止まったエンジン
土道を一時間ほど走った時である。夫がぼそっと
「エンジンが止まった」と言った。
「えっ?」と私は夫の顔を覗き込む。そしてダッシュボードのほうに目をやって、電気がついてないことに気がつく。メーター計も下がったままだ。エンジンの音も聞こえない。
ほんとうだ。車が止まった。
車から降りてボンネットを開けて、まだ薄暗いが目を凝らして中を覗きこむ。別にどこもどうもない。外れているような線も見当たらない。夫はあちこちの線を触ったり引っ張ったりしている。温もったエンジンから湯気が立っている。どうするの。こんな所で止まってしまって。
ここは南米大陸のど真ん中辺り。地平線まで広がる緑の大草原。左側の向こうに低木の森が少し見えるだけ。こんなところで「たすけてくれえっ」と叫んだところでこだまも返ってこないだろう。
草原の上に太陽がくっきりと姿をあらわしていた。辺りが未だほの暗いので、太陽の輪郭がはっきり見えるのだ。昼間見る太陽の倍ほどもある。徐々に扉が開くように太陽の光線が広がっていく。時刻は午前六時ちょっと前。
なんとも雄大な景色ではないか。車が止まりさえしなければこの雄大な景色を満喫できるのだが、今はそれどころではない。
ここら辺りは湿地帯なのか、道の両脇に池のようになって水が溜まっている。夜になると蛙が鳴きだしそうだ。ようするに、畑にもならないし、湿地帯で牧場にもならないので、放置されたままになっているところなのだ。至る所からぼこぼこと水が湧き出している。
そんな所に、何処からか土を持ってきて道を造ったのである。轍が深く引っ込んでいて真中が盛り上がっている。時々この真中の盛り上がりに乗り上げて車体が大きく傾いたりした。また川がいくつも横切っていて、お粗末な木の橋が架かっている。十メートルほど手前の所にも小川があって、木の橋の架かり口が極端に盛り上がっている。そこをスピードを落とさず通ったので、車がジャンプした。
こんなでこぼこ道を走ってきたので、何処かの線が外れるか、燃料の配管が詰まったかだろう。この車は買ってからまだ一年足らず。一万五千キロぐらい走っている。一年足らずにしてはよく乗ってはいるが、アルゼンチン製のシボレーのトラッカーで四輪駆動。来る前に整備もしてきたし壊れるはずはないのに。
私と夫は、まだこの先七十キロほどのところにあるパラナ河へ魚を釣りに行くところ。新聞の広告で見て地図を頼りにここまで来たのだが。
夫が携帯で知り合いの修理工に電話をかけている。呼んでいるが誰も出ないという。
「まだ(工場に)来てないんじゃないの」と私が言う。
今日一日車が動かなかったらどうしよう。持っているのは水入れに入っている、二リットルほどの水だけ。ほかに食べられるような物はなにも持ってない。日乾しになるわ。などと思っていると、夫が「おい車が来たぞ」と言って遠くを見るのに首を伸ばしている。私も夫が見ている方角を背伸びするようにして見る。方角はこれから釣りに行くというパラナ河の方である。前方の道が細くなって見える草むらの辺りに、白っぽい光る物が見える。少しずつ大きくなってくる。車の形が見え始めた。
「あっ、ほんとうだ。車が来た」私は飛びあがって喜んだ。
「わあぁ、車だ。車。」私は道の中央に立って、右手を上げて左右に振る。
形が見え始めてからは、車はあっという間に近づいて来た。車は止まった。
まあ、真中に立っているのだから、止まらざるを得ないだろう。白い乗用車に夫婦と五歳ぐらいな男の子一人で、親子三人が乗っている。若い旦那が車の窓から首を突き出して
「どうしたのですか」と聞く。
「故障ですよ。すいませんがここに連絡してもらえないでしょうか」
と夫が修理工の名刺を差し出しながら言った。旦那が名刺を取って見て
「ああ、この修理工なら私知ってますよ。連絡しときましょう」
と言って名刺を仕舞うと、軽く頭を下げてアクセルを踏んだ。こっちも二人で走り出す車に頭を下げる。
