炎
京、一条。
源頼親は、舌打ちをして眼前の敵を睨みつける。
土蜘蛛だ。その向こうには、一条戻橋がある。土蜘蛛はそこを初めに、上京のほうにもいよいよ姿を現しだした。
死んだ人間が戻ってくる。一条戻橋はそういう橋だ。都の、あの世とこの世の境目だ。
「どけよ……」
頼親は荒い呼吸の中で低く唸る。手に汗が滲み、思うように力が入らない。いや、汗のせいだけではないだろう。
ふとすると、目の前が霞み倒れそうになる。
――限界だ。俺は一人で何体倒した? けど、まだ……。
『俺は盗賊袴垂だ! 盗賊袴垂はここにいるぞ!』
保輔は一条戻橋を越えて、都の外へ出た。たくさんの検非違使がそれを追った。
討ち取られるのは時間の問題だ。
「盗賊より、都守んなきゃなんねぇのにな」
頼親は自嘲的な笑みをこぼし、顎から滴り落ちる汗を拭う。
――兄貴なら、迷わず任務を遂行する。都を守る。
自分もそうするべきだ。頭の中の冷めた一点が、ずっと明滅している。それを無視させるように、頼親の頭を過るのは叔父の姿だ。
頼親は鈍る足を叱咤し、地を蹴る。言葉にならない声を上げて、土蜘蛛の群れへつっこんでいく。
飛び散った土蜘蛛の血で、視界が赤く染まる。太刀を振るう腕がしびれる。体が悲鳴を上げる。
一条戻橋は目の前だ。あの橋を越えれば土蜘蛛はいない。保輔を追える。
僅かな隙をついて頼親は走る。一条戻橋に足がかかったとき、突然目の前がゆれた。ぐにゃりと視界がゆがむ。別な空間に迷いこんだように、足元がおぼつかない。
夢でも見ているかのような感覚に、頼親は足を止める。
――あの世とこの世の境目か……?
今の状況を忘れ、無意識に考えたその瞬間、ふと空気が戻った。現実の埃っぽい風が、汗と血で濡れた着物を体に張りつかせる。
だが、頼親は事態を呑みこむ前に、上からの衝撃によって地面に伏すことになる。
落ちてきたのだ、何かが。
地面に押しつけられて、頼親は声も出せずにもがく。『何か』ではない。『誰か』だ。上に乗っているのは、確かに人だ。
「どきやがれッ、この――」
着物をつかみ、無理矢理引きずり下ろした頼親は、その人の顔を見て息を呑んだ。
「叔父さん……」
保昌の目は静かに閉じられている。癖のある髪の毛は乱れ、顔には泥や血がとんでいる。あちこち怪我をしているようだが、左肩は着物が破れ、血が固まっていた。
「叔父さん、叔父さんじゃねぇか。何でここに……。起きろ、起きろよ」
叩き起こしたいのをこらえて、頼親は叔父の体を軽くゆする。
後ろで土蜘蛛が動く気配がした。頼親はとっさに振り返って太刀を振る。手ごたえはあったが、確認する間もなく、白い糸が頭上で広がる。刃物のような牙が視界を掠める。土色の巨体がそこにある。
後ろには保昌がいる。頼親は攻撃をかわすことなく、太刀一本で防御するしかない。
頼親は歯を食いしばり、土蜘蛛の胴に刃を食いこませる。思うように力が入らない。太刀の刃は途中で止まる。
頼親、と木の葉の落ちるような呟きが聞こえた。音もなく、目の前の土蜘蛛の首が切断される。
「これは……夢か?」
淀んだ瞳が、いつになく虚ろな光を滲ませて頼親を振り返っていた。
「俺は……いや、お前はどうしてここにいる?」
頼親は太刀をだらりと下げて、肩で息をする。空気は体内に満ちない。喉が焼けつくように渇き、視界が点滅する。
「そんなことどうでもいいんだよ。叔父さん、早く、あっちだ」
頼親は重い左腕を上げて、戻橋の先を指さす。
保昌の目は黒煙がかかったように虚ろだ。
「俺は死んだはずだ」
「袴垂が、検非違使に追われてんだよ」
「はかまだれ?」
保昌の瞳がざわり揺れる。それを隠すように、彼の前髪が顔に暗い影を落とす。
「保輔に似た盗賊か」
「保輔だよ。袴垂は保輔だ」
「袴垂は盗賊だ。あいつは……俺のことを知らなかった」
保昌は瞬時に振り返って、頼親を背に、土蜘蛛の攻撃を防ぐ。
「頼親、お前はもう動かないほうがいい。今にも倒れそうだ」
「叔父さん!」
動じない背中に頼親は舌打ちをして、きっと顔を上げる。ふとすれば落ちそうな意識を引っ張り上げ、保昌の背を凝視する。
「分かってんだろ。あいつは保輔だ。盗賊でもいいじゃねぇか。覚えてなくてもいいじゃねぇか。あいつは、あんたが十年前に守れなかったあんたの弟なんだよ」
頼親は保昌の背に手を伸ばし、着物をつかむ。力はほとんど入っていないのに、保昌はびくりと震えた。動揺をおさめるような呼吸が、着物を通して伝わってくる。
