プロローグ
昔、我が朝のことなるに――
平安京、左京。
それは月の綺麗な夜だった。辺りはしんとし、空気は澄んでいる。そこへふいに、三条の辺りにある屋敷から笛の音が零れ出た。
一人の青年が、寝殿の簀子縁に座って笛を吹いていた。
月明かりに照らされたその顔には、前髪がさらさらと垂れ、暗い影を作っている。しかしこの青年は、そうでなくとも、どこか暗い影を背負っていた。気品のある顔立ちだが、瞳は深く暗い色をしている。
青年はこの家の主で、藤原保昌といった。祖父の代で藤原北家との権力争いに敗れた、南家の者である。由緒はあるが、権力はない。
保昌の笛の音は、ゆるりゆるりと夜気へ溶けていく。彼は、あまりに月が綺麗なので、寝衣のまま外へ出てきてしまったのだ。
――いつぶりだろう、こんなに穏やかな気持ちで笛を吹くのは……。
保昌は笛を吹くのをやめ、じっとその手に視線を落とした。
保昌の祖父は、北家との権力争いに敗れた。そのため怨霊と化し、北家や北家の血を引く帝を呪っていると世間で噂されている。保昌の父と兄は、北家に復讐しようと強盗や殺傷を繰り返し、兄は射殺、父は流罪となった。
貴族の家であるのに武力に長け、その力を以て、家族が盗賊となっているとなると、世間の保昌を見る目は冷たい。
そして保昌は、祖父、父、兄が恨んだ北家の者に仕え、生きている。周囲の声から耳を塞ぎ、家族の悪夢から目を背け、死んだように生きてきた。
保輔が生まれるまで――
幼い弟を頭に浮かべ、保昌は思わず笑みをこぼした。父が流される前、保昌の母とは別の女の腹に宿っていた子である。
腹違いの弟、藤原保輔は三歳になる。もうすぐ、袴着の儀を行うことになっていた。そのことを考えると、保昌は救われたような気持ちになる。幼い保輔は、祖父や父のことを何も知らない。幸せで、純粋で、優しい子だ。
「にーちゃん」
幼い足音と共に聞こえてきた舌足らずな声に、保昌は振り向いた。
「保輔……」
こんな時間にどうした、と続ける前に、保昌は先刻まで笛を吹いていたことを思い出した。
「起こしてしまったか?」
保輔は首を横に振ると、あぐらを組んでいた保昌の足の上に座った。少し癖のある髪が、保昌に似ている。
「ねむれなかったんだけど、にーちゃんのふえ、きいてたらねむくなってきた」
保昌は弟の小さい体を抱え直しながら、その話に耳を傾ける。
「なんかね、こわいゆめみた」
「怖い夢?」
「んー、でも、もうだいじょうぶ。にーちゃん、つよいから……」
言っている間に、保輔の瞼は下がっていく。兄に凭れて、眠りに落ちていく。
まだこの世の不幸を知らない、あどけない寝顔だ。
「……よかった、お前が、自分の祖父が怨霊になっているなんて噂を聞かなくて」
保昌は起こさないように、弟をそっと抱きしめた。
よかった、検非違使が家に押しかけるのを見なくて、父さんが流されるのを見なくて、獄門に晒された兄さんの首を――言葉にならない思いが、次々と溢れてくる。
弟の寝息を聞きながら、保昌は固く決心した。
貴族なのに持って生まれた武術の才は、弟を守るために使おう。保輔に太刀は握らせまい。
保昌は、すやすやと眠る弟を抱きかかえて立ち上がった。
そろそろ乳母のもとへ、返してやらねばなるまい。そう思い、保昌が左を向いたとき、東の対へ続く渡殿の簀子縁に大きな影が落ちていた。
月の光を遮ることによって出来るその形は、足の長い蜘蛛のようで――
「藤原保昌……」
ぞっとする声が聞こえてきたかと思うと、屋根の上から、人よりも遥かに巨大な蜘蛛がずるりと落ちてきた。
体は、紛れもなく蜘蛛。しかし、顔は化け猫のようで、二つの目が金色に光っている。
「我ら土蜘蛛の仲間にならんか……?」
