エピローグ
「ここは変わらんのぅ」
アジルヒム・コルトレツィスは立ち止まると、数十年ぶりとなっても変わりない旧友の故郷━━長閑なコレンツィヒを一望し、感嘆の息を洩らした。
この世界から神の光が失われて、既に一週間が経つ。
全て終わった事を亡きイクフェスへ報告しようと、彼の魂が眠る故郷目指してトロイメライを出発したのが三日前の話だ。
本心、すぐにでも足を運びたかったのだが、アジーにはあの日の後処理が待っていた。
この世界の結末を語り継ぐ為、或いはこの世界で帰りを待つ人が居る為、円環大陸に残ったイクサ、ウル、それにアジーの三人。
イクサとウルの二人をルーテン教団の本山でもあるイエナバッハへ向かわせ、アジーは独り残ると、大陸南側を占める魔の陣営の統率を図った。
魔王を辞退したオーマの代わりに、勇者一行を追う為だけに舌先三寸で不死王を騙し、不死竜を拝借した獅子ことレオンを魔王(実際は不死王を説得することにより、円環大陸南側の統率を一任した)に仕立て上げ、バンヘーゼンの住人達を先駆者とし、各々の種族へ事の次第を伝達させた。
救われた世界には幾つかの奇跡が起きていた。
先ず以て、真っ赤に枯れ果てていたトロイメライが、バンヘーゼンの住人達が想い馳せる故郷としての風景を取り戻したのである。
一枚岩の周囲には碧々とした草木が茂り、蛇行した河川が流れ、その地に住まう魔族の「今」が蘇っていたのだ。
夢心地の終わりを告げる色彩の充溢。
次点として、円環大陸の外端を囲う東側の崖海より、地平線に起伏した未知なる大陸の姿が観測された点が挙げられる。
現在、種族問わず円環大陸に住まう者達から協力者を募り、まだ見ぬ果てを目指すべく「飛空挺」の開発を進めている。
アジーもまた、老練の知識を生かすべく開発に携わる手筈となっていた。
そして……。
「忙しそうだな、アジー」
「まぁ、往々にして凱切じゃな」
アジーの魔力を事前に察知していたのか、コレンツィヒの外れで彼を出迎えてくれたのは、剣の代わりとしてロール状に包んだ牧草を担ぐイクサ・イシュノルアであった。
そして、彼の立つ位置は、偶然にも、過去にアジーとイクフェスが最後の言葉を交わしあった場所と寸分の違いもなかった。
イクサに導かれるようにして、アジーは彼の住処を訪ねていく。
こじんまりとした円錐型の建物を左右に連結させて組み立てられた住居。 その中央部に通されたアジーは、部屋の真ん中に据えられた木造りの卓を囲う椅子の一つに腰を預けた。対座し、朗らかに微笑むイクサの背後には、彼の母親の姿があり、その隣には
「アジー様。お元気そうで、よかったです!!」
咲き誇る聖蓮の如き満面の笑みを浮かべるウルメ・メイヒェンの姿があった。
「長旅で喉が渇いたと思います。これ、蜜酒でひゃっ!!」
「ウルっ!? 大丈夫か!?」
薄い樽の蓋のような盆に鈍色の杯を載せて、一歩踏み出した瞬間、派手に躓いて床に蜜酒を撒かすウル。
「母さん、なにか拭くものを」
「はいはい」
「ご、ごめんなさいです」
「大丈夫だ。それよりも怪我はないか?」
あたふたと狼狽するウル、そんな彼女を支えながら優しい声音を向けるイクサ。
なんともまぁ、微笑ましい光景じゃのう。アジーは口を噤んだまま、彼等の先祖であるイクフェスの幻へ呼び掛ける。
イクフェスよ。お主の掴みたかった平和が、お主の守りたかった未来が、たしかにわしの目の前にあるぞ。
「二人とも、これを見るんじゃ」
アジーは三つ目の奇跡。小さくて、でも、かつての仲間達との繋がりを証明するこの世界にたった一つの奇跡を懐から取り出すと、卓上に置いた。
「アジー、これは?」
「すりーでぃーえすじゃ」
それは彼が絵本紡希から譲り受けた異世界の技術の産物。
「す、すりー、でぃー、なんです?」
「すりーでぃーえすじゃ」
目を瞬かせつつ、アジーの一字一句を反芻する二人。
「よくわからないが、見たことない形をしているな」
「これ、見たこと、あるかもです」
異世界の俯瞰経験があるウルには、どうやら思い当たる節があるらしい。
「これはな、あ奴らが残した発現器じゃ。なんとな」
アジーのお披露目を遮る形で、すりーでぃーえすが勝手に鳴り始める。
「やっほー、聞こえるかい?」
「オーマ!?」
異世界へ旅立った筈のオーマの声が聞こえ、驚愕の表情をみせるイクサとウル、そんな二人へ、アジーは得意げになってふふんと鼻を鳴らす。
「これはじゃな」だがしかし、再びアジーの活躍する場は、すりーでぃーえすに奪われてしまう。
「あ、あー、てすてす。マイクのテスト中ー」
「おい紡希、そういうのいいから!! おー、すげぇ。本当に映ってる」
「私も、私も」
小さなすりーでぃーえすをまじまじと見つめながら、ウルが呟く。
「皆さんがこの中にいるです」
「その声はウルちゃん!! 僕だよ、君の王子様のオー、ばふぅ」
「イクサ、見てください。エリィさんです!!」
「お二人とも元気そうでなによりです」
画面の枠外へ殴り飛ばされたオーマ・ローゼの代わりに、エリィ・ブルーメが映り込む。
