の奈美だった
しかし真那は姉の登場に脅えた。彼女こそは真那を教室内で苛め抜いているグループの代表格だったからだ
「おーい。だれもいないんですかぁー?」
ドンドン、と叩きつけるような乱暴なノック
真那は早く声の主。奈美がトイレから出で行くか他の個室に移ってくれることを切に願った
「ちぇ、入っているのかよ。じゃあしょうがないなあ」
「大体誰だよ。こんな汚いトイレの中で様を過ごしてるのは」
「便所虫でも出てきそうじゃない」
「入っているのは多分、真那じゃないの?」
「あの幽霊女。いつもスカシやがって・・マジムカつくんですけどぉ」
「あいつっていつもすかしてる癖にさ、妙に男に声かけられるよね
もしかして裏で売ってんじゃないの?意外にスタイルいいみたいだし、髪長いし、顔も何故か綺麗だし」
「真那は心が汚いんだよ、じゃないとウチらにシメられたりしないって
アイツ、家で父さんにも嫌われてるし。ゴキブリみたいにしぶとく学校に来るし
ま、成績下がったら即施設送りだけどね。また教科書捨ててやろうかな?」
「チキショー、なんでアイツばっかりでモテるんだよ。又体育館の裏でシメてやろうかな?」
「あ、彩。それ良いね」
(お願いだから・・・・見つからないでッ・・・。)
真那は切に願った。もし自分が見つかったら奈美はさぞかし喜ぶだろう、そうなってしまったら後は・・・・
「ちっ!しょうがない。行こうぜ」
立ち去っていく足音。真那はほっと胸を撫で下ろした
次の瞬間に白いチョーク粉が大量に付いた黒板消しを投げ込まれるまでは
「うっ!けほっ、けほっ・・・」
激しく咳き込む真那
そんな彼女をあざ笑うかのように奈美の勝ち誇った声が聞こえた
「バーカ。ノックして返事が返ってこないなんて根暗の真那しかいないだろ馬鹿
そもそも幽霊みたいな存在感ゼロのあんたに気付いてやれるのは私だけなんだから構ってやるだけ感謝しなよ。ボケ、アホ、便所女。」
「キモいんだよ。根暗女」
「マジで頭に乗んじゃねーよ。カマドウラ」
やはり、これを投げ込んだのは奈美だったのだ
絶句して息が詰まるような感覚すら覚えた真那
「じゃあな、それ綺麗にして早く戻しとけよ!次の授業は社会科の篠山だからな!
目ェ付けられて呼び出されても絶対にウチらの名前出すなよ。出したらどうなるか解ってるよな?」
「うわー。奈美ってえげつねー。篠山とか最悪ジャン」
「ちょっと私でも引いたわ。あんま可哀想じゃない?それ」
「別にいいんだって、あんな幽霊女
ウチのなかでも居場所無いんだから。使用人として仕方なく雇っているだけ。みたいな感じだし
親父も高校卒業したら追い出すって言ってた」
「マジ?だったらウチにも貸してよ!
自給二百円くらいで二十時間労働させてやるから」
「アンタも奈美のコト笑えないねー。せめて自給百円にしなよ」
「思いっきり下がってるし!
冗談だよ。あんなマジで奴誰もいらないってみんな思ってるから。マジで」
「告られたこと無いからって僻むなよ。彩」
「奈美ーそれは無いよー、マジで傷つくから。それ」
下品な笑い声と共に遠ざかる数人の足音
奈美と取り巻きが居なくなったトイレには白粉がぶちまけられた個室の中に腰まである髪が白くなった真那とチョークの粉まみれの黒板消しだけが残った
真那は震える手でハンカチをポケットから取り出そうとして取り落とした
掃除しなければ
奈美の思うがままに白粉で汚された個室を綺麗にしなければならない
すぐさまその考えが浮かび実行しようとした自分の思考に対し、真那は途轍もなく深い悲しみに胸が覆われるのを感じた
まるで自分は奈美達の奴隷だ
どれだけ尊厳を汚されても、辱めを受けようとも自分は結局、家でも学校でも行雄・奈美親子の所有物であり人形でしかないのだ
自分は一生彼らの奴隷なのだ
それに、行雄はおろか奈美にすら真那はいいように扱われている
全てが彼女の敵だった。結局は世界全て自分という存在を拒否しているのだ
「なんで、なんで私が・・・・
知らない。自分に降りかかる不幸は間違いなく真那自身の非は無かった
そう、きっとこれは運命
幸せの椅子取りゲームで彼女だけが天に見放され自分のポジションを獲得できなかっただけの事
ただ、気まぐれな神様にそっぽを向かれただけ
無垢だが、その実とても残酷な運命
仕方が無いのだ。彼女自身それを解っている。理解している
自分だけは幸せになってはいけないと、自分は世界の爪弾き者だと
解っている、頭では理解はしているのだ
しかし・・・・
どうして・・・つらいめにあわないといけないんですか・・・・・・
後の言葉は静かな嗚咽と共に掻き消された
枯れたと思っていた涙はとめどなく流れ出す
何回こんな気持ちで泣いただろうか
もう、涙は流さないと思ったのに。惨めだから泣くのは止めようと何度も思ったのに
しかし、悲しみの刃は彼女の心の傷口を抉る
傷が癒えきらない内に何度も何度も行雄や奈美と言った者達がころあいを見計らって抉りに来るのだ
その者達の前で涙を見せないのは雄一の抵抗だった
幸い、女子トイレには誰も居なかった
彼女は休憩終了のチャイムが鳴り響くまでそこで蹲り、零れ落ちる涙を白粉で汚れたハンカチで眦を押さえながら声を押し殺して泣いた
涙はしばらく枯れなかった




