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黒猫屋敷

作者: 雨乃晴彦

 我が家の黒猫ベルは無愛想で生意気で、僕は嫌いだった。

 おいでと呼んでも来ないし、頭を撫でようと近づくと僕から距離を取って逃げるし、僕やお父さんには懐かない癖に、妹やお母さんには懐くところとかも気に食わなかった。

 だから僕は、大嫌いだってベルに言った。一週間前のことだった。

 その翌日から、ベルが行方不明になった。

 最初にベルの失踪に気づいたのは妹だった。

 まだ小学三年生、僕と五つ歳の離れた妹はベルがいないと瞳に涙を湛えながら僕に縋り付いてきた。

 僕はベルのことが嫌いだ。別に、いなくなったって何とも思わない……思わないけど、妹が悲しむ姿を見るのは嫌だった。

 だから僕はベルを探すことにした。僕の住む町は小さな田舎町だったから、すぐに見つかるだろうと悠長に考えていた。

 でも……未だにベルは見つかっていない。

 もしかして、もう二度とベルの姿を見ることはないのかもしれない。

 学校からの帰り道、暑い夏の日差しを浴びて浮き出た額の汗を拭いながら、そんなことを考え、僕は気分を沈ませていた。

 もしかしたら、僕のせいかもしれない。僕がベルのこと嫌いだなんて言ったから、ベルはいなくなってしまったのかもしれない。

 嫌な想像ばかりが頭を駆け巡った。

 ベルなんて大嫌いなのに、僕はベルのことばかり考えていた。

 家に戻ったら、またベルを探そう。きっと、今日こそは見つけられる筈だ。

 と、考えていた矢先のことだった。

 道端に長毛の黒猫がいた。綺麗なグリーンの瞳が僕をじっと見つめている。

 フサフサの黒い長毛。赤い首輪に金の鈴……間違いない、ベルだ。

 足を止め、僕とベルは距離を保ったまま向かいあった。

 僕はベルを見つけることが出来て、心の底から安堵していた。それと同時に、問題に直面することになった。

 どうやってベルを捕まえればいい?

