帰ってくること
鬼同丸は、一瞬ぽかんとし、次にあわあわと動揺して踵を返す。
「鬼同丸」
「わわっ」
鬼同丸は後ろ襟をつかまれ、引き戻される。ぐいと向きを変えられたかと思うと、そのまま地面に引き倒された。
「痛ってぇ……。な、何すんだよ!」
「どうして逃げる」
酒呑童子は片膝をついて、じっと鬼同丸の目を覗きこんでいる。怒りはするすると萎んでいき、鬼同丸は地面の上で拳を握る。悔しくなって、目を逸らしてしまう。
目が覚めたとき、自分が呑んだのが血酒だったと知ったとき、まず考えたのは兄のことだった。
『血酒で倒れるなんて、呆れるね』
黄色の髪をした鬼が疲れたように笑っている。頬には星形のあざがあり、火の玉が周囲を飛んでいる、不思議な空気をまとった鬼だ。
『兄さんは……』
その場にいるのは、その鬼だけだった。彼は、鬼同丸の無意識にも呟かれたその声を拾って、気だるげに柱に預けていた身を起こす。
『無事なんですか。その、酒呑童子は』
自分が生きていることの奇妙、酒を渡した調伏丸、土蜘蛛のことを考えようとしても、考えなければおかしいのに、前に出てくるのは兄のことばかりだ。この不思議な鬼にすがり、問い詰めたいのを堪えるのさえ難しい。
『無事ではないけど、何とも言えないね。気になるなら、案内するよ』
彼は柔らかく笑んで、判断を鬼同丸に任せている。鬼火が視界の隅でちらつき、鬼同丸はうつむいてしまう。
『隣に寝かせても良かったんだけど、君たちの間に何があったのかよく知らないから』
『……あの人にとって俺は、うっとうしい……存在で』
俺も嫌いになろうとしたけど無理だった。言葉は声になる前に、鬼同丸の内で広がって消化される。
――そうだ、無理だったんだ。
『もし、逆だったら、俺が眠ったままでいたら、酒呑童子はどうしたでしょうか』
うつむいたまま口にした問いの答えを、自分がもう求めていないことを鬼同丸は知っている。
『このまま酒呑が目覚めないと彼の最期の言葉は、鬼同丸、だよ』
ねえ月夜、と鬼の青年は鬼火に囁く。
その色を除いて、昔と変わらぬ兄の目が鬼同丸を覗きこんでいる。あまりに懐かしい、普段と違わぬ眼差しに、悔しく、込み上げてくる自分の感情がさらに悔しく、鬼同丸は、強く拳を握る。
――やっぱり心配してたのは、俺ばっかりじゃないか。
「……俺の兄さんは人間だ。酒呑童子なんか、知らない」
小さく吐き捨ててみても、安堵は様々な感情を呑みこんで広がっていく。目を覚ました兄の姿に、抑えようのない喜びが湧き上がってくる。
――こんなに嬉しいのも、俺だけだ。
ふとすればほどけそうになる涙を堪えたとき、けっこうな力で引き寄せられた。
気が付けば、兄の腕の中にいる。
「俺がどれだけ会いたかったかも知らないで」
苦しげにさえ聞こえる兄の声に、鬼同丸の心臓は大きく脈打つ。身じろぎしてみても、その腕は緩まなかった。
「兄さん……」
「分かってるじゃないか」
背中を叩かれると、溜まっていた涙がほろりと崩れた。あとは止めようがなくて、鬼同丸は兄にしがみつく。
「何を勘違いしたのか知らないが、俺はお前を嫌ったことなんか一度もないからな」
「なんだよ……今さら……」
泣き声混じりの言葉は、それ以上続かない。
――もう何も、言わなくていい。十分だ。
鬼同丸は肩を震わせて、嗚咽を殺す。
そんな弟を抱きしめ、外道丸は安堵と愛しさに小さな笑みをこぼした。
*
土蜘蛛に襲撃されて以来、沈黙していた京の都に活気が戻ってきた。さらわれていた姫君と、源頼光一行が帰ってきたのだ。
大勢の人が見守る中、馬に乗った頼光らと、姫君を乗せた牛車が進んでいく。
桃園中納言をはじめ、姫君の親たちは体裁も構わず、行列にかけよる。物見窓からそれを見た姫君も、たまらなくなって牛車から飛び出した。
「父上様、母上様」
「ああ、これは夢か現実か。別れた娘に再び会える嬉しさよ」
あっちでも、こっちでも、親子ともども泣かないものはない。
見ていた者は、あるいはもらい泣きをし、あるいは馬上の英雄たちに感嘆の声を漏らす。
