みなもと
少し前。
源頼光は目を覚ます。薄く開いた視界は、膜を張ったようにぼやけている。頭も、鈍器で殴られたようにはっきりしない。
真夜中にしつこく起こされたときのようだ。だが、起こした人がいる様子もなく、起きなければならない雰囲気ではない。
――じゃあ、寝ててもいいんだな。
頼光は幸せな気分になり、寝返りを打とうとする。しかし、金縛りにあったように体が動かない。それどころか、胴回りに鈍い痛みがある。足が地面を踏む感触があり、どうも寝転がっているわけではないようだ。
背中に感じるのは、冷たく、ごつごつしたものだ。岩か何かに、立った姿勢で、しばられているといった感じか。昨夜、そんな寝方をした覚えはないのだが、どういうことかと頼光は考える。
『それにしてもお前は、不思議なやつだ。初めは徳の高い僧侶のように、綺麗ごとを信じて疑わないようなやつかと思ったが、そうでもないらしい。本性はどっちだ?』
透明な酒の満たされた杯を手にして、赤い目を細める鬼の姿が、脳裏を走った。
頼光は目を開き、とっさに自分の腹に手をやろうとする。が、腕は何かに押さえつけられていて動かない。
やはり、縛られているのだ。胴と腕の上を、どこかで見たことのある白い糸が何重にも走っている。
――俺は、腹を刺されたよな……?
頼光は顎を引いて、自分の腹へ目を落とす。重なり合った糸の隙間から、赤く染まり、破れた狩衣が見える。
あの瞬間の、痛みかも分からない衝撃も風の抜けるような冷たさも、生々しく覚えているのに、今現在、そこに何の違和感もない。
――俺の体はどうなってるんだ。
頼光はぞっとして、自分の体を見下ろす。ふいにそれが自分のものではないように錯覚して、すぐに目を離した。
どくどくと脈打つ不安を落ち着かせるように、息を吐く。
生きているなら、それでいいではないか。それよりもまず、やるべきことがあるはずだ。頼光は、周囲を見渡して自分が置かれている状況を知ろうとする。
洞窟であることは間違いないようだ。普通ではありえない大きさの蜘蛛の巣が、至るところに張られている。壁際に並べられた篝火のおかげで、辺りは明るい。
ここは巨大な洞窟の、一つの部屋だ。頼光から見て、前と左右の壁にはぽっかりと穴があいている。その奥は暗くなって見えないが、別の部屋か、外に繋がっているのだろう。
体は巨大な岩に縛られているのか。
後ろを確認しようと、なんとか首を回した頼光は、視界の端に映ったものに、硬直する。
つややかな赤い髪。それと同じ色をしているはずの瞳は閉じられ、長いまつげは地面を向いている。彼は、頼光と同じ岩に、同じように縛られているのだ。
眠っているのか、死んでいるのか。
頼光は少し上にある赤鬼の顔を、無理に回した首が痛むのも忘れて凝視する。
ふと、作り物なのではないかと思ってしまう。もしくは、幻覚だ。動かぬ酒呑童子は、あまりに儚すぎた。
頼光は一つ息をつくと、前を向き、うまいこと抜け出せないかと体を動かしてみる。
「不思議なこともあるものだ」
唐突に、くぐもった低い声が頼光の頭に響いた。空気が歪んだように、息がつまる。悪い予感を煮詰めたような、どす黒いものにとらわれる錯覚を起こす。
眼前の通路の闇がうごめき、それは地をはってくる。
「腹を貫かれた人間が、こうも元気に生きているとは。源頼光、お前は本当に人間か」
三度目だ、土蜘蛛を見るのは。一度目は、幼い綱を助けたとき、二度目は、呪いにかかり、屋敷を襲われたときだ。
その土蜘蛛は、今まで見たどの土蜘蛛よりも大きく、禍々しい気を取り巻いていた。
