報復の果て
渡辺綱は深く息を吸いこんで、その場に姿を現す。鬼切を構え、感情を押し殺した目で久我耳御笠を見据える。
眼裏に焼きついているのは、赤鬼の兄弟だ。耳に焼きついているのは、茨木童子の泣き声だ。
「俺は頼光四天王、渡辺綱だ。都の姫君をさらい、官軍を弄んだ貴様を主君に代わって誅する」
御笠がゆっくりと振り向き、妖しげに光る両目に小柄な影を映す。
「それより、頼光を奪った私が許せないのだろう」
「そうだ!」
綱は叫ぶと同時に、地を蹴っている。御笠の巨体が激しく動き出す。砂埃がたちこめ、綱の視界を奪う。
「お前、あの鬼どもを見たか」
その声は頭に直接響いてくるようで、御笠の位置をつかむことができない。綱は神経を張りつめ、目を凝らす。
太刀を握る手が滑るような感じがする。集中しきれていないのだ。鬼切は、綱の動揺を見逃しはしない。
「あの兄弟を殺したのは、まぎれもなく、頼光が呑ませた毒の酒だぞ。青鬼の、あの泣き声を聞いたか――」
「黙れ!」
砂埃の中、ゆらりと揺れた影に斬りかかる。太刀に絡まったのは蜘蛛の糸だけだ。綱はそれを振り払い、背後へ回った気配を追う。
「あの青鬼にとって酒呑童子は、お前にとっての頼光と同じだろう」
「だったら何だ!」
鬼切は虚しく空を斬った。確かにそこだと力強く踏み込んでは、何もつかまぬ刃に焦りが募る。
――茨木童子は守れなかったんじゃないか。
罪悪感など感じたら負けだ。朝廷が健在である限り、その命令を執行する頼光は正義だ。罪の意識を感じる必要はない。感じること自体がおかしいのだ。
――俺は間違っていなかった……のか、本当に?
小さな弟の上に静かに目を閉じた酒呑童子が頭をよぎり、一瞬の疑いに囚われたとき、ずしりと鬼切が重たくなった。刃先は地面につき、綱の力に抗うように動こうとしない。
「正義の剣をあつかう者が、その正義を疑うようでは話にならぬ」
嘲笑を含んだ御笠の声が聞こえたかと思うと、綱の体は白い糸に縛られ、宙を舞っていた。
地面に叩きつけられ、綱は呻く。鬼切の落ちる、鈍い金属音がした。
「貴……様ぁ……」
「頼光なら、何を見ても、ただ任務を遂行するためだけに刃を振るっただろうな。お前は、頼光の家来にふさわしくない」
頼光様。声にならない声が、口をついて出た。頭に彼の背中が映って、ぐらりと歪むように消えていく。
手と胴は糸で縛られ動かない。御笠の顔が真上にあった。
「嫌だ……俺は、頼光様の家来だ……。誰が何と言おうと……俺は……」
不自由な体を動かし顔を上げるが、声が震えた。巨大な蜘蛛よりも、己の内部に湧き上がった疑念に、揺らいだ心に、芯から冷えるような震えがくる。
――俺は、一瞬でも頼光様のしたことを悪いことだと……。
御笠の口が醜く歪んで笑みを作る。
怪しい光を帯びた双眸。そこに映っているのは、無力な少女だ。それに気づいた綱の顔に、自然と自嘲的な笑みがこぼれた。
もともと女だ。家来の資格など――。
そんな思いが胸に浸透しようとしたとき、研ぎ澄まされた刃の気配が場を走った。綱はそれを感じ取り、反射的に視線をさまよわせる。
その時間はあっと言う間だ。視線は一点でぴたりと止まる。
頼光は風のように走り、白刃をきらめかせて跳躍する。その表情に、いつもの余裕はない。乱れた呼吸を殺すように歯を食いしばり、渾身の力で御笠の体に愛刀を叩きこむ。
――頼光様。
言葉より先に、涙があふれてこぼれた。噴き上がる御笠の鮮血に、彼の姿が霞むが、綱の目はしっかり彼をとらえている。
地に降りた頼光は片膝をついて、呼吸を整えながら顔を上げる。綱、とその顔に笑みが広がる。
生きている。幻ではない。綱の愛しい主人、源頼光は確かに生きている。
「綱――」
今、糸を斬ってやる。頼光の声が、幻のように綱の耳に届く。
が、次の瞬間、綱は目を見開いた。
立ち上がった頼光の体が、唐突に、力が抜けたようにがくりと崩れ落ちる。御笠の血だまりに右手をつき、左手で苦しげに胸元の着物を握り込む。
綱の硬直がとける前に、地の底から湧き上がってくるような笑い声が、場を包み込んだ。
ずるり、と御笠の体が動く。八本の足は小刻みに震え、血だまりの中から胴体を持ち上げる。
「私とこの男、どちらの力が先に尽きるか……」
