嫌味な空と隣のあの子
彼女は病気と一緒に生まれて、施設から出たこともなく窓ひとつない部屋のなかに閉じ込められて育った。
彼女はすぐ隣の部屋にいるのに、彼女に触れるどころか顔も見たこともない。彼女の存在を感じられるのは、壁を隔て聞こえる声だけ。
最初はただの同情だった。何もない密室で、誰とも会話すらできずに生きていくのはつらいだろうから、そう思って隣の部屋から壁越しに彼女に話しかけた。
「こんにちわ!」
壁に向かって大きく叫んだ。狭い部屋の中が小さく震える。
返事は返ってこない。聞こえなかったのか、それとも彼女は言葉すら知らないのだろうか。
とりあえずもう一度叫ぼうと息を大きく吸い
「「こんにちわ!」」
部屋に響いた声は元気な少女の声と僕の声が重なっていて、さっきよりもおおきく部屋を震わせた。
こんなに元気な返事が返ってくるとは思ってなくて、あっけにとられて黙っているとまた元気でかわいらしい声が聞こえてきた。
「ねぇ、だれ?」
少しぎこちないと言うか、まるで言葉を覚えたてのようなしゃべり方だ。やっぱり、密室に閉じ込められてほとんど誰とも会話する機会なんてなく、会話に不慣れなのだろう。
最初のころは毎日のように親が来ていたらしいけど、いつの間にか彼女の親はここに来ることはなくなっていた。
「ああ、僕はハル。えーっと……君と友達になりたいんだ」
「友達?……友達ってその、一緒に遊んだりする、そういうの?」
なんて彼女は不思議な事を問いかけてきた。しかしそれも無理はないのかもしれない。
密室の中、誰とも接せずに生きてきた彼女にとって、友達という言葉は現実味がないのだろう。
「うん、そうさ。」
「でも……私、部屋から出られないよ?……どうやって、するの?」
「こうやっておしゃべりするだけでも友達だよ。それとも、僕とお喋りするのは暇かな?」
「そんなことない、けど……」
「じゃあ決まりだね。今日は僕も時間があるから、一緒におしゃべりしようよ。」
少し強引に、僕は彼女をおしゃべりに誘った。
正直、何を話すなんて何も考えてなかったのだけど、彼女は何を話しても楽しそうに相槌を入れてくれた。それがうれしくて僕の口はどんどん回る。
ただ、それは同時に悲しいことでもある。彼女は何を話しても楽しそうに聞いてくれる。それはすなわち彼女があまり人と話したことが無いことを、彼女が孤独であったことを示している。そのことに少し胸を痛めながらも、それを悟られないように出来るだけ明るく話した。
僕は人と話すのは得意ではないのに、彼女と話しているとどんどん会話が弾む。だから時間はあっという間に過ぎていく。
気がつけば僕の部屋の窓からは雲ひとつ無い空に綺麗な三日月が浮かんでいた。彼女はこの月を見れないのかと思うと、なんて嫌味な空だと思ってしまう。
明日もまた一緒に話そうと、それだけ約束して僕は部屋の布団に包まった。
事故を起こし、僕の足が動かなくなって約一月、もともと友達は少なかったし親も僕には無関心、見舞いになんて誰も来ない。
しかも田舎の小さなこの病院の患者は僕と彼女だけ。彼女に話しかけたのは彼女を思ってじゃなくて、結局自分が寂しかっただけだろうか。そう考えると自分がいやになる。
考えるのも嫌になって、枕で頭を抑えて今日は眠った。
「おはよう。気分はどうかな」
僕を夢の世界から連れ戻したのは、目覚まし時計の音でなく、男の声だった。
