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御笠と匹女

土蜘蛛が人間だった頃のお話です。

番外編です。


 四世紀ごろ、丹波国。

 青葉山あおばやまは、秀麗な山である。富士のように美しい容貌をしており、しんと清冽な大気をまとって海を見下ろしている。

 その深い山中の洞窟の中で、一人の少年が泣いていた。

「耳に穴をあけるなど嫌だ。そんなことをするなら、私は首領になどならない」

御笠(みかさ)、めったなことを口にしてはいけません。亡き父上から授かったこの耳輪、お付けできるのは貴方様だけです」

 少年の前では、彼の母親が膝をついている。彼らは二人とも、褐色の肌をしていた。

 御笠と呼ばれた少年は、しゃくりあげながら、母の手の上の耳輪を恨めしそうに見やる。少年の耳より大きく、暗い金色をしている。御笠は明日、耳に穴をあけられ、皆の前でこの耳輪をつけるのだ。

「痛いだろうな……」

「それに耐える価値がございます」

 母、波女(なみめ)は毅然として言う。御笠はますます恐怖心をあおられ、びくりと震える。

 五十人ほどの小規模な民族だ。その頂点に立つといっても、王というわけではない。仰々しく耳輪などつける必要はないのに、と御笠は思う。

「お強くなられよ。ならねば、なりません」

 波女はいつも力強く優しい笑みを浮かべるだけだ。

 御笠は翌朝、皆の前で首領の証をつけた。そのときは堪えたが、あとで隠れて泣いた。金輪のぶら下がる耳が痛むたび、悲しくなった。

 彼らは、青葉山の洞穴を住居とし、狩りや農耕をして暮らしていた。男も女も褐色の肌をしており、麻の着物や毛皮を身につけている。

 耳の輪をつけてから一年も経たないある日、御笠は夜中にこっそり洞穴を抜けだした。母は気づいていない。他の仲間は、何人かに分かれ、それぞれ別の洞穴に寝ていた。

 御笠は周囲に誰もいないのを確認し、木の下に腰を下ろす。目の前には川がゆったりと流れている。御笠は膝を抱えて、大きく息をつく。しばらくじっとしていると、ぽろぽろと涙が零れてくる。

 今朝は狩りが上手くできなかった。それに木の根につまずいて転んだ。皆の前では何でもないふりをしたが、痛かったし、情けなかった。

 御笠がこうして泣くのは、今日に限ったことではない。何かあった日は、よくこの場所で泣いていた。人の前で泣くのは首領としていけないことだと母はいう。

 ここにいると不思議と落ち着いた。川のせせらぎのせいかもしれないと思うが、何か優しいものが心のうちに入り込んできて、包み込むように慰めてくれるのだ。

 ――そのうち上手くやれますよ。

 そんな声が聞こえてくるようで、御笠は、うん、そうだなと立ち上がる。踵を返すと、青白い月光に照らされて、金の耳輪が鈍く光った。

「あれ、御笠様じゃないですか」

 途端に、少し離れた茂みが蠢き、男が飛び出してきた。御笠より、二、三歳年上の男で、手には弓を持っている。

浜虫(はまむし)か、おどかすな」

「驚いたのはこっちですよ。怪しいヤツかと思って、もう少しで射るところでした」

 冗談なのか本気なのか、浜虫は屈託なく笑っている。

 御笠は機嫌を損ねたふりをして、そっぽを向く。内心は、泣いていたのがばれていないかひやひやしていた。

「え、怒ったんですか? ちょっと待ってくださいよ。俺はただ、耳輪があってよかったですねって……」

「だ、誰も耳輪が嫌だなどと言ってないだろう」

 御笠は浜虫を睨み、さっさと先を行く。

「あ、もう痛くないんですね。それは良かった。御笠様、今夜はどうしたんですか? 危ないですよ、一人で来ちゃあ。俺はね、仕方なくですよ。舟女(ふなめ)のやつ、俺の寝相が悪いって怒っちゃって。俺、蹴った覚えなんかないんだけどなあ」

