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鬼同丸と保輔2

 鬼同丸きどうまるは本当に、保輔やすすけを家に帰してやるつもりだった。御笠みかさには、頭をうったのが原因で死んだと説明すればいい。

 だが、翌朝、鬼同丸は身の冷えるような思いをした。

 呼んでも、保輔が起きない。不審に思って体を揺すると、それは驚くほど熱く、頬は紅潮し、苦しそうな呼吸を繰り返していた。

 高熱を出したのだ。

 環境がかわったためか、本当に頭をうったのが原因か分からないが、どちらにせよ鬼同丸に医学の知識はない。ただ濡らした手拭いを額に乗せ、水を飲ませるばかりである。

 ――貴族って病気になったらどうすんだ? 薬師くすし呼んで、あとは加持祈祷かじきとうか?

 もちろん、ここに薬師など呼べるはずはない。

 加持祈祷。それを思い浮かべて、鬼同丸はぞっとした。保輔に物の怪が取り憑いているとしたら、それは完全に自分ではないか。

「頼む、頼むから死ぬな」

 鬼同丸は手拭いが乾きかけるたび、水に浸しながら、保輔に呼びかける。保輔は混濁した意識の中で、うなされ、あえいでいる。

「……にーちゃん」

「大丈夫だよ。すぐそこにいる」

 夢中でそんな答えを口にし、鬼同丸は、保昌やすまさが聞いたら激怒するだろうなと頭の隅で考える。

 洞穴の入口近くで、人の動く気配がした。

 さらわれてきたという貴族の子を見ようと思ったのだろう。土蜘蛛の仲間の少年が、数名、身をよせあうようにして中を覗いている。鬼同丸が振り返ると、彼らはびくりと動揺した。

 鬼同丸は構わず、そちらへ駆け出した。

「誰か、病気になったときどうすればいいか知らないか」

 少年たちはずざっと飛び退いたが、逃げ出そうとはしない。おどおどと互いの顔を見やり、困惑している。

 ややあって、中でも一番年長の少年が、一歩前に進み出た。少年たちをまとめているようで、鬼同丸は、彼が調伏丸ちょうぶくまると呼ばれているのを聞いたことがあった。

「病気って、あの貴族の子どもがか?」

鬼同丸が頷くと、調伏丸は思案顔になって、後ろの仲間を振り返る。彼らは額をよせあって、何やら相談し始めた。

 鬼同丸はそれを、焦りを抑えながら待っている。

しかし、彼らは、話がまとまったというように頷きあうと、蜘蛛の子を散らすように走っていってしまったのだ。



 ――何だよ、あいつら。

 鬼同丸は不快感を抱えたまま、保輔の看病に戻る。といっても、できることはほとんどない。

 手拭いを濡らし、さじで水を飲ませ、ときどき呼びかけているうちに日が暮れた。

「おい、鬼同丸」

 いつの間にか、うとうとしていたらしい。鬼同丸はその声で目を覚ました。

「これ、飲ませてみろ」

 調伏丸だった。木の椀を鬼同丸に突き出している。

「何だよ、これ」

 流されるようにそれを受け取り、中身を見て、鬼同丸は顔をしかめた。怪しげな緑色の液体である。

「薬草……っぽいものを煎じたんだよ」

「ぽい?」

「俺たちだって医学の知識なんかねぇよ! なんとなく、昔にどこかで聞いたこととか思い出して集めたんだ」

 調伏丸は拗ねたようにそっぽを向く。

「貴族の子って気に入らないけど、まだガキだし、役に立つようになるんなら助けてもいいかなって、みんなが言うから。それに……」

 調伏丸は一旦言葉をきると、鬼同丸の角をちらりと見やる。

「本当は俺たち、そのガキ、お前がもう食っちまってるんじゃないかって思ってたんだ。それが病気になったなんて、慌てて出てくるんだもんな。拍子抜けっつーか、予想外っつーか……」

