アリスの話
甘い甘い紅茶の香りと可愛らしいお菓子が私を出迎える。うさぎの耳が生えた男がこちらを見て、嬉しそうに目を細めた。彼はフォークを持ったままで右手をひらひらと振っている。帽子を被った男と眠たそうにしているネズミ耳の女もこちらを見て、ひらりと手を振る。私はきょとんとしたまま手を振り返した。
「アリス、アリスもこっちおいでよ」
「貴女の分のお茶もあるわよ。一緒にお喋りしましょう」
うさぎとネズミの二人が椅子から立ち上がって近づいてくる。二人に片手ずつ握られ、半ば強引に華やかなお菓子が並ぶテーブルへと連れて行かれた。
空いている椅子に座るように勧められ、私はわけもわからないままそこに腰掛ける。帽子の男が私の目の前に紅茶を出してくれた。ありがとう、と礼を言うと彼は口元だけ緩めて微笑んだ。
「帽子屋、僕にも注いでよー」
「自分でやれ。俺はアリスだからやったんだ」
アリス、と首を傾げて聞き返すと、帽子の彼は紅茶のカップに口を付けたままじっと見つめてきた。うさぎとネズミは少し寂しそうな顔をしている。しかしうさぎはすぐに明るく笑って、一切れのケーキを頬張りながらフォークをこちらに向けた。
「君はすっごく忘れっぽいね、アリス。昨日も教えたのに」
「お行儀悪いわよ、アリスにフォークを向けるなんて。アリス、私たちが教えてあげるね」
ネズミは眠そうな目を擦りながらうさぎに注意をしている。うさぎは子供が拗ねるように頬を膨らませ、フォークを皿に置いた。よろしい、とネズミが言うと偉そうだねぇネボスケ、とうさぎが敵意丸出しの言葉を投げかけた。
それから二人の言い争いが始まった。まるで幼い子同士の喧嘩みたいで思わず笑い出してしまった。二人はこちらを見て釣られたようにくすくすと笑った。
「僕は三月うさぎ! よろしくねアリス」
「私はね、眠りネズミっていうの。仲良くしてねぇ」
二人が私の手を片方ずつ握って自己紹介をする。私も自己紹介をしようとして口を開く。だけどどうしてか、自分の名前も自分が何処から来たのかも思い出せない。困惑していると、机の下からくくく、と意地悪そうな声が聞こえた。
驚いて椅子から転げ落ちると、一人の男がしゃがみこんで肩を震わせ笑っていた。三日月のような弧を描いた目で見据えられる。
「やぁやぁこんにちはアリス。面白く驚いてくれるね」
彼が机の下から這い出てくると、帽子の男は猫耳の彼の頭をゴン、と殴った。
「アリスに悪戯するなと何度言えばわかる、バカ猫」
「帽子屋はチェシャに対して冷たいな。バカって言う方がバカなんだい」
自分のことをチェシャ、と言った猫男は腰を抜かしている私に手を差し出し、立ち上がらせてくれた。更に私の服に付いた葉っぱをポンポンと払い落としてくれた。一つ礼を言うと、長い尻尾をゆらりと揺らして笑みを浮かべた。
三月うさぎがもう一つ椅子を持ってきて、猫の彼に座るように勧めると、彼はストンと腰かけた。口元に笑みを浮かべながら紅茶を飲む彼の横顔は、どこかで見た覚えがある気がする。
「アリス、何か食べる? 取ってあげましょうか」
眠たそうなネズミの彼女が私に微笑みかける。返事をする前にカラフルなマカロンやら苺のタルト、ケーキに砂糖菓子などがさらに乗せられ、私の前に出された。礼を言って一口食べるとそれはとても甘くて美味しかった。素直に感想を言うと、三人は嬉しそうに照れ笑いをしていた。
しばらくして、チェシャ猫がそろそろ帰るね、と立ち上がった瞬間、和気あいあいとした茶会は終わりを告げた。チリン、という鈴の音がしたかと思ったら、私はしっかりと抱きかかえられて森の中を飛んでいた。びっくりしていると頭の上からケラケラと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「アリス、落っこちないようにちゃんとチェシャに掴まっているんだよ。いいね」
そう言われ、私はチェシャ猫の首に腕を回した。下をちらりと見ると相当な高さで怖くなってしまい、私は腕に力を込めて強く抱きついた。いい子いい子、とチェシャ猫は上機嫌そうに笑い、木から木へと身軽に飛び移った。
今自分が一体何処にいるのかさっぱりわからなくなった頃、彼は高い木に飛び移った。チェシャ猫は人懐こい声でアリスアリス、と呼ぶ。なに、と言って顔を上げるとチェシャ猫は少し先を指さした。その方向に目を向けるとそこには大きな城があった。真っ赤な花が庭一面に広がっている。トランプ柄の服を着た兵士たちがドタバタと忙しなく駆け回っている。
