透明
大江山。
茂みに身を隠し、一人、呻く青年がいる。青年の胸には小刀が突き刺さり、辺りの着物を血で染めていた。
青年は、土蜘蛛の少年のリーダー的存在であった調伏丸だ。鬼同丸に酒の入った竹筒を渡した、その人である。
御笠は討たれた。仲間の少年たちも、あるいは死に、あるいは逃げたのだろう。目にするのは、家族同然の者たちの冷たくなった姿ばかりだ。
土蜘蛛の終わりと共に自ら果てることを選んだ彼は、死にきれずにもがいている。
――もう一回刺せりゃ……。
胸に刺さったままの小刀にかけた手は、弱々しく痙攣するばかりだ。それでも苦痛から逃れたい身は、無駄な足掻きを繰り返す。
ふいにその手に、温かい手が重なって、小刀の柄とともに握りしめられた。ぐっと力が加わって、風のような冷たさが体から抜けていく。温かいものがどっと溢れだして、さらに着物を濡らしていく。
ふらりと崩れる調伏丸をその人は抱えて、顎をぐいと持ち上げる。
焦点も定まらぬ彼の口元に竹筒があてられ、中の液体がゆっくりと注ぎ込まれる。
酒だ。薬草のような強い苦味がある。酒などほとんど口にしたことのない調伏丸は、むせかえりそうになったが、それは無理やり注ぎ込まれる。しかし、苦しさの中に、体温の戻るような安らぎがあるのを彼は感じていた。
竹筒が口元を離れたときには、傷の痛みはすっかり消えていた。夢を見ているような感覚で、調伏丸は浅い呼吸を繰り返しながらその人を見上げている。
土で汚れた浅黒い肌に、優しげに垂れた目。見知らぬ少女は、幼い子どものするように調伏丸を見つめている。
「……誰だ」
「多衰」
ぽつんと弾ける泡のような答えのあとで、彼女は調伏丸を地に預ける。
「頼光の仲間か」
みすぼらしいこの少女にその可能性は低いと知りながら、調伏丸の声は低くなる。鬼の住む山のこんな時刻に、女が一人で来ることはまずあり得ない。
多衰は小さく首を振る。
「知り合いの姫が鬼にさらわれたって聞いて探しにきた。でも、無事に助け出されたところを確認したからもういいの」
ぽいと彼女が叢に放ったのは、空になった竹筒だ。
「鬼が呑むと毒に、人間が呑むと薬になる不思議なお酒。姫に何かあったらと思って、鬼と官軍が戦ってる隙にもらっておいたんだけど」
調伏丸は刺したはずの胸元に手をやりながら、少女から目を離さない。
「そんな危険なことが、普通の女に……」
「都で盗賊をやっている」
多衰は何でもないことのように言い、ふいと踵を返す。
「誰にやられたのか知らないけど、頼光の敵なら早く逃げたほうがいいよ」
彼女は雫のような声を残して、木の影と影の交差する中に消えていく。
――都で盗賊……。
調伏丸は多衰の消えたほうを見つめたまま、酒で濡れた口元をぬぐう。ふとそこに目を落とすと、透明な液体である。
妙な違和感を覚えて、調伏丸は多衰が放った竹筒に手を伸ばす。逆さにし、僅かに残った液を手に受けてみる。
やはり透明だ。調伏丸は記憶を辿る。
――俺が拾ったのは、確かに赤色だった。
鬼を殺す毒の酒。竹筒に入った血の匂いのする酒を見つけたとき、疑いもなくそれだと思った。
――違ったのか、俺が鬼同丸に渡したのは。
彼が拾い、鬼に効く毒の酒だと聞いた鬼同丸が欲しがったのは、鬼の持っていた血酒だった。先ほど彼が呑んだのは、透明の、頼光が持ってきた神変鬼毒酒である。人には薬になるのだ。
調伏丸は立ち上がり、手に溜まった液体と共に竹筒を捨てる。どうでもいいことだ。鬼同丸は、毒酒だろうが、血酒だろうが、あの酒を誰の手にも渡らぬように処分しているだろう。
「都、か」
調伏丸は呟いて、濡れた手を握りしめる。
不思議な酒だ。先ほどまで疲れ果て暗闇に落ちていた精神さえ力を与える。幼少のころの記憶が光に照らされ、そのときの感情が湧きおこる。