首を起こして声のほうを見てみれば、そこには白衣を着て、顔に深いしわを刻んだ男性が居た。この病院の先生だ。
「こんな時間に起きたんですから……良い分けないですよ」
眠気が抜けきらず、あくび交じりの声で僕はそう言った。
薄明るい僕の部屋の時計は四時をさしている。僕が普段起きるのは七時なのに、こんな時間に起こされて気分がいいはずもない。
「まあそういわないでくれ。少し話があるんだ」
「話って……なんですか」
「単刀直入に言うと、隣の部屋の彼女とあまり仲良くしないほうがいい」
「は?……」
「彼女がどんな病気で、なんであんな部屋に閉じ込められないといけないか、君は知っているか?」
それから僕は彼女の病気について聞いた。
彼女の病気は寄生虫のように体内に潜行し、ある日突然発作を起こし、その後宿主を殺し毒を撒き散らすそうだ。
原因は不明。わかっていることはこの病気の患者は右手の甲に特徴的な十字のあざがあるということだけ。
そして彼女は生まれたときすでに十字のあざを持っていた。今の医療じゃ出来ることといえば毒を外に出さないように患者を密室に隔離することしかない。
「……で、それがなんで彼女と仲良くしちゃいけないことになるんですか」
「あの病気に感染してから十年以上生きることはめったにない。そして彼女は11歳。……いつ死んでもおかしくないんだ」
「………………」
「私が伝えたかったのはそれだけだ。」
「仲良くするな、と言ったのは取り消そう。ただ……つらいぞ」
先生は去り際に、どこか悲しそうにそう言った。
その言葉が頭から離れなくて、気になって気になって仕方なくて、二度寝しようと思っていたのに眠れなかった。
「おはよー!」
「ああ……おはよ」
あれから三時間ほどたって、隣の部屋から彼女の声が響いてきた。あまり眠れていないから、返事には元気がなくなってしまったけれど。
「元気、ないね。だいじょーぶ?」
「うん。寝起きなだけだよ。」
「よかった。そうだ、今日は夢を見たの!」
「へぇ、どんな夢?」
こうして今日も約束どおり他愛のない会話が始まった。
「あのね、ぞうさんが空を飛んでてね、私はそれにのって―――」
彼女の語る夢はまるで絵本の世界をごった煮にしたような、不思議なものだった。夢なのだから当たり前なのかもしれないけど。
絵本は好き?ときいてみたが、言った後にこれはひどい質問じゃないかと気づいた。密室にいる彼女が絵本なんて読めるはずないじゃないか。
悪いことを言ったなぁ……と思っていると、
「……うん、好きだよ!お母さんが毎日読んでくれたのー!」
予想外に元気な返事が聞こえてきた。
そして彼女は今まで読んで来た本について語る。でもその声は寂しげだ。ところどころにはさまれる「また聞きたいなぁ」という声は聞いていて切なくなるほど。こんな子供にとって親と会えないと僕の想像以上に悲しいことだろう。
そう思うと、彼女は実に強い子だ。僕との会話で、なるべく寂しさとかを出さないようにしているのだから。
昨日から、彼女の声はおかしいぐらい元気だった。僕と会話できてうれしいから元気になってる、って考えるとうれしいけど、きっと無理して元気を出しているんだろう。
「ねぇ、聞いてるの?」
「う、うん。聞いてるよ!」
考え事にふけっていて相槌を忘れてしまっていた。……また悪いことをしたな。
いつの間にか話題は変わっていて、彼女は起きて見る方の夢について語っていた。
「白くて、ふわふわで、冷たいのが、空から降ってくるらしいの!
