月のない夜
大江山、土蜘蛛の洞穴。
大将の御笠がいる一番大きな洞穴のまわりには、無数の穴があいている。その中の一つ、少し離れたところにぽつんとあいている洞穴が、鬼同丸と袴垂の住処だった。
月のない夜、鬼同丸は夢を見ていた。
『鬼同丸』
夢の中でそう呼ぶのは、兄の外道丸だ。実の弟でも、ふいに顔をよせられるとどきりとするほど、綺麗な顔をしている。
それは、最後の日の夢だった。鬼同丸が村人に殺されかけた日、兄に見捨てられた日だ。
『俺が帰るまで、大人しくしてろよ』
出かける前、外道丸は鬼同丸の頭をぽんと叩いた。
この前日、村で火事があった。外道丸はその被害があった場所へ行くのだ。
――行くなよ。兄さん、行くな。
夢を見ているほうの鬼同丸は、そう叫ぶ。だが、夢の中の鬼同丸は、何も知らずに兄に話しかける。
『兄さんが人助けなんて、似合わねぇな』
『行かないとそれはそれで、のちのち面倒なことになるだろ』
外道丸が戸のかわりの簾をからげる。
――行くな。そのまま、戻ってこないんだろ。
昔の映像を見ながら、鬼同丸は兄の背に手を伸ばそうとする。その意思に反して、夢の中の鬼同丸は、兄を見送るために立ち上がる。村の子どもに傷つけられた右足をかばいながら、ふらふらと兄の傍による。
『兄さんが行ったら、女の子が集まってくるから、よけい作業がはかどらないと思うけど』
『それは俺のせいじゃないから、批難される覚えはない』
外道丸はきっぱり言い切ると、壁を支えに立っている鬼同丸を凝視して、ふいに笑った。
『大人しくしてろも何も、それじゃ大人しくしかできないな』
外道丸が笑うことは珍しい。村の女の前ですれば、どれほど喜ぶかしれないのにと、鬼同丸は昔も今も思う。
『じゃあな。なるべく早く帰る』
外道丸が笑みを残したまま出ていく。
――嘘だ。兄さんはもう戻ってこないんだ。今日、村の人が俺を殺すことを知ってて、出ていくんだ。
夢の中の鬼同丸は、何の心配もなく、兄の背中に手を振る。現実の鬼同丸は必死で、声にならない声をあげる。
兄さん、行くな、行かないで――。
「兄さんっ!」
鬼同丸は叫んで、飛び起きた。土臭い洞穴の中で、その声はよく響き、鬼同丸を一気に現実へと引き戻した。
「……んー……うるせぇな。どうかした?」
隣で寝ていた袴垂がもぞもぞと起きだし、目をこすって鬼同丸を見やる。
「いや……何でもない」
「ホントか?」
「ちょっと水飲んでくる」
訝しげな袴垂の眼差しから逃れるように、鬼同丸は藁の寝床を出た。背中にびっしょり汗をかいている。
「川まで行くのか?」
「すぐ戻るから、寝てろ」
立ち上がろうとする袴垂を制して、鬼同丸は逃げるように洞穴を出た。
辺りは真っ暗だ。鬼の鬼同丸には問題ないが、人間なら、前後も分からないだろう。
洞穴を出て、しばらく茂みを掻き分けていくと、浅い川がある。鬼同丸は躊躇いなく川に足を入れると、水をはねさせながら駆けた。
足首が締めつけられるように、きゅっと冷える。中腹辺りまで来ると、鬼同丸は足を止め、川の水を両手ですくって、勢いよく顔にかけた。
三回、四回。
――何で今ごろ、あんな夢なんか。
ぽたぽたと前髪から、雫が垂れる。墨をこぼしたような川面へ落ちていく。鬼同丸は、もう一度水をすくうと、ゆっくり口に含んだ。
分かっている。何故、あんな夢を見たか。兄――酒呑童子を征伐しに、明日、源頼光が大江山へ向かうと報告があったからだ。
鬼同丸と袴垂は、明日の朝、京へ行くことが決まっている。頼光がいない京を、土蜘蛛と共に襲うのだ。
――兄さん。
鬼同丸は心臓あたりに手を置いて、着物ごとこぶしを握った。
そのとき、ガサガサと眼前の茂みが揺れた。袴垂ではない。彼なら、後ろから来るはずだ。
鬼同丸が身を固くして、息を呑んだとき、
「鬼同丸?」
青い髪の少女が、ひょっこり顔を出した。
「茨木!」
茨木童子は嬉しそうに川の手前まで来ると、両手を上げて大きく振った。
鬼同丸は顔を袖でぬぐって、茨木のいる河辺へ上がる。
「久しぶりなのだー」
「ああ、こんなところで会うとは思わなかった」
「あれ? 私、大江山に住んでるって言わなかったっけ?」
鬼同丸はどきりとした。鬼の里の者が土蜘蛛の住処の近くに来るとは思わなかった、という意味で言ってしまったのだ。
茨木は、鬼同丸が土蜘蛛の仲間であることを知らない。
「あ、いや、夜だし」
「鬼が夜に出歩くのは普通なのだ」
「羅城門では寝てたじゃねぇか」