保昌は反射的に、腰に手をやっていた。が、今は寝衣だ。太刀は枕元に置いてある。
保昌は、太刀のある母屋に駆け込もうとした。だがその前に、白い糸が保昌の体に巻きついた。
すごい力で引っ張られ、保昌の体が宙に浮く。保輔がするりと腕から抜ける。
あっと思う間もなく、保昌は庭に叩きつけられた。
「……ッ! 保輔っ!」
保昌が起き上がろうとすると、風をきる音と共に、土蜘蛛の足が、顔の横に突き立てられた。
「……なに、悪い話じゃない。共に、この国を滅ぼそうと言うのだ」
保昌の真上に、化け猫のような顔がある。喋るたびに開かれる口には、鋭い歯が並んでいる。
「お前の祖父、父や兄は、今、世を治めている藤原北家に復讐しようとしていたではないか……。我らの仲間になれば、やつらを滅ぼすことも――」
保昌は、蜘蛛の顔を思い切り蹴り上げた。
「保昌様、何の騒ぎですか!?」
「太刀、貸せ!」
蹴り上げると同時に立ち上がり糸を振りほどくと、保昌は、駆けつけた一人の郎党から太刀を奪った。
「仲間にならなかったこと、後悔するがいい!」
土蜘蛛が叫んだかと思うと、庭のあちこちで土が盛り上がった。それぞれから、土蜘蛛が姿を現す。
「なめるなよ」
保昌は構わず、目の前の土蜘蛛を斬りつけた。人間と変わらない真っ赤な血が噴き出て、保昌を染める。
いつの間にか、屋敷全体が騒然としていた。侍女の悲鳴や、郎党の駆けつける音があちこちで聞こえる。
「保昌様、危険です! ここは我らに――」
「うるさい! 保輔は……!?」
保昌は、守るように前に立つ郎等を押しのけ、庭中を見渡した。視界を遮る化け物を斬り殺し、ひたすら弟の姿を探す。
「保輔!」
木の根もとに、保輔は転がっていた。投げ出されたときに、頭を打ったのかもしれない。ぐったりしている。
保昌は一直線に走った。
「藤原保昌っ、父や兄の無念を晴らさず、北家の連中に仕えおって!」
「どけ!」
吐き出された大量の糸を太刀でなぎ払い、跳躍する。保昌は土蜘蛛の顔を踏みつけると、その背に刃を突き刺した。地を揺るがすような土蜘蛛の悲鳴も、刺さったままの太刀も構わずに、その背から滑り降りる。
「……き…どうまる……っ!」
背後で土蜘蛛が呻く。その言葉のことを考える前に、保昌の頭は真っ白になった。
保輔がいない。
確かに、その木の根もとに――
木の上から、笑い声が降ってきた。
「いい兄さんだな、羨ましいや」
赤色の髪をした少年――いや、鬼だ。角の生えた子鬼が、保輔を抱えている。保輔は気を失ったままだ。
「保輔っ!」
「こいつも大きくなりゃ、あんたみたいに強くなるかもな」
子鬼は、その髪と同じ赤い目をしていた。その瞳を細めて、保輔の頬を撫でる。
「返せ、貴様っ、弟を返せ!」
「その前に、俺が食らっちまわなけりゃの話だが」
子鬼は高らかに笑うと、ひらりと跳んで築垣を越えた。
「ッ! 待てっ!」
「保昌様ッ!」
郎党の叫び声が聞こえると同時に、保昌は振り向いて、土蜘蛛の牙をかわした。土蜘蛛はすぐに糸を吐き、保昌に子鬼を追う隙を与えない。
「くそッ……!」
土蜘蛛は次々と現れる。保昌は、焦りを抑えて戦うしかなかった。
保昌の前で、最後の一体が倒れた。どくどくと流れる血が地面に広がり、庭は、先ほどまでの騒ぎが嘘だったように静かになった。
保昌は太刀を取り落し、それを拾うこともせず、ふらりふらりと築垣に手を掛ける。郎党の心配する声も無視して、敷地の外へ出る。
保昌の目の前に広がったのは、月明かりの落ちる平安の夜だった。赤毛の子鬼の姿はどこにも見えない。
道に生える柳が、風に揺られて葉を鳴らす。
「保輔――」
保昌の声は空しく闇に溶けて、絶望に似た静かさに同化した。