「……保輔は死んだ。俺は守れなかった。俺はもう……」
「検非違使に追われてんだ。まだ間に合う」
頼親は着物を握る手に力を込めて、保昌を後ろへ引っ張る。彼が再び前へ出ることのないように、太刀を真横に伸ばす。
「叔父さんしかいねぇんだよ……!」
頬を伝った汗が、ぽたぽたと地面に落ちた。ぬぐうような余裕はない。
保昌がふわりと動く気配がした。
遠くなっていく。迷いない足音を頼親の耳に残し、保昌の気配は完全になくなった。
――これで俺は、都を守る源氏の次男として死ねるわけだ。
頼親は一人、勝気な笑みを浮かべて、土蜘蛛と対峙する。
もはや、一条戻橋の近くだからという理由だけではないだろう。土蜘蛛は、間違いなく内裏に近づいている。
頼親は咆哮して土蜘蛛に斬りかかる。血飛沫が飛び、視界が赤く染まる。それが晴れる前に、縄のような糸が足に巻きつき、体が宙に浮いた。
頼親は空中で糸を斬り払う。彼の体は勢いを失い、背中から崩れた建物の上に叩きつけられる。尖った木の柱が何本も突き出しているが、幸いにも、茅葺の屋根の上だった。
体を起こそうとすると、全身に痛みが走った。視界がぼやけ、血の匂いがやけに鼻についた。
「頼親様……? 頼親様ですよね? 俺が分かりますか?」
懐かしいような声がする。
為頼だ。為頼の必死な声がする。体を揺さぶられている感じがする。
「為頼、頼親様が見つかったのか? ご無事か?」
駆けてくるのは氏元だろう。
「頼親様、俺ですよ! 氏元です、しっかりなさってください!」
頼親様、と二人が交互に呼ぶ。頼親は眠りかけていた意識を、無理矢理起こす。動こうとしない手に力をこめ、何とか空中をさまよわす。
その手を、為頼か氏元、もしくは二人の手が握る。
頼親は目を開ける。ぼやけた視界が徐々にはっきりしてきて、二人の顔が見えた。
「頼親様ぁ……!」
「めちゃくちゃ心配したんですよ! 袴垂が出たって聞いた瞬間、お一人で行ってしまわれて……!」
頼親は二人の手を借りて、上体を起こす。鈍く重い痛みが背中を覆い、所々、刺すような激痛が走る。
「為頼、氏元……。俺の太刀は……」
頼親は地面に手を這わせ、太刀を探す。指先が柄にぶつかる。頼親は自分がまだそれを握る力があるかを確認する。
「よ、頼親様、無理ですよ! まだ戦うなんて……!」
為頼を無視して、彼の肩を支えに使い、頼親は立ち上がる。氏元がさっと反対の脇を支える。
「頼親様、俺たちがなんとか安全な場所までお守りします。もう無理です」
「うるせぇ。家来に守られながら、命からがら逃げだすなんてマネできるかよ。俺は兄貴から留守番頼まれてんだよ」
「えっ、さっきまでは袴垂を追おうと――」
「うるせぇ」
為頼の言葉を遮ったところで、頼親は激しく咳き込んだ。体が軋み、肺が悲鳴を上げている。
頼親様、と二人の声が重なったとき、
「あれ? そこにいるのはもしかして――」
一人の青年が、勢いよく駆けていた馬の手綱を引き絞り、三人の前に止まった。彼は、ひょいと馬から飛び下りると、じろじろと頼親の顔を覗きこむ。
「頼親兄さんじゃねぇか」
「……頼信……」
頼親はちらりと目を上げ、整わない呼吸の合間に弟の名を呼ぶ。
源頼信。頼親と母を同じくした、満仲の三男だ。
「いやぁ、久しぶりに会ったと思ったら、全然元気そうじゃねぇな。また興福寺の僧兵とケンカしたの? あ、土蜘蛛か。どっちでもいいけど」
頼信は軽い調子で話し、頼親とよく似た顔でにやりと笑う。
「都のピンチと聞いて、河内から駆けつけたんだ。頼光兄さんの代わりは俺がやる」
「……留守番頼まれたのは、俺だ」
頼親は、平然と言い放つ弟を睨む。両脇を支える為頼と氏元の動揺したのが分かった。
「じゃ、家で寝てれば?」
頼信は何でもないように言ったかと思うと、実にあっさりと頼親の腹に拳をめり込ませた。がくりと落ちかけた頼親の体を、無造作に抱え、為頼と氏元のほうへ押しやる。
「よ、頼親様ぁっ!」
「実の兄に向ってなんてことを……!」
氏元は真っ青になって非難めいた視線を頼信にぶつけた。
頼信は呆れたように頼親を気絶させたほうの手をぶらぶら振っている。
「こうでもしないと大人しくならねぇだろ、その人」
「そ、そうですけど……!」
氏元を無視し、頼信はくるりと踵を返す。馬へ飛び乗ると、赤々と燃える都を眺める。
――あれ?