――大丈夫だ、この憎悪さえあれば。
盗賊となって都を襲う決意を固めた調伏丸は、湿った地の上を歩いていく。
*
朝陽が鬼の里を包み込み、鬼の大将は意識を取り戻す。光の落ちた瞼がぴくりと動き、美しい瞳が表れる。
あまりに透明な朝の気配に束の間、酒呑童子は全てを忘れて体を起こす。
土蜘蛛に破壊された鬼の里の、辛うじて全壊を免れた館の中だ。あちこち柱が折れ、屋根が傾いている。
「酒呑!」
どんと衝撃がきたかと思うと、茨木童子がしがみついて泣いている。
「やあ、さすがだね。よく持ちこたえたよ」
にっと笑うのは石熊童子だ。その腕に抱かれた金童子は、手当ての目立つ体をもぞもぞと動かす。
「でも、石熊は、このまま起きなくてもいいかもって言ってたけど」
「そりゃ、起きてがぶがぶ酒を呑まれるより、眠っているほうがずっと綺麗だからね」
――酒……。
その言葉が引っ掛かり、酒呑の脳裏に様々なものが蘇る。
杯に酒を注ぐよりみつの穏やかな笑み、白い光となって宙を走る刃、それから、血を吐いて倒れる赤毛の子鬼の姿――。
――鬼同丸。
「酒呑、あのお酒をあとちょっとでも呑んでいたら危なかったのだ。もう、何ともないの?」
「ああ。いや……少しくらくらする」
涙で濡れた青い瞳が見上げている。酒呑はその背に手を置く。
「まぁ、しばらくは動かないほうがいいよ。刺された傷も治ってないしね」
さて、と石熊は立ち上がる。その際に金童子を下ろそうとしたのだが、彼女は頑として離れなかった。
「虎熊と星熊に報告しなくちゃな。建物は壊れてるし、怪我人は多いしで忙しくてね」
「星熊はどこかでさぼってそうだけど」
金童子が呟いたとき、さっと光が遮られた。傾いた柱をくぐって、どこか疲れた様子の星熊童子と、虎熊童子が入ってくる。
「失礼だな。俺だってちゃんと手伝ったよ。ねえ月夜」
「酒呑、目が覚めたのか!」
酒呑と目が合うと、虎熊の顔がぱっと輝いた。どかどかと走り寄って、傍らに腰を下ろす。
「良かったなあ、すごく心配したんだぞ。祝いの酒を呑まなきゃな」
「……それはいいな」
「ダメに決まってるじゃないか! 一年間お酒禁止!」
「あんな目にあっても懲りないのは流石だね」
憤慨する石熊の横で、柱にもたれて笑うのは星熊だ。その周囲を、鬼火がふよふよと飛んでいる。
全てが一致して、違和感がない。酒呑は自分を取り巻く空気に、ふとした安らぎを覚える。
鬼同丸は、初めからこの場にいなかった。
――何も、変わらないのか。
「とにかく今日はめでたいのだ! 鬼同丸にも早く知らせてあげなきゃ」
茨木がぴょんと立ち上がって、楽しげな笑みを見せる。
驚きの色の浮かんだ酒呑の瞳を、星熊の黄色い眼が捉えた。
「ああ、彼なら俺たちの報告を待ってるよ。まったく、自分で見にいけばいいのに。ねえ月夜」
続いて石熊が、金童子を抱え直して言う。
「君に似てなくてびっくりしたよ。容姿だけじゃなくて、お酒も全然だめみたいだね。人間の血肉も嫌いらしくて、そりゃ、血酒なんか一気呑みしたらぶっ倒れるよ」
血酒。
血を吐いて倒れる鬼同丸。
酒呑の中で二つの言葉が結びつき、すとんと胸へ落ちた。
「俺たちが遅いから、見にくるかもしれないぞ」
虎熊が言い終わらないうちに、酒呑は被っている着物をはねのけている。
光の差し込む外界へ。
広がった視界に赤い瞳がこちらを見上げていた。
ここまで読んでくださったかた、ありがとうございます。
もうすぐ終わるところで新キャラ……というほどのものでもないのですが、多衰、多衰丸です。調伏丸とセットで今昔物語に出てきます。残念ながら、本文が欠落していて詳しい内容は分からないのですが、二人ですごい盗賊だったみたいです。
というわけで、このあとの二人は今昔物語に続くという感じです。
次回は酒呑&鬼同丸です。




