私の親友
私とエリカは親友だった。
私が初めて産声をあげた翌日に、エリカはこの世に誕生した。
生まれた日は隣あわせ。家は歩いて三分ほど。親同士も仲がいい。そんな環境だったから、物心ついた時にはすでに、私の隣にはエリカという存在がいた。
私の方が一日だけ先に生まれたから、一日分だけ年上なのだ。そんな気持ちからだろうか。幼いころの私はいつもエリカの手をひいていたように思う。
わたしたちは、ほとんどのところ正反対だった。
私は外を駆け回るのが好きだったが、エリカは室内でままごとをする方を好んだ。
私は長い髪がうっとおしくてたまらなく嫌だったのだが、エリカは髪を腰まで伸ばして毎晩ブラシをかけていた。
私は背が高く、男性に見下されることもあまりなかった。けれどもエリカは人形のように小作りで、みんなによく頭を撫でられていた。
真逆だけれど仲良しだった。
あるいは、真逆だからこそ親しくしていられたのかもしれない。
人は自分と似た人間を求める一方で、あまりに近すぎると互いに嫌い合うようになる。もう一人の自分——ドッペルゲンガーを見た人間は遠からず死ぬ定めだという。誰だって本当は、ありのままの自分の姿なんて見たくはないのだ。他人は自分を写す鏡だという。少し歪んでいてくれないと、人は耐えられないのだろう。
幼いころのエリカはいつも私の影に隠れていた。いたずらをしてくる男の子たちに対して、エリカはなにも出来ずにいた。私は思い切りひっぱたいてやることができた。当然のように、私はそれを自分の役割だと思っていた。
小学校にあがっても、中学校にあがっても、その関係はまるで変わらず私たちの間を結びつけていた。
男勝りの京子ちゃんに、気弱で優しいエリカちゃん。
それが周囲の私たちに対する評価だった。
私もエリカも、その評価をあたりまえとして受け入れていた。私たちは私たちにしかわからない互いの美点を数多く知っていた。もちろん欠点だってしっていたし、時には喧嘩をすることもあった。けれどそんなことは些細な問題だったのだ。私はエリカが好きだった。一緒にいると穏やかな気持になることができた。エリカだって同じだろう。周りの人たちが想像するより、私たちは互いに必要としあっていたし、長い時間の中で紡ぎあげてきた絆の糸は強固に結びついていた。
そんな彼女を私は裏切ってしまった。
ここにいたっても、私はときどき分からなくなってしまう。
どうしてこんな形になってしまったのか。もちろん、私のした行為が間違っていることは理解している。けれど、こうなった理由を考えていくと、決定的ななにかが生まれた瞬間というのは、高校時代のあの日にあった気がするのだった。
あの日、山の際から生え上がるように、晴天の空へ入道雲が伸びていた。
太陽に焼かれたコンクリートが気だるげな熱を照り返していた。風船をもらった小さな子どもがおぼつかない足取りで歩いているのを見て、転ばないか心配になったことを覚えている。
私たちはクラスの男子に誘われて、小さな遊園地に遊びに来ていた。小さいなりにアトラクションは充実している、というのが、誘いをかけてきた男の子たちの弁だった。どうせ遊びに行くのならもっと大きな遊園地の方がよかったけれど、アルバイトもしていない高校生に、急な出費に対応できる財力もなく、男女で遊びに行く手前親に車を出してもらうのもためらわれる。そういう妥協の産物だろうと思われた。
裏野ドリームパークというその遊園地は、聞くところによると個人の財産で作られたらしい。お金持ちはいるものだなと思ったが、ほぼすべての財産をこの遊園地につぎ込んだと言われると、もはや呆れるしかなかった。
正直なところ、私はこの誘いに乗り気ではなかった。
男の子たちが誘いたいのは私ではなくエリカなのだと知っていたからだ。
その頃のエリカは、同性の私から見ても目を引かれるほど可愛らしい容姿をしていた。
幼い頃からずっと変わらず背中まで伸ばした髪の毛は、パーマをかけているわけでもないのに、ゆるいウェーブを描いていて、地毛だと言うのにかすかに茶色がかっていた。純真な幼さの残る顔立ちは不思議なバランスで人の心を惹きつけた。気弱そうな色をたたえた大きな瞳は庇護欲をそそる。
実際のところ、彼女はかなり多くの男性から好意を持たれていた。
それでも今まで直接的なアプローチに出る者がいなかったのは、彼女が常に私と一緒にいたからだろう。それで彼らは私ごと誘うことにしたのだ。
だから私はこんな誘いはどちらでもよかった。
夏だし、どこかに遊びに行きたいという気持ちはあったし、彼らの狙いがエリカであっても友人である私のことをないがしろにすることはないとだろうと思われた。結局のところエリカの気持ち次第でよかった。
