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エピローグ

 月明かりに濡れた簀子縁で、藤原保昌(ふじわらのやすまさ)は一人、酒を呑んでいる。暗い陰の落ちた顔は、月を愛でているようにも、ただぼんやりしているようにも見える。

「叔父さん」

 源頼親みなもとのよりちかは馬上から彼を呼ぶ。保昌の目は、ようやく甥に向けられる。

頼信(よりのぶ)のやろうを追いかけてたら、遅くなっちまった。怪我さえしてなけりゃ、とっ捕まえてやったのに」

「怪我をしているなら、大人しくしてたほうがいいんじゃないのか」

 冷静な叔父の言葉は無視し、頼親は馬から降りる。ずきりと痛む傷に舌打ちすると、馬が怯えたように身じろぎした。

「一人で呑んでんのか? 兄貴の家で宴をやるっていってたけど」

 頼親はそれとなく屋敷の様子を窺いつつ、保昌の傍へ寄る。

「ああ」

 保昌は酒の残った杯に目を落とし、脇へ置いてゆったりと腕を組む。

「一人で呑みたかったんだ」

ふいに吹いた夜風が、保昌の後ろの御簾を虚しく揺らした。その奥に人の温もりは感じられない。

「……保輔(やすすけ)は? 寝てるのか?」

 さわさわと肌を撫でる風は、春の気を濃く含んでいる。悪い予感が嘘のようだ。夜に紛れた花の香がする。

「赤毛の子鬼のところへ行った」

 保昌は、穏やかな夜に嘆息するように告げる。頼親をとらえた暗い瞳がふいと揺らぎ、困ったような笑みが浮かぶ。

「何も、連れさらわれたわけじゃないぞ」

 動揺が顔に出たかと、頼親は慌てて目を逸らす。

「保輔の意思だ。『ちゃんと帰ってくるからさ、心配すんなよ』だと」

 保昌は再び杯を手に取り、底に溜まった酒に目をやる。口元には微笑が漂い、表情は穏やかだ。

 そんなの本当かどうか――。頼親は出かかった言葉を呑みこんで、かわりに浅い息を吐く。

「そうか。それなら大丈夫だな」

 保昌は、ああと頷き、ほんの少し杯に口をつける。頼親はその動作を、今更、不思議な気持ちで眺めている。彼が手にしているのが、笛ではないからだ。

「お前は宴に行かないのか」

「さすがにこれ以上動くのは、な。叔父さんの家で休もうと思って」

 本当は、兄の家まで行くくらい何でもなかったが、頼親はとっさにそう言ってしまう。ここに寄ったのは、なんとなくだ。保輔の様子を見たかったのかもしれない。保昌が一人でいるような気がしたのかもしれない。

「なら、少し付き合え」

 保昌は屋敷の中で控えていた下人に、酒と杯の用意を命じる。

「……一人で呑みたいんじゃなかったのかよ」

 杯を干す保昌を横目に、頼親は彼の隣に腰掛ける。月がぽっかりと照らす場所だった。

 保昌は空になった杯に、瓶子を傾ける。清水のような酒がとろとろと落ちていく。水の線がぽたりと雫になったとき、瓶子を置き、彼は頼親に目を向ける。

「やっぱり笛と違って酒は寂しい」

 微かに浮かべた笑みに、ようやくぽつりと孤独な色が滲む。頼親はほんの少し、微風くらいの衝撃と共に、どこか安堵を覚える。

「仕方ねぇな」

 下人が酒と杯をもってくる。頼親は手酌で、一口呑み、杯を下げる。

「叔父さん、一人くらい友達作るか、そろそろ結婚しろよ」

「……鬼退治の褒美、といっていいのか分からないが……いいひとを紹介してやると言われた」

 保昌は躊躇いがちに口を開き、俯きかげんにぼそぼそと呟く。

「まじかよ。良かったじゃねぇか。どこの誰だ? どうすんの」

「断るわけにはいかないが……」

 紹介者は、保昌や頼親、頼光(らいこう)の上司にあたる時の権力者だ。その女は、彼の娘の女房だという。

 話の続きを待つ頼親を置いて、保昌は庭に目をやりながら酒を口に含む。

「なあ、叔父さん――」

「この話はまた今度だ」

 保昌は空になった杯を頼親につきだす。頼親は不満げに保昌を睨んでいたが、しばらくして、その杯にしぶしぶと酒を注ぐ。

「もうそのへんにしとけよ。叔父さんは酔うと面倒だからな」

 頼親はふわりと欠伸をして、円柱にもたれかかる。瞼を下ろすと、衣擦れの音、少しの静寂をはさみ、笛の音がゆるりゆるりと耳朶をうつ。

 月の綺麗な夜だ。辺りはしんとし、笛の音だけが夜気に溶けていく。


          *


 大江山。

 土蜘蛛の巣穴に、彼らがいなくなってから何度目か分からない朝日が差し込む。山の葉を通った瑞々しい光は、乾いた洞穴を柔らかく照らしだす。

 そのまばゆさに、子鬼は赤い目を開く。また朝が来たと目をこすり、のろのろと起き上がる。

 朝が静かなのは、知らないところに一人でいるような気分になる。住み慣れた洞穴なのに誰もいないとこんなものかと、鬼同丸(きどうまる)はしばらくぼんやりと考えてしまう。

