第一章 4 結界
〈今宵、ついに動きだす〉
〈ほほほ……ついにか、高御産巣日〉
〈そうよ、ついによ〉
〈伊邪那岐は、いずこにおった?〉
〈詳しくは知らんのう、神産巣日。どうせ出雲のあたりであろう。すでに、月読が伊邪那岐をさがしあてておるはず〉
〈全神軍の策どおり、まずは大御神復活から……そのためには、伊邪那岐の力じゃ、力が必要じゃ〉
〈ほほ……父と娘であるからな〉
〈そうじゃ、父と娘じゃ。月読にとっても、そうであろう……いまごろは、悠久の時を経た親子対面をはたしておるころ〉
〈伊邪那岐の自我を取り戻せるかどうか、月読の情に頼るしかないのう〉
〈果報を待つとするか、高御産巣日よ〉
〈そうであるな、神産巣日よ〉
山陰地方――。
かつては出雲の国と呼ばれ、陰暦の一〇月には八百万の神々がこの地に参じるとされている太古よりの聖なる地。一〇月のことを《神のいない月――神無月》と呼んでいるのは、この出雲に『日出づる国』の神々が、すべて集結してしまうからである。出雲にかぎり、その月を《神在月》と呼ぶ。
『神迎え』や『神在祭』などの神事がおこなわれる陰暦の一〇月中旬(現在の十一月下旬ごろ)には、まだ二ヵ月以上もはなれているが、すでにこの土地の空気には、神の息吹がまじっているような、しん、とした神聖なる冷たさがある。身も心も引き締まるような、心地よい緊張の風。
神はつねに、この地とともにある――。
「月が満ちた……」
天の闇には、煌々と満月。
いや、それはおかしい。ついさきほどまでは、たしかに欠けていた。一五夜の満月までには、あと数日あるはずだ。
「やはり来ましたな」
そこは、深い山中にひっそりと存在する、地元の者にもほとんど知られていない神社の境内だった。
灯籠のかすかな炎が、人の手による唯一の光源。しかしそれよりも、満ちるはずのない……不可解な満月による月明かりのほうが、あたりをうかがうには都合がよかった。
その三人は、拝殿の前にいた。
ほかに人影はない。
すでに深夜と呼ばれる時刻にさしかかっている。小さな神社だ。鳥居をくぐると、数メートル先に申し訳ていどの小さな拝殿。おそらく、参拝者が来ることなど想定していないのだろう。その奥にある御霊代の鎮座する本殿だけが、古いながらも立派なものだった。
拝殿の前にいるうちの一人は、この神社の宮司であろうことが、その衣装からわかる。かりぎぬをまとい、頭には烏帽子をかぶっている。一般的な宮司の常装だ。ただしここでは『宮司』ではなく、昔ながらに『神官』と呼んでいるのだが。
「この《威気》……お父さま!」
「うむ。この月の異変からすると、来たのはやはり――」
唯一の女性の強張った声に、その神官は平静な口調で応えた。しかし、これからおこるだろう凄絶な事態のために、表情はかたい。
「死守できるでしょうか!?」
「まさしく、死をかければ……あるいは」
神官の返答に、その女性――歳のころ二〇代半ばの巫女は、小刻みに震えだした。
「おびえるな、娘よ。おまえを死なせるようなことはしない」
「しかし、お父さま!」
「これも、わが母よりあたえられし使命。ここで死ぬのも本望だ」
「ならば、わたくしも!!」
「ならぬ! おまえは、結界が破られしだい逃げるのだ」
神官は強くそう言うと、もう一人――月の異変に気づき、最初に言葉を発した男のほうに眼を向けた。その男は、いまだ視線を上空にやったままだ。
