二十二話
学園生活において五時間目についで辛いと思われるのは二時間目の開始時刻だ
一時限と比べて気が引き締まる訳でもなく昼食と昼休みを控える四時限ほど気が緩まず、生徒達の目が覚め始める三時限ほど雰囲気が良くなるわけでもない
高月刀也が教室に入ってきたのはそんな微妙な時間帯の授業中だった
間が悪い事に、丁度その時、二時限の始業開始後三十分後は彼の教室では老年社会教師の篠山昭宏が遅れに遅れた授業を取り戻さんと必死に黒板にほぼ
教科書の内容を移すだけの味気の無い授業に、予習で彼が移した内容は既に知識としていた生徒達がうんざりしている時だ
実の所。意外な事に授業に苛立っていたのは生徒達ではなく篠山もそうだ
生徒達が何回注意しても自分の教えている内容よりも先を予習している
今回のテスト作成を担当していたのは篠山担当ではなかった。彼の授業に期待が持てない生徒達はそれを知っている
この学年には篠山のほかにも社会科教師は若手の先生が一人居てその教師こそが今回のテストの作成を担当している
そして、授業の進め方が遅く、生徒達の評判も良くない篠山よりはその教師のほうが生徒達に快く迎え入れていたのも当然
このクラスの中ににおいても新人の教師に授業を受けたいという風潮が高く感じ取れるのも事実だ
彼は黒板にチョークを叩きつける様に文字を書きながら自分の首筋が無図痒くなるようなものを感じられずに入られなかった
生徒達に当てにされていない。敬意を払われていない
自分は教師だ、無能で愚鈍なガキ共に知識を授けてやる存在なのだ
それが何故に自分は若造よりも信頼されないのだ?
チョークが真ん中から折れた。どうも知らず知らずのうちに筆圧を込めすぎていたらしい
舌打ちしながら教壇の引き出しに収まっているチョークケースを取り出し新しいものに交換する
チョークが折れるのは本日三度目だ、今日はよほど自分が苛立ちを覚えている事は鈍感な篠山にも解った
そんな時だった。彼の視界に部屋に入ったばかりの生徒の姿が目に入ったのは
名前は確か・・・高月刀也
昨日自分の授業中に机に突っ伏して鼾をかいていた生徒だった
確かに成績は優秀なのだろう、保坂守子と共にクラスの平均点を挙げているツートップの一人らしいが、最近の動向は目に余るものがある
指導しなければならない、他の生徒に舐められないためにもだ
彼は刀也を絶好のターゲットにする事に決めた
授業が円滑に進まない苛立ちのストレスを晴らす、昨日の屈辱を晴らす。ただそれだけの動機に過ぎなかった
「おい、高月。何で授業に遅れた?」
「・・・・」
刀也は無言で篠山の方を見る
篠山の方向は一顧だにせずそのまま席に着いた
完全に無視された形になる彼は苛立ちと共に再び刀也に言う
「おい、高月。授業に遅れた理由を言え」
威圧的に構え篠山が言うも、当の刀也は居心地が悪そうに窓外の景色を眺めるだけで何も言わなかった
篠山の苛立ちは上がったが
すぐに汚い笑みを浮かべる
今の刀也の様に反抗的な態度を取る生徒には有る程度踏み込んだ『指導』を行っても許される
それが教師としての勤めだと彼は日ごろから考えていた
例え、どんなに成績優秀な生徒でもだ
自分が正さねばならない、正義の教師たる自分が
「おい!高月」
刀也は眠気がまだ残っているのか横目で彼の方向を一瞥しただけで何も言わない
篠山は刀也の席まで近づき着席している彼の肩を掴んだ
「私の言う事が聞こえないのか!」
ちっ。と小さな音が聞こえた
誰にでもわかる舌打ちの音
不快感。
刀也の席から聞こえてきた。紛れも無い彼自身の舌打ちだった
その時、篠山は
刀也に舐められたという不快感の代わりに、かわりにどす黒くドロドロした物が血潮の変わりに自分の体を駆け回っているように感じた
不良は正さねばならない、どんな手段を使ってもだ
彼は席に座った刀也を見つめた
刀也はテキパキと鞄から道具を取り出し机の上に並べ、引き出しに手際よく収納していた
篠山は刀也に更に近づく
刀也が近づく篠山に気付き視線を向ける、疲労している様子は有るが表情は殆ど変わらないポーカーフェイスに近い
彼の眼光が自分を侮蔑したものである。刀也の態度を自分なりに解釈した篠山は次の瞬間、机の上に並べてあった刀也の教科書を手で払い落とした
刀也の目が微かに見開かれる前に彼は吼えた
「一体何のつもりだ。高月!