 浜虫は長い足で簡単に御笠に追いつくと、一人でべらべらと喋り始める。

 舟女とは浜虫の妻だ。無視していようと思ったが、御笠はふと聞いてみる。

「浜虫、妻とはどういうものだ?」

「え? どうしたんですか、いきなり」

 御笠は答えない。浜虫がにやりとする。

「ははん、御笠様、もうすぐ結婚するもんだから……」

「したくてするのではない。相手も決まっているし……」

 御笠は語尾をぼかして曖昧に言う。本当は、決まっているからこその不安だった。

「妻はいいもんですよ。といっても、俺たちは相思相愛だったからなあ。御笠様は、大将ですもんね。誰とでも好きにってわけにはいかないもんな」

「私はいいんだ。もし、気に入らなければ、他に妻を持つこともできる。私ではなくて、その……相手が……可哀そうだ」

 私のことを好きになってくれればいいがなぁ。夜気に紛らわせるように呟くと、不安がくっきりと現れたようだ。

 気に入られる自信がないのだ。

匹女(ひきめ)ちゃん、ですよね。あんまり家から出てこないから、俺もよく知らないや。でも、たまに、夜中外に出て、占いしてるらしいですよ」

 首領の妻になるのは、年齢の釣り合うものでもっとも呪力が強いものと決まっている。占いによって首領を支え、一族の安寧を祈るのだ。

 匹女は御笠より少し年下で、十と少しだが、その呪力は群を抜いていた。山を襲った大風を鎮めたこともあれば、病に苦しむ仲間を救ったこともある。

 浜虫が呆れたように笑う。

「そんなこと考えてたんですか。御笠様が無理矢理、結婚させるんじゃないし、気にすることないですよ。相手も諦めて……っていうか、自分の運命を受け入れてると思いますよ」

 御笠は返事の代わりに、小さく息を吐いた。

 青葉山に降り注ぐ月光は、御笠の心中にかかわらず、冷たささえ伴って木々を濡らすばかりだ。



 匹女は内気な印象のある少女だった。洞穴からほとんど出て来ず、たまに姿を見せて狩りや農耕に携わっても、同じ年頃の少女のように笑い転げたりしない。

 御笠は、ぼんやり彼女を見ていた。

 今朝、浜虫が、女たちが木の実を採りに行っている、その中に匹女もいると教えてくれたのだ。

 彼女たちは背に負った籠をおろし、川辺で休んでいるところだった。御笠は木に登っている。別に隠れる必要はないのだが、匹女がいるとなると出ていくのは気まずかった。

 匹女は足を水に浸し、川面を見つめている。歳の割に大人びているせいか、じっと考え込んでいるように見える。

 傍では、他の女が水をかけあって遊んでいた。ふいに、その飛沫が匹女にかかる。おどけた様子で謝る女に、匹女ははにかんで、小さな手に掬った水を投げる。

 水は宝石のように、きらきらと降り注ぐ。

 ――どうしたら、私のことを好きになってくれるだろう。

 御笠はため息をつき、頭の後ろで手を組んで幹にもたれかかる。見れば見るほど分からなくなってくる。浜虫の言う通り、匹女は結婚を拒んだり、御笠を嫌がる態度はとらないだろう。