その姿は、この背景にはふつりあい……髪の毛の一本も生えていない禿頭、袈裟をまとったその格好は、まぎれもなく仏教僧のものだった。
「もしものことがあれば……いや、確実にあるでしょうが……娘を――この狭依のことをよろしくお願いします!」
「承知。この娘の命は、必ず」
月から視線をはずして、強くはないが、確固たる意志をこめて、僧は応えた。
「《道》は拙者に、この地での出来事を見極めよ、と告げた。すまぬが、おぬしに力はかせぬ……しかし、この娘だけは!」
僧侶の台詞を聞いた神官の表情が、安堵にゆるんだ。
「!!」
それも束の間、すぐに戻った。
鳥居の向こうに、一人の男が立っていた。
闇の似合わない男だった。
いや、似合わないのではなく、どんな暗黒の闇夜でも消すことのできない圧倒的な存在感があるのだ。その存在を認めてしまうことができれば、この男ほど闇の似合う者はいないだろう。
闇を支配する、暗夜の王――。
この男と同質のものを知っている。
それは、月。
ひっそりと儚く浮いている朧月ではない。
煌々と、その存在を主張している満月だ。
ちょうど、いま天空で輝いているような夜を統べる帝王のよう。
「月読命か……」
月明かりに浮かぶその姿は、血気盛んな若武者といったところか。
短髪に飾られた精悍な相貌は、闇に踊る魑魅魍魎どもですら服従するだろう。陽光のなかにあっても輝くことを知らない漆黒の瞳こそが、この男の象徴だった。
闇は、闇のまま。
それこそが、夜の王の証――。
「この《中つ国》を穢す毒蟲どもが、この俺を討とうというか!」
闇よりも暗い瞳をもつ青年が鳥居をくぐろうとした刹那、青年の身体から、この世とあの世の境界が摩擦をおこしているかのごとき鮮烈な火花が散った。
「狭依!」
神官の叫びが合図となり、その娘――巫女の狭依が、手にしていた榊の枝葉を激しく振った。
「山川草木の神霊よ、守れ、祓え!」
青年から散った火花が、さらに威力を増していた。
「笑止! この程度の結界など、指一本で吹き飛ばせるわっ」
胸の前で、青年は右手の人差し指をスッと立てた。その直後、鳥居の二本の柱からそれぞれ左右に光の線が地をはしった。
まるで着火された導火線のように、線は左右両方向から境内を囲むようにのびてゆき、やがて二つの線がぶつかると、線は小爆発をおこした。
境内を四角く囲んだ線が、一瞬、光の壁と化していた。
すぐに、光は闇にのまれた。
「われを崇めよ。ここは、そのための場であろう」
「お、お父さま……」
巫女は、絶望の声で父にすがった。
しかし神官の表情にも、絶望の色が浮いている。
「崇めるための場所ではない」
ただ一人、平静をたもちつづけている仏教僧が、青年に応じた。
「おぬしたちを監視するための場……」
「きさま、われわれを崇拝する者ではないようだな。その出で立ち……釈迦牟尼とかぬかす異国の神仏か」
その台詞は無視して、僧侶は続けた。
「本来の目的を忘れ、監視から怒りを鎮めるためのものへ……そしていつしか、神々に媚びへつらうようになった」
「ふん、きさまとて同じであろうよ」
「……」
その言葉に、僧侶は反論することができなかった。
「どうやら、きさまがここにいるのも、そのことに疑問を感じているからのようだな」
皮肉めいた笑みを青年は浮かべた。もはや阻むもののなくなった鳥居をくぐり、境内に侵入する。
「狭依、逃げるのだ!」
「そうはいきません!!」
巫女は、再び榊の枝葉を振った。
「無駄だ!」
青年めがけて、空気が激しく震動する。
しかし……!