遅刻しておきながら反省の態度も見られないとは、お前学校を何だと思っているんだ!!」
刀也は答えない、只その場に直立して篠山を見て答えた
「・・・・すいませんでした。次からは気をつけます」
ささやかに篠山に謝罪した刀也は席に座った
篠山は手にした黒板指しで刀也の頭を軽く一回叩いた
「高月刀也
君は私に教師として尊敬を抱いていない事など当の昔に判っているんだ
それになんだその態度は、遅刻しておきながら教えを請う教師に謝る事も出来ないのか君は!」
「だったら、俺みたいな不良の相手なんかせずに教師としての貫禄をつけたらどうですか?」
「・・・何?」
彼らしくない慇懃な丁寧語
刀也は苛立ちを隠さないように続けた
「実力も無いのに何時までも巨大な後ろ盾に縋って、今こうして教壇に立っていられるだけの教師を貴方は尊敬を抱く事が出来るんですか?」
明らかに挑発されているのにも拘らず、彼は何も言い返せない
「・・・・・どういう意味かな?」
「言葉の通りの意味です
ちなみに遅刻した件について俺が悪いので謝っておきます
だからこれ以上騒がないで下さい」
「お前は…私を嘗めているのか?」
篠山が冷えた声で呟いた瞬間、無関心を決め込んでいた周囲にも緊張感が走り教室の温度は一気に凍りついた
「私の事はどうでもいい。それより、君は自分の単位の心配をしたほうがいいんじゃないのか
まさか教師に舐めた態度を取っておきながら只で済むとは思っていないよな?」
篠山は切れ始めている
それは、この室内で誰もが理解している事だ
現に彼の額には青筋が浮き、黒板指しを握る手は静かに怒りによって痙攣するようにに微かに震えていた
刀也は何も言わない、態度で篠山の怒りなど眼中に有らずと言外に示していた
「最近の君の行動は目に余るものがある
遅刻といい教師に対する暴言といい、一度担任の大垣先生を交えてじっくりと話し合う必要があるな」
篠山が怒れば怒るほど刀也の意識は醒めていった
つまらない
お前なんてその気になれば永久に黙らせてやるのに
俺の力で
怒りを抑えた篠山の表情とは対照的に刀也の顔に浮かんでいた表情は徐々に消え去り自然体な無表情に変わっていく。篠山は得体の知れない気迫を感じ、僅かに怯んだ
刀也はとうとう苛立ちを抑えるのも限界になってきた
何故こんな馬鹿に因縁を付られねばならないのか
もしかしたら昨日の事が原因なのだろうか?
「おい、聞こえているだろう!」
五月蝿い
こいつは盛りのついた馬鹿犬のように鬱陶しい
「一体、私の授業の何処に無駄があると言うのかな?」
何故、自分がそのような些事に答えねばならないのか
全く、馬鹿の相手をするのは疲れる
刀也はだるそうに、眉をひそめ微かに呆れたような表情を作った
気のせいか、額をかく仕草が眠たそうにも見える
そして、物分かりの悪い老人を諭すような口調で言う
「誰も先生の授業中の説教なんて、望んでないと思うのですが
中間テスト前に内容を進めなきゃ時間が無駄になりますよだから無駄な説教はやめて早く始めたらどうですか?」
刀也は言った後に、彼を馬鹿にするように欠伸した
生徒達も刀也に同意するかのように篠山を見上げる
第一、彼の悪趣味な因縁付けに付き合っている意味は無いのだ、時間の無駄にもなる
無数の視線に晒され篠山は黙った、そして刀也の席まで近づいて彼の肩を掴んだ
じっと濁った瞳で彼を見下ろしている
刀也は不快そうに視線を返す
何をするつもりなのだろうか
肩から伝わる感触が生々しい
汗で濡れている
気持ち悪い
何だこいつは?
「何ですか?先生」
篠山は刀也の肩を掴みながら口をもごもごさせた
かなり怒りが溜まっているらしい、掴まれた肩から圧力がひしひしと伝わってくる
篠山の顔を見ると怒りで真っ赤に染まっている
俺を殴るつもりつもりだろうか?