 だが、あの少女は、望まぬ結婚に一人で泣いているのではないか。また、結婚後に、悲しみをこらえて御笠に尽くすのではないか。

 ――……隠れて泣くのは、辛いからな。

 考えていると、御笠自身が悲しくなってしまった。こんなだから、自分に自信もなくなるのだと言い聞かせても、涙が滲んでくる。

 もう帰ろうと涙を乱暴に拭ったとき、視線を感じて、御笠は思わずそちらを見る。木の葉と木の葉の隙間ごしに、匹女と目が合った。

 まさか、姿は見えていないだろう。そう思ったが、焦った御笠は足を滑らせる。伸ばした手は空をつかみ、重なり合った枝にむち打たれ、地面に叩きつけられる。

 女たちの笑い声がやむ。可愛らしい鳥の鳴き声だけがやけに鮮明に聞こえ、あとは闇に落ちるようにしんとした。



 海の夢を見た。どこまでも青が続き、表面は白い光を反射させながら揺れている。潮の香が体内に満ち満ち、心臓がどくりと鳴るような懐かしさを引き起こす。

 私は何者だ、と御笠は叫びたくなる。この耳の輪は、何の証なのだ。この行き場のない海は……。

 気が付くと、御笠は洞穴の中にいた。ぼやける視界に映る暗い色と、土の匂いに深い安堵を覚える。目に腕を当て、長い息を吐く。

 傍で、同じようにひかえめな安堵の吐息が聞こえた。腕をどかし、頭を僅かに上げると、匹女がきちんと座っている。

 御笠は目を瞬かせ、匹女を眺めたまま上体を起こす。口を開こうとすると、頭の後ろが痛んだ。

「頭をお打ちになっています。どうぞ、あまり動かされないように」

「え、ああ……うん」

 頭を触ると、濡れた布が巻いてあった。痛むところは、瘤になっているようである。その辺りを気にするように手をさまよわせつつ、御笠は内心困ってしまった。

 匹女は視線を少し下げて、膝に重ねた自分の手を見ている。その手はもぞもぞと動くが、口元と一緒にぎゅっと結ばれる。

「ほ、他に誰もいないのか。皆、たいした怪我ではないと思っているんだな。確かにたいしたことはないが、なかなか酷い」

 辺りを見渡して苦笑してみると、匹女の口元にも微かに笑みが漂った。

「私が人払いをしたのです。御笠様のご無事をお祈りするからと言って……」

「そうだったのか。それは助かった」

 礼を言おうとすると、匹女は、いえ、と目を伏せる。

「本当は、皆がいてもお祈りはできるのです。たいしたお怪我ではないことも分かっていました。ただ、二人でお話ししたかったのです」

 御笠は息を呑む。匹女がそっと目を上げ、不安そうに御笠をうかがう。

 結婚のことは、もちろん匹女も知っている。御笠はあたふたと視線を逸らせ、地面に爪を立てる。

「話……ああ、あれだな。その、つまり、私たちは夫婦になるわけで、うん、決まりだから仕方がないが、私はあんまり、無理矢理というのは好まないから、嫌だったら形だけで構わないし、嫌だと言ってくれたほうが……」

 早口に言いながら、自分は何を言っているのだろうと思い、それに気づくと情けなくなって居ても立ってもいられなくなった。

「じゃあ、そういうことだ」

 御笠は、匹女の顔も見ずに立つと同時に洞穴を出ようとする。滲んだ涙を見られるわけにはいかないと思ったのに、あ、という小さな声とともに、ぐいと腕を引っ張られた。

 思いがけず、強い力だった。

「あなた、ですよね」

 呪力が強いというのは、こういうことなのだろうか。大きな声ではないのに、しんと耳に染みわたり、御笠はその場を動けなくなった。

「夜中に、お一人で泣いておられたのは御笠様ですよね」

 口を開いたが、言葉が出てこなかった。外から風が吹き込んできて、それが止んだころ、匹女は御笠にそっと寄り添った。

「ずっと不思議だったのですよ。誰かの悲しみが伝わってくる。皆ではない。誰か一人だけ」

 そうか、と御笠は目をつぶる。そうか。夜中、あの河辺で泣いているとき、明日はうまくやれますよ、と優しく包んでくれていたのは、この少女だったのだ。

「今日は、申し訳ございませんでした。木の葉の中でいつものあの方が悲しんでおられると、不用意にそちらをうかがってしまいました。驚かれたでしょう」

「……驚いたのはお前のほうじゃないのか。まさか、その泣き虫の正体が大将などと……」

 語尾が涙で滲み、御笠はごまかすように鼻をすする。

「でも、嬉しかったのですよ? 心の繋がった方と、夫婦になれるのですから」

「匹女」

 御笠は振り返って彼女の肩を抱き、そこに頭を垂れる。嗚咽を噛み殺し、目を強く閉じる。

「私はもう泣かない。約束する」

 匹女は何も言わず、御笠の背中を撫でていた。


          *

 

