渡辺綱
渡辺綱と源頼光の出会いです。ちょっと話が逸れますが、お読みいただければ幸いです。
頼光四天王の一人、渡辺綱が女でありながら、侍になったのにはわけがある。
頼光の郎党になる前から、綱は武士というものに憧れていた。それは、綱が生まれる少し前に亡くなった父のせいだ。
今は昔の話、綱の故郷坂東には、綱の父、源宛の他に、平良文という武人がいた。坂東、戦の多い、強き武者の地である。宛も良文も強き武者だと言われていたが、それぞれの家来たちは、それでは不満だった。
本当に相手は強いのか。いや、我が殿には敵うまい。両者がそう思っており、互いにお互いを中傷するようになった。
ならば、戦をすればよい。当然そういうことになる。宛、良文は、それぞれ五、六百の兵を引き連れ、しかるべき広い野に出た。百メートルと少し隔てて対峙し、いよいよ合戦が始まるというときだった。宛の陣に、良文からの使者がやってきた。
「今日の戦は、互いの軍をもって射合せるだけでは、面白くないでしょう。大将同士の手並みを比べてはみませんか」
綱の父、宛はこれを聞いて、すぐその使者に返事をした。
「私もそれが良いと思う。さっそく出ていこう」
言葉通り宛は、楯の中から一騎で歩み出て、矢をつがえる。宛の返事を聞いた良文も喜び、宛の前に一騎で現れた。
互いの家来たちが見守る中、宛と良文は、馬を駆けさせた。弓を引き絞り、馳せ違いざまに矢を放つ。馳せすぎて、また馬を取って返す。良文が宛の真ん中を狙って矢を放つと、宛は、落馬せんばかりに体を倒してかわす。宛が良文を狙うと、良文はとっさに体を捻る。
それを何度も繰り返したあと、良文がこう言った。
「互いに射た矢は、どれも外れるものではない。全て真ん中を射た矢だ。しかし、それらを全てかわしたのだから、大したものだ。我らは、互いの手並みが分かれば良いのであって、殺す必要はない。もうやめないか」
「そうだな。互いの手並みは十分に分かった」
宛はそう返事をし、双方は、軍勢を率いて帰っていった。それ以来、宛と良文はケンカすることなく、仲良くなったという。
「宛様が、いま撃ち落されるか、いま撃ち落されるか、と見ているほうが冷や冷やしましたよ。自分が戦うより恐ろしかったですね」
宛の亡きあと、当時宛の家来だった者は、娘の綱にそう語る。その話を聞くたび、幼い綱の心はわくわくした。
――父上……お会いしたかった。
御簾の内で、琴を弾きながら、綱はずっと父のことを考える。広い坂東の地で、父に従って馬を駆けさせる自分の姿を想像する。
ここは、勇を何より良しとする坂東の地。女でも馬に乗り、狩りをする人もいるのだ。
――つまんない。
綱は、琴を弾く手を止めてため息をつく。
「あーあ、父上が生きていればなぁ……」
「姫様、何かおっしゃいましたか?」
隣で綱を監視している乳母の目が、じろりと動いた。あんまり綱が、脱走するものだから、最近は片時も離れてくれない。
「なーんにもっ」
綱は拗ねたように言って、絃を弾く。
「姫様、そのように乱暴に弾いてはいけませんよ。もっとこう……」
「分かってる。……ああもう、琴は飽きた!」
綱は乳母の手を払いのけ、立ち上がった。
「姫様!」
「悪い、母上には黙ってておいてくれ」
捕まえようとする乳母に、上に着ていた広袖の衣を投げつける。相手の目が隠れているうちに、小袖姿となった綱は、外に飛び出した。
そのまま綱は、稽古中の郎党たちのところへ走っていく。その中から、白髪頭の郎党を見つけて、綱は跳ねるように駆け寄った。郎党の中で一番年長で、頭が真っ白なことから、 ススキと呼ばれている者だ。
「ススキ、今から狩りに行こう!」
ススキは綱を見ると、驚いたような、でも嬉しそうな顔をする。彼は、綱の父に長年仕え、良文との戦にも参加したという。綱に父の話を聞かせてくれるのも、こっそり剣を教えてくれるのもススキだ。
「姫様、困りましたなぁ。叱られるのは、私ですのに」
そう言いながらも、ススキの皺だらけの顔はほころんでいる。綱は、ススキが自分に甘いことをよく知っている。
「古今集も、琴も、十分覚えた。私は父上のようになりたいんだ」
「やはり殿の御子ですなぁ。ああ、姫様が若様であったら……」
では失礼します、と続けて、ススキは綱を馬に乗せた。他の郎党は苦笑して、見て見ぬふりをしている。