酒呑童子は、真っ暗な中にいた。これは目を閉じているからだということも、何かに縛られているらしいことも分かっていたが、彼の瞼は上がらない。
目を開けることさえ、できないのだ。鉛の中に沈みこんだように、体が動かない。
混沌とした意識が、周囲の音だけを拾う。
頭の中に直接響いてくるような、低い声は土蜘蛛の大将、御笠のものだ。内容は、朝廷への恨み言か。深い闇に落ちている酒呑に、あれこれと考える力はない。
「都は? 今、都が襲われているのか?」
「そうだ、お前がここを抜けだせたとしても、もう遅い」
酒呑の体をしばっている糸が、僅かに引っ張られる。隣で、同じ糸でしばられている誰かが動いたようだ。
「もう遅いと言っているだろう? お前をしばるその糸も、あちこちに張り巡らされた蜘蛛の巣も、全部つながっている。動けば、その振動が他の土蜘蛛にも伝わる。糸が切れれば……言うまでもないな」
「俺は源氏だ」
静かだが、抑えきれぬ力の籠った声は、鮮明に酒呑へと届く。
「俺たちは源氏の姓を与えられたときから、帝を、この国を守るのが使命だ」
源氏は、もともと皇族だ。増えすぎた親王を国は養いきれず、臣籍へと降下した。
天皇と源を同じくする者。源氏は、帝の総べるこの地を、誰よりも親身に守らねばならない臣下だ。
「気に入らぬな。お前の言うこの国は、我ら土蜘蛛を含め、まつろわぬ民を無理矢理、侵略してできた国だ」
「お前は守りきれなかったんだろ。俺たちの国は、お前たちを悪とみなして勝ったんだから、万々歳だ。お前たちは、この国が悪いと思ったけど、勝てなかった」
「だから、潰すのだ!」
御笠の大音声が洞窟内に響いた。
「頼光、貴様に見せてやる! 崩壊した都を! 大将のいなくなったこの国を! 一瞬でもいい、我らが長になって、『貴様らが間違っていた』が正しいとする世を!」
声は土の壁に当たって、何重にもなった。やがて小さくなり、静寂が訪れる。
酒呑の瞼が動く。彼は、現実の世界にいることを確かめるように、ゆっくりと呼吸をする。
御笠が静かに笑い出す。
「お前の部下はお前が死んだものと思っているだろうが、この姿を見せたらどうだろうな。お前の命を守るために、我らに従うかもしれん」
「あいつらは俺の命より、俺の命令に従う」
見えるはずはないのに、酒呑は、頼光が笑みを浮かべた気がした。あの、思わず心を許してしまう不思議な笑顔だ。
御笠は嘲笑するように、鼻を鳴らす。巨体が悠々と去っていく気配がする。
「……よりみつ」
声にはならないと思ったのに、ふと呼びたくなった名は、酒呑の口を零れ出た。
ようやく開いた酒呑の瞳は、その青年がいるほうへ滑る。
「なんだ、酒呑童子、生きてたのか」
「それは……俺が言いたい。俺は……確かに、お前を殺した」
頼光は苦笑する。
「お前……この国を、本気で……命をかけて守りたいと思っているのか?」
「俺がどうやって、そう思わないようになれるんだ」
酒呑から目を離し、土蜘蛛が消えていったらしい方向を見つめる頼光の横顔は、どこか疲れたようだった。
「よりみつ、いや……頼光だったな」
「どっちでもいいぞ。名前は嘘じゃない」
頼光はぼんやりと前を見たまま、どうでもよさそうに話し出す。
「どっちでも読めるんだよ、俺の名前は。どっちかっていうと、ヨリミツのほうが正しいんだ」
酒呑は、何も答えず、大きく息をつく。毒酒が回っているのだろう、また頭の中を掻き回されるような気持ちの悪さが襲ってきた。
頼光は酒呑の様子には気にせず、独り言のように呟く。
「ライコウのほうが、強そうでかっこいいからな。俺は、この国を守る英雄である限り、ライコウでいなくちゃあ……」