私ね、病気が治ったらお母さんと見に行くの!」
彼女がいっているのは雪のことだろう。
でも、きっとそれは叶わない。君は死ぬまでここから出られないんだよ。今の医学じゃ君の病気は治せないらしいし、毒を撒き散らす爆弾を誰が外に出そうと思うだろうか。
お母さんも、きっと君とはもう会ってくれない。会う気があるなら、今でも本を読みにきてくれるはずだ。
怒りとか、悲しみとか、いろんな感情が涙となって溢れて来る。
「綺麗だろうね。治ったら、絶対見に行こうね!」
しかし、口から出るのは涙交じりの気休めだった。
先生の言っていたことがやっとわかった。辛い、悔しい、悔しくてたまらない。
彼女が何をしたんだ。純粋で可愛らしい、ただの子供じゃないか。
「……泣いてる?」
「これは、その、病気なんだ。突然涙が止まらなくなる病気なんだ。」
「大変……早く治ったらいいね!」
僕は自分の涙声にこんな言い訳をした。僕の涙で、彼女まで悲しい気持ちになるのはいやだから。
でも、自分より僕を心配してくれる彼女にまた涙が溢れそうになる。僕はそれを必死にこらえて、なんとか涙を声に出さないようにする。
それからまた夜まで、僕らはずっとしゃべり続けた。僕のくだらない経験談でも彼女は楽しそうに聞いてくれるから、なかなか会話の種は尽きない。
彼女と話すと胸が締め付けられるけど、少しでも僕の話を楽しんでくれるならなんともない。僕の話が彼女の人生を少しでも楽しいものに出来るなら、僕はどんなことだってする。僕はそう誓った。
彼女が僕に雪を見たいと語ってから、一週間がたった。今までのつまらない病院生活からは考えられないぐらい楽しい一週間だった。
僕が起きるのも彼女が起きるのも七時。あれからは二人で起きたら、彼女が眠いというまで話し込むのが日課になっている。
彼女と話すのは少し切なくとも、やっぱり楽しい。しかもだんだんと僕の足の調子がよくなりつつもある。
ただなぜか、今日は一時間早く起きてしまった。彼女と話すのが楽しみすぎてこんな時間に起きてしまったのだろうか。
夜と朝の混じった光が僕の部屋を蒼く照らす。ふと見上げた窓からは、白くてふわふわで冷たいらしい、雪が降っているのに気づいた。
なんて嫌味な空だろう。なんてひどい空だろう。彼女はこれを見れないのに、それを知ってか雪が降っている。
僕はこれを見てもうれしくともなんともない。むしろ嫌味な空に怒りが沸いてくるだけ。
やるせない気持ちを抱えたまま、彼女の目覚めを待つ。今日はどんなことを話そうか、彼女は喜んでくれるかな、なんて遠足前の子供みたいに考えて時計を眺める。
時計の針が八時を過ぎるが、それでもいつものおはようの声が聞こえてこない。ついには九時になった。たまたま寝坊してるだけだとは思うけれど、少し不安だ。
部屋の壁に耳を当てる。するとかすかに荒い息が聞こえてきた。寝息にしては荒すぎる……まさか!
考えるより先に体が動いていた。まだ完治していない足はたっているだけで激痛が走るが、それを気にする暇はない。
泣きそうになっても、必死で前へ進んでいく。やっとの思いで扉の目の前までたどり着いたとき、突然扉が向こうから開かれた。
「まったく……無茶をするものだ」
「先生!?」
「君の予想通り……発作が始まった」
先生のその言葉を聴いて、現実を突きつけられて、頭が真っ白になった。
怒り、悲しみ、悔しさ、いろんな感情が溢れて混ざってぐちゃぐちゃになる。つめが手のひらに刺さって痛みを生むほど、強く拳を握ってしまう。
「なんで……なんであの子が!!!」
無意識のうちに僕は叫んでいた
「あの子が何をしたって言うんだよ……なんであの子が!一人で、ずっと一人で閉じ込められてなきゃいけないんだ!