そういうわけで綱は、幼いころから武芸に励んでいた。
ただ一つ、綱の心に引っ掛かるのは、病気がちの母のことである。
綱の母は、娘の綱に期待をしていた。
「綱、あなたのご先祖は河原左大臣といって、とても美しい方だったのよ。左大臣、分かるわね? とても高貴な身分なのよ」
母は綱を枕元に呼んで、鏡を見せる。優しく、娘の黒髪を撫でる。
「あなたは、河原左大臣様のように美しいでしょう? そのときのように、この家を栄えさせてくれますね?」
綱の家は、今でこそ地方豪族となっているが、河原左大臣の父は天皇である。昔は、もっとも高貴な身分だったのだ。
「何かの折に、やんごとなきお方の目に入ることがあるかもしれません。そのお方のお気に召すよう、しっかり和歌や琴のお勉強をするのですよ」
綱は複雑な気持ちで、それを聞いている。母の言うことは、分かる。けど、それは綱のしたいことではない。
――……私は母上の子でもあるけど、父上の子でもあるんだ。
綱は、申し訳なさを感じながらも、母に反抗し続けていた。ずっとこのまま、こっそり屋敷を抜け出しては、坂東の地を駆けまわっていたいと思っていた。
しかし、綱は、ある日突然坂東を去らねばならないことになる。
それは、長いこと病気で臥せっていた綱の母の様態が、急に悪くなった日のことだ。
「綱……」
母は、弱々しい声で枕元の娘を呼んだ。
「あなたを、養女に出すことが決まりました」
「え?」
「私は……もう長くありません。父もいない、あなただけが心配……」
母は綱の手をとって、上体を起こす。冷たくて、力のない手だった。
「摂津の渡辺に、知り合いがいるの。戦の多いこの地より安全でね、京にも近いのよ」
母が生気のない笑みを浮かべる。声は、かすれて震えていた。
「新しいお父さんも、お母さんもいい人だから」
「母上、私は――」
坂東を離れたくありません、と綱は続けられなかった。反抗ばかりしてきたことに対して、急に後悔が込み上げてきた。
母は、分かってる、というように頷いて、綱の頭を撫でた。
「をちこちの、たづきもしらぬ、やまなかに……」
古今集だ。綱は記憶をたどって、下の句を詠んだ。
「……おぼつかなくも、よぶこどりかな」
遠くも近くも分からない山の中で、頼りなく鳴く呼子鳥よ。そんな意味だった。
「よく出来ました。あなたが摂津へ行ってくれれば、私は、世をさまよって我が子を呼ぶこともないでしょう」
綱は何も言えなかった。涙が流れていることにも、気がつかなかった。
「少し、疲れたわ」
そう言うと母は、力なく茵に横たわった。
数日後、綱の母は亡くなった。喪があけると、綱は摂津へ行かねばならなかった。
「姫様、寂しくなりますなぁ……」
出発の日、ススキはめそめそと泣いていた。彼はこの地に残って、屋敷を守るらしい。ついてくるのは、乳母と、女房、下人、郎党が、それぞれ少しずつだ。
――もう、会うこともないだろうな。
すっかり準備が整った牛車の前で、綱はススキの白髪頭を目に焼きつけた。
「ススキがいないと、狩りも出来なくなる……」
「こんなことを申したら、また乳母殿に怒られてしまうでしょうな……。ですが、姫様、向こうでも少しはやんちゃでいてくだされ。あなた様は、殿の娘なのですから……」
「分かっている。では、もう行くからな」
ふいに泣きそうになって、綱は、急いで牛車に乗った。
車の中では、待っていた乳母も、袖で目元を押さえていた。
「ススキの爺様は、姫様に甘くて困りましたけれど、お別れとなると寂しいですわね……」
「ああ」
牛車がごとごとと動き出す。綱は、物見窓から、ぼんやりと外を眺めていた。
「姫様、お願いですから、あちらでは大人しくなさってくださいましね。最近、都近くでは、幼子が行方不明になる事件があると聞きます。決して、お一人で外など――」
長々と続く乳母の話は、半分も綱の耳には入ってこない。
強き武者の国。父が駆け抜けた、生まれ故郷。そこから、綱は出ていこうとしている。
――摂津や京なんかには、強者はいまい。
ススキにはああ言ったが、今度こそ、綱は大人しくせねならないだろう。綱は、見知らぬ人たちの中で上品に微笑む自分を想像した。
――そうだ、母上もそれを願っていた。
綱は外を見るのをやめ、そっと目を伏せた。乳母に寄り添い、胸の内で深く謝罪する。