「あれは疲れてたから!」
茨木が言い訳するような口調で声を張る。私は昼間も好きだから大変なのだ、と口を尖らせた。
話が逸れたと、鬼同丸がほっとしたのも束の間。
「鬼同丸は、大江山に何しに来たの?」
茨木は何の疑いもない眼差しを鬼同丸に向けて、小首をかしげた。彼女は、鬼同丸が京に住んでいると思っている。
焦った鬼同丸は、頭をフル回転させて嘘を考えた。
「俺、京に住んでるってわけでもなくって……あちこち旅してるっていうか……」
「え、じゃあ、住処はないの?」
鬼同丸は罪悪感を覚えながらも、曖昧に頷いた。
はっきりしない鬼同丸の態度をどう捉えたのか、茨木の顔が憂いを帯びた。
「大変そうなのだ。行くところがないなら、鬼の里に――」
「に、人間のつれがいるんだ!」
鬼同丸は慌てて、茨木の言葉を遮った。
「そうなの? あ、あのときの盗賊?」
「そうそう」
茨木が、ふうんと言って川面を見やる。鬼同丸が気づかれないように、そっと表情をうかがったとき、彼女は勢いよく振り向いた。
「でも、せっかくだから、鬼の里に遊びに来ない?」
「え……」
言葉に詰まる鬼同丸に、茨木が期待を含んだ瞳で詰め寄った。
「その人間さんには麓の村で待っててもらって、ちょっとだけでもさ。私の知り合いって、酒呑にもちゃんと紹介するし!」
酒呑――。その言葉を聞いた瞬間、鬼同丸の心臓が飛び跳ねた。いいでしょ、とにっこりする茨木に、鬼同丸は激しく首を横に振った。
「とにかく駄目だ。鬼の里には行けない」
当然茨木からは、何で、という問いが返ってくる。鬼同丸が口ごもったとき、彼女は、あっと声をあげた。
「酒呑は今、この近くにいるのだ。私を探してるはず――」
きょろきょろと辺りを見渡し始めた茨木の動きを止めるように、鬼同丸は彼女の腕をつかむ。自分でも驚くほど、鬼同丸は動揺していた。
「茨木、俺と会ったことは酒呑童子に言うな」
「え?」
「頼む! 頼むから!」
鬼同丸が必死で訴えたとき、少し離れたところで何かが動く気配がした。それは、まっすぐこちらへ走ってくる。
鬼同丸は跳躍した。
「茨木!」
酒呑童子が茂みを掻きわけて茨木の前に現れたとき、そこにもう、赤毛の子鬼の姿はなかった。
「あはは、見つかっちゃった」
ぺろりと舌を出して頭を掻く茨木を見て、酒呑は安堵の息を吐いた。
「急にいなくなるな。この近くには土蜘蛛の住処があるんだぞ」
「ちょっと驚かそうと思ったのだ」
茨木が笑いかけても、酒呑は相好を崩さない。眉根をよせて、周囲に視線を走らせる。
「ここにいたやつは?」
「えっ」
「ここに誰かいただろう?」
酒呑は、茨木の足元を見やった。彼女に踏まれている草は当然、倒れている。その隣にも、草が踏まれたように倒れている部分があった。
その草は濡れているが、茨木が川に入った形跡はない。
「微かに声も聞こえた。その声の方から、二人分の気配がするもんだから、お前が土蜘蛛の仲間と遭遇したのかと思ったんだがな」
「そうじゃなくて、えーっと……」
茨木が言いよどむ。何だ、と酒呑に促され、誤魔化すような笑顔を浮かべた。
「私もよく分からないんだけど、狐に化かされたみたいなのだ」
「狐?」
「でも私が鬼だって気づいて、逃げちゃった」
茨木は川に背を向けて歩き出す。夜の散歩中だったのだ。
「馬鹿な狐だな」
酒呑は、木の葉に覆われた影を一瞥し、茨木のあとに続いた。
茨木と酒呑が去り、木の上で葉に身を隠していた鬼同丸は、ほっと胸をなでおろした。爆発しそうなほど激しく脈打っていた心臓も、徐々に落ち着きを取り戻していく。
しばらく様子を見てから、鬼同丸はぴょんと木から飛び下りた。着物についた木の葉を軽く払う。
――兄さん、ここに隠れてるって分かってたよな。
まさか隠れているものが、自分の弟だとは思わなかっただろうが。
さあっと風が吹いて、鬼同丸は体を震わせた。緊張で火照っていたのが、冷めてきたのだ。
早く帰ろうと、鬼同丸は再び川に入った。ぎゅっと引き絞った袴の裾は、ぎりぎり水面の上にある。
川を渡りながら、鬼同丸は無意識のうちに歯を噛みしめていた。
酒呑は、微かに声を聞いたと言った。それで、ここに来たのだと。
「……声で俺だって分かんなかったのかよ」
気づかれては困るはずなのに、鬼同丸の口からそんな呟きがこぼれた。
ここまで読んでくださったかた、ありがとうございます。
次回は、ようやく頼光が都を発ちます。