三十分ぐらいして、こんどは反対の方角、つまり来た道の方から車が来た。ぼんやり突っ立っていると、車が止まった。小型のトラックだった。年よりのじいさんと十四、五の少年と二五、六の若い男が乗っている。
運転しているじいさんがハンドルを握ったままで「どうしたんだ」と聞く。
「故障したんです。」と夫が言うとこのじいさん、エンジンを止めて車から降りてきた。続いて後の二人も降りてくる。皆でボンネットを覗きこんで
「ガソリンのフィルターじゃないのか」とじいさんが言って、フィルターを触ってみる。「さあ」と夫があいまいな返事をする。じいさんはあちこちボンネットの中を見まわしていたが
「これから河の方へ行くが、昼過ぎ二時ごろには帰ってくる。それまで車がなおってなかったら俺が町まで引っ張っていってやろう」と言った。夫が
「ええ、その時はお願いします」と、頭を下げた。じいさん達三人は、車に乗って河の方へと向かった。
それから一時間、ニ時間しても知り合いの修理工は来ない。
「あの人、連絡してくれたのかしら」と私。
「連絡してくれていたら、もう来なけりゃいけないのに」と夫。
太陽がだいぶ上の方に来て日差しがきつくなった。車のドアを開けたままで、中に座る。カバンの中から携帯を取り出して、電話してみる。呼び出し音は聞こえるが誰も出ない。こんどは母に電話してみる。ここも呼び出し音だけ鳴っている。こんどは友達に。ここも同じ。私は車の座席から飛び降りて
「パパこの携帯壊れてるんじゃないの。何処を呼んでも出ないわよ」
「おう、お前もっといい携帯買えよ」などと夫。
「うん、この携帯何時から使ってんのよ」
「もう古いな」
私は、やっぱりこの携帯壊れてるんだわと思いながら、あちこちつつきまわしてみる。実を言うと私は携帯を使ったことがない。この携帯は夫の携帯で、前に一度借りたことはある。
そうこうしているうちに、また町の方から車が来た。
「携帯持ってるかもよ。聞いてみようよ」と言って私は手を振って車を止めた。トヨタのランドクルーザー。丈夫そう。これならどんな悪い道でも突っ走れそう。
二人の若い男が乗っていて、銀色の真新しい携帯を出してきた。車の窓から私に手渡そうとするが、一見してこれは私は使えないわと思って
「すみませんけどここに電話かけてもらえませんか。車が故障して困ってるんです」と、名刺はさっきの白い車に渡して、ないので紙切れにメモした修理工の電話番号を差し出した。若い男は電話番号を見てダイヤルしている。耳に当てたりしていたが、すぐにメモを戻しながら
「奥さんここは圏外で電話が通じません」と言う。私は
「えっ、通じないの」と言って、なんだそうかと思いながら
「ありがとうございました」と言って電話番号を受け取った。
去っていく車を見送りながら
「この携帯壊れてなかったのよ。電波が届かないんですって」と夫に言った。こんなところでは文明の力も通用しない。さあてこれは困ったもんだ。
夏のギラギラした太陽のエネルギーと大平原。そして雲一つなく晴れ渡った青い空。自然の中に取り囲まれて、この世に私と夫と二人しかいないような状態。まるでアダムとイブじゃないか。いつもなら美味しい空気を吸って爽快な気分になるのだが、この自然界からいつ抜け出せられるか判らないとなると。だんだんいらいらしてきた。
私達は昨日夕方、アスンシオンから百六十キロあるフロリダの別荘に着いて一晩泊まって、今朝早く、四時ごろ寝ぼけ眼を擦りながらフロリダを出たのでまだ朝食も摂ってない。お腹も空いてきた。
フロリダからここまで百五十キロもあるのだ。二百二十キロある目的地まで、朝八時ごろには着く予定だった。それが土道に入ってスピードが出せないので遅れていたのだ。
こんどはこの車、エンコして動かなくなってしまったのだから、もういつ着くか判らない。こんないい天気で絶好の釣り日和なのに。今ごろは大きなドラード(黄金の魚)を釣り上げていたのじゃないかなと、私は思いながら、車の椅子にもたれて開いたままになっているドアから草原を所在無く眺めている。