 御笠は斜め上へ向けて、きりきりと弓を引き絞る。木の葉に隠れるようにして、鳥がとまっていた。

 御笠は弦から手を離す。力強く放たれた矢は、まっすぐ獲物へ吸い込まれていった。

「お、やったか?」

「誰だ、誰だ」

 音に気づいて、近くで獲物を探していた仲間が集まってきた。

「今日は私が一番速かったな」

 御笠は鳥の足を持って、掲げてみせる。その腕は、耳輪をつけられたときのような少年のものではない。たくましく引き締まった青年のものだ。

「御笠様か。くそ、先を越されたな」

「さすが大将。いや、かっこいいね」

 わざとらしいにやにや顔で言うのは浜虫である。いつも真っ先に大物を仕留めるのは彼だったが、悔しそうな様子は微塵もなかった。

「私ももう子どもではないからな。これくらいは当然だ」

「そうおっしゃる割に嬉しそうなあたりが、子どもっぽいんですけどね」

 悪びれのない浜虫を睨みつけたとき、草木を掻き分け、仲間の女が走ってきた。洞穴で留守番をしているはずの、浜虫の妻舟女である。

 普段は活発で男勝りな彼女が、青い顔で息をきらせている。

「舟女、どうしたんだ」

 前へ出る浜虫を無視して、舟女は御笠に詰め寄る。

「御笠様、ヤマトの朝廷のヤツらが来た」

 さっとその場に緊張が走った。さわさわと風が木の葉を揺らす音だけが、束の間、皆の間を流れていく。

 この広大な土地を支配しているヤマトという権力がある。その朝廷、つまりは王に仕え、政を行っている連中だ。同じヤマトの人間といっても庶民とはわけが違う。

「話がしたいっていうんだけど……」

 舟女が言いよどむのは、相手が好意的ではないからだろう。

 ヤマトの人々は、ヤマトに属さない御笠たちを『土蜘蛛』と呼ぶ。洞穴に隠れ住み、山を駆け回って獲物をとる、褐色の肌をしたまつろわぬ民は、『土蜘蛛』であると。王の権威に畏れを抱かない賊であると。王にひれ伏す庶民たちは、御笠たちを軽蔑し、恐れている。

「話って、俺たちに従えっていうんだろ。冗談じゃないぜ、奴隷にされるだけだ」

「浜虫、落ち着け。とにかく、対面してみよう」

 御笠は皆を見渡して、安心させるように微笑を浮かべる。

「心配するな。私たちの暮らしを変えさせるようなことはしない」

 誰もが険しい、あるいは不安げな表情をしていたが、口を開く者はなかった。 御笠は何でもないような顔をして山を下り始める。心臓は激しく脈打ち、嫌な汗が背中を伝っていた。

 昨夜、匹女は御笠に、異変ありとささやいた。

「前にもそんなことがあったな。そのときは、怪我をした野犬が迷い込んできたんだったか。今度は熊か? そしたら、怖いなぁ」

 陰を落とした匹女の表情に、御笠は不安を覚えたが、それを隠して笑う。

 匹女はふいと笑んで、祈るように御笠の右手を両手で包んだ。

「ささいなことかもしれません。ですが、十分ご注意くださいますよう」

 御笠は頷く代わりに、その手へ目を落とした。ぽっとそこが火照って、大丈夫だとも分かっているとも言えなかった。匹女には分かっている。御笠が無理に隠した不安も、恐怖も。

