003.英雄だってビビるときがある
それから二時間か三時間ほど歩いた。あとで話すが、この数時間で大変な目に遭った。
土で汚れたパーカー。スマホも腕時計もないから正確な時間は分からない。ただ、腹時計だけは終始、鳴りっぱなしだった。黒い樹木に生る黒い林檎を食うべきか悩んだ。だが、腹が満たされると人間油断してしまうものだと思いなおした。荒野で真っ先に死ぬのは腹と渇きを満たしたもの。野生の勘は飢餓状態でないと働かない。また「やつ」にでくわすかもしれない以上、油断はできない。
おれは、ただひたすら山の傾斜を感じ取りながら麓を目指した。
「頼むから早くたどりついてくれよ」
われながら情けない声だった。
そうだ。「やつ」の話をしなければいけない。数時間前、おれはようやく人間にでくわした。結論からいえば、おれはその男と言葉を交し合えず、逃げたわけだが。
ヒーローとて命に限りがある。守るべきものがないときは退避するのが懸命だ。勝者は自分よりも強い力を秘めたものを見極める能力を持たなければならない。そして命の賭けどころを間違えてはいけない。
おれは腰抜けなどではないのだ。
◆
やつについて話す。
その男は、黒い木々の間をさまよっていた。おれとの距離はせいぜい十メートルほどか。
男は、おれのような迷子というわけではなく何かを探し求めているようだった。また旅人というには装備が甘い。ようはボロキレのような服装をしていて、腰には革の紐がベルトがわりに括りつけられていた。そこからいくつかウサギの屍骸が三、四羽ほどぶらさがっていて、オヤツ感覚でボリボリ肉を引き千切って食っていた。
「よぉ、あんた地元の人かい?」
勘違いしないでほしいのは、おれはその腰にぶらさがったウサギの肉がほしかったわけではないこと。さまよってるのが三日、四日ならば、財布を取り出してウサギとライターを売ってくれと懇願したかもしれない。もちろん焼いて食うためだ。
話を戻そう。
男はこちらへ近寄ってきた。近寄ってくると遠近法で小さく見えていた男の実体がわかった。筋骨隆々な二メートルほどの体躯にスキンヘッド。爬虫類のように離れた両目は銀色に光ってて、呼吸をするたびに黒い気体だか水蒸気だかが出てた。さらにいうと肌は灰色だし耳も尖ってた。そして黒い気体を吐いてる口元からも鮫みたいな鋭い牙が出てて、まぁ一言でいえば不審者だった。
男はおれを見るなり、笑った。笑顔といっても種類があるだろう。男のそれは「みぃ~つけた」を意味するものだった。鬼ごっこの相手としては最悪だ。
そのときになって、おれは、おれを連れ去ったと思しき「悪の組織」の存在を思い出した。
やつは追手かもしれない。おれは思った。
おれの推測はコレ。悪の組織でも穏健派の構成員がおれを連れ去ったあと、何も手を下さず山中に遺棄した。だがその事実を知り、悪の組織の中でも容赦ない部類に入る構成員、つまりあの男が「それじゃいけない。おれが始末してくる」ってな具合でおれを殺しにきたかもしれない。目の前に出された素材からはこんなシナリオしか予想できないのはムリもないだろう。
そうこう考えてるうちに、男がさらに近寄ってきた。おれにものを考える時間は残されておらず、なにかしらの行動に移すべき段階にはいっていた。
「あ!いいっす!おれ用事あるんで」
なんの用事だ。と男が訊ねてくる様子はなく、おれはひたすら走った。
走って、走って、ただひたすらに走った。親友が待ってるわけでもないのに、メロスに代わって走ってやった。
おれが冷静なところは、さっきの逆戻りにならぬように走ったということだった。木々の隙間をぬってサバゲーでもあるまいし、ただひたすら孤独な逃走劇を続けた。
そしたら、男は追ってきた。
逃げるものをみたらとりあえず追え。これが追跡者の習性だというのをおれは忘れていた。やはり何かしらの攻撃をして立てなくなった状態にしてから逃げるべきだったか。後悔先に立たず。
男はおれの背中に迫ってきて、パーカーのフードをつかんだ。おれは必死になってそれをふりほどこうとしたが台風みたいなチカラで吹っ飛ばされた。
幸い、樹木に激突せず六、七メートル先の地面に身体が叩きつけられるにとどまった。とはいえ背中を強打し肺を圧迫され呼吸ができない。
男はそんなことお構いなし。おれはパーカーの右ポケットに手をつっこみ、数日前に深夜の公園で不良少年たちに使うつもりで仕込んだ砂をつかんだ。ふっとんだせいで中身は減っていたが握れるだけギュっとつかんでやった。なぜ数日間も砂が入ってたかなんて無粋な質問はしないでくれ。
男が馬乗りになってきて、おれの首に手をかけようとしたとき、おれは至近距離でやつの両眼に砂を塗り込んでやった。きちんと数秒かけてゴリゴリとね。
マッスルな男が両眼をおさえて呻く姿はギリシア彫刻のようにシュールな様相だったが、おれは立ち上がり逃走を再開した。
それがすべて。あの男の禍々しい狂気と悪意と殺意は忘れられない。
おれは他人に向けられた悪意に対しては立ち向かえる自信があったが、自分に向けられたそれにたいしては、ただただ震えるしかできなかった。
今までのヒーロー活動で悪人を倒したことが二回だけある。一回目はいやがる女子高生をナンパしてたガタイのいいチャラ男をぶっとばした。二回目はラーメンに髪の毛がはいっていたからとカネを払わず店を出てった若いヤクザを尾行し、組の事務所の前で殴って気絶させた。
この二人も相当いかつかったが、さきほどの男に比べたら…
さきほどの男に比べたら、トップアイドルと学校のクラス一の美少女との差くらいあった。いや、これは不適切か。最近はアイドルも素朴だし、クラスに芸能人レベルの美少女がいることだってある。
メジャーリーグとリトルリーグくらいの差。この表現でしっくりくる。
なぜおれの言葉数が多いかって?
あれからもう二時間くらい経過してるのに、足がまだ震えてるからだ。山を駆け下りながらガクンガクンと足が右、左と揺れている。
こんな恐怖は、中学時代に「あいつ」をいじめから救ってやろうと決心したあの日以来だった。
おれは怯えている。あの男に。それを素直に認めよう。おれは震えながら走り続けた。