悩みながらもエリカが誘いを受け入れたのは、私が考えたように諸々理由があったとしても、誘いをかけてきた男の子たちを憎からず思っていたからだろう。
ダブルデートの体をなしたこの小旅行は、少なくとも初めのうちは上手くいっているように思えた。男の子たちの言うとおり、規模の割にはアトラクションは楽しめるものが多かった。絶叫マシーンを乗り倒し、アクアクルーズで水しぶきを浴びた。夏の日差しで濡れた衣服は三十分もせずに乾いてしまう。売店で少し高めのジュースとハンバーガーを買い、小さなベンチに座って食べた。意味もなく写真をとりすぎて、カメラのメモリがすぐにいっぱいになってしまった。あの頃のカメラは、今のように高性能ではなかったのだ。
私もエリカも笑っていた。
出かける前に想像していたよりも、はるかに楽しい時間だった。
最後に観覧車に乗ろう、と男の子たちが言った。
私たちは同意し、観覧車に向かった。
行列ができるほどの混雑でもなく、スムーズに観覧車に乗れるはずだったのだが、男の子の一人が突然、私の手首を引っ張った。
振り返る私の耳に、先に進んでいたもう一人の男の子が、ジャンバーを着た係員の女性に「二人で」というのが聞こえた。
慌てて二人に視線を戻すと、戸惑いを浮かべたエリカが男の子に手を引かれてゴンドラに入ってゆくのが見えた。係員の女性が扉を締める。その顔に柔らかな笑みが浮かんでいる。エリカをのせたゴンドラがゆっくりと上に登っていく。エリカが残された私を見つめてなにか言っている。その向かいに、真剣な表情をした男の子が座っていた。
「あなたたちも乗りますか?」
観覧車乗り場の前に立っている私たちを見て係員が声をかけた。
私の手を離した男の子は力なく首を振る。
私一人で観覧車に乗る気にも慣れず、男の子と一緒に観覧車前のベンチに座った。
「あいつさ、観覧車の一番上で告白するんだって」
疲れたようなため息をつき、男の子が言った。
ゴンドラはもうすぐ頂上部分に差し掛かろうとしている。
誘ったときからこうするつもりだったのだろう。ゴンドラの中でどんな会話が行われているのか想像するのは難しいことではなかった。観覧車のてっぺんで告白というのは少し子供っぽい気もするが、憧れないこともなかった。
なんともなしに、隣に座った男の子の顔を覗う。
男の子はなにも言わず、指先を組んでうつむいたまま目を閉じていた。
なにかを堪えるような表情。見なければよかった。
最初からわかっていたことだ。
結局のところ、誰も私には興味がない。
彼らにとって、私はあくまでエリカの付属品にしか過ぎないのだろう。
わかっていても間近にそれを見せつけられると、心の表面がささくれ立つのを止められなかった。
「あなたはいいの?」
少年が顔をこちらに向けた。
「好きなんでしょう。エリカのこと」
嫌がらせにしても幼稚だ。少年は返事をしなかったが、沈黙は肯定と同じだった。
地上に戻ったゴンドラから二人が降りてきた。
出口の前で二言三言、なにか言葉を交わしている。それが終わると、エリカがこちらへ駆け寄ってくる。私は一瞬隣の顔を伺った。彼はなにも言わなかったし、立ち上がる気もないらしい。私は立ち上がり、エリカの方へあるき出した。
エリカの頬が赤く染まっている。潤んだ瞳が私を見上げた。
彼女はちらりと男の子たちの様子を見やると、私の手を取ってあるき出した。
「置いてっちゃっていいの?」
「……うん。あのね、今日はもうこれでバイバイってことになったの。勝手に決めちゃってごめんね」
「いや、いいよ。別に」
これ以上かれらと一緒にいたいとも思えない。むしろありがたいことだった。
私はエリカに手を引かれるまま歩いた。エリカは落ち着かなげにウロウロと視線を彷徨わせている。そうしているうちに、人気のない木陰に赤いベンチがポツリと置かれているのを見つけた。あそこに座ろうと私が言うと、エリカはコクリと頷いた。
ベンチに座ると、エリカは私の腕にすがりつくようにしながら涙声で言った。
「京子ちゃん。私、どうしよう」
好きだと言われたが、どうしていいかわからないらしい。
「そんなの、自分で答えるしかないじゃない」
「それはそうなんだけど……」
我ながら冷たい声だったように思う。
飼い主に見捨てられた犬のように、エリカはしょんぼりとうつむいた。
「どうしよう、どうしよう」とメソメソした声でつぶやいているエリカの姿は、ささくれだった私の心を乱暴な手つきで撫でまわした。どうもこうもない。好きなら好きで付き合えばいいのだし、嫌ならきっぱり断ればいい。
いったい私になんと答えてほしいのだろう。
「エリカはいいよね」