そうだここにいたってしょうがない。今度町のほうへ行く車が来たら乗せていってもらおう。私は夫に
「こんど車が来たら町まで乗せていってもらうわ。私が修理工を呼んで来るから」と言うと、夫はすなおに「うん」。
このことにどうして早く気がつかなかったのかしら。私は夫からいくらかお金を貰って、ハンドバックに入れ、車が来るのを待った。
でもなかなか車は来ない。しばらくしてやっと町の方角から車が来た。河の方へ行く車ではしょうがないので、車の座席に座ったままでいると
「おい、修理工が来たぞ」と夫が言った。
「えっ、ほんとう」私は車の座席から飛び降りた。
夫の横に並んで、遠くから来る車を見た。前側に白い乗用車、その後ろに横に広いような赤い車が、こちらに向かってくる。白い乗用車が小さく見えて、後ろの赤い車に押し潰されそう。白い車はもっとスピードが出そうに思うが、このでこぼこの土道はどんな高級車でも六十以上は出せないのだ。
私は前の白い乗用車だと思った。
「あれが修理工?」
「うん確かあの車がそうだ」まだちょっと自信のない夫の返事。
車が近づいて来た。夫が
「そうだ。あの後ろのトラックが修理工の車だ」と言って前に走り出る。
あ、なんだ後ろの車かあ、などと私は思っている。白い乗用車が通り過ぎて、
後ろの赤い車が止まる。えっ、なに幅が広いと思ったらトラックだったのか。軽トラックだろう、荷台は短い。すごいガタガタの車だが、車はともかく修理工が来たので私も助かったと思った。
やっぱり、あの最初の白い車の人が連絡してくれたのね。よかったあ。
六十歳ぐらいな小太りの男が車から降りてきた。ずんぐりして、ごつそうなおじさんで、このトラックと似ている。
「おいどうしたのコマツさん」と言いながら近づいて来た。そして夫と握手しながら
「久しぶりだね。元気だった」
「ええ、相変わらずですよ」とまずは挨拶。そして夫が
「エンジンが止まったんですよ」と言いながら車の方へ。
修理工も夫の後を付いて車の方へ行って、開いたままになっているボンネットの中を覗きこむ。若い男のアシスタントが二人いて、テスターや工具を持ってくる。燃料フィルターを開けてみたり、テスターで電気の線を調べている。修理工は「う~ん」と頭をひねって
「ちょっとここではわかりませんね。工場まで持っていきましょう。いいかげんな直し方をして、河まで行ってまた動かなくなったら大変でしょう」
と言った。
確かにそうだわ。まだ昼間だったからよかったけど。これが森のなかで夜になって止まってしまったら。私は暗い森の中の夜を想像してぞう~とした。
まずはうちの車、シボレーを皆で動かして百八十度回転させる。前から押したり後ろから押したりしてやっと向きを変えた。そのあとトラックも転回して、シボレーの前五十センチぐらいに止める。道が狭いのでちょっと手間がかかった。なんどもオーライ、バックを繰り返して、軽トラックはいざるようにして向きを変えた。
アシスタントがトラックの荷台から鉄の棒のようなものをいくつかおろしてくる。それを組みたててトラックと家の車をつなぎ合わせる。このごつい骨董品のような赤いトラックは、レッカー車も兼ねているのだ。
修理工が「お宅の車は揺れるでしょう。私の車に乗ってください」と言うので、修理工の車に乗りこむ。修理工の車はすごい車で、ドアなどロックできないので、いつドアが開いて外に放り出されるかわからない。ドアに寄りかかったりは出来ない。窓際に夫、真中に私が座る。アシスタント二人はトラックの荷台に乗った。
車が大きいので座席も自由だが、ダシュボードはただのべ~っと広いだけでラジオもない。クーラーなどないので窓ガラスをいっぱいに開けてある。ハンドルの下辺りから青やら赤やらの線が見えて、車のハラワタが出かかっている感じ。それでもやれやれ助かったと思った。でもこの車で町まで着くのかな。などと思っていると、こっちの考えを見通したかのように、聞きもしないのに、修理工のおじさんが