 ――私は強くあらねばならないんだ。

 御笠は右手を握りしめ、大股で歩を進めた。

 ヤマトの者は、洞穴には入らず、莚を敷いて外で座していた。

 白い衣をまとった高貴な青年と、その後ろに従者らしき男が控えている。従者は帯剣していたが、主の青年は丸腰だった。

 青年は御笠の姿を認めると立ち上がって、上品な笑みを浮かべた。すっきりとした顔立ちの優しげな男だが、その目には不遜な光が宿っている。

 御笠の仲間の青年らが、遠巻きにヤマトの二人を囲み、緊張した面持ちで弓や鉾を握っている。ヤマトの青年は、まるで気にせず、目もくれない。

「貴殿が、ここらの土蜘蛛をまとめる陸耳御笠(くがみみのみかさ)か」

「我らは土蜘蛛ではない」

 御笠は弓を浜虫に預け、丸腰で青年の前に立つ。背は同じくらいだったが、年齢は向こうが上だろう。

「それは失礼した」

 ヤマトの青年は上品な笑みを崩さない。

「だが、私の国では貴殿らのような者を土蜘蛛と呼ぶのだ。貴殿らが我が国に従わないように、我らは貴殿の言葉を認めないよ」

「話とは何だ」

 心の震えが声に出ないよう、御笠は低く吐きつける。

 ヤマトの青年は答えず莚に座し、目で御笠にも促す。御笠は相手を見据えたまま、慎重に腰を下ろす。

「私は日子坐(ひこいます)日子坐王(ひこいますのきみ)と呼ばれている。話というのはまあ、お分かりだと思うけどね、ヤマトの民となり、大王(おおきみ)に仕えなさいということだ」

 口調は柔らかだが、高圧的な響きがあった。日子坐は口元に笑みを漂わせたまま、笑わない目で御笠を見ている。

「それは――」

 想定していた内容だったにかかわらず、言葉が出てこない。言うことは一つだ。だが、その返答を、この男は許さない。

 女、子どもが洞穴に隠れて、二人のやりとりを見守っている。幼子を抱いた女もいれば、遊び盛りの少年少女もいる。何より、祈るように両手を組んでいる匹女がいる。

 ――私が守るんだ。

 御笠は深く息を吸って、眼前の男を見据える。

「お断りする」

 日子坐は少しばかり目を細めたが、ほとんど表情を変えなかった。

「私は仕えてくれないかと頼んだわけではないよ。仕えなさい、と申したのだ。ここら一帯は全て大王の土地だ。ここにいながら、大王に従わないということはできない」

「勝手なことを言うな。我らは昔からここに住んでいる。ここは我らの土地だ」

 今日の青葉山は皮肉なほどに穏やかだ。名前の通り、青葉の匂いが爽やかに満ちている。

「大王に仕えたとして、貴殿らの生活は保障する。国の大事には兵や食糧を出してもらわねばならないかもしれないが、普段、大王の威光に守られているから、それは当然のことだ」

「そんなこと、信じられると思うか。『土蜘蛛』である我らを、お前たちが普通に受け入れるはずがない。信用させておいて皆殺しにするか、奴隷のように使役するつもりだろう」