「……人間はおいしくないぞ?」

 鬼同丸が椀に目を落として呟くと、調伏丸は、変な鬼だな、と微かに笑みを浮かべた。


 薬草っぽいものが効いたのか、翌朝、保輔は穏やかな寝息をたてていた。

 鬼同丸はその額に手を乗せると、ほっと安堵の息をついた。平熱だ。

 ――これで、家に帰せる。

 鬼同丸は保輔を寝かせたまま、ふらふらと外へ出た。早朝の空気を胸いっぱいに吸いこんで、川まで歩く。

 土蜘蛛の洞穴の前は、雑草の生える広場で、その周りを鬱蒼うっそうと生い茂る木々が囲んでいる。そのため、人に見つかりにくい。

 川はすぐ、その先にあった。

 鬼同丸は疲れた頭をはっきりさせるように、水をすくって顔にかけた。何度か繰り返し、袖で顔をぬぐう。

 ――俺が保輔を助けたかったのは、罪悪感から逃れるためだ。

 調伏丸たちは、純粋に鬼同丸が幼子を憐れんで助けようとしていると思ったのだろう。そして今度は、保輔は死んだと彼らを騙すのだ。

 水面に映る赤い目が、痛いほど自分を蔑視していた。


          *


 高熱でうなされているとき、保輔は夢を見ていた。ともすれば闇に落ちそうになる苦しさの中で、兄の姿を見た。

 夢というより、以前の記憶だ。走馬灯。もちろん保輔は、そんな言葉を知らなかったが確かにそれであった。

 保輔は、保昌に手を繋がれて河原を歩いている。たくさんの蛍が柔らかな光を放って、夜の水面を照らしていた。

 保輔は、家の庭とは比べものにならない景色に息を呑む。

 保輔が真夜中に兄と二人だけで散歩をしたのは、このときだけだ。どうしても眠れないと言うと、保昌は乳母に内緒で、保輔をこそっと屋敷から連れ出してくれた。ただし、絶対手を離さないという条件つきだった。

『京の夜は物騒だからな、今回だけだぞ』

『でも、にーちゃんつよいんだよね?』

 蛍の道を歩きながら、保輔は兄を見上げる。保昌が実際に戦っているところを見たことはなかったが、普段、侍女や下人が話しているのを聞いていた。

『お前を守りきれるとは限らないからな』

『じゃあおれも、つよくなればいいんだ。にーちゃんみたいに』

 そしたらまた、ほたるみれるね。保輔はそう兄に笑いかける。

 ふっと保昌の表情に暗い陰が落ちた。

『お前は太刀なんか、握らなくていい。普通の貴族でいいんだ』

 それは独り言のようであった。その意味がよく分からなくて、保輔はじっと兄を見つめる。そうすると、自然に言葉が流れでた。

『にーちゃんはどうして、ときどき、そんなふうに、すごくさみしそうにするの?』

 それは、ずっと保輔が抱いていた疑問だった。兄の保昌は一人でいるとき、ぞっとするほど暗い瞳で、思いつめた顔をしているときがある。話しかけると隠すように笑うのも、保輔には何か、納得がいかなかった。

 さみしそう。保輔の目にはそう映り、そんな兄を見るのは嫌だった。

『保輔』

 呼ばれたかと思うと、保輔は保昌に抱き上げられていた。

『俺たち藤原南家のこと、いずれお前にも分かるときがくる。だけどな、俺は――にーちゃんは、今は寂しくない』

『ほんと?』

『ああ、保輔が生まれたからだ』

 保昌が笑う。ごまかすための笑顔ではない。珍しい、明るい笑顔だった。

 そこでその映像は途切れ、短い過去に経験したことが、かわるがわる保輔の頭に流れた。どんなに楽しい記憶を見ていても、現実の保輔は苦しく、心の中で何度も兄を呼んだ。

 ――にーちゃん、にーちゃん……。

「大丈夫だよ。すぐそこにいる」

 それは、乳母の声でも、もちろん保昌本人の声ではなかった。僅かに開いた保輔の目に映ったのは、赤い瞳。

 ――おにっていういきものの、あかいひとだ。

 夢がぐちゃぐちゃしているときも、このひとの声を聞いた気がする。死ぬな、とか、しっかりしろ、とか、そんな言葉だったが、保輔は、あかいひとはおにで、でもわるくはないんだなと思った。

 それからどれくらい経ったのか定かでないが、何か青臭い液体を飲まされ、保輔は、やがて穏やかな眠りについた。


 保輔は目を覚ます。あんなに息苦しかったのが、すっかりなくなり、心地よさすら感じられた。

 体を起こして辺りを見渡すが、そこは見慣れた屋敷ではない。土臭い洞穴で、寝ていたものは絹の布を敷いた薄縁うすべりではなく、むしろわらだった。

 誰もいない。木の椀とさじだけが、むなしく転がっている。

 ――おにさんは……?