青年は、さきほどと同じように、指を突き立てた。わずかに力を込めると、青年を襲おうとした空気の刃は、簡単に消し飛んでしまった。
「人間の分際で神に牙をむくとは無礼千万。その罪、死をもって償うがいい!」
今度は突き立てた指を、巫女に向けた。
「グッ!!」
短い悲鳴とも、苦悶のうめきともつかない声をもらしながら、巫女は背後へと飛ばされた。拝殿に背中を打ちつけて、その反動で前のめりに崩れ折れた。
「なぜ、逃げんのだ! ここは、わたしが死守する!!」
青年の真正面に神官が立ちはだかった。
チラッと、後方をかえりみる。
「おまえが、この戦いに参加する必要はない……ここから逃げることができたら、ほかの娘たちと同じように、普通の幸せをつかむのだ!」
まだ起き上がることのできない……なんとか膝立ちで上半身だけ起こした巫女に、神官は、はじめて父親らしい言葉をおくった。
「普通の幸せなど、欲しくありません!」
「無理をするな。わたしの娘として生まれてこなければ、同じ年頃の娘たちのように、恋をして、幸せな人生を歩めたろうに」
「そ、そんなもの!」
「いいか……おまえは、もうここに奉られた伊邪那美命を守る必要はない。結界を破られた以上、守る必要もないのだからな」
前へ向き直り、青年を睨んだ。
「どけ、邪魔だ」
「どかん……せめて、一矢報いねば! このあとに続く〈洗礼者〉たちのためにも」
神官は胸の前で両掌を組んだ。
もし、これで片膝でもつけば、まるでキリシタンが礼拝しているかのような組み方だ。だが、静かに祈りをあげようとしていないことだけはたしかだった。
その身体から、異様な音がしぼり出されている。
ギュ、ギュ、ギュ……まるで、骨が軋んでいるような……。
「わたしは、この法呪をおこなうために生をさずかり、この地でおまえと対峙しているのだ!」
「……?」
神官の腕が……いや、腕だけではない。足が、首が、胸が、一回りも――ちがう!
もとの太さからすると、三倍近くも膨らんでいた!!
神官の年齢からすると、三〇歳は若返ったような肉体だ。
それも、身体を鍛え上げた屈強な若者の――。
「この身体を神の通り道とする! わが血、幾千の神がやどり、わが肉、幾万の神がやどる!!」
「笑わせるな。きさまの身体に、神などいない」
「神とは本来、すべてのものにやどる精霊のこと! それを敬う、それこそが神道」
神官は組んだ手を頭上に振り上げた。
青年に向かい、跳ね上がる。
人とは思えぬ跳躍力!
身体から発散される気の力も、まるで神に憑かれているかのように、気高く、神秘に満ちていた。
「真・心・信! 一撃全霊! うけよ『五十猛神撃』――!!」
組まれた手が、まばゆく発光している。
白く、闇の境内を夢のように照らす。
「うおおお!」
白く輝きをほとばしらせる組んだ両掌を、渾身の力で振り下ろした!
青年は腕を頭上で交差させて、それを受け止める。
まぶしく、世界が弾けた。
白い、白い空間。
静かな音の途切れた白い世界は、まるでこの世ができる以前の混沌の国のよう。
どれぐらい時が進んだだろうか、あたりの白い輝きが急速にとけていった。視覚、聴覚も正常にはたらくもとの闇夜に戻ると、そこに現れた光景は、暗黒の夜にふさわしい凄絶なものだった。
月明かりに照らされていたのは、両腕をもがれ、首をつかまれて宙づりにされた、神官の最期の姿だった!
すでに跡形もなくなった腕からの出血によるものか、それとも窒息によってだろうか、すでに神官はこと切れていた。
「い、いや――ッ!」
巫女の悲鳴が、突き刺すように轟いた。
「愚かな……《鼓動》も受けていないのに、人間の力を超えるようなまねをすからだ。腕が吹っ飛ぶのも当然よ」
「ゆ、許せない!」
「この男の言ったことを覚えていないのか? おとなしく逃げるのなら、追いはせん」
「黙れ!」
巫女の長い黒髪が逆立ちはじめた。
ピリ、ピリと、なにか電流のようなものが、その体内に蓄積されていくような!