 ヤマトに対する皆の意見だ。このとき、御笠は自分の耳にぶらさがっている金輪の存在が、急に鮮やかに感じられた。

 日子坐は途端に笑みを消した。無遠慮に御笠を眺め、ふうん、と呟く。

「まさかそんなことは……と言いたいけど、もうやめだ」

 日子坐は立ち上がり、従者から剣を受け取った。日子坐を囲んだ青年たちの弓が動くが、彼が剣を抜く様子はない。

「大王――兄上は、とりあえず従うと約束させて朝廷まで連れてこいとおっしゃったけど、そうだ、御笠、お前の言う通りだ。生かしておくつもりなどないだろう」

皇子(みこ)様!」

 従者が叫ぶが、日子坐は黙らない。

「こんなまどろっこしいことをしなくても、大軍を率いてさっさと潰せばよかったのだ。何が海の王だ。恐れることは何もない」

「あ――」

 御笠が、危ない、と叫ぶ前だった。日子坐に矢を向けた青年の背中に、矢が突き刺さった。あっと思う間もなく、四方の木が揺れて、御笠を狙った矢が飛んでくる。

 御笠がとっさに飛び退いたとき、今まで穏やかだったのが嘘のような大風が吹いた。追い風だ。矢は勢いを失って、僅かなところで御笠に届かなかった。

「浜虫、私の弓を!」

「御笠様、あんたは逃げろ!」

 浜虫は剣を抜いて、御笠の前に飛び出した。日子坐に斬りかかろうとするが、飛んでくる矢がそれを阻む。

「どうせこうなるのなら、もっと大勢連れて来ればよかったね。まともにやって勝てる人数ではないから、御笠だけ始末できたら良かったんだけど」

 日子坐はゆるりと剣を抜いたかと思うと、風のように駆けだした。浜虫が飛んできて、御笠の前で剣を受け止める。火花が散り、浜虫の足が後方へさがる。

「おっと」

 日子坐が軽い声を漏らして身をかわしたのは、舟女の鉾だ。

「浜虫、こんなやつに負けたら許さないよ!」

「舟女、俺を心配してくれるのか?」

「うるさい!」

 浜虫の顔が明るくなり、動きが軽やかになる。日子坐は眉をひそめ、一歩飛び退いた。

「御笠様」

 硬直しきった御笠の手を握ったのは、匹女だった。

「匹女……」

 女や子どもは、すぐに洞穴へ隠れたはずである。

「御笠様、こちらです」

 匹女は御笠の手を引いて、敵のいないほうへと駆け出す。御笠の足は金縛りがとけたように動き出す。

 二人は、木々の中へ入っていった。



 しばらく山を駆けたところで、匹女は足を緩め、御笠はその場に座り込む。草木が鬱蒼と茂っており、騒乱の音はもう聞こえない。

「あの風……」

 御笠は息を整えながら、匹女を見上げる。

「あのとき矢を散らした大風も、お前か?」

「風の神が味方してくださったのです」

 匹女は微笑もうとするが、その表情は強張り、声はかすれている。黒々とした瞳でしばし御笠を見つめると、安堵したような息を吐いてしゃがみ込んだ。

 御笠は歯を噛んで、項垂れる。

「……怖かっただろう? 矢の中に飛び出していくのは。私はあの場を動けなかった。驚いたのと、怖いのとで、どうしていいのか分からなくなってしまった」

「私も……動けたのが不思議です」

 匹女はぽつりと呟いて、口を結ぶ。

 それから、二人は黙ったきりだった。辺りは嘘のように穏やかだった。茂みの向こうからは川のせせらぎが聞こえる。

 初めに日子坐を射ようとして矢を受けたのは、魚足(うおたり)だ。小柄だが、誰よりも活発で木登りが得意な青年だった。幼い妹がいた。

 他に誰が、奇襲の犠牲となったのだろう。仲間の一人一人が、胸を過っていく。御笠は膝を抱えて、そこに額を押し付ける。

「お泣きください」

「……これで最後だからな。今度は、ほんとに泣かない」

 泣かないと約束してから、何度口にしたか分からない言葉だった。

『さて、本当でしょうか』

 匹女はいつもそう笑ったが、今日は震える手が背中に触れた。

「最後であって欲しい。こんなことは、二度と……」

 最後、いや始まりだ。彼女はそれを分かっている。日子坐の、土蜘蛛、と口にしたときの響きが耳朶に残っている。

 ――我らを見逃しはしまい。

 御笠の嗚咽に合わせ、耳の飾りは頼りなく揺れていた。


 

ここまで読んでくださったかた、ありがとうございます。

四世紀……昔のことすぎて想像がつきません……。しかも山奥に住んでたとなると原始人みたいなものか?と思わないでもないのですが(^^;

これの続きは……書けていません。勉強が追いつかず。まとまったら、書く予定です。

まあ、あとは全滅するだけなんですけどね!


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