「この車は六十二年型のフォードで古い車だけどよく走るんですよ。この前もイグアスまで、五百キロも故障した車を引っ張って行きました。これで大丈夫かって言うから、お前の車より走るぞって言ってやりましたよ」
と、フォードの会社が聞いたら喜ぶようなことを言っている。
この修理工のおじさんは小太りで背が低いので、アクセルを踏みこむと、フロントガラスより下の方に顔がいって前が見えるのだろうかと思う。私は座高を伸ばし首を長くして前を見る。
軽トラッは埃っぽい土道をがたがたと走り始めた。
暫く行くと湿地帯から抜け出したのか、だらしなく弛みかけた有刺鉄線が見えて、何頭かの牛の群れが草を食んでいる。
五,六本の木立が見えて、やっと人家が見えてきた。傾きかけた農家の庇に強い日が照り付けている。もうそろそろお昼頃のようである。向かい側の小さい食料品店の袖看板の字が、古びて消えかかっている。
そんなひなびた集落を二つほど過ぎてやっと町に着いた。あの埃っぽいでこぼこの土道を二時間近く走ってやっと着いたのである。
町と言っても二、三百メートルも行けば、突き抜けてしまうような小さい町だ。首都アスンシオンと、この国の第二の町エンカルナション市を結ぶ国道沿いに出来た町で、国道を通りぬけていく車はかなり多い。
その国道から二百メートル程下がったところにこの小太りのおじさんの修理工場があった。かまぼこ型のトタン屋根の下に、トラック、バス、自家用車が、所狭しと置かれている。工員も五、六人いて、ボンネットを開けたり、車の下にもぐり込んだりしている。それぞれが車をなおしているのだろう。
うちの車を例のレッカー車からはずして、押して修理工場の中に入れる。また修理工のおじさんが工具を持ってきてあちこち調べ始める。働いていた工員も手を休めて、車の周りに集まってきた。どうしたのなどと言いながら、車を眺め回す。皆でああでもないわ、こうでもないわと、議論を交わしていたが、そのうち工員はそれぞれ単車やバイクに乗ったり歩いたりで、どこかへと出かけていった。
修理工のおじさんが
「やっぱり電気系ですよ。電気のことは私はよくわからないので、電気系専門の人を呼びますから」と言う。そして部品店の前においてある車を指差して
「コマツさんもうお昼だから、食事に行くんだったらあの車使っていいよ」
私は、あ、そうかもうお昼か、それで皆仕事を置いたのだな、と思いながらおじさんが指差さした車のほうを見る。ここは修理工場の横で、車の部品も売っている。その店の前に止めてあるこれまた骨董品のような乗用車。夫と二人でさっそく言われた車のほうへ近寄ってみる。すっげ~車。メルセーデスベンツ。何年型なのか想像もつかない。前後に長い車体。幅も広いので座席もゆったりしている。色はクリーム色で少し褪せているが、イニシャルは銀色に光っていて、まさしくメルセデスベンツ。
しかし、夫が乗ろうか乗るまいかと少々迷っているふう。そこへ、修理工のおじさんがキーを持ってきて、まず車の中に入ってエンジンをかける。一発でかかった。おじさんが得意そうにして車から出ると
「どうだコマツさん運転できるだろう」と言いながらキーを渡す。エンジンがかかったままでもいいと思うのだが、なぜかキーを抜いてエンジンを止めたのだ。夫が少々躊躇しながら、キーを受け取って「ではお借りします」と言って、車に乗りこむ。私は歩くのはいやなので、うわあよかったあ、と思いながら車に乗りこむ。
夫がハンドルのあたりを見回して「ここだったかな」と言いながらキーをさし込む。キーを回すとエンジンがかかった。アクセルもまず見て確認して踏みこむ。まあ手馴れた自分の車のようなわけにはいかないだろう。一度後ろへバックして、ハンドルを右にきって、また前にいって、バックして、ガクガクしながらも道に出て走り始めた。
