鬼と人2
警備の目は、中納言の家に集まっている。
鬼同丸は、ここまで来れば大丈夫だろうと、川のほとりで足を止めた。茨木は大丈夫だろうかと振り返ると、彼女は不満げに鬼同丸を睨みつけていた。
「どうして逃げたのだ。あそこにいれば、人が食べれたのに」
「はぁ? その前に死ぬぞ?」
「腕くらいなら、落とされても平気だもん」
そう言って、茨木はひらひらと右手を振る。
「……そういえば、ちゃんとくっついたんだな」
茨木が得意そうに胸を張った。
「今日取り返してきたのだ! それまでは都観光してた!」
「呑気だな」
呆れかえる鬼同丸をよそに、茨木は中納言の家のほうを眺めて、舌なめずりをしている。
ややあって、彼女は笑顔で振り返った。
「ちょっと、新鮮な死体をもらってくる!」
「え? い、茨木!」
「殺さなくて人が食べれるなんて、素晴らしいじゃない!」
鬼同丸が止める間もなく、茨木は軽やかに飛んでいった。
一人残された鬼同丸は、追う気にもならず、ゆらゆら揺れる水面に視線を落とす。
「……ったく、人なんてどこが美味いんだか」
ここで待っていようか――そう思ったときだった。鬼同丸は何者かに後ろ襟をつかまれた。
あっと言う間もなく、地面に引き倒される。
「いッてぇ……――ッ!」
顔の横に刀が突き立てられ、胸倉をつかまれた。
鬼同丸は、その人の顔を見た瞬間、さっと血の気が退いていくのが分かった。
「……赤毛の、子鬼……」
静かな声。低くてよく通る、十年ぶりの声だ。
「……弟を……保輔をどこへやった……?」
その声に籠っているのは、怒りと焦燥か。いや、保輔の兄は、すがるような目をしていた。彼の暗い瞳に映っているのは、鬼同丸に染みついている弟の影だ。鬼同丸の胸倉をつかむ手は、小刻みに震えていた。
――十年も前だぞ……?
危機的状況にも関わらず、鬼同丸の頭は急速に冷めていく。
自然に言葉が口をついた。
「死んだよ」
「――ッ」
鬼同丸はその隙をついて、保昌の腕を振り払う。
「大事に育てられてきた貴族の子を、鬼が育てられるかってんだよ。すぐ病気になって、死んじまった」
保昌は、完全に色を失って動かない。
「いいかげん諦めろよ!」
鬼同丸は、吐き捨てて逃げ出した。
弟なんて、そんな大事なもんでもない。
鬼の子だったら、捨ててしまうくらいのものなのに。
*
数刻後、羅城門。
「あ、やっぱりここにいた!」
そう言ってやってきた笑顔の青鬼を見て、鬼同丸は心底からため息を吐いた。今は誰にも会いたくなかったのだ。
「何の用だよ……」
「何の用って、新鮮な死体を取りに行って戻ったらいなくなってたから、何かあったのかと思ったのだ」
全く空気を読まず、茨木は死体を踏み越えて鬼同丸の方へやってくる。
「はい、おすそわけー」
「……俺、人間嫌いだって言わなかったか?」
茨木が手渡してきたのは、人間の足だ。膝から下で、べっとりと血がついている。
「まぁ、いいじゃない。体によさそうだし」
茨木は、自分用の足に齧りついた。実に美味しそうに咀嚼する。
「そうか?」
「稚児の肝は瘡を治すのにいいらしいのだ。本当に食べた人間がいるって聞いたことある」
「マジかよ」
「その上、西の方には度羅の島っていうのがあって、人食い人間が住んでるとか……」
「人間って怖いな」
鬼同丸は、なんだかんだで足を齧りつつ、茨木の話に相槌をうつ。
何故、女の子といるのに、人間の足を食べながら、こんな話をしているのだろう。鬼同丸が、そう疑問に思ったとき、さっと明かりが差した。
「あー、やっぱりここにいたか」
「袴垂!」
連子窓から入ってきたその人を見て、鬼同丸は、慌てて人間の足を隠した。
――何で、こんなときに限って松明持ってんだ!