本当は辛いはずなのに、彼女はそれでも今を楽しもうとして、無理やり元気を出して頑張ってるのに……
そんな彼女が、何で報われないんだよ!」
うつむいたまま、先生は何も言わない。ただひとつ、固く握られた僕の拳を開いてあるものを僕にこれを握らせた。
「これは……」
「彼女の部屋の鍵さ」
「でも、彼女を外に出したら……」
「雪、降っているだろう。彼女は私にも語ってくれたんだ。雪が見たいって」
冷静になって先生の顔を見ると、目の下が少しぬれていた。
「こんな気持ちは二度としないって思って、医者になって、何十年も研究してたんだがなぁ……
人が死ぬのは、何回見ても辛いなぁ……」
震える先生の声からは、痛いほどに先生の気持ちが伝わってくる。
そうだ、辛いのは僕だけじゃない。先生だって、僕と同じぐらい悔しいんだ。
先生は僕に背を向けて、ゆっくりと歩き始めた。見えたのはしわくちゃの白衣の背、それが僕に行けと訴える。
「ありがとうございます!」
もう足の痛みなんてなんともない。彼女はこんな痛みより何倍も辛い思いしているはずだから。
彼女の部屋まではすぐ隣、十秒もかからない。
背を向けた後、白衣の男は一人こんなことを呟いていた
「彼を行かせたのは悪いことかな……姉さん」
真っ白な壁の中心に、厳重に閉じられた鉄の扉がある。これが今まで彼女を閉じ込めていた扉だ。
これを閉じる南京錠二つをあけて、バタンッ!と大きな音を立てて扉を開けた。
「ハル……なの?……
えへへ……ごめんね……おしゃべり、できないみたい……」
彼女の声が、ベッドの中から聞こえた。彼女はもはや体を少し動かすことも難しいようだ。
それでも僕が彼女の顔を僕がのぞくと、やっぱり無理にでも彼女は僕に笑いかける。
「ハル……やっぱり……やさしそうな顔、してたんだ……
私、ダメ……なんだ……でも……うれしい、な……」
「雪が降ってるんだ」
「え?……」
「白くて、ふわふわで、つめたいのだよ。見せてあげるからね!……」
彼女が動けなくても、僕は動ける。ベッドに横たわる彼女をお姫様を抱くように優しく抱き上げる。
持ち上げた彼女の体はまるでもろい人形のようで、今にも壊れそうで、肌も真っ白だった。
ただ、彼女の顔はいつも聞いたあの声のように可愛らしく、愛おしい。
「君もやっぱり、かわいい顔をしてたんだね……」
照れくさくて声は小さくなっちゃったけど、その声は彼女に確かに届いた。彼女が小さく微笑んだ。
無理した笑顔じゃなくて、自然な笑顔だ。僕は彼女に微笑みを返して、走り出す。
部屋を出て、さらに走って病院を出る。雪がつもり、外は真っ白の世界になっていた。
積もった雪と降りしきる雪が日に照らされて輝き、葉を落とした木々は代わりに白い帽子を被る。悔しいけど、景色は写真や絵本なんかでみるより何倍も綺麗だった。
「これが……すごく、きれい……」
僕の腕の中で、彼女は目を輝かせていた。
その目は今にも死にそうな病気の少女とは思えない、明るく元気で同年代の少女となんら変わりないものだ。
でもそれとは反対に、彼女の命のともし火がどんどん小さくなっていくのがわかる。
もともと蝋燭のようにかすかだった命の火は、いまや消えてはついてを繰り返しているみたいで、今すぐにでも消えてしまいそうだ。
「泣いてる……の?……」
「え?……ああ、ごめんね。」
気が付くと、目の下で涙が凍り付いていた。
それを彼女が細い手を伸ばして、ふき取って
「病気……早く治るといいね……」
自分が死にそうなのに、僕より何倍も君のほうが辛いはずなのに、なんで君は……
涙が止まらない。でも僕は彼女に治ったと言ったんだ。だからもう、泣けない。
自分の頬を軽くたたいて無理やりに涙をとめる。
「もう大丈夫、もう治ったから!」
「よかった……」
それを聞くと、彼女はもう思い残すことはないと、そんな風な顔になった。
待ってくれ、まだそんな顔をしないでくれ。まだ僕は君と別れたくない!
「綺麗だな……これ。白くて、ふわふわしてて……」
彼女は手を僕の背中に回して、僕の胸に顔をうずめてぎゅっと僕を抱きしめた。
腕にはほとんど力は込められてなかったけど、それでも僕と彼女をつなぐには十分だった。
暖かい……僕の人生の中で、一番彼女が暖かくて、やさしい。でもその彼女はもう、僕の腕の中で消えそうになっている。
でも僕に出来ることといえば、力いっぱい抱きしめて彼女にぬくもりを分けてやるだけ。
「暖かい……」
僕の腕の中で、彼女は小さくつぶやいた。その表情はとても幸せそうだった。一生分の幸せを得たような、そんな表情だった。
でも反対に、僕の表情は酷いものだっただろう。泣き続けるうちに、すこしづつ意識が雪に奪われていく。冷たいはずなのに、雪はなぜか暖かった。