あそこに行くの、と問おうと口を開く。しかし真剣な目つきで城を眺めるチェシャ猫の独り言に掻き消された。
「正面突破したらすぐ見つかるかなぁ。ご主人のいる牢屋の方から行って……女王様のところに突撃しようかな、それが一番安全だ。よし、決まったよアリス。行こう、女王様のところへ!」
チェシャ猫は木から飛び降りたかと思えば、すぐにまたぴょんぴょんと木から木へと飛び移る。高い城壁をも飛び越え、チェシャ猫は私を抱いたまま薄暗く気味の悪い道を駆け抜ける。
一つの甲高い声がチェシャ猫を呼ぶ。すると彼はピタリと足を止めて振り返った。すると一人の女がチェシャ猫に駆け寄り、私を見るなりボロボロと大粒の涙をこぼしながら口を開いた。
「あぁ、アリス! またお目にかかれるなんて、なんて嬉しいことなの!」
「……アリス、覚えている? この人はチェシャのご主人でね、スープもお家も胡椒まみれにしちゃうんだよ」
一つの情景が思い浮かぶ。ギャンギャンと泣く赤ちゃんを胡椒まみれの部屋の中で誰かがあやしている。大きな猫はかまどの上に寝転んでニヤニヤと笑ってそれを眺めていた。……いつのことなんだろう。だけどひどく懐かしいような、でもついさっきの出来事のような感覚がした。
突然、眩しい光に包まれた。チェシャ猫が大きな音を立てて扉を開けたからか、真っ赤なドレスに身を包んだ女と、お揃いのトランプ柄の数人の兵士らがこちらを一斉に見た。
「……お前がアリスかい? なら、首を斬らないとねぇ」
狂気的な笑みを浮かべた彼女はまっすぐ見つめてくる。チェシャ猫は私を床に下ろして見下ろしている。周りの兵士は剣を握り、女は首を斬れ、と指令を出す。助けを求めてチェシャ猫を見上げるが、チェシャ猫は冷たい目を向けた。助けて、と呟くとチェシャ猫は困ったように笑った。
「チェシャたちはアリスと助けようとしているんだよ。だから大人しくしていてよ、アリス」
ね、とひどく優しい声で囁かれた。
幾つもの剣から逃げ惑っていると、突然トランプの兵士らがバタバタと倒れ始めた。ぐい、と腕を引かれて抱き寄せられる。甘い紅茶の香りはさっきの茶会を思い出させた。
「アリス、大丈夫かしら。迎えに来たわよ」
「眠りネズミ、アリスを連れて先に戻れ!」
「はぁい。おいで、アリス」
「トランプ共、アリスを逃がすな!」
赤いドレスの女の命令が飛ぶと何人もの兵士が目の前に現れた。しかしネズミはそれらを蹴り倒し、私の手を引いて走り出した。背中の方から女の怒鳴る声や兵士の喚く声に混ざって、耳をつんざくような悲鳴や銃声が聞こえる。恐ろしい音や声が怖くて、私は手を引く彼女の名を呼んだけども、彼女は気づいていないような素振りで、ただまっすぐ前だけを見て走っていた。
うさぎの形をした家のすぐ近く、紅茶も可愛らしいお菓子もそのまま散らかったテーブルが目に入る。眠りネズミはそれらを見てほっと安堵したように微笑んだ。
「よかった間に合って。あれ以上進んだら私たちは迎えに行けないのよ」
本当によかったぁ、と何度も何度も呟いて、嬉しそうに私の頭を撫でる。再び手を引かれ、私は一つの椅子に腰かけた。ネズミの彼女は一つのティーポットを手に取り、新しいカップにそれを注いだ。
「疲れたでしょう? 私お手製の紅茶飲んでゆっくりお休みしましょう。自信作なのよ」
自慢げな笑顔でカップを差し出される。カップを受け取り、一口飲む。甘い林檎の香りがふわりと漂った。さっき迎えに来てくれたとき香ったのと同じものだ。
美味しい、と言おうとしたとき、急に目の前がぐにゃりと歪んだ。だんだん霞が掛かってきて、彼女の姿もカップの輪郭も曖昧になってきた。
「あらあら、眠くなっちゃったのかしら。お休みなさいアリス、またお茶会しましょう」
眠りネズミの優しい声を最後に、瞼は落ち切ってしまった。
甘い甘い紅茶の香りと可愛らしいお菓子が私を出迎える。ここは一体何処だろう。視界にうさぎの耳が生えた男入る。彼はこちらを見て、ニコニコと上機嫌に微笑んだ。クリームの付いたスプーンを持ったままで右手をひらひらと振っている。帽子を被った男と眠たそうにしているネズミ耳の女もこちらを見て、優しげに微笑んで手を振る。私はわけのわからないまま手を振り返した。
彼らをどこかで見た気もするけども、全く思い出せない。うさぎの男とネズミの女が私に駆け寄ってきた。甘い林檎の香りと錆びた鉄のような香りが鼻をくすぐった。




