信仰
「綱……?」
頼光は人の気配に目を開き、その姿を見る前に名前を呼んでいる。自分でも、よく分からぬままだ。
どのくらい眠っただろうか。室内には灯りがともされており、日は遠に落ちたようである。
「も、申し訳ありません。お起こしするつもりはなかったのですが……」
母屋へ入ってきた綱は、頼光の傍らに正座し、頭を下げる。その動きに合わせて揺れる黒髪は、何となく懐かしい感じがする。頼光は上体を起こし、着物が着替えられているのに気づく。参内したままの恰好で倒れ込んだのだが、きちんと寝かされていた。
「なんか、すごくよく寝てたみたいだな。全然、記憶にない」
「お疲れは当然です」
綱は少し微笑んだまま、目を伏せる。黙したままの彼女に、頼光は小首をかしげる。
「何か用があったんじゃないのか」
「あ、いえ……頼光様がお目覚めになったら、宴を開こうと皆で話していまして、俺はご様子を窺いに」
「そっか。そういえば、飯もまだだったな」
酒も飯も欲しいとは思わなかったが、頼光は着物を正し、行く素振りを見せる。
「頼光様」
立ち上がるその前に、綱の柔らかな声が室内に落ちる。呼び止めるには意志のない、満ちた音だったが、頼光はふと動作を止める。綱は膝の上の、自分の拳に視線を落としたまま、はにかんで言う。
「なんか、嬉しいものですね。こうして元通りこの部屋に……えっと、頼光様がいることが」
囁くように言いきった綱の頬が、俯いていてもそれと分かるほど朱に染まる。
「そう、か?」
「ゆ、夢じゃないかって今でも少し怖いんです。目が覚めたら、ほんとは頼光様はあのときに亡くなっていて……そんな夢を見ました。ややこしいですね」
綱の視線がすっと上がる。現実の幸福を噛みしめるように、黒々とした大きな瞳が頼光を捉える。
「頼光様、俺は酒呑童子にすがって泣く茨木童子を見て、罪の意識を覚えました。勅令によって動いている我らが正義であるはずなのに、悪いことをしたと……いや、茨木にとって酒呑童子は、俺にとっての頼光様と同じこと。それを思うと平気ではいられなかった」
幾分、真剣な光を宿したとはいえ、綱の瞳は穏やかだ。
頼光の胸中をざらりとしたものが這っていく。
「どうして、それを俺に言う? 悩んだり、思いつめたりしてるわけじゃないんだろう」
「随分、悩んだんですよ。でも、頼光様と共にこの屋敷に帰ってこられたら、なんだか落ち着きました。やっぱり勅令やら正義やらより、頼光様が無事でいられることが俺の一番です」
柔らかく見えて、覚悟の据わった眼差しだ。今ここで、頼光が太刀を抜いたとしも彼女は動じない。
頼光は自分のどこかにともった戸惑いや焦りを、煩わしく眺めながら、頭を押さえて息を吐く。
「俺に従うなら、いいんじゃないか。従う理由は言わなくていい」
その声は他人のもののように聞こえる。頼光は目を上げて、綱に笑んでみる。暗澹とした気分が煙のように、彼女の姿を霞めさせるが、一途な視線の妨げにはならなかった。
綱の眼差しは、蜘蛛切に宿った、褐色の肌の女を想起させる。
匹女だ。土蜘蛛の洞穴、大将の御笠を探す頼光の手の中で、蜘蛛切はずっと今の綱のような、理解しがたく、何ものにも妨げられない気を放っていた。
『会わせてやってくれ』
蜘蛛切に宿った女の想いを、土蜘蛛と化した青年に。
御笠との戦闘、苦しい息の下、自分のとった奇妙な行動を、頼光は今、何となく理解する。
――綱のせい、というか、おかげというか。
それが良いことなのか悪いことなのかは、考える気にもならない。ただ、失くしたことも忘れていた失せものを、ふいに見つけたときのような鼓動が感じられる。そこから生じた熱は、体温よりも少し温かで心地よい。
「綱、俺な……」
あの土蜘蛛は、お前に似ていた。今、気づいたんだけど、だから、無視できなかったんだと思う。
頼光は言いかけて、ふと口を閉ざす。
「何ですか?」
「……いや」
綱が怪訝な顔をする。頼光は先ほどの彼女の幸福を、そっくりそのまま移したような笑みを浮かべる。
「やっぱり言わないでおく。正義を疑ったことを告白した罰、な」
「俺な……実は鬼なんだ――って話じゃないですよね」
突然割って入った声に、綱は動揺をむき出しにして振り返る。
「さ、貞光! いつからそこに」
「ほんの少し前ですよ」
貞光は眉一つ動かさず柱の影から姿を現し、綱の隣に腰を下ろす。
頼光はその冷めた目を眺め、驚いた様子もなく口を開く。
「けっこう前に来てただろ」
「……。まだ、完全にお目覚めではないようですね」
「そういうことにしてやってもいいけど」
手を口元にやって笑う頼光に、貞光は変わらず無表情でいる。綱は二人を交互に見やり、その会話を理解する否や、顔を真っ赤にさせた。
「貞光、貴様、何を聞いた? 忘れろ今すぐ。できないなら、ちょっと表へでろ」
「いいですよ、と言いたいところですが、怪我が治ってからにしてもらえませんかね」
太刀に手をかけていた綱は、きょとんとして貞光を見つめる。いつもと変わらないように見えるが、そういえばと思い出すことがある。