禍々しい気が満ち満ち、くすんだ瘴気となって頼光を取り巻く。
「らい、こう様……。頼光様ぁ!」
頼光は小さく呻いて、完全に地面に倒れ伏す。ぎりぎりと蜘蛛切を握る手に力がこもっているが、やがて、それも弱まっていく。
綱は不自由な手のまま、無我夢中で頼光に駆け寄る。この呪いを、少しでも自分のほうへ分けられないか。綱は守るように頼光に覆いかぶさる。
「頼光様、もう少しご辛抱ください。土蜘蛛のやつも、もう限界です」
御笠の哄笑はかすれ、絶え絶えになってきているが、ずるりずるりと相手の魂を引っ張っていくような、不気味さを孕んでいる。
綱はその声を振り払うように、全力で頼光を守ろうとする。
「道連れになんかさせてたまるか……!」
「綱……」
弱々しい息の下、名前を呼ばれ、綱ははっと体を離す。頼光はゆっくりと体を動かし、綱を見上げる。
「俺は……」
言いかけた途端、頼光の呼吸は速くなり、苦しげな表情が浮かぶ。頼光様、と呼びかける綱に、頼光は何かを伝えようとする。
会わせてやってくれ。
耳を澄ました綱が拾ったのは、そんな言葉だった。
問い返す前に、頼光は震える手で蜘蛛切を綱の前に持ち上げる。
「俺はまだ大丈夫だから……あいつが、御笠が息絶える前に……」
蜘蛛切。七本足の土蜘蛛を斬った太刀。
抜き身の刃に、綱の顔が映っている。それが、ふいに褐色の肌の女に変わり、黒く野性的な瞳で、綱を見つめた。
「……匹女だ」
綱は呟き、顔を上げて叫ぶ。
「匹女だ! 土蜘蛛の大将を慕っていた女だ!」
御笠の哄笑が止まる。ぐらりとその体が倒れていく。
辺りは白いもやに包まれている。ここがどこなのか。そんなことは、今の御笠にはどうでもいいことだった。
耳には大きな金輪がついている。御笠が一歩踏み出すと、それはかつてのように鈍く光って揺れた。
「匹女……」
御笠は手を伸ばす。自分と同じ、褐色の肌をした女の存在を確かめるように、人間の手を宙へさまよわせる。
「ここにいますよ」
御笠の手は、柔らかな手に包まれる。信じられない気持ちで目を上げると、優しい笑顔に受け止められた。
御笠の目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「どうして……どうして、私を守って死んだのだ。あのあと、私はこの大江山で自害した。私を逃がすために、沢山の仲間が死に、お前も矢に射ぬかれた、その瞬間を見た私は……どうして生きていける?」
「あなたさえ生きていれば私たちの一族はいづれまた、と思ったのですよ。……いえ、それは嘘。命をかけてお守りすると誓ったから」
「私は大将の器ではない。皆をまとめ上げて、戦ったり、侵略したり、そんなものは苦手なのだ。ただ、お前と、皆と上も下もなく、平穏に過ごせたら……それを奪ったのが、この国だ」
「そうですね。その通りです」
匹女は、泣きじゃくる御笠を幼子のように抱きしめる。
「……お会いしたかった。もう、このまま、ずっと一緒です」
「ほんとか? 本当だろうな?」
「ええ。私たちは奪われましたが、取り返したのですよ」
「取り返した……」
御笠は呟く。自分の両手を見つめ、人であることをぼんやりと確信する。
「そうか。そうか、もういいのだな」
「皆に、ご命令ください。もういいのだと」
「匹女、待ってくれ。こんな……泣き顔で皆の前には出られない」
「御笠様」
匹女の黒く輝く瞳が、いたずらっ子のような笑みをたたえて御笠を見つめる。
「あなたが泣き虫だってことは、皆とっくに知っているのですよ」
綱は夢から覚めたような気持ちで、辺りを見渡す。すっかり見慣れた薄暗い洞窟の中だ。匹女と、大きな金輪を耳につけた青年の姿はどこにもない。
静まり返った空間に、ぽつりと土蜘蛛の大将の骸が転がっている。
――そうか。
終わったんだな、と綱は悟り、その場にぺたりと腰を落とす。
視線を下げると、穏やかに眠る頼光がいる。
「頼光様、もう……」
続きは言葉が詰まって、出てこなかった。
ここまで読んでくださったかた、ありがとうございます。
保昌と袴垂のことをやってしまえば、だいたい終わりです。もう少しお付き合いいただけると幸いです(と言いながら割と長いかもしれない……)。
次回は頼光と四天王です。