国道に出て五百メートルほど行くと、ガソリンスタンドの横に食堂があった。スタンドの持ち主が経営している食堂のようである。
鶏一羽を四分の一に切ってオーブンで焼いたものを注文すると、すぐに出てきた。野菜サラダとコカコーラも注文して、お腹いっぱい食べた。なにしろ朝も食べてなかったので、満腹になるとなんとなくくつろいだ気分になった。トイレにも行って、気分爽快になったところへ、夫が「そろそろ行ってみるか」と立ちあがった。私は「うん、もう車なおってるかもよ」と言いながら車のほうへ。夫もトイレで用を足して車に乗りこむ。
国道に出て少し行くと
「おい、ブレーキが利かないぞ」
「ええっ、うそお」私は思わず夫の顔を見る。前を見るとずっと下りになっている。来る時は上りだったのでよかったのだが。何とかしないとこのまま下りを走って行くと凄いスピードになって、ハンドルを取られて道路脇の溝へ落ち込むか、他の車にぶつかるか、いずれにしてもとんでもないことになってしまう。と思いきや、意外とスピードが上がらない。
「あれブレーキかかるんじゃないの」と言うと
「ブレーキ踏みどおしだよ」と夫。
私はブレーキを踏んでいる夫の足のほうを見る。
夫はガツガツと二、三回ブレーキーを踏んで見せた。そして
「ギアをセカンドに入れてブレーキを踏んだら、何とかエンジンブレーキがかかるんだ。よくこんな車に乗ってるな」と言った。
やれやれと思っているうちに、車が修理工場の方へと左に曲がる際、角の家にぶつかりそうになった。うわあぶつかると思っていると、壁より十センチぐらい手前でなんとか曲がりきった。夫は苦笑いしながら言った。
「ハンドルが重くて、それにこの車の鼻端が長いんだよ」なんだか必要以上にボンネットの部分が長いようである。それで二百メートルほどいって、部品店の前に車を止めてほっとしながら降りた。
車がもうなおっているのかと思ったら、まだ電気の修理工が来てないと言う。修理工のおじさんがバイクで呼びに言った。近くなのか十五分ぐらいで電気の修理工が来る。まずはボンネットを開けてテスターで調べる。異常はない。次に前の座席の足元のカバーをはずして調べる。赤や青の束になった電気の線を取り出して調べる。だんだん後部の方へ行って、修理工は車の下にもぐりこむ。
私と夫はさっきから真剣に見ているのである。見て覚えておけば今度壊れたとき、自分で直せるということもある。いや、ここではなんでも見て覚えておくに越したことはない。知らないと思うとべらぼうに高い修理代を取られることがある。
ガソリンタンクの横についている線が外れているのが見つかった。電気が来ないので燃料を噴射するポンプが作動してなかったのだ。やっぱり電気だったのだ。あの小太りのおじさん、よく電気だってすぐにわかったな。やっぱり、さすがあ、などと私は感心している。修理工のおじさんから、こんどは小太りのおじさんになった。
修理工が車の下から這い出してきて、エンジンをかける。エンジンがかかった。うわあよかった。夫も私も喜んでありがとうとお礼を言う。でもこの若い修理工は黙ったまま。口元は笑っているようだが、ただもくもくと道具を片付けて帰っていった。
料金の方はおじさんに聞くと二十万ガラニー(約四千円)だと言う。さっそくお金を払って、車に乗りこんで、また釣り場へ向かった。日が暮れるまでには釣り場に着いたほうがいい。皆にありがとうといって手を振る。
また、あのひなびた集落を通り越して、一時間ぐらい走ってあのお粗末な木の橋を渡ってからすぐである。夫が
「またエンジンが止まった」
「ええ、また止まったの」私はつい大きな声を出してしまった。
夫は「ほら」と言って、ダッシュボードのメーター計のあたりに目をやる。
「ほら」と言われなくても、止まったことは私にもわかったのだが。
さあてこれはまた困ったことになった。たぶん同じところだわ。あいつ、ちゃんと直してなかったのね。それにしても止まった所も同じだなんて。やはり、手前の木の橋にさしかかるところのぼっこりがいけないのね。この極端な盛り上がりを通るとき車がジャンプするので、そのせいだわ。