「白髪の鬼女と戦って、割と重傷を負ってたんだな」
「小刀で少し刺された程度ですが」
貞光はさらりと言うが、綱はその傷を見ている。いや、傷が見えないほど血がこびりついていた。
「それなら、少しは痛がれ。大江山でも、今も、よく普通に歩けるな。気持ち悪い」
「痛いのは痛いですよ」
貞光の目は、すっと頼光へ向く。頼光は瞬きと共に、その視線を軽く受け止める。
「刺されて痛がるどころか、傷すら残っていないのはどういうことなんでしょうかね」
綱は思わず貞光の袖を引く。
「貞光、その話はもういいだろ。見間違いだ。そうじゃなきゃ、日頃の行いだ」
「それなら、私が怪我を負うのはおかしいですよ」
こいつ本気で言ってるのかと、綱は言葉を失う。
そのとき、近づいてくる足音と話し声が綱の耳に届く。三人の意識がそちらに逸れ、張りつめた空気が霧散する。
「季武、頼光様、まだお休みなんじゃねぇかな……」
「いや、綱が戻ってこないってことはしゃべってるんだと――」
言葉の途中で、その人は母屋へ到着する。白と赤の巫女装束で、ぱっとその場が華やいだ。
「殿~、やっぱりお目覚めだったんですね。もう待ちくたびれたっすよ」
季武のあとを、金時がその長身を縮めるようにしてついてくる。彼は貞光の姿を認めると、こそりとその後ろに腰を落とす。
「貞光もここにいたのか。やっぱり傷が痛くなって、休んでるのかと……」
「できれば宴には参加せずに、静かに休みたいんですがね」
前を向いたまま無感情に呟いた貞光の肩に、季武がぴょんと跳びつく。
「えー、ダメダメ。保昌様も、頼親様とその家来さんたちもいねぇんだから、これ以上人数減ると寂しいだろ。いくらお前でも」
「参加しなくていいですよね」
「頼親はまだ帰ってきてないのか? 叔父さんも参加しないって……」
頼光がさして不思議そうな様子もなく、季武と貞光を見やる。
「頼親様は頼信様を追って出てったきり、保昌様は自宅にいたいらしいっす」
全員の頭に浮かんだのは保昌の弟のことである。保輔が帰ってきた。保昌はそれしか告げていない。そのとき頼光は、何か問おうとしてやめた。
『良かったですね。おめでとうございます』
いつものように微笑んで、そう言っただけだ。
『保輔は、盗賊袴垂だ。たぶん、いや、間違いねぇ』
鬼退治に出発する前、頼親が放った言葉は四天王にも知れ渡っている。保昌は何も言わない。頼光も何も問わない。
今もそうだ。頼光は、何の裏もないような笑みを浮かべる。
「そうか。弟さんがいるもんなぁ」
「……そうっすねぇ」
なんとなく流れた沈黙に、綱は耐えきれなくなって立ち上がる。
「とにかく、今日は俺たちだけで宴だ! 酒だ!」
「呑む気満々だな~。ま、久しぶりだしな」
「……俺は腹が減ったな」
綱は勇み立ち、季武はのんびり、金時はそのあとについて母屋を出ていく。殿も早く、と季武が振り返る。
頼光は、ああ、と返事をし、座ったままでいる貞光を見やる。
「お前は行かないのか? そう落ち込むなよ。なんやかんやで、皆、お前がいないと寂しいんだからな。たぶん」
「別に落ち込んではいませんが」
貞光は冷めた目を頼光から離そうとしない。
「まだ質問の答えを聞いていませんので」
「質問? 何だっけ……」
頼光は伸びをして、小首をかしげる。
「私があなたに仕えるのは、同じ人でありながら、全く敵わないからですよ」
「鬼には仕えられないか」
「一度、忠誠を誓った身。今さら、お傍を離れはしませんが」
貞光の目が、すっと離れる。表情の変化に乏しい彼だが、落胆、しているのだろうか。
貞光、と頼光が呼ぶ。
「俺が鬼だったら、無事でいるのはおかしいんじゃないか」
「は」
「あの酒、神便鬼毒酒だっけ。不味かったな。まさかあんなに苦いとは思わなかったから、酒呑童子の前でひやひやした。――あいつは、美味いと言っていたけど」
神便鬼毒酒。人が呑むと薬に、鬼が呑むと毒になる酒。
頼光は確かにそれを呑んでいた。一口呑んで、美味しいですよと酒呑に差し出した。
酒呑童子には毒に、頼光には薬になったのである。
「呑んでいれば、万が一のことあっても大丈夫だとご存じで」
「まさか。そしたら、お前らにも呑ませてるよ。怪我してから呑むもんだと思ってた」
神には敵わねぇよ、と頼光は息をつく。そこには畏怖より、移ろう季節を眺めるような、親愛と諦観がうかがえる。
「さて、宴だ。これ以上、待たせられないからな」
頼光は身軽く立ち上がり、ふっと笑う。
「俺は人間だよ」
ここまで読んでくださったかた、ありがとうございます。
一応、御伽草子『酒呑童子』は神仏を信じましょうという話なので。あまり書けませんでしたが、頼光たちは、必勝祈願のために神社に行ったり、お経を奉納したりしたようです。鬼退治の途中、何回か道に迷って、神様に助けてもらってます。道に迷ってうろうろする頼光一行書きたかった(^^;
次回はエピローグで最終話です。