「なに!?」
右手を広げ、頭上で掲げるように……まるで天をつかもうとでもするかのように、掌を高く上げた。肉眼でも確認できるほどに、右掌が電流によって包まれている。
「馬鹿な……人間の力を超えようというからには、大地の守護をこうむっているのだろうな? いなければ、愚かな父の二の舞になるのだぞ」
巫女の眼は、すでに正気ではなかった。
憎悪。
彼女からは、青年への圧倒的な憎悪しか感じられない。
「そうか……俺に対する憎しみが、きさまに力を……だが、その力を開放すれば、父親同様、木っ端みじんに吹き飛ぶ」
「おまえを殺す!」
巫女には、青年の忠告など耳に届いていなかった。
「雷にやどる神霊よ! 大雷・火雷・黒雷・拆雷・若雷・土雷・鳴雷・伏雷――!!」
叫びとともに、右手から八つの雷光がほとばしった。
雷は、青年の身体に絡みつく。
頭、胸、腹、下腹部、右手、左手、右足、左足――青年の五体は完全に捕らえられた。
「う、動けんとは……」
「これでとどめ!」
天に向けていた掌を、青年に向けた。
「雷神招来!」
しかし雷撃は、二度とほとばしらなかった。
放てないように、邪魔をしたものがいるからだ。
「な、なぜ!?」
「それを放てば、死ぬのは自分のほうだぞ」
いままでの惨劇にも眉一つ動かすことなく事態を静観していた僧侶が、巫女の右腕をつかんでいた。
「おぬしを死なせぬと約束したのだ」
「い、いまならあいつを……!」
「残念だが、おぬしの技で討てるような存在ではない」
「ふふ、わかっておるわ」
青年は、そう口許を不敵に歪めると、身体中に力を溜めた。
「ふん!」
溜めた力が破裂すると、青年の動きを阻んでいた八つの雷撃も、たやすく消し飛んでいた。
「あの穢れた女にまとわりついていた下等な雷神ごときで阻めるものか。この俺を倒せる人間などいない。神族ですら、偉大なる姉上しかいないのだからな」
青年は左の拳を握り、それを巫女と僧にめがけた。
「次は、脅しではない」
拳が開くと、その掌が輝いた。
まぶしい輝きではない。もっと明度の低い、冷たい輝き。
月……そう、月光の輝きだ。
輝きは、一瞬にして物質化していた。
青年の左手に、立派な弓が握られていた。
「わが名、月読とは『月弓』の意。この弓は、わが分身」
矢のないまま、青年は右の親指と人差し指で、弦を引いた。
「下弦の月、弓となりて、天上を射る矢、その光なり」
二人にではなく、青年は上空へそれを向けた。言葉どおりに、低部の欠けた下弦の月が、遙か天空へ矢を射ろうとでもするように。
さらに弓をしぼった刹那、弦は弾かれた。
上方へ向かい、見えない矢が飛翔した。
いや、すぐに見えた。
薄い輝き……やはり月光の矢だ。
矢はかなりの高さまで跳ね上がると、一転、急降下をはじめた。
速度を増しながら、二人めがけて襲いかかっていく。
狙いは、巫女の心臓!
とっさにそれを悟った僧侶は、巫女の身体を強く押し退けた。
「うぐっ」
矢は、巫女の腹部に突き刺さった。
心臓からそれたとはいえ、致命傷にもなりうる。鮮血が、月明かりだけの闇に散った。
「その矢、貫通せずとも衝撃を受ける」
青年は、僧侶に向けて声を放っていた。そのとおりに、僧にも衝撃があったようだ。肩をおさえながら立ち上がるところだった。それでも、巫女の身体を抱き寄せている。
「体内に入ると同時に、矢は消える。抜く必要はない。ただ、そのために血は流れつづけるがな」
たしかに、出血が激しい。
かろうじて息はあったが、このままでは危ない。
「きさまめがけて矢を射れば、その女に当たらずとも、その衝撃でもう助からん。つまりあとは、きさまを貫くだけだ」
「おぬしと戦うつもりはない。拙者の役目は、この地での出来事を見届けるということだけだ」
「腰抜けが。その親子の闘志を見てもなにもしないというのか?」
青年は、再び弓を引いた。
それまでなんの感情も浮かべていなかった僧侶の瞳が、鋭く光った。巫女をかばうようにしゃがみ、月弓から背を向けた。
「ノウマクサマンダバサラナンセンダマカロシャナソワタヤウンタラタカンマン」
天空めがけ放たれた矢が、さきほどと同じように一転すると、地上でしゃがむ僧の背中に直撃した。
だが――!