氏元は、その景色に違和感を覚え目を凝らした。
悲鳴でない人間の声が聞こえる。戦うための雄叫びだ。猛った数多の兵士が、土蜘蛛に矢や太刀を向けている。
頼信はその光景をじっと見たまま、口角を上げる。
「河内で鍛えた俺の兵だ。坂東武者にも劣らねぇ」
頼信の兵に元気づけられたのか、警護の侍にも勢いが出てきているようだ。
人間が巨大な化け物を押している。
「一人でも根性でなんとかなるとか思ってる頼親兄さんはバカだよな。邪魔だから、それ、どっかやっとけ」
頼信は平然とした顔で、頼親を指さす。
「頼信様、それはあんまりです! 頼親様はお一人でどれだけの土蜘蛛を倒されたことか――」
為頼は頼親の体を支えたまま、馬上の頼信にくってかかる。氏元がその肩を引いて止めるが、頼信は興味なさげにふいと空のほうへ顔を逸らす。
「留守番頼まれてるなら、頼光兄さんの家に寝かしとけばいいんじゃねぇの」
頼信はゆるりと手綱を操り、そのまま馬を進めるそぶりを見せる。
「頼光様のお宅は今、警護の侍もほとんどいませんよ! 頼光様が四天王以外の郎党をあまり自宅に置いていないことは、頼信様もご存じでしょうに……! 氏元、どこか別の場所に頼親様をお運びしよう」
言っている間にも頼親の体を無理矢理背負い、どこかへ行こうとする為頼を、氏元は、落ち着けよとたしなめる。
「別のところって言ってもだな……」
「だから、頼光兄さんの家に運べって言ってんだろ」
背中を向けたまま怒ったように声を張り、頼信は、警護の侍はいる、と付け加えた。
「じゃ、俺はちょっと戦ってくるから。親孝、遅ぇぞ」
「も、申し訳ございません」
暗がりから、馬に乗った青年が姿を現す。頼信の乳母子の藤原親孝だ。
親孝は、青い顔に気弱な笑みを浮かべて為頼と氏元にぺこりと頭を下げる。
「頼信様、予想以上に大変なことになってますね。私、ちょっと戦える気が……」
「じゃあ勝手にくたばれ」
「う、嘘です嘘です! 頼信様ぁ、置いてかないでください!」
勢いよく走り出した頼信を、泣きそうな顔で親孝が追いかける。
そんな二人の消えていったほうを眺め、為頼が呟く。
「警護の侍はいるって……頼信様の家来、か?」
「そうだろうな」
氏元は、為頼の背中から落ちかかっている頼親に手をかける。
「頼光様の家まで突っ走るぞ。これで頼親様を守りきれなかったら、頼信様に殺される」
為頼ががっくりと項垂れて、ため息をついた。
「頼親様にトドメさしたの、あの人じゃねぇか。俺は、頼親様を守りきれなかったら、自刃するよ」
「分かった、分かった。ほら、行くぞ」
氏元は太刀を抜いて周囲を警戒しつつ、為頼を促す。おう、と返事をして為頼が後に続く。
いたるところで炎を上げる都の、地獄のような明るさの中。為頼の背に揺られた頼親は、案外穏やかな寝顔をしていた。
ここまでよんでくださったかた、ありがとうございます。
源頼信、頼朝のご先祖様です。歴史上の人物の中で一番(頼光と迷いますが!)好きな人です。
ほんとうにかっこいいんですよ……!
次回は、土蜘蛛の巣穴を手分けして頼光を探す四天王です。