 保輔は立ち上がって、そろそろと歩を進める。体に力が入らない感じはしたが、もう寝ているのには飽きた。

 洞穴を出ると、辺りは静かだった。白んだ空と、しゃんとした空気で早朝なのだと分かった。

 好奇心旺盛な子どもは、生い茂る木々の中へと入っていく。水の流れる音が近づいてきたと思うと、緑の中にちらりと赤い色が見えた。

 おにという生き物のそのひとは、川辺の倒れた木に腰を下ろし、自分の足に肘をついて水面を眺めている。

 保輔は駆けよろうとしていた足を止めた。その赤い瞳が、さみしそうだったから。



 葉を踏む音がして、鬼同丸ははっとした。保輔が、草を掻き分け、木の根をまたぎ、危なっかしい足取りでこちらに来ようとしている。

 鬼同丸は慌てて、倒木から飛び下りた。

「まだ起きたら駄目だろ」

「もうねてるの、やだ。それに、だれもいなかったから」

 保輔が非難を含んだ眼差しを向ける。鬼同丸は決まりが悪くなって、ごまかすように保輔の手を取った。

「帰るぞ。もう少し安静にしとかないと――」

「帰るの? どこに?」

「…………あの洞穴だよ。まだ、仕方ないだろ」

 鬼同丸は保輔に歩調を合わせながら、視線を合わせることはない。保輔はずっと鬼同丸を仰いでいる。

「おにさんは、おにっていういきものの、なんてなまえ?」

「そんなの、知らなくていい」

「あそこに、ひとりですんでるの?」

「ああ」

「あかいひと、ほかにもいる?」

「なぁ、そんなの聞いてどうすんだよ――」

 閉口した鬼同丸は、保輔に視線を走らせ、はたと口をつぐんだ。

 保輔はじっと鬼同丸を見ている。その澄んだ瞳には、好奇心ではなくて、底知れぬ憂慮の色がたたえられていた。

「おれ、だれかがさみしそうにしてるの、いやなの」

 つないでいないほうの保輔の手が、つかまえるように鬼同丸の腕に伸びる。

「おれのにーちゃんがね、そんなかんじでね、でも、いまはだいじょうぶで、えーっと、おれがうまれたから」

 伝えようと懸命に話す保輔に、鬼同丸は片膝をついて目線を合わせた。するすると氷が溶けるように、ほとんど無意識だった。

「鬼同丸だ」

 名前は教えない。すぐ家に帰すから。そう思っていたのに、鬼同丸の口から、助けを求めるように言葉がこぼれた。

「俺は鬼っていう生き物の、鬼同丸だ」

「きどーまる?」

 保輔が確認するように発音したとき、鬼同丸は眼前の子どもにほとんどすがっていた。やんわりと背中に腕をまわし、深くこうべを垂れ、ああ、そうだよ、鬼同丸だ、と涙のかわりにこぼした。

 ――帰りたいって言うまで、保輔が家に帰してって言うまでだ。

 心の中で呪文のように繰り返し、鬼同丸は保昌のことを考えないようにする。その呪文がどれほど空虚なものかということも――。



 袴垂はかまだれ。幼児の成長を祝う袴着が、鬼にさらわれたことによって流れた。その意味を本人には告げず、鬼同丸は自分が忘れないために保輔をそう呼んだ。

「へんなの」

 保輔は顔をしかめたが、しだいに慣れたらしい。いつしか彼の中でも、それが本当の名前になってしまった。

 無邪気な保輔は、土蜘蛛の少年たちとも打ち解け、ここでの生活を砂が水を吸収するように覚えていった。新しいことを経験するたび、昔の記憶が彼の中で薄れていく。自力では取り出せないところまで、落ちていく。

 保輔は、一度も帰りたいとは言わなかった。

 鬼同丸も、一度も帰りたいかとは聞かなかった。


ここまで読んでくださったかた、ありがとうございます。

以上で鬼同丸の過去編は終わりです。次話から時間軸がもとに戻ります。

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