やってみろ
一度手を出したらこちらも容赦しない
教師だろうが関係ない、前からこいつにはむかついていた
徹底的にぶちのめし、どちらが上か思い知らせてやる
自分は今、最高に機嫌が悪い
肩を掴む篠山を睨む、ぶつかる視線
互いを刺す悪意
教室中に彼らのやり取りを眺める三十人あまりの生徒達は事の成り行きを神妙な面持ちで見守っていた
室内が異様な空気に包まれた
そして、、、、
篠山の手が刀也の方から離れた。彼は刀也の視線から刺さる圧力に屈したのだ
教壇に戻る篠山。刀也は無様な彼を見て唇の端を歪めた
俺の勝ちだ
篠山のプライドはずたずたに引き裂かれたに違いない
もう二度と舐めた真似はしないだろう
だが、篠山は一度振り返って何か言った
『・・・・・母親に捨てられたくせに』
篠山昭宏はそう言った
よほど小さくぼやいたのだろう
だれも彼の呟きの意味理解したものは居ない、ましてや声なんか殆ど出なかったはず
しかし刀也は解ってしまった
彼だけに聞こえていた。何故かは解らなかった
ただ、その一言が自分の奥底にある琴線に触れたのは間違いの無い事実だった
刀也の自分の顔から顔から一切の表情が無くなっている事に気付いた
彼が自分の席を立った音にさえも
「・・・・・なんだ?高月
何か言いたい事で・・・」
篠山は押し黙った
刀也の表情が静かな怒りに染まり、殺気と呼んでも差し支えないほどの眼光が自らを捕らえているという事に
「・・・・・な、何だ貴様。生徒が教師を殴るつもりか!!」
答えの代わりに刀也が突き出したのは右手に硬く握られた拳
「・・・い、いや。
あれは冗談のつもりで・・・本気で言ったんじゃないんだよ・・
な、だから暴力は止めような、暴力はいけない、暴力だけは・・・・」
先程とは逆に態度を丸くする篠山あからさま過ぎる卑屈
刀也の唇が微かに動き、言葉を紡いだのを篠山は見た
音こそ漏れなかったものの彼は自分が挑発した教え子が何を言っているか理解できてしまった
後悔させてやる
言葉と共に刀也の拳が篠山に向かって解き放たれた
「ひいいっ!!」
顔面に襲い来るであろう衝撃を覚悟して顔を両手で庇い彼は目を瞑った
学生運動時代にも自分に暴力が振るわれた経験が無い彼は自分に降りかかる敵意を正面から見据えることなど出来はしなかった
それが、自分の弱さである事に篠山は自覚が無かった
顔面を強張らせ殴打に備える篠山
「!・・・・・・」
しかし彼は何時まで経っても殴られる事が無かった
そして、聞こえるは机を蹴飛ばすような音と罵声
「おい、止めろ」
「離せ!こいつの言ったことを今すぐ訂正させなければならないんだ」
「馬鹿だろうが!お前、教師に手を出したらお前の校内での立場がどこまで危うくなるか判っているだろう」
「そんな事はどうでもいい。まずは野郎を・・」
再び怒号、そして誰かが殴られる音
そして、机の倒れる音
「馬鹿かッ!お前は!!!」
篠山は目を開ける
そこに見えた光景は自分を殴ろうと拳を振り上げる刀也の姿ではなく
刀也と男子生徒―――――確か成績が最下位から二番目くらいの頭の悪い生徒だ
この前自分の授業に水を差した、髪の色素が薄く茶髪に見える生徒だと記憶していた
もちろん彼の中で高月とは別の意味では好ましくない意味で印象に残って入るのだが
「お前解ってんのかっ!
お前の勝手な行動で誰が苦しむか考えてみろ!」
「・・・そこをどけ」
「お前・・・いい加減にしろッ!!」
いきなり隆二が刀也を殴った
殴られた刀也は驚いたように隆二を見上げる
そしてそのまま暫く棒立ちでほうけた後に一言だけ言葉を紡いだ
「・・・・済まない」
刀也は教室から抜け出した
「おい待て。バカ刀也っ!!」
すかさず隆二が教室から抜け出した刀也の後を追いかける
急に静かになった教室
数分前まで不機嫌だった篠山も状況が理解できないのか、何か考え事でもしているのか、黙りこくったまま棒立ちしていた
生徒達は案山子と化した篠山をそのままにそれぞれテストに備え密かに予習を続けているのだった