――私は、どうしようもない親不孝ものだ。
どう考えても深窓の姫君なんかは耐えられない。綱は、旅の途中で脱走することを心に決めていた。
坂東から摂津までは遠い。そのうえ、天候不良が続き、旅の予定は大幅に遅れていた。
適当な家に泊めてもらっては、少し行き、またどこかに泊まらざるを得ない。綱は、脱走の機会を掴めないでいた。
それでも少しずつ牛車は進み、摂津にさしかかる。
「明日には到着しますわ。これで、泊めてもらうのも最後でしょう」
宿泊することになった家の前で、牛車を降り、乳母が言った。頭上には、星がぽつぽつと見え始めている。
――もう、今日しかない。
皆が寝静まったころ、綱はそっと起き出した。白い筒袖の衣に袿を一枚はおり、髪は一つにまとめてある。
乳母も女房も気づかない。そろそろと歩を進めて一歩外へ出てしまうと、綱は、力の限り走った。
行くあてもない、これからのことも分からない。世間知らずの姫君は、ただ、狭苦しい世界から飛び出すことしか考えていなかった。
民家のない方へ走り、いつの間にか、綱は森のようなところへ入っていた。息をきらせて、大きな木の根本に座り込む。
――自由だ。
天を仰ぐと、木の葉の間から満天の星空が覗いていた。
『最近、都近くでは、幼子が行方不明になるという事件が――』
聞き流していたはずの乳母の話がふいに思い出され、綱は思わず笑ってしまった。行方不明になる幼子、まさに自分のことではないか。皮肉な話だが、恐らく他の子はさらわれたのだろう。
――私こそ、さらわれればよかったのに。
綱が思い切り伸びをしたそのとき、強い風が吹いた。生暖かい。でも何故か背筋がぞっとして、綱は不気味さを覚えた。
不安になって辺りを見渡し、その化け物の姿を見た綱は、心臓に冷水を浴びせられたような気がした。
「土蜘蛛の仲間にならんか……」
金色に光る二つの目が、木の上から綱を見下ろしている。ずるり、ずるり――少しずつ下りてくる体は、毛のびっしり生えた巨大な蜘蛛。
「お前、今の生活が嫌だったのだろう? 人間の世を捨てて、土蜘蛛の仲間にならんか?」
化け猫のような顔が、綱の眼前にあった。
「ッ! 嫌……嫌だ……っ!」
綱は、答えたという自覚もなしに、声を絞って駆け出していた。先ほどまでの、伸び伸びした気持ちは、もうどこにもない。家を出た後悔と恐怖に囚われて、やみくもに走る。
「あっ」
足に何か粘ついたものが絡まって、綱は派手に転んだ。その絡まっているものを見ると、白い糸である。そして、それは真っ直ぐ土蜘蛛の口へと繋がっていた。
「本当に怖いのは朝廷ぞ。お前には武術の才がある。我らの仲間となって、奴らを――」
土蜘蛛の長い足が、伸びてきた。綱は、体が震えて動けない。
誰か助けて――
綱が声にならない悲鳴を上げたときだ。今にも彼女に届きそうだった土蜘蛛の足が、閃光のような白刃によって、宙を舞った。
赤い血飛沫。土蜘蛛の悲鳴。その中で綱は、抜き身の太刀を手にした少年を見た。ひらりと光る銀の刃は、くるりと向きを変え、綱の足の糸を斬る。
「こっちだ……!」
気がつけば手を引かれ、綱は、その少年と一緒に走っていた。後方では、足を一本失った土蜘蛛の地を揺るがすような悲鳴が、まだ響いている。
その少年は振り返らない。綱の手をしっかりと握って、力強く地を駆ける。綱より三つか四つほど年上、十代半ばといった年齢だろう。
――こういう人だ。
先ほどの恐怖も忘れて、手を引かれたまま、綱はその背を追いかける。
――私がついていきたいのは、こういう人だ。
源頼光。その少年が、その人だった。
清和源氏、六孫王経基の孫にして源満仲の長男。綱が仕えるに申し分ない身分、そのうえ、頼光は、綱の養母になる人の兄だった。
養母といっても、歳は頼光の一つ下で、綱とほとんど変わらない。少し早い気はするが、結婚していてもおかしくない年齢だ。
頼光は、妹が坂東からの一行が来ないと心配していると聞き、綱たちを探しに来ていたという。妻問婚の当時には珍しく、頼光の妹は夫に引き取られ、摂津の渡辺にいる。頼光が父親と暮らしているのは、同じ摂津の多田だ。
いったい、どれほど深い前世の縁だろう。綱は、宿命めいたものを感じずにはいられなかった。坂東に生まれ、父に憧れを抱き、摂津に来ることになったのも、全部この人に会うためだったのではないだろうか。