「都を襲った土蜘蛛が、大江山の鬼の正体だったんだろ? その大将を頼光様が討ったから、都の土蜘蛛が急にいなくなったんだ」
「え、そうなのか。俺は、鬼はもっと人に近い姿をしていると聞いたが」
「世に並びない陰陽師が言ってたんだから、間違いないよ」
「何にしろ、姫君が帰ってきて良かったな」
様々な噂や賛辞が飛び交う中、頼光は清らかな狩衣姿で平生通りの様子でいる。綱は誇らしげに、季武は観衆に愛想良く、貞光は無表情、金時は緊張した面持ちで主君のあとに続いている。最後尾には、保昌の姿もあった。
その後、参内した頼光と保昌は、時の帝からお言葉と禄を賜った。
「頼光」
退出の間際、帝はふと彼を呼び止めた。御簾の内で僅かに身を乗り出し、声は囁くようである。
「鬼の大将というのはやはり恐ろしいのか。どんな容姿をしていた?」
「とても、この世のものとは思われない姿をしておりました」
頼光は微笑を浮かべて答えたという。
*
頼光邸、母屋。
源頼親は腕を組んで、部屋の中を歩き回っている。落ち着かない様子で外へ顔を覗かせたとき、郎党の秦氏元が呆れたような声を上げた。
「頼親様ぁー。そんなことしなくても、頼光様はもうすぐ帰ってきますよ」
「べ、別に何もしてねぇよ。……ずっと寝込んでて運動不足だったから、歩いてるだけだ」
「頼親様!」
ばたばたと渡殿を走る音がし、喜色を浮かべた為頼が姿を現した。
「頼光様がお帰りになりましたよ!」
「本当か!」
ぱっと顔を輝かせた頼親だったが、二人の視線を感じて、咳払いをする。
「……お前ら、着替えとか、水とかの用意をしてこい」
「別に、頼親様が頼光様のお帰りをすごく楽しみにしていたなんて言いませんよ」
「え、俺は言うつもりだったけど」
「お前らしばらく戻ってくるな!」
二人はひゃっ叫んで、転がるように部屋から飛び出した。
「まったく、あいつらは……」
「何を怒ってるんだ?」
どきりとして振り返ると、案の定、頼光だ。都を発ったときと変わらぬ様子で、柔和な笑みを浮かべている。
「……元気そうじゃねぇか」
頼親は思わず、兄の姿を頭の先から足の先まで眺めるが、大きな怪我は見当たらない。
「元気だけど……そんなに意外か?」
「いや……」
叔父さんから無事じゃないって聞いてたからと続けて、頼親は小さく安堵の息を吐く。
「ああ、一回刺されたからな。それより、叔父さんにはびっくりした。まさか、都に戻られてるとは思ってなかったよ。都の前で再会して、上手く帰還の行列に入ってもらって――」
「刺されたって何だよ」
さらりと流されそうになった言葉に頼親が食いついたとき、
「頼光兄さあん」
ばたばたと渡殿を振動させながら飛んできた頼信は、そのまま頼親に突進する。頼親は頼信と共に転倒し、頼光は巻き込まれぬようにひょいと身をかわす。
「頼信……! てめぇ、おりろっ。痛……」
「お帰り、おめでとう」
頼信は頼親を抑え込んだまま顔を上げ、にこりともせず告げる。頼光が呆気にとられているうちに飛び起き、高欄を跳び越えて庭へ出る。
「俺は忙しいから、河内に帰る」
「もう、か? 久しぶりなのに――」
「頼信まちやがれ!」
頼光の言葉が終わる前に、頼親は跳ね起き、頼信を追っている。
「元気だなぁ」
二人の背を見送り、頼光はやれやれと自室に入る。入るなり、どっと薄縁に倒れ込んでしまう。
疲れている。体の外にも内にも疲労感がじっとりと纏わりついて、指一本さえ動かすきになれない。
ここは都だ。一条の、住み慣れた屋敷だ。生きて帰ってきたという事実は、意外にもごく自然に受け入れられる。特別な喜びも、安心もない。
人と己の生き死に。大江山にて改めて知った、自分の薄っぺらな感情に頼光は眉をひそめ、瞼を下ろす。
刺されたはずの腹に手をやり、彼は深い眠りにつく。
ここまで読んでくださったかた、ありがとうございます。
もうすぐ終わりです。今更ですが、誰が主人公なのか分からない小説ですね(^^; ……鬼同丸?
次回は、頼光が刺されてもへーきだった理由です。