 呼んでも来ない。追いかけようものならその俊敏な動きを生かし、すぐに僕の視界から消えてしまうことだろう。

 どうしよう……と悩んでいる内に、ベルは僕に背を向けて歩きだしてしまった。

 ここで見失うわけにはいかないので、ベルを驚かせないように距離を保ったまま追いかける。

 ベルの後を追いながら、僕はベルを捕獲する方法を考えていた。

 人の家の庭を歩きながら、塀の上をバランス取って歩きながら、狭い小道を体を横にして進みながら僕は考えた。

 そして思いついた。家に電話して妹か母さんを呼べばいいと。

 そこでふと気づいた。妹か母さんを呼ぶには、現在位置を知らせなければならない。

 だけど……。

「……ここ何処?」

 いつのまにか、僕は見知らぬ風景に囲まれていた。

 左右を木々に囲まれた一本道。先ほどまで周りの風景には家や建造物があったのに、今は緑に囲まれている。

 前方には変わらずベルの後姿、長い尻尾がゆらゆらと揺れている。

 振り返ると、長い一本道が続いているだけだった。どうやってここに来たのか分からない。

「……マジ?」

 迷子になったかもしれないと僕は焦った。

 とりあえず家に連絡しようと思い立ち、ポケットから携帯電話を取り出し開いてみる……圏外だった。

「うそー!」

 驚きのあまり僕は叫んでしまった。そんな僕の声に驚いたらしく、ビクリとベルの身体が震えた。

 次の瞬間、ベルは一本道の先へと駆けてしまった。

「あ! ちょ、待って!」

 携帯電話を握り締めたまま、僕はベルを見失わないように後を追った。

 どれくらいの距離を走ったのだろう。

 もう限界だと感じた時に、僕とベルは一本道の終着点へと辿り着いた。

 荒い息を吐きながら、僕は目の前に広がる光景を見つめた。

 そこには、大きなお屋敷があった。

 見た目和風の木造建築。お屋敷の回りには緑が覆い茂り、そこには見知らぬ白い花がたくさん咲いていた。

 ぽかーんとお屋敷を見つめている内に、ベルは開いていた正面玄関の隙間からお屋敷の中へと入っていってしまった。

 ベルを追いかけたかったけど、さすがに勝手にお屋敷の中へ入るのは駄目だ。

 扉が開いているとはいえ、不法侵入になる。

 どうしたものかと、僕はお屋敷のあちこちに視線を彷徨わせた。

 二階にある窓から誰かが僕を見ていることに気づいた。

 僕が見ていることに気づいたのか、その人物は僕と目が合うと黒い髪を揺らめかせ窓際から去ってしまう。

 気のせいだろうか、僕にはその人が笑っているように感じた。

 しばらくして、ベルが消えた扉から女の人が緩やかな動作で姿を現した。先ほど二階の窓際にいた人だとすぐに分かった。

 その人は、何か全体的に黒かった。何となく最初に浮かんだ言葉が【黒いお姉さん】だった。

 夏の風にサラサラと揺れる黒く長い髪。黒いワンピースはお姉さんの華奢な体と白い肌に映え、とても似合っている。

 黒いお姉さんはゆっくりと僕へと近づいてきて、僕の目の前で立ち止まった。

 間近で見ると、お姉さんは驚くほどに綺麗な人だった。そして惹きこまれるような存在感と、何処か幻想的な雰囲気を感じ、僕は緊張で声を発することが出来なかった。

 お姉さんは僕の緊張を見て取ったのか微かに笑って見せた。それから僕の後方を見ながら言った。

「どうやって、ここに来たの?」

「……ベルを追って」

「ベル? ああ、もしかして赤い首輪の?」

「え?」

 驚いた……この人はベルを知っているのだろうか。

 お姉さんは自分の唇を指でなぞりながら「ふーん」と言って空を見上げた。

 考え事をするときの癖だろうか。何だろうか、この人には独特な雰囲気がある。この人の周りだけ流れる時間のスピードが違うような、そんな感覚。

「あの新入り、ベルって言うんだ。君はベルの飼い主?」

 お姉さんは空を見上げたまま、唇を指でなぞったまま、僕に聞いた。

「うん」

 頷くと、ようやくお姉さんは空から視線を降ろし、僕を真正面に捉えた。そして今度は緩慢な動作で小首を傾け、お屋敷を指差して聞いた。

「なるほど……ねえ、入る?」

「え?」

「ベルを探してるのよね?」

「う、うん」

「じゃあ、入って探さなきゃ」

 お姉さんは相変わらずの緩慢さで、お屋敷の中へと入っていった。

 このまま突っ立っているわけにも行かないので、僕はお姉さんに導かれるようにお屋敷の中へと進んだ。

 瞬間、僕の顔に何か柔らかい物が張り付いた。

「……離れなさい」

 僕の顔から柔らかいのが離れた。閉ざされていた視界が開き、最初に写したのは黒猫の首根っこを掴んでいるお姉さんの姿だった。

「もしかして、いま僕の顔に張り付いたのって……」

 首を縦に振りながら、お姉さんは自身が捕まえている黒猫を指差し、その指を黒猫の体へぐりぐりと押しつけた。何だか黒猫は嬉しそうだった。

 扉を背にじっとその光景を見つめていると、お姉さんは黒猫の耳に口を近づけた。

「……」

 黒猫に何かを耳打ちしているようだが、何を言っているのかは分からない。というか、猫に耳打ちって何してんだろこの人。

 ぱっとお姉さんが黒猫から手を離すと黒猫は地面に着地し、あっという間に右側の通路へと走り去ってしまった。

「君はこっち」

「あう」

 黒猫の去っていった方向をじっと見ていた僕の手をお姉さんが掴んだ。

 驚いて変な声を上げた僕を気にする風もなく、お姉さんは黒猫が去っていった方とは逆の通路へと僕を引っ張っていく。

 そうしてお姉さんに案内されたのは、縁側付きの居間だった。

 そしてその居間には、五匹の黒猫がいた……。

 これでこのお屋敷には六匹の黒猫がいることになる……と思った矢先、居間から見えた庭を三匹の黒猫が駆けていった。

 黒猫黒猫黒猫。

 何処もかしこも黒猫だらけ。

 お姉さんは掴んでいた僕の手を離すと、先ほどと同じように一匹ずつ居間にいる黒猫の耳に口を寄せていった。そうするとお姉さんに口を寄せられた黒猫は順番に居間から縁側を通り、庭の外へと去っていった。