どっちにしても座っていてもしょうがないので、車から降りて
「あんた直せるでしょう」と夫に言うと、「うん」と夫はうなずいて、タオルを敷いて車の下にもぐりこんだ。やっぱりさっき見ておいてよかったわ。と思いながら、私もしゃがんで、車の下を覗きこむ。
「はずれてる」と私が聞くと
「うん、はずれとる。指が入らなくてなかなか繋げない」と夫は苦労しているようす。それでも何とか繋いで、車の下から仰向けのままいざるようにして出てきた。
そしてまた釣り場へと向かう。
「やっぱり真剣に見といてよかったわよ」などといいながら、一キロぐらい走ると「赤ランプがついたままだ」と、夫が言う。
「ええっ」と私がメーター計のあたりを覗き込む。なるほど赤いランプが点滅している。これは危険信号を表している。
「もうやめて帰ろう。エンジンでも焼けたら大変だ」
と夫が言って、また引き返すことにした。
またあの修理工場に着いた。町に入ると、のんびり座っているポリス(警官)や、家の修理をしている左官屋などがいて、何度も行き会うので、あの車なにやってんだって思われそう。
修理工場のあの小太りのおじさんが、のんびりと
「あれ、どうしたの、コマツさん?」どうしたもこうしたもないわよ。私は少しいらいらする。でも夫は落ち着いて
「また、外れたんですよ。それで自分で付け替えて行こうと思ったんだけど、赤ランプが消えなくて。また引き返してきました」と、言うと
「そうか、また外れたんですか。それじゃあ、私の後について来て下さい」
と言うが早いか、そこに置いてあったバイクに乗ると、エンジンをふかしながら短い足で土を蹴るようにして、修理工場の外に出た。私と夫も急いで車に乗って、走り出したおじさんのバイクの後を追いかける。
バイクは、国道二号線の舗装道路に出て、角を曲がって、坂道を登り始めた。バイクはバタバタと重たそうに坂道を登る。スピードが落ちたので、こっちもスピードを落として、ついて行く。
その坂道を登り切ったところに、電気専門の修理工場があった。なんだ近かったんじゃないの。五分もかかってない。
ここでも、五,六人の工員が忙しそうに働いている。小太りのおじさんの修理工場と違って、ここは青空修理工場だ。屋根がない。ただの原っぱのようなところに、壊れかけたような車が何台も置いてある。ボンネットを開けたままの車や、ペンキをはがしたままの車、タイヤが外れた車。様々である。車体が半分ぐらいしかないのもあるけど、これは部品を取って使っているのだ。
先進国ならとうに捨てられているような車がほとんどだ。ここでは最後の最後まで、車体が錆付いてぼろぼろになるまで、部品を取り替えながら使うのである。
そんな車が放置された両脇に、住まいだか、倉庫だかわからないような家が、一棟建っている。
この原っぱに人が入れるように掘り下げたセメントの穴が三つあって、その一つへ、慣れた修理工の工員が家の車を動かして、ゆっくりとセメントのレールの上に乗せる。車は丁度穴をまたいだ形になった。オーナーらしき年配の男がすばやく下に飛び降りて、作業にかかる。青空工場なので雨が降ったときは、水が溜まると思うが、ここは小高い丘になっているので、どこかにパイプを埋めて排水溝を備えているのだろう。さっき家の車を直したのは、ここのオーナーの息子らしい。別の車を修理している。
車はすぐに直った。車の下から出てきたオーナーが
「こんどはしっかり繋いでおきましたから、大丈夫でしょう。だけど、今は仮につけてあるだけですから、後でまた代理店に持っていってちゃんとした部品と取り替えてください。このままだとまた外れることがありますから」と言う。夫は「はい、わかりました。ありがとうございました」とお礼を言う。そして続けて「家までもちますかね」と心配そうに聞く。
