第一章 2 登校
晴れた青い空のもと、澄んだチャイムの音色が響きわたる。
星友中学校――。
昨年改装されたばかりの真新しいきれいな校舎が、さんさんと降りそそぐ陽光をまぶしく反射している。広い運動場を有する緑豊かな校庭に、ときおり流れる夏の風。しかし心なしか、それも涼やかに感じられるのは、もう秋も近いということなのだろうか。
都心からほどよく離れているために、恵まれた環境に囲まれた公立の中学校だ。
「やべえ、遅刻、遅刻!」
チャイムのゆるやかな音色にせきたてられて、急ぎ足の生徒たちが次々と校門をくぐり抜けてゆく。
「先生、おはようございます!」
そんな元気な声が、校門前に立つ高橋織絵にかけられた。
今日から新学期。登校してくる生徒たちの顔は、みな精気に満ちあふれている。これから毎日かったるい――という鬱な気持ちもあるのだろうが、久しぶりに級友たちと会える喜びや、休み中の楽しい思い出を胸に抱えていることもあって、だれもが明るい表情をしていた。
「お、おはよう」
しかし挨拶を返した織絵のほうは、その声も、表情も、どこか曇っている。年齢は、二四。昨年の春、教師になったばかりのまだ駆け出し先生だ。
教師らしく、地味めのブラウスとロングスカートに身を包んでいるが、それは彼女の印象をマイナスにしてはいなかった。野原一面に咲き誇るのも花の美しさだが、一輪だけひっそりと咲いているのも、また花の美しさなのだ。織絵の清潔感をともなった美貌には、派手さはいらない。
本来なら校門の前に立ち、登校してくる生徒たちの服装や素行をチェックする役目は、もっと経験を積んだ教員たちが当番制でやっている。だが今日だけは特別に、新米の織絵が任されていた。ほかの教員たちは、『ある事件』のために早朝から緊急の職員会議をひらいているのだ。
織絵の表情が冴えないのも、そのためだった。昨夜、織絵が副担任をつとめる三年E組の生徒二人が、何者かに襲われ、かなりの重症を負ったというのだ。
その二人は、林葉雄司と村田徹という名前の生徒だった。夏休み前には、ほとんど学校に来なくなっていた問題児たちだ。織絵とも因縁があった。
彼らは、自分に恨みをもっているだろう。
複雑な心境だ。
彼らを心配する気持ちと、自業自得だという思い――。
おそらく二人は、〈A狩り〉にあったのだろう。そういう事件が、ここ最近連続しておこっているというニュースを昨夜もやっていた。今朝は緊急の電話を受けて、あわてて家を出てきたのでテレビを見ていないが、もしかしたら彼ら二人のことも取り上げていたかもしれない。
彼らが、『少年A』と呼ばれるべき不良少年かどうか、織絵には判断がつかなかった。だが天罰がくだるだけのことはやったはずだ。
あれは、二人だけでやったわけではない。しかし、彼ら二人が主犯だった。少なくとも、織絵はそう確信している。
(……もう立ち直ってくれたかしら)
ふと被害者のことが頭に浮かんだ。
〈A狩り〉にあった二人ではない。その彼らに狩られそうになった少女のことだ。
あのとき織絵が通りかからなければ、少女の心は完全に壊れていただろう。未遂にとどめたことで、なんとか心を閉ざしただけですんだのだ。
同じ女として、彼らを許せない!
いい気味――。
教師として考えてはいけない言葉が、脳裏のすみを掠めた。
あの出来事が、公になることはなかった。
被害者の父親が、それを望まなかったこともある。
(良蔵さん……)
織絵は、その名を心でつぶやいた。
織絵だけは、公にすべきだと主張した。
悔しいからだ。
彼らは、なんの罰も