 それから、やはり誰の姿もない茂みを掻き分け、川へ行く。澄んだせせらぎを無視して、ばしゃばしゃと顔を洗う。

 髪まで濡らして、一息つき、水に映った赤い瞳を瞬く。

 鬼の里では暮らさないことにした。何故かと問われると、口ごもってしまう。角も、赤い髪も目も気にしなくていいというのは、ずいぶん変な感じだった。穏やかで落ち着いて、ふっと眠りに落ちて、この夢が覚めてしまうのではないかと思う。

 ――臆病なんだな、結局。

『居場所が分かっているならいい』

 兄は無愛想に酒を呑んでいるだけだ。お前も呑めと強いられ、言い争いをしたあとだった。

『土蜘蛛の巣穴なら近いしな。酒に付き合うなら、会いにいってやる』

『来てくれなくていいけど。……兄さん、前は酒なんか一滴も呑まなかったよな』

 顔色一つ変えずに杯を空ける兄に呆れながら、鬼同丸はもやもやしたものを感じる。そうだ、外道丸げどうまるは酒を呑まなかった。それなのに、酒を呑む酒呑童子しゅてんどうじを見たとき、違和感は覚えなかった。

 酒呑は少しの間を置いて、不機嫌極まりない声で呟く。

『父上のせいだ』

 ぐいと杯を傾ける兄が、父の姿と重なる。鬼同丸は、脳裏をよぎる記憶に息を呑む。これまで父のことなど、ちらとも考えなかった。たまにしか家に戻らず、いつも泥酔していた父に血のつながりを感じたことはない。それは、容姿こそ似ていても、兄との間にもだ。

 それなのに、今は、兄の中に父の息吹が感じられる。

『あの人は鬼だった。赤毛のな』

 吐き捨て、酒呑は鬼同丸に目を滑らせる。長い睫が影を落とす妖艶な瞳は、赤になっても変わらない。

『……それなら、やっぱり親子なんだよな。俺だけ酒が嫌いっていうのも……少し、呑んでみようかな』

 今、酒呑が呑んでいるのは血酒ではなく、普通の酒だ。鬼同丸は目を上げて、兄の手にしている杯を見やる。

『また倒れるなよ』

 どこか嬉しげな兄にむっとして、鬼同丸は無言で杯を受け取る。ほんの少量だ。濁りのあるその液体をじっと見つめ、覚悟を決めて口をつける。

 兄のように一気にいこうとしたが、口内を満ちる独特の味にむせかえってしまう。

『……やっぱり不味い。兄さんたちがおかしい』

 呼吸を整えて杯を突き返す鬼同丸に、酒呑が珍しく声を上げて笑う。

『お前が父上から受け継いだのは、鬼の姿だけらしい』

『中身は人間ってことかよ』

 鬼同丸の胸に不快なものが込み上げる。鬼だ鬼だと騒いだ村の少年が、ふと鮮やかに浮かんだ。

『俺や、ここの連中よりは余程な。ここにいたくないんだろ? 鬼にとっては居心地のいい場所だが、お前は、ほんとに大江山の麓あたりが丁度なのかもな』

 酒呑は笑みを残したまま、鬼同丸の頭に手を伸ばす。

 兄は穏やかになった。少しだが、そのように感じる。鬼同丸の兄、外道丸よりも、鬼の大将酒呑童子のほうが彼らしいのかもしれない。

『酒が呑めなくても、会いにいってやる。もう、いなくなってくれるなよ』

 そっと囁かれた言葉の素直さに、鬼同丸は、まじまじと兄を見上げる。何だ、と首を傾ける兄に、いや、と視線を外す。

 何となく、今更、分かった気がする。兄は、鬼らしくもない鬼の弟が好きなのだ。


 ――父上は鬼だった、か。

 鬼同丸は川に映った赤い目を見つめ、兄の話を思い出す。伊吹弥三郎(いぶきやさぶろう)。父というより、そういう名前の男だ。

 どうして、今ごろ気にかかるのだろう。鬼同丸はもう一度、水をすくい、顔にかける。もう二度と、会わないかもしれないのに。

 ――もう二度と……。

 その言葉だけが、ちくりとひっかかり心に残る。もう二度と、戻らないのは袴垂はかまだれだ。

 保昌のところで、貴族として暮していればいい。その姿を一目、確認できればいい。そう思うのに、足は都に向かない。

 ――本当はちゃんと謝って、お別れしないといけないんだけどな。

 濡れた髪を振って、鬼同丸は苦笑を漏らす。臆病、というのがここにも当てはまった。

 贅沢で自分勝手な悩みだと大袈裟にため息をつき、水を蹴飛ばす。よく晴れている。飛沫が空に映える。

 その水の向こうの茂みが揺れる。風のように自然で、山は穏やかさを保ったままだ。異物であるはずの、都の少年を当たり前のように受け入れている。

 ぱっと輝いた、彼の純粋な笑顔を、鬼同丸は信じられない気持ちで見ていた。



                                 ――となん、語り伝えたるとや。


ここまで読んでくださったかた、ありがとうございます。

終わりです!

保昌が紹介された人というのは、和泉式部です。後々、結婚します。「その話はまた今度」ということで、いつか番外編か何かで書きたいとは思ってるのですが……。それとは別にひとつ、載せたい番外編があるので、次回、それを載せて、完結済みとしますね。鬼同丸と外道丸と弥三郎、過去の話です。


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