不意にこぼれた私の言葉は、自分でも驚くほどに険悪な響きを含んでいた。
困惑した表情のエリカがかすかに首を傾げる。
「エリカはさ、きっとこれからもたくさんの人に好かれるんだろうね」
可愛いエリカ。私とは違う女の子らしい女の子。彼女と一緒にいる限り、私はなんどもこんな思いをすることになるのだろう。
「京子ちゃん、どうしたの?」
エリカがオロオロと声を上げる。腕にすがりついた彼女を振り払い、私は立ち上がった。
私はその時まで、エリカを憎いと思ったことはなかった。彼女はたしかに、私にはないたくさんのものを持っていた。それはたびたび私の心に劣等感を覚えさせたが、同時にまた、私自身のかけがえのなさを教えてくれるのもエリカだった。
エリカは私の親友だった。
間違いなく、彼女のことが好きだった。
けれどもその時、なぜか私は自分の中の暗い気持ちが際限なく膨らんでいくのを抑えることができなかった。
「イライラすんのよそういう態度。ねぇ、ホントは私の事馬鹿にしてるわけ?」
「違うよ。私はただ……」
「ねぇエリカ、いいこと教えてあげようか」
エリカの言葉を遮って私は言った。
「今日の二人、両方エリカのことが好きだったみたい」
エリカの瞳が大きく見開かれる。
私が伝えなければ知ることのないことだっただろう。それでも口に出したのは、エリカのことを傷つけたかったからだ。きっとエリカは二人の友情にヒビを入れ、私の心を傷つけた、その原因が自分なのだと思ったはずだ。
エリカの目に涙が浮かび始めるのを見て、私の心に苦い後悔が走った。けれどももう、ここまできたら止まることが出来なかった。
「私はエリカのおまけじゃないから」
それだけ言い捨て、私は逃げた。なにかを決定的に間違えている気がした。そもそもで言えば、こんな場所にやってきたのが間違いなのかもしれない。重い荷物を背負ったように体がぐったりと重かった。
その日、私はエリカを置き去りにして家に帰った。
結局、エリカがあの男の子と付き合うことはなかった。
その日から、私は髪を伸ばし始めた。がさつな仕草もあらため、女の子らしい落ち着いた振る舞いを身につけるよう努力した。逆にエリカは自慢だった長い髪をばっさりと切り、内気な自分を捨て去ろうとしているように見えた。
しばらくの間、私とエリカは互いに微妙な距離を置いたが、ほどなくして元のように付き合うようになった。
あのいさかいは若さゆえの衝突だったのかもしれない。あれから私たちは自分のあり方を考え、少しだけ違う自分になった。大人になるというのは、そういうことの積み重ねなのではないだろうか。だとすれば、あれはある種の通過儀礼——いつか私たちが経験しなければならないことだったのかもしれない。事実、私たちの関係はよりよいものになったように思えた。
けれども私はあの日のことを思い出すたびに、どうしようもない間違いを犯してしまったような気持ちになる。後悔しているわけではなかった。ただ漠然とした不安があった。頼りにしていたコンパスが、知らないうちに狂ってしまっていたかのような。
私とエリカは親友だった。
以前と変わらず親友であるはずだった。
だというのに、私は彼女と私の間に、埋めようのない溝があるのを感じていた。もしかすると、溝ははじめからそこにあって、私が気づかずにいただけなのかもしれない。けれどそれに気がついてしまうと、ぴったりハマっていたパズルのピースがグニャリと曲がってしまったような奇妙な違和感を覚えずにはいられなかった。
それでも私が彼女とつきあい続けたのは、結局のところ私は彼女が大好きだったし、大切に思っていたからだろう。
なのに私は——。
足音がした。
振り向くとやはりエリカだった。
当然だろう。私を呼び出したのは彼女なのだし、こんな廃れた遊園地などにむやみに人が来るはずもない。
「ここに来るの、あの時以来だよね」
やっとこれたね、とエリカは笑った。
エリカはたびたび、裏野ドリームパークへ行こうと私を誘った。彼女もやはりあの日のことに思うところがあったのだろう。彼女なりの方法であの日にケリをつけようとしていたのだろう。けれども私はこの場所に二度と来たくなかった。だから今まで彼女の誘いを受けたことはなかった。
しかし今、こうして彼女とこの場所で向かいあっている。
「知ってる? この遊園地、今は心霊スポットなんだって」
「噂は聞いたよ。でも、そんな話をしたいわけじゃないでしょう」
私はエリカを真正面から見すえた。
「知ってるんでしょ。私とタカユキさんのこと」
エリカはコクリと頷いた。