一撃目では巫女を守りきれなかったが、この男に二度の失敗はない。
「なに!?」
無傷だった。傷を負っている肩は、さきほどの一撃によるものだ。いまの攻撃による傷は、どこにも見当たらない。巫女にも、新たな衝撃は届いていないようだった。
「わが『月弓』の矢を跳ね返すとは……そうか、きさまだけは〈洗礼者〉というわけだな」
「拙者でも、おぬしは倒せん。だが、おぬしにつき従う神々は、いずれ拙者がことごとく葬り去るだろう」
僧侶は、巫女を抱き上げた。
「ここは退く」
「おもしろい。きさまに、それだけの力があるかどうか、楽しみにしている。来るのだ、《天閃の地》へ。きさまほどの人間なら、この意味はわかるだろう」
僧侶は背を向け、歩きだしたが、すぐに足を止めた。
「……一つ訊きたい。本当に、おぬしを倒せる存在は、姉ただ一人か?」
しばし、青年は沈黙した。
「――かつては、もう一神いたが……すでに、そいつはくだらん人間になりさがった。わが愚弟はな」
その返答を聞いてから、僧は再び歩きはじめた。
「待て」
今度は、青年に止められた。
「きさま、名は?」
「――浄明」
そう名乗ると、僧侶は果ての見えない凝縮された闇のなかへと消えていった。
「父上、お久しゅうございます」
青年――月読命は声をかけた。
だれに? ここには、もうだれもいないはずなのに……。
深奥にある本殿。もしここに奉られている神に話しかけたのだとしても、それはおかしい。拝殿の前で凄絶な骸をさらしている神官が、死の直前に語っていた内容からすると、この本殿に奉られているのは伊邪那美命のはず。伊邪那美命は女神。『父上』とは、どういうことだろう。
〈だれじゃ!?〉
声が返ってきた。
暗黒がしぼり出したような、苦しげな……怨念のような、重く禍々しい声だった。もちろん、この世の者の声ではない。
「あなたを父と呼ぶものは、あなたの子に決まっているでしょう」
〈わしの子は、数えきれんほどおるわ……そう数えきれん!〉
「八百万の神々を生んだ伊邪那岐の子のなかでも、もっとも思いに刻まれているであろう三神のうちの一つですよ」
月読には、声の主の姿が見えていた。闇に浮かぶように、闇よりも濃い男の顔が、その眼には映っているのだ。
〈残念じゃが、わしからおぬしは見えん……これではな、この眼ではな〉
顔には両眼がなかった。
もとより細部までは見えないのだが、それでも男の眼が……瞳がないことはわかる。それだけではない。鼻もなかった。見えない、というのではなく、存在していないのだ。
「その右眼ですよ……父上」
〈月読か!〉
「根の国へおもむいたばかりに、高天原に戻ることもできず、ただこの世を漂うばかり……ついには怨念のような存在にまで堕ちてしまわれた。そればかりか、あの汚らわしい女の奉られたこの地にとどまっているとは、愚かきわまりない行為ですぞ」
〈馬鹿な、わが妻を……伊邪那美を悪く言うでない! おまえの母でもあるのだぞ!!〉
大気が破裂したような叱責だった。
「あの女ではない! お忘れですか? 俺たち三神を産んだときのことを……。父も母もあなたですよ。もし母がいるとすれば、それは『悲しみ』だけです」
それに応えた月読の声もまた、深い愛憎に揺れていた。
伊邪那岐と伊邪那美――。
日本神話においての創造神。森羅万象あらゆるものを生み出し、八百万の神々を誕生させたとされる夫婦神である。日本とそこに坐す神々は、その二神――イザナキとイザナミによって創られたのだ。