「鬼同丸ー、今日お前が、屋根から落ちたのマジうけた――お?」
袴垂が、松明を茨木の方に向ける。口の周りを血で染めている青鬼の姿が、闇に浮かび上がる。
鬼同丸はとっさに、茨木から袴垂の姿を隠すように立った。
「い、茨木、こいつは食っちゃだめだ! 袴垂、早くどっか行け!」
「失礼なっ、私はそんなに食いしん坊じゃないのだ!」
「なになに? 鬼同丸以外の鬼さん?」
袴垂が好奇心に満ちた目で近づいてくる。
「私は茨木童子って言うの――あんた、どっか怪我してる?」
突然、茨木の声から温度が消えた。
袴垂はそれに気づいた様子なく、いつもの調子で答える。
「ああ、うん。さっきの戦闘で、ちょっと斬られた程度だけど」
「おかしいな、何でこんなに高貴な血の匂い――」
すっと周りの空気が冷えていく。
茨木が舌なめずりをする音がした。
「茨木!」
鬼同丸が茨木を止めようとしたとき、袴垂はさすがに危険を察知したらしい。
「お、俺、いつものあばら屋行ってくる!」
素早く立ち上がって出ていった。
「あ――……またやってしまった……」
茨木が、がっくりと項垂れる。すっかり元に戻ったようで、冷たい空気はどこにも感じられなかった。
「十分食いしん坊じゃねぇか!」
「ち、違うのだ! 食べるつもりはなかったんだけど、美味そうな匂いだったから……」
「美味そう?」
茨木が頷いて、鬼同丸の赤い目を覗きこむ。
「あいつは何だ?」
「何って……盗賊だよ」
袴垂はすでに、ボロボロの服に着替えていた。どこからどう見ても、貴族には見えないはずだ。
しかし、茨木は目を丸くさせた。
「嘘でしょう? 貴族だけど盗賊やってますってこと?」
「貴族じゃねぇって」
鬼同丸は苛々して、そっけなく言った。まだ納得いかない顔をしている茨木を見て、話を逸らす。
「人間って高貴な方が美味しいのか?」
「そりゃあもう! 血の匂いからして違うじゃない」
「……分かんねぇな」
「実際に食べたことは、あんまりないんだけどねー。頼光も食べ損ねたしー」
あーあ、と言って茨木は寝転んだ。
「腕が治ったから、そろそろ大江山に帰らなきゃ。都のお偉いさん、食べたかったなぁ」
大江山――。その言葉を聞いて、鬼同丸の心臓はどくんと脈打った。
土蜘蛛を思い浮かべたのではない。
鬼だ。
「……なぁ、茨木」
「んー?」
「お前らの大将ってさ……酒呑童子……だよな?」
茨木の青い目が、僅かに見開かれる。
「酒吞を知ってるの?」
「い、いや、知ってるっつーか、噂で聞いただけだけど……」
「さすが酒吞だな、京の鬼にまで知られてるなんて」
茨木が嬉しそうに、うんうんと頷く。
「で、酒吞がどうしたのだ?」
彼女の青い目には、その『酒吞』の弟が映っている。
やはり茨木は、全く気がついていない。
――まぁ全然似てねぇもんな……。
大丈夫、バレない――そう自分に言い聞かせ、鬼同丸は思いきって切り出した。
「酒吞童子ってさ……家族の話とかする?」
「家族?」
茨木が怪訝な顔をする。
「あ、いや、ほら、ええっと、酒吞童子って超イケメンらしいじゃねぇか。それで、そんなやつの家族ってどんなのかなーって」
かなり苦しいかと思ったが茨木は、ああ、とあっさり頷いた。
「それは私も気になるなぁ。イケメン一家かな?」
ごめん違うんだ――とは、もちろん言えない。
鬼同丸は、ほっと息をついた。茨木の口ぶりからすると、酒吞童子は家族のことを話していないらしい。何だろう、この安心とも、がっかりとも言えない感じは。
――いや、どうでもよかったんだ。
今更、兄がどう言っていようと、関係のないことだ。
さっさと袴垂のところへ行って寝ようと鬼同丸が思ったとき、茨木は何気なく言った。
「特に弟さんが見てみたいなぁ」
「え?」
「酒吞には弟がいるらしいのだ」
息を呑む鬼同丸の前で、茨木は気楽な調子で続ける。
「だいぶ前なんだけどね、酒吞は弟を探しに大江山まで来たらしいのだ」
鬼同丸は、袴垂のところに行く気にもなれず、羅城門を出て、荒れ果てた下京をぶらぶらしていた。
――嘘だ。
頭の中でぐるぐる回る茨木の言葉を、鬼同丸は否定し続ける。兄が、鬼の弟を探すはずがない。
兄の外道丸は、村人が弟を殺すと知っていたから、家に帰って来なかったのだ。
『おれは鬼で、それって悪いの?』
『そうかもな』
冷ややかな兄の声。夕日に照らされた横顔の、綺麗なまつ毛の一本一本まで鬼同丸は鮮明に覚えている。
――ああ、そうか。
鬼同丸の頭に、一つの推測が自然と浮かんだ。
――村の連中に、探し出して殺せって言われたんだ。
鬼の子を殺し損ねた村の連中が、大江山まで兄の外道丸を差し向けたのだろう。そこまでするかとは思うが、その結論は鬼同丸の中で落ち着いた。
鬼同丸の前を、赤子の死体を咥えた犬が走っていく。都といえども、孤児や死人は増えるばかりだ。
世の中に、いらない人は多い。
ここまで読んでくださったかた、ありがとうございます。
赤子の肝を食べた人は平貞盛さんです。