その日綱は、頼光と一緒に、泊まっていた家に大人しく帰った。綱が家出していたと知った乳母の動転ぶりは、言わずもがなである。乳母をなだめ、事情を話した頼光は、その家に一晩泊まり、綱一行と共に、妹の家へ向かうことになった。
綱が、頼光の家来になりたいと打ち明けたのは、頼光の妹すなわち綱の養母と、初めて顔を合わせたときだった。庭の見える廂の間で、養母と、乳母と、頼光が居合わせていた。
御簾を下ろしていないことを気にしていた乳母の顔が瞬時に青ざめ、養母が、あら、と声をあげる。頼光は、ぽかんとしていた。
「ひ、姫様、何を……」
「私は、頼光様に侍としてお仕えしたいんだ」
綱は、乳母の震える手を振りほどき、頼光に向き直る。
「ご身分も分からないうちから、そう思ったのです。私は坂東の子。勇を誇りとする心に、男も女も関係ありません」
「そ、そう言われてもな……」
ようやく事態が呑みこめてきた頼光が言いよどんだとき、ばたばたという足音が割って入った。
「俺は、別にいいと思うっすけどねー」
ひょこっと場に顔を出したのは、子どもの巫女。背には胡籙を負い、弓を携えているが、黒い髪は長く、実に愛らしい少女だった。
その姿を見た頼光が、驚いたように目を瞬かせる。
「季武、何でここに?」
「何でって、殿が急にいなくなるからじゃないっすか」
季武と呼ばれた巫女は、頼光に、にっこり笑いかけると、すっとその笑みを大人びたものにし、片膝をついて正面から綱を見た。
「へぇ、なかなか見込みがありそうじゃねぇか。それに、ウチの殿を選ぶなんて見る目あるね」
「……お前は、頼光様の家来なのか?」
綱は、その軽々しい口調に少し警戒して、低く問う。言葉づかいを嗜める乳母の悲鳴のような声が聞こえてきたが無視した。
「そーそー、弓が得意でね、お仕えしてんだ」
「女なのに?」
「そーそ」
コクコクと頷く季武の頭を、頼光が軽く叩いた。
「お前は男だろ」
「えー、どっちでもいいじゃないっすか。なぁ、貞光?」
季武が、後方、つまり庭に繋がる簀子縁がある方向を振り返る。そこに建っている円柱の影が揺れ、後ろから、冷めた瞳の少年が姿を現した。少年は、円柱に背を預けたまま、場に入ってこようとはしない。
皆の注目を浴びる中、少年は視線をすいっと庭の方へ逸らし、非常に冷めた返答をした。
「役に立てば、どうでもいいと思いますよ」
それまで黙っていた養母が、くすりと笑う。
「そうね。兄様は、腕だけは立つから、将来はそっちの方面で活躍すると思うの。強い味方が大勢いるに越したことはないわ」
「え、腕だけ?」
「でも綱、あなたは私の養子には変わりないのよ」
頼光を無視して、養母が綱に膝でにじり寄る。母というより姉という年齢だが、どこか大人びた、素敵な人だ。
「あなたはこの土地――渡辺の子。渡辺綱、そう名乗りなさい」
ね、と養母に微笑まれ、綱は、精一杯の敬意を込めて頭を下げる。だが、本当は、今すぐ跳びあがりたい気分だった。
乳母をなだめるのは一仕事だったが、養母の助けもあり、なんとか落ち着いた。養母の父つまり頼光の父、源満仲は、極悪非道だと言われるほどの武者である。その血が流れているせいか、養母は、綱が武士になることを喜んでいるようだった。
それから数年して、頼光は京に上った。当然綱も、季武や貞光と共に、それに従った。坂東と違って、都は武芸など大して評価されないところではあるが、綱にとっては源頼光という人に仕えていることが誇りだった。
ただ、綱は、いくら自分を『俺』と言い、男らしく振る舞うようになっても、髪だけは切らないでいようと決めている。
『たらちめは かかれとてしも むばたまの 我が黒髪を 撫でずやありけむ』
僧正遍昭の和歌だ。母は、まさか私が髪を切ること|(出家すること)になるだろうと思って、幼い私の髪を撫でたのではないだろうという意味になる。
綱は出家するわけではないが、この歌のことを思うと、髪は切れなかった。そうすることが母への償いでもあった。それはもちろん、罪悪感から逃れたいがための綱の勝手な行為だが、綱自身それを理解したうえで、髪を一つにまとめた。
母に許されずとも、世間に非難されようとも、源頼光についていく。それが、六年経った今でも変わらない綱の覚悟だ。