 何だか、お姉さんに何かを命じられ黒猫が行動を起こしたように見えた……って、そんなことあるわけがない。

「これでよし……ここ、座りなさい」

 いつのまにか縁側に腰掛けていたお姉さんは、隣に座れと僕に命じた。 

「え、でも僕、ベルを探さないと」

「それなら大丈夫。みんなに探してもらってるから、すぐに見つかる」

「え?」

「いいから、早く。早くここに座りなさい」

 ばんばんと縁側を叩くお姉さんに急かされ、僕は急ぐ動作でお姉さんの隣に腰掛けた。

「ねえ、みんなって……」

「お邪魔します」

 驚いた。お姉さんの体が傾いたかと思うと、彼女はそのまま僕の膝上に頭を載せたのだ。驚きすぎて声も出なかった。

「はあ……久しぶりの感触……百年ぶり……」

 そのままごろごろと頭を動かすお姉さん。

「な、何してるの?」

「極楽~、極楽~」

 僕の言葉なんか聞いちゃいなかった。聞きたいこととか色々あるんだけど、これじゃあ答えてくれそうにない。

 それから僕はなすがままだった。

 膝枕だけでは終わらず、お姉さんに色々な命令をされた。

 頭を撫でろとか、顎の下をくすぐれだとか、意味の分からない命令に僕は渋々ながらも従い続けた。

 その度に、お姉さんは懐かしむような視線で庭に咲く白い花を見つめていた。

 そんなことを続けいている内に、お姉さんに対する緊張は段々と薄れていった。

「ねえ、お姉さん」

「何?」

「どうしてここには黒猫がたくさんいるの?」

「私が呼び寄せてしまうから」

「ここは何処?」

「私の家」

「一人で住んでるの?」

「一人じゃない。みんなで住んでる」

「あの白い花は何?」

「木天蓼の花」

 こんな風に、お姉さんにたくさん質問をした。

 どの質問もあまり要領を得ない答えだった。

 わざとはぐらかしているような、そんな感じだった。

 そろそろ足が痺れてきたと感じた時、三匹の黒猫と連れたち庭に見慣れた黒猫がやってきた。

 その黒猫はベルだった。

 僕の膝から頭を上げ、お姉さんはおいでとベルを呼んだ。

 ベルは首輪に掛けられた鈴を鳴らし、お姉さんの胸へと飛び込んだ。

「この子がベル?」

「うん」

「そ、じゃあ、はい」

 お姉さんが抱いたベルを僕に近づける。しかし、その瞬間ベルはお姉さんの腕から飛び降りてしまった。ベルは地面に着地して距離を保つと、何かを訴えるような瞳で僕を見上げた。