「世界間を繋ぐ媒体か。だが、シスが話していた時流の差はどうなっているんだ?」
「精神と時の部屋の技術を応用しました」
絵本紡希の声が答える。
「なるほどな……まるで意味がわからない」
真剣な面持ちで思い悩むイクサへ、アジーが笑い掛ける。
「奇跡じゃからな。考えるだけ無駄じゃろうて」
「そういうものか」
「そういうものです」
「あらまぁ、小人さんですか?」
イクサの母も興味深そうにすりーでぃーえすを覗いている。
「もしかしてイクサのお母さんですか?」
遠野真が嫌らしい笑みを作っていた。
イクサを嫌な予感が襲う。
「えぇ、そうですよ。あら、この子……」
「そちらのお子さん、ロリコ」
イクサは二周目である己の実力を最大限引き出して、刹那の間にすりーでぃーえすを閉じ伏せた。
「ロリコ……?」
自覚なきウルが不思議そうに、遠野真の言葉を繰り返し唱えていた。
ふと、アジーの視線がイクサの母の指元に釘付けとなる。
「そ、その指輪は……なぜっ」
「指輪ですか?」
彼女の細い指の根に嵌っている翡翠の指輪。
「それは、イクサ。お主が……」
先を口に出す事が憚られたアジーは、言尻を濁した。
「あぁ、どうやら……律儀にも、返しに来たらしいな」
それは、ラムスプリンガを奪われた異世界人一行が元の世界へ戻る為にと、イクサが手渡した媒体。ルーテン教団地下の霊安室に眠るイクフェスの遺骨に供えられていた檜森修佐の翡翠の指輪だった。
「イシュノルアに代々継がれてきたものなんですよ」
イクサの母の何気ない一言が、アジーの胸中に燻ぶる疑問に解答を示していた。
私は、ぽつんと突出した小岩へ腰掛けて、子牛と戯れる子供達を見守っていた。
ふいに、広々とした牧草地の先に一つの人影を見つける。
目を凝らすと、この辺りでは見掛けない珍しい格好をした少年だった。
両肩に白毛の小鳥を乗せている。鳥達はじっと羽を閉じたまま少年の歩が伴う上下の揺れに身を任せていた。
少年の足取りは真っ直ぐこちらを向いており、近付くにつれて容貌が浮き彫りとなっていく。
魔物や狩猟などとは縁の無さそうな小奇麗な顔立ちをした少年だった。身を包む衣服も整っており、この地にそぐわない印象だ。
昔、イクフェスが私に対して似たような印象を受けていたと話してくれたのをなんとなく思い出した。
少年は、私と数歩離れた位置で立ち止まると微かに目を瞠った。
「あの、なにか?」
「あっ……いえ」歯切れ悪く黙りこむ少年。
浅く吹き抜ける風に反して、居心地の悪い沈黙が滞る。
「その、俺、イクフェス・イシュノルアを探しているんです。ご存知ないですか?」
イクフェス・イシュノルア。その名を耳にして、私はつい笑みをこぼしてしまう。幸せの笑みをだ。
「えぇ、よく存じていますよ。イクフェスは私の夫ですので」
「……そうでしたか」
彼の肩で大人しくしていた鳥達が、突然、ばささっと音を立てて飛び立ってしまう。
「あ、よいのですか?」
「えぇ。あいつらなりに空気を読んだんでしょう」
空気を読む? その一言の意味するところが分らず、首を傾げてしまう。
「生憎、イクフェスはいま狩りに出払っていまして……」
「では、これを彼に渡して貰えませんか。ずっと……借りていたんです」
少年はそう言って、胸元のポケットから翡翠の指輪を取り出した。
「イクフェスが、このような指輪を?」
見憶えの無い指輪だった。でも、イクフェスと知り合ったのは、既にお互いが大人になってからである。私の知り及ばない過去が彼にあっても不自然ではなかった。
「……かなり昔の事ですから」
「あの、イクフェスでしたら、夕刻には戻ると思いますが、よろしければお待ちになりますか?」
「いえ、先を急ぐので、貴女の手で渡していただけますか?」
「わかりました。必ずお渡しします。あの、お名前をお伺いしても?」
「……」
少年は押し黙ってしまう。幼さの残る瞳がぱちくりと瞬きの回数を早めていくのが見て取れた。
「きっと、イクフェスは俺の事を覚えていませんので、ただ、指輪だけ渡して貰えば……」
「わかりました」
追及を躊躇させる、消え入りそうな語勢だった。
幾拍かの時間、私と少年は見つめ合っていた。
なにかが似ていると感じて、その正体がもうちょっとで掴めそうだと思った矢先。
少年は「それでは」と言い残して、私に背を向けてしまった。
「よろしければ、また来てください。イクフェスもきっと喜びます」
私の一言に少年は足を止め、しばらくの間、再び時間を停滞させた。
少年のか細い肩が小さく震えてるような気がした。
「はい。必ず……また」
振り返ることなく小声で返し、そのまま遠く離れていく少年。
二羽の小鳥が彼の肩に舞い戻っていくのが見えた。
少年の後姿をちらちらと気にしつつ、私の元へ駆け寄ってくる子供達。
「まーま、あのひとだれー?」
「んー、ぱーぱのお友達なんだってー」
「ぱーぱのともだちー」
「ともだちーばいばいー」
「ばいばーい」
交互に声を上げて、少年へ無邪気に手を振る子供達。
私は、子供達の小さな頭の先に映る少年の背中が、地平線と融け合うまで、いつまでも眺めていた。