「家までは持ちますよ。いや、ずっと持ちますよ。でも取り替えておいたほうが間違いありませんから」とオーナーが笑いながら言った。
代金はさっき小太りのおじさんに払ったのだが、一応聞いてみると、小太りのおじさんから貰うからいいと言う。
時計を見るともう午後三時半をまわっていた。もう今から行っても、魚を釣る暇はない。夫が「今日はもう家に帰りますよ」と言うと、小太りのおじさんが「まだ大丈夫だよ。明るいうちに着くよ」と言う。夫は
「ええ、でももう今日は釣る暇がないし、明日は半日しかないので帰りますよ」「そうか残念だったな。じゃあまた今度出直しておいでよ」
と、小太りのおじさんは夫に手を差し出す。夫も手を差し出して握手する。ここの修理工場のオーナーとも握手して、またありがとうと、お礼を言って車に乗る。こちらこそありがとうと、小太りのおじさんもオーナーも手を振る。工員皆の目がこちらを向いていて、笑顔で私たちを見送ってくれる。
車を走らせながら夫が
「今日はついてなかったな」と、少し残念だったのか溜息混じりに言う。
「ほんと二十キロのドラード逃げちゃったわよ」と私は冗談を言う。夫は
「こういうときは行かないほうがいいんだよ。無理して行ってたらもっと大変なことが起きるかもしれないよ」
「そうね。あんまり逆らわないほうがいいわ」
私は何に逆らわないほうがいいのか、具体的にはわからないが、こういう時は、いったん家に帰って、日を改めて出直すのがいい。
舗装された国道一号線を、百キロぐらいなスピードで飛ばして、フロリダまで一時間ぐらいで着いた。
別荘に着いて、玄関の鍵を開けて中に足を一歩踏み入れたとたん、びちゃっと水の跳ねる音がした。よく見ると薄いベージュのタイルに水が流れている。明るいところから、薄暗い家の中に入ったのでよく見えなかったのだ。
私は思わず、足を引いて「なにこの水」と驚きの声を上げる。
「えっ、水?」と、ちょうど、ジュースと氷の入った重たいクーラーボックスを持って入ってきた夫も、戸口に突っ立ったまま、びっくりして問うてくる。
私は、水の出口を探して辺りを見回した。目が左の奥にある、階段のほうに釘付けになった。なんと階段から滝のように水が落ちてきているのだ。
この家は全部タイル張りの洋館なので、板のように染み込むということはない。左奥にある炊事場のほうが少々低いのか、玄関を通って炊事場のほうへ流れ込んでいる。
ええっ、なに?。とにかく水を止めないと。このタイルの床は靴のままで上がるのだが、なんだか滑りそうである。私は靴も靴下も脱いで、水を跳ね上げながら階段を上がって行った。階段を上がるとすぐ横にある二階のトイレから水が流れ出している。私はなおも水を跳ね上げながら、トイレの中に入る。
あれあれ、シャワーの蛇口も、手洗いの蛇口も開けっ放し。手洗いの流しもいっぱいになって、びしゃびしゃと流しから水が溢れ出している。ビデなど噴水のように水が噴出している。私は、まず手洗いの蛇口を止めて、ビデの蛇口も止める。こんどは頭から濡れながら、シャワーも止める。シャワーの下水溝のところにタオルが落ちている。このタオルが下水を塞いでいて、水が外へ溢れ出しているのである。そう言えば昨日は夜九時頃から断水で、シャワーを浴びようと思ってトイレに入って、ここも水が出ないわ、ここも水ないわと片っ端から開けて、そのままにしておいたのだ。犯人は私ということか。
タオルはシャワーの蛇口に掛けておいたのだが、シャワーのしぶきで落ちてしまったのだろう。それに手洗いからも水が落ちていたから下水が詰まってるな。掃除しないと。
なるほどこういうことか。家に早く帰りなさいということだったのか。それで車が小さな故障を起こして止まってしまったということなのか。
二階から私が降りてみると、夫が、水がまだ流れている床の上を、爪先立って歩いて台所のテーブルの上に車から降ろした荷物を置いている。そして
「車止まってよかったな。これで明日魚釣って帰ってきてたら、家の中洪水だったよ」と言った。