タカユキさんはエリカの夫だ。大学を卒業してしばらくした頃、エリカは彼と結婚した。お見合いだったということだが、彼は真面目で優しそうに見えた。友人代表としてスピーチをしたのは私だ。エリカを幸せにしてくださいと言ったこの口で、私は彼とキスを交わした。
エリカから電話がかかってきて、この場所に来てほしいとだけ言われた時、私は彼女に知られたことを悟った。いつかはバレる話だったし、そもそも本気で隠し通そうとしていたかと言われると、頷くことは難しかった。本音を言えば、早く気づいてほしかったとさえ思っている。
「それで、どうするつもりなの?」
「どうって?」
「こんなところに呼び出して私をどうするつもりなのかって聞いたのよ。もしかして私、殺されるのかしら?」
エリカは面白い冗談でも聞いたように笑いだした。
「まさか。そんなことするわけないじゃない。せっかくここまで来てくれたのに」
「どうしてよ。私のことが憎いんでしょう?」
「あのね、京子ちゃん。かん違いしてるみたいだけど、私、あの人のことなんてどうでもいいの。はじめから興味もなかった。彼と結婚したのは、その方がいろいろと都合がよかったから。それだけなの」
本心から言っていることが、私にはわかった。
タカユキさんが私を誘ったのは、エリカに対するあてつけだったのかもしれなかった。私が彼を拒まなかった理由も似たようなものだ。エリカとの間にある奇妙な違和感に私は耐えられなくなっていた。かといってエリカから離れることも出来ず、いっっそ壊れてしまえばいいと思っていた。
「でも、あの人には感謝してるわ。おかげでこうして京子ちゃんとこの場所に来られたんだもの」
エリカが私の腕を掴んだ。白い指は陶器のように滑らかで、ひどく冷たい。
「行こう。京子ちゃん」
エリカが私の手をひいて歩きだす。
彼女の足取りはこの場所をよく知っているようだった。迷いがない。まるで頻繁にこの場所に来ているような印象を受けた。
「どこに行くの?」
エリカは答えなかった。
無言のまま私の手を握って歩いて行く。
振り払うことも出来たが、私は手を引かれるままあるき続けた。彼女の足が止まった時、私たちはボロボロになったアトラクションの前に立っていた。そのアトラクションはどこなくサーカスのテントに似ていた。斜めになった看板にかすれた文字でミラーワールドと書かている。
「あの後、私ここに入ったんだ」
エリカが静かな声で呟く。
あの後、というのは、あの日私が帰ってしまった後のことだろう。
「どうしてかな。私あの頃はここの噂も知らなかったんだよ。京子ちゃんからあんなことを言われて、どうしたらいいのか本当に分からなかったの。それでフラフラ歩いていたら、いつの間にかこの場所にいたの」
あの頃の私たちは知らなかったが、この遊園地にはたくさんのおかしな噂が流れていた。子供がいなくなったとか、ジェットコースターで事故が起きたとか。廃園になった理由はそんなところにもあったらしい。そうだ。ミラーワールドにも噂があった。内容はたしか——。
「中に入って、それで……」
エリカは途中で言葉を止めた。熱に浮かされたような瞳でミラーワールドの入り口を見つめている。
「それで、どうしたの」
エリカの首がグリリと回って私を見た。
微かに首を傾け、唇の端を三日月のように持ち上げて笑う。
「大丈夫。すぐにわかるよ」
エリカがミラーワールドの入り口に向かってあるき始めた。私の腕を握る力は驚くほどに強く、もはや抗えそうにはなかった。入り口には闇がわだかまっている。鏡の中から飛び出したピエロの絵が笑っている。
そうだ。たしかミラーワールドの噂は、
——入れ替わる。
私の体を闇が包んだ。
私はそれでもいいと思った。
エリカと同じになれるのなら、それで構わないと思えた。
どこから取り出したのか、エリカが懐中電灯を取り出して、灯をつけた。暗闇の中に光が灯る。壁に囲まれた細い通路。足元に細かな硬い感触がある。砕けた鏡の破片だった。
ミラーワールドの無数の鏡は、全て粉々に砕け散っっていた。まるで誰かが執拗に砕いて回ったかのようだ。本来鏡のあるべき場所には暗い色をした板地が露出してしまっている。
「あれ?」
エリカが間の抜けた声をあげた。繰糸が切れた人形のように、エリカは膝から崩れ落ちた。私の手を握っていた力が緩み、肌の上を滑り落ちていく。懐中電灯が地面に落ちる硬い音が狭い通路に反響した。
「……京子ちゃん」
膝をつき、うなだれるようにうつむいたままエリカが私の名前を呼んだ。
「私たちって親友だよね」
その問いに、私は答えられなかった。
振り向いたエリカの顔がドロドロと溶け出していた。
目が、鼻が、口が、皮膚が、濡れた粘土が崩れるように形を失っていく。
私は、いったいなにと親友だったのだろう。