騙して毒を呑ませるのが英雄か。酒呑がそう口を開きかけたとき、頼光の瞼は完全に下りていた。
すやすやと寝息まで聞こえてきそうな、穏やかな寝顔である。
――呆れたやつだな……。
酒呑は、半ば感心すら覚えて、彼の寝顔を見やる。冷たい刃を向けてきた武者と、同一人物だというのが不思議だ。
もし、この男が源氏でなければ、何ものにもとらわれずに生まれてきたのであれば、本性は、あの笑顔やこの寝顔なのではないか。
――まだ信じているのか、俺は。
酒呑は苦笑する。湧き上がってきた悔しさを、今はどうしようもないと飲み下す。
頼光に刺された傷は、熱を持ち、じくじくと痛んでいる。怒りも憎しみもなく、ただ殺意だけが込められた太刀に貫かれた傷だ。
酒呑は再び、瞼を下ろす。気分が悪い。深く息を吸ってみても、淀んだ空気が体内を巡っているように、息苦しさはぬぐえない。
何か小さなものが、ちょろちょろと足元をはった。鼠だろう。鳴き声がする。
――酒呑童子は、酒で命を落とすという縁なんだろうな。
酒呑は、このとき、毒に身をゆだねようとした。体内をむしばんでいくものへの、抵抗をやめた。
もう死ぬのだろうと思ったのも、死んでもいいと思ったのも、初めてだが、受け入れてしまうと怖いものもなかった。自分勝手なものだが、この後この世がどうなるのか、気にすらならなかった。
沈んでいく意識が見るのは過去ばかりである。茨木童子の笑顔である。鬼の里の風景である。
最後に浮かんだのは、自分と同じ髪をした弟だ。赤い瞳に映っているのは、外道丸か。
「兄さん」
囁くような声が、鮮明に耳朶をうった。
ふっと縛られている息苦しさが消える。足元がふらついて、酒呑は地面に倒れ込む。
身を打ちつけた痛みと地面の冷たさ。酒呑は、ここが浮世と知る。
誰かが走っていく気配がする。
いつもそうだ。鬼同丸は、ケンカをするたび、赤い瞳で兄を睨んで、走っていく。
今聞いている足音が、酒呑の頭の弟の姿と合わさる。
「……鬼同丸!」
酒呑は手をついて体を支え、弟の名を叫んだ。
目に映ったのは、黒い衣を頭から羽織った小さな背中だ。走っている彼の体から、黒い衣がするりと落ちる。
自分と同じ赤い髪。その中から顔を出す二本の角。
「鬼同丸!」
酒呑は声の限りに呼ぶ。
鬼同丸は振り返らない。深い洞窟の闇に消えていく。
酒呑は、その背を追おうと立ち上がり、すぐに膝をついてしまう。どくどくと全身の血液が脈打ち、呼吸が荒くなる。
何とか立ち上がろうと地面にはわせた手が、何かに触れた。
抜き身の太刀だ。鞘も近くに落ちている。鬼同丸が、糸を切って捨てていったのだ。
酒呑はそれを引き寄せる。
――これは、俺の太刀だ。
赤い目が刃に映る。鬼になったときもそうだった。この太刀に映った赤い目と赤い髪を見て、自分が鬼だと気づいた。
洞窟中が震えた。糸が切られたことを知った土蜘蛛が、一斉に向かってきているのだ。
――そうだ、この太刀を作ったのは父上だ。俺とお前の……。
酒呑は、どろどろと纏わりついて離れない毒をねじ伏せ、今度こそ立ち上がった。
ここまで読んでくださったかた、ありがとうございます。
頼光、さらっと生きてました。でも、なんとなく復活したわけではなく、一応、ちゃんとした理由が……伏線もはってあるんですが……。タネあかしは、ラストくらいになると思います。
頼光は「らいこう」とも「よりみつ」とも呼ばれてますが、伝説の中では「らいこう」と読まれることが多いように思います。伝説ができたからこそ世間に知られて、「らいこう」とかっこよく呼ばれるようになったのでは……とか考えてます
。
次回はこの続きで頼光と、鬼同丸です。