 やっぱりベルは僕のことが嫌いらしい。僕は盛大にため息を吐いた。

 いつもこうやって僕は落ち込ませる。ベルなんか大嫌いだ。

「照れ屋さんね、ベル」

「……え?」

 お姉さんの言葉が一瞬理解できなかった。

「照れ屋さん?」

「うん。彼女、照れてるわ」

 僕はジッとベルを見返した。照れているようには見えない。僕にはベルが警戒しているようにしか見えなかった。

「照れてないよ。ベルは僕のこと嫌いだから、警戒してるんだ」

 お姉さんは僕の言葉を聞くと、また空を見上げて唇を指でなぞった。

「……何でベルが君を嫌っていると思うの?」

「だって、呼んでも来ないし、近づくとさっきみたいに逃げるし」

「だからベルは君が嫌い?」

「うん」

「でもそれは君の勝手な解釈だよね? ベル自身がどう思っているかだなんて、君には分からない筈よね?」

 言われてみれば確かにそうだ。でも、それを言うならお姉さんの照れているというのも勝手な解釈だということになる。

「ベルが行方不明になった原因に心当たりは?」

 それは、僕が嫌いだと言ったからだろうか。それ以外に、特に原因は思いつかない。

 あれ、おかしい、何か矛盾しているような気がした。

 ベルは僕の事が嫌いだ。そんな僕に嫌いだと言われて、家を脱走して行方不明になった。

 それってよく考えると変じゃないか。

「君はベルのことが好きよね。必死になって、ここまでベルのことを追いかけてきたくらいだし」

 そんなことはない。僕がベルを追いかけてきたのは全部妹のためだ。

 僕は別に、ベルのことなんか好きじゃない。

「ベルも君のことが好きよ。でもほら、彼女は女の子だから。あなたにどう接していいか分からずに、照れてるだけよ」

「そんなわけ……」

「だってベル、君から距離を取るだけで逃げないじゃない」

「……あっ」

 お姉さんに言われてはじめて気づいた。

 いつだってそうだった。ベルは僕が近づくと、距離を取りはするものの、その距離を保ったままじっと僕を見るだけで、僕の視界から消えることは一度としてなかった。

「……ベル」

 お姉さんがベルを呼ぶと、ベルは尻尾を振ってお姉さんに近づいた。

 足元に近づいてきたベルを抱き上げ、お姉さんはベルの耳に口を寄せた後、僕の前に立って、ベルを僕の胸に押しやった。

 恐る恐る、お姉さんが抱いているベルに手を伸ばす。

 ベルは……逃げなかった。

 そのまま、お姉さんの腕から僕の腕へと納まるベル。

 いつもしたいけど出来なかったこと、頭を撫でたり喉をくすぐってみたりした。

 すると、ベルは気持ちよさそうに目を細めた。

「これでもまだ、ベルは君のことが嫌いだと思う?」

 ベルの頭を撫でながら、僕は首を横に振った。

「照れてたんだ、こいつ」

 僕はベルのことが大好きになった。


 ◆          ◆          ◆


 それから僕達は、居間に戻ってたくさんお話をした。

 いつのまにか十匹、二十匹ととやってきた黒猫達に囲まれながら、僕は家族のことや学校のこと、とにかく自分のことをたくさん話した。

 僕の話にお姉さんは縁側に横になったり、僕の膝に頭を乗せたり、黒猫達に埋もれたりしながらも笑顔で話を聞いてくれた。

 でも、相変わらず僕からの質問には曖昧な答えしか返してくれなかった。

 そんな風にして時が過ぎ空が茜色に染まりだしてから、お姉さんは僕とベルに帰るよう言った。

 僕はもう少しこのお屋敷にいたいと駄々をこねたけど、お姉さんに『早くベルが見つかったことを妹さんに報告してあげなさい』と言われて頷くしかなかった。

 ベルを抱き、見送りすると言ったお姉さんと共に左右を木々で囲まれた一本道まで戻ってくる。

 そこで僕は自分が迷子であることを思い出した。

「あっ、僕、帰り道分からない」

「大丈夫。この一本道を真っ直ぐ進めば、君の知っている道に出るから」

 不安になった僕を安心させてくれる優しい微笑みで、お姉さんは一本道の先を指で指し示す。

「ほんと?」

「ええ、大丈夫よ。私を信じて、振り返らずに真っ直ぐ進むのよ」

 そう言って、お姉さんは僕の背を軽く押した。

「また会える?」

「……さあ? それは君次第ね」

 やっぱり僕の質問には曖昧な答えしか返ってこなかった。でも、それでいいと思った。

 だって、お姉さんは笑っていたから。

 それは多分、きっとまた会えるってことなんだって、僕にはそう思えたから。

 だから僕は『またね、お姉さん』と言って駆け出した。

 来たときと同じように一本道を走る。

 家に帰ったら妹に今日会った出来事を話そうと思った。

