十話
後頭部にナイフを生やした男性の体が糸が切れたかのように崩れ落ちた
刀也が見たことのある家庭用の果物ナイフとは一線を画す殺人凶器―――アーミナイフ
それは米軍や欧州の軍隊を始め軍事目的の野外活動で広く使用されるタイプものだ
投擲用の物とは異なる汎用性に重点を見据えたそのデザインは柄の形状、重心のバランスに、手持ちの刃物にしては大きすぎるであろう刀身はサバイバル分野において圧倒的な汎用性を誇る物の必ずしも投擲に適したナイフではない
その刀身の半分ほどが男の後頭部に埋まっているのだ
刀也は反射的に男性に駆け寄るが、怒りが止み熱が冷めた理性は既に既に絶命している事実を受け止めていた
そして、すぐさま思い出したように背後を見る
ナイフが飛んでくる寸前まで感じていた殺気は既に無い、が
(あいつがやったのか?)
一言で表現すると死神のような雰囲気を持つ男が立っていた
幅広い黒いコートらしきものを纏う長身の男は剃刀を思わせる鋭く冷たい視線で二百メートルほど離れた距離に居る刀也を一瞥すると、何気ない仕草でポケットに両手を突っ込んで人混みの中へと去っていった
「待っ……」
「貴方、私がまだ居ることを忘れてない?」
「あんた」
自分の仲間に人を殺させておきながらまるで他人事の様にのたまう女性に彼は怒りを込めた視線を見据えた
女はおどけた様に、
あえて説明するならばなかなかデートの誘いを断った後、彼氏に言い訳を聞かせるように説明する
「あれは半分貴方が悪いんじゃない?
刀也君がいきなり私に殴りかからずに、大人しく話を聞いてくれたら颯斗だって可哀想なサラリーマンを死なせずにすんだかもしれないのに……
本当に残念な事だわ」
無表情とも無関心とも異なる、むしろわざとらしく感情を込めたような口調で女性が言った
「だからって、無関係な人を…」
「あら、私は注意したはずよ
それなのに貴方が余計な事をするからその人は死ぬしかなかった」
彼女の言葉に刀也は反論せずに戸惑った
自分にも多少なりと責任が有ることを自覚していたからだ
確かにあの時この女の態度は不審すぎて信用が出来なかった
母の失踪に何らかの形で関わっている女性を信じきれなかったのは仕方ないのかもしれない
彼はさっきまで女性に対して殺意すら抱いていたのだ
しかし、軽率な行動によって自分ではなく他人に被害が加わった場合は違う
彼にも多少なりとも非はあるからだ
サラリーマンの死に冷静さを取り戻した刀也はその事で自分を責める
(何をやっているんだ俺は…)
女性はそんな彼の心情を知ってか知らずか言葉を紡ぐ
「これで頭も冷えた事だし、安心して本題に移れるわね」
刀也の心に再び怒りが巻き起こる
「…あんた…」
「仕方無かったのよ。あの時ああでもして気を収めてくれないとしないと刀也君は間違いなく私を殺していたんだし用件も十分に伝えられなかったでしょうね
つまり、あの人の死は無駄では無いのよ」
「あんたはどうしてそこまで言える?そんな事が出来る?
巻き込むのは俺一人で十分な筈だ
なのに何故わざわざここまで非効率的な事をする?
此処みたいな人を巻き添えにする場所でわざわざ話をする必要は無いだろう?」
刀也がそう訴えたとき、女が表情を変えた
そう、まるで今まで浮かべていた笑顔の仮面を外して冷たい絶対零度の表情を晒したかのように
目は糸のように細まりその瞳の中に有るのは刀也に対しての純粋なる悪意―――憎しみや殺意、嫉妬といった負の感情
「さぁ?何でわざわざ教えてあげる義務は無いわ
知りたければ自分の胸に聞くことね
その人も元はと言えば貴方が殺したようなもの
私達にも責任は無いとは言いわないけれど…」
そこで女性は一瞬口元にある笑みすらも消し、完全な無表情になった
「元はといえば貴方が生まれてきたことが全て悪いのだから」
「―――――」
生まれてきたことが悪い?
全くもって意味不明だ
なんで自分が見知らぬ女性に恨まれなければいけないのか理解が出来ないしこれといった心当たりも無い
「なんでだ?…全くわからない」
「…」
女性は既に仮面を被っていた
張り付けたような笑顔で微笑を浮かべて刀也に言う
「保坂さん」
「え?」
まさか
「暗殺者と戦わなければ次は保坂さんの身が危ないかもね」
「どうしてそこまでする。彼女は関係ないだろ」
「答えてやる義理も義務も無いわよ。貴方が私達の言う事を素直に聞けば保坂さんも身の安全はほしょうするわよ
どうしてもって言うんなら人質は隆二君でも構わないわ」
暗殺者
もしかしてさっきサラリーマンにナイフを投げたあの颯斗とかいう長身の大男だろうか?
「安心なさいな
今回は颯斗はこれ以上この件に介入しないわ。この件に関してはあくまで、ね」
《この件に関しては》
まさか、今回の出来事以外にもまだ自分が捲き込まれるべき厄介事は残っているというのか?
女性はもう用件を伝え終わったという風に刀也に背中を向けて歩き出す
殺されかけた相手に余裕綽々で背後を晒すのは彼にもう戦意が無いことを見て取ったのだろうか?
歩きながら彼女が言った
「そういえば自己紹介をしてなかったわね
刀也君やお友達の名前を知ってて自分の名前を教えないのは不公平じゃない?
一応私は静って呼ぶの
覚えておいてね」
刀也は無言だった
こんなやつに対して返事を返す気力すらも湧かないしその気も起こらない
名前すらも記憶にも残したくなかったが、しばらく忘れる事は出来ないだろう
そして忘れていた用事を静は思い出したかのようにただの刀也の方向を振り返った
「最後に一応忠告しておくわ
“青雲会”に気を付けなさい」
静はバイバイという風に手を降って人波の中に堂々と入っていき姿が見えなくなった
その場に残された刀也は静が居なくなった事により周りの人間がサラリーマンの死体に気付き始め、あらぬ疑いをかけられぬ内に地面に落下し底が少し破けた買い物袋を拾って駆け出した
もうこれ以上の厄介事はご免だった
気付くと既に自分のアパート前に来ていた
一刻も早くあの場所から逃げたくて走ってきた結果だ
惰性のまま体を動かし二階にある自分の部屋に入ると緊張と恐怖感と罪悪感が洪水の用に胸の中に押し寄せてきた
突然巻き込まれた非日常に対する緊張と
静とその仲間に対する恐怖感と
自らの軽率な行動によってサラリーマンを死なせてしまった事による罪悪感だ
手は汗まみれになり刀也は再び買い物袋を落としてしまっていた
しかしそれよりも恐ろしかったのは
昔から自分の持つ気を操り、自らの力とする能力で自分に害を与えようとする敵ながらも本気で人を殺めようとした事だった
思い出しただけで背筋が凍る
あふれ出る殺意、虫けらのように人の命を摘み取ろうと決断した事
それら思考のプロセスを良心のブレーキを経ずに簡単に思いついてしまった紛れも無い事実
「、、、ううっ」
途端に吐き気がこみ上げてきて、刀也は洗面所に向かった
洗面器に胃の中のモノをぶちまけている間に今夜作ろうと思っていた自炊のメニューはすっかり頭の中から吹き飛んでいた