しかし妻であるイザナミは、自らが生んだ火之迦具土神という火神によって大火傷を負い、ついには命を落としてしまう。妻の死に耐えられなかったイザナキは彼女に会うために、根の国――常世、もしくは黄泉とも呼ばれる世界――つまり、〈あの世〉へとおもむいた。だが、そこで再会した妻の姿は、ウジがたかり、八種の雷神を腐りかけた五体にまとわりつかせているという醜く無残なものだった。そんな変わり果てた姿に恐怖したイザナキは、最愛のはずの妻から逃げ出してしまった。
その行為に怒り狂ったイザナミは、八種の雷神をはじめとした一五〇〇の黄泉の軍勢を追撃にむかわせた。満身創痍それを振り払い、黄泉から脱出したイザナキは、黄泉の入り口を巨大な岩で塞ぎ、妻に絶縁を言い渡したのだ。
それからイザナキは、黄泉の穢れを川で清めた。そのとき、左眼を洗って太陽の神アマテラスが、右眼を洗って夜の神ツクヨミが、そして鼻を洗うと荒ぶる神スサノオが生まれた。それが、イザナキが最後に生んだ神々だった。
「人間たちに伝わる神話とはちがう! あの女は、姿だけでなく、心までも醜く変わり果てていた……父上のことなど記憶から消え、ただ屍肉を喰らう亡者になり下がっていた! だから、あなたは逃げたのだ!! ちがいますか、父上……!?」
〈……〉
「まちがいはないはずだ! あなたの身体の一部として……その右眼として見ていたのですからね……」
声は返ってこなかった。
かまわずに、月読は続ける。
「もし母がいるとすれば、あの女をなくした――餓鬼にまで堕ちたあの女を見てしまった父上の悲しみ……親は、あなたしかいない。それに、神話では洗うことで生まれたとされていますが、現実には父上の眼と鼻をかわりとし、俺たち姉弟は生まれたのです! まさに、父上の一部を犠牲として……」
〈……そんな言葉など聞きとうはない! おぬしはそもそも、なんの用があって、わしに会いに来たのじゃ!?〉
沈黙していた声は、やっとそれだけを口にすることができた。
「父上の力を得るために」
〈なんと!?〉
「姉上を……あなたの娘であり、至高神として高天原に君臨する、天照大御神を復活させるために、父上の力が必要なのです」
〈なんの話をしておるのじゃ!? 天照がどうかしたのか!?〉
「愚弟のおかげで、岩屋に閉じこもったままなのです」
〈いつの話をしておる。須佐之男の暴挙で岩屋に隠れたなどと、思い出すこともできぬほど、遠い遠い過去の話ではないか……。そのことで高天原を追放された奴は、その後の中つ国での活躍を経て、恩赦で戻ることを許されたと聞く……再び、同じことを繰り返すほど愚かではあるまい〉
「いえ……現代においても、それがおこったのです」
〈なに!?〉
「詳しい話は、のちほど。さあ、この身体へ」
男の顔が揺らめいた。
顔の形が崩れ、液体のように宙を流れると、月読の口、鼻孔、耳へと吸い込まれていく。
ぐぐっ、という呻きが地鳴りのようにもれた。すべてが入り込んでからも苦しさは続いたのだろうか、月読はうつむき、しばらくピクリとも動かなかった。
顔を上げたとき――。
その顔には、左眼がなかった。
鼻もない。
左眼と鼻の部分が、空洞のようになくなっていた。その穴の内部は、まさに底のない絶望の深淵。
月読の人相も変わっていた。
短かった髪は長く伸び、年齢も高くなったように感じる。血気盛んな青年の顔が、もっと歳を重ねた大人の男に……。
神々しさと邪悪さが混ざり合った、不安定な風貌。
右眼だけが、もとのまま――。
闇よりも暗い瞳だった。
わが愛する伊邪那岐よ。
あなたが醜く変わり果てた私から逃げるというのなら、
私は、一日に一〇〇〇人を絞め殺しましょう。
ならば伊邪那美……。
俺は、一日に一五〇〇人もの産屋をたてよう――。