 たくさんの黒猫と、綺麗なお姉さんがいる大きなお屋敷のことを。

 もう一度手を振ろうと、僕は走りながら振り返った。

「……え?」

 ――瞬き一つ。

「……あれ?」

 お姉さんは僕に手を振っていた。何もおかしいことはない。

 でも、一瞬だったけれど。

 お姉さんの背後に二本の黒い線みたいなのが写った気がした。

 その線はゆらゆらと揺らめいていて。

 そう、まるで上機嫌にゆれる黒猫の尻尾のように。

「……」

 きっと、見間違いだったのだろう。

 手を振り続けるお姉さんに僕は片手でベルを支えながら大きく手を振り替えす。

 黒い線なんてどこにもありはしない。

 やっぱり見間違いだったんだ。

「また来るからー!」

 大きな声で叫び、僕は手を振りながら一本道の先へと走った。

 段々とお屋敷は小さくなっていき、お姉さんも見えなくなっていくと、僕は前を向いて走った。

 走り続けていると、前方に赤い鳥居が見えた。

 あの鳥居、何処かで見たことがあるような。

 近づいてきた鳥居を潜ると、そこは見知った道だった。

 僕が通っている中学校の裏手にある神社へと繋がる道だ。

「……え?」

 おかしい、だってこの先にあるのは神社だけだ。一本道なんてある筈がない。

 僕は混乱した頭をそのままに、来た道を引き返してみた。

 そこには、左右を木々で囲まれた一本道なんてない。

 僕が息を切らせながら踏みしめた土は何処にもない。

 そこには茜色に染まり、ひっそりと佇む神社しかなかった。


 ◆          ◆          ◆


 我が家の黒猫ベルは、それはもう愛らしくて、私は大好きだった。

 おいでと呼べば尻尾を楽しげに揺らしながら近づいて来るし、頭を撫でれば気味地よさそうに目を細めるわで、もう愛しくて愛しくて仕方なかった。

 そんな黒猫ベルは、五年前に一度失踪したことがあった。

 一週間以上見つからず、私はとにかくショックで泣いてばかりいたっけ。

 でも、すぐにお兄ちゃんがベルを見つけてきてくれた。凄く嬉しくて、私はやっぱり泣いてしまったんだ。

 その時に、私はお兄ちゃんからとても面白い話を聞いた。

 それは黒猫が沢山居るお屋敷の話。

 この街の何処かにたくさんの黒猫と美人なお姉さんのいる大きなお屋敷があって、そこにベルとお兄ちゃんが迷いこんだというお話だった。

 まるで御伽噺。

 お兄ちゃんは本当だって言っていたけれど、きっとその話は嬉しくて泣いている私を泣き止ませるために、お兄ちゃんが作ってくれた話なのだろう。

 今でもその話を時折思い出すのは、そんな場所が本当にあればいいのになと私が思っているからだった。

 美人なお姉さんはともかくとして、黒猫がたくさんいるお屋敷なんてあったら、そこは私にとっての理想郷だ。たくさんの黒猫に埋もれて至福の時を過ごすことだろう。

「幸恵」

「……へ?」

 妄想に浸っていた私の肩を誰かが背後から叩いた。

 振り返ると、そこには高校の学生服を着たお兄ちゃんの姿があった。どうやら私と同じように学校帰りらしい。

「あ、お兄ちゃん。今帰り?」

「うん。幸恵も?」

「うん。学校帰りに鉢合わせるなんて珍しいね。あ、そういえばお兄ちゃん、今ね、あの御伽噺のこと思い出してたんだけど」

「御伽噺?」

「ほら、お兄ちゃんがベルを見つけてきてくれた日に話してくれたお話」

「ああ、黒猫屋敷な」

 お兄ちゃんは懐かしむように呟いてから、空を見上げ下唇を指でなぞった。

 考え事をするときにお兄ちゃんがよくやる癖だ。

「何度も言ったけど、あれは本当の話だって」

「またまた~、そうやって。あれはお兄ちゃんが私を泣き止ませてくれるために作った話でしょ?」 

「はあ、もういいよ別に。そういう解釈で。でも誰になんと言われようと、あの話は本当だって僕は言い続けるからな」

 お兄ちゃんはちょっとムキになって言うとそっぽを向いてしまった。

 照れているのだと思った。

 多分、私を泣き止ませるために話しを作ったという過去が照れ臭いのだ。

 我が兄ながら、可愛いやつだった。

「あ、黒猫だ」

「何処!?」

 そっぽを向いたお兄ちゃんの言葉に、私はいち早く反応した。

 お兄ちゃんの視線を追うと、道端に長毛の黒猫がいた。金色の瞳で私達を見ている。

 私は黒猫が大好きなので、頬を緩ませながら兄が見つけた黒猫へふらふらっと近づいた。

「……え?」「……っ!」

 私の疑問を含んだ声と、兄の息を呑むような声が重なった。

 ――瞬き一つ。

「あれ? お兄ちゃん、今……」

 この黒猫の尻尾、二つに裂けなかった?

 そう尋ねようとした瞬間、黒猫は私とお兄ちゃんに背を向け走り出した。

 その後を、お兄ちゃんは黒猫に負けないくらいの俊敏な動きで追っていった。

「え、あれ? えー! 待ってー!」

 一息遅れて私はお兄ちゃんの後を追った。

 これでも私は運動には自信がある。走りならお兄ちゃんにだって負けないつもりでいたけれど、差は縮まるどころかどんどん開いていった。

「さ、さすが私のお兄ちゃん! 速い、速いぞお兄ちゃん!」

 差は開いていくけれど、見失うものかと私は全力で走った。

 どれくらいの距離を走ったのかは分からない。

 もうそろそろ限界だと思った時、前を走るお兄ちゃんの足が止まった。

「ぜえ、はあ、ひい、ふう、お、お兄ちゃん! た、タッチ!」

 荒いを息をつきながら、私はお兄ちゃんの背中にタッチした。やった、私の勝ちだ。

 勝利に酔いしれつつ、私は膝に手を付いた体制のまま辺りを見回した。

「はあ、はあ、へ? ここ何処?」

 いつのまにか、私は見知らぬ場所にいた。

 私の立っている場所は左右を木々に囲まれた一本道の上だった。

 左右を木々に囲まれた一本道……どっかで聞いたような。

「……幸恵」

 真剣な顔をしたお兄ちゃんが私の腕を掴んだ。

「ここ何処?」

 私の質問には答えず、お兄ちゃんは私の手を引っ張って一本道の先へと歩き出した。その先に、黒猫の姿はない。見失ってしまったようだ。

 お兄ちゃんは何処か緊張しているように感じた。

 私を掴んでいる手のひらがじっとりと汗ばんでいる。

 このまま無視されるのも嫌なので、試しにるんるんるん~なんて言って手を振ってみる。

 お兄ちゃんは呆れた顔で私を見た。反応してくれて良かった。無視されたらちょっと恥ずかしかったし。

「ねえ、お兄ちゃん! 無視しないでよ! 私を何処に連れていくつもりなの?」

「なあ、幸恵。ここをどう表現する? 左右を木々で囲まれた一本道だよね?」

「へ? うん、そうだね」

「幸恵が作り話だっていう、黒猫屋敷の話を思い出してみなよ」

「……あっ」

 気づいた。その瞬間、胸がドキリと高鳴った。

 五年前、お兄ちゃんはベルをどう捕まえようか悩んでいるうちに、いつのまにか知らない場所を歩いていた。それは、左右を木々で囲まれた一本道。

「もう一度言うよ。黒猫屋敷はあるんだ。この道の先にね」

「……嘘」

 ドキドキと心臓が鳴って、その音が耳に届くほど私は興奮した。

 いつのまにか、私の手のひらもじっとりと汗ばんでいた。

 だって、憧れていた御伽噺の世界に迷いこんだのだ。緊張しない筈がなかった。

 次第に私も無言になっていた。

 五年前、お兄ちゃんに話を聞いてからずっと夢見ていた黒猫屋敷。

 そこにもうすぐ辿り着けるのかと思うと言葉が出なかった。

 そして……私は見た。

 一本道の先、大きなお屋敷を背にたくさんの黒猫に囲まれながら、こちらに手を振る黒い服を着たお姉さんの姿を。

「な、言っただろ?」

 お兄ちゃんは笑った。それはとても無邪気な少年のような笑顔だった。

 お兄ちゃんが私の手を取り走りはじめる。

 私は転びそうになりながら、それでも逸る気持ちを抑えられず足を前へ前へと動かした。

 木々に囲まれた一本道の終着点。

 たくさんの緑と白い木天蓼の花に囲まれた黒猫屋敷。

 そこへと辿り着いた私たちを見て、お姉さんが笑いながら緩慢な動作で両手をそれぞれ私とお兄ちゃんの頭へと乗せた。

「ようこそ、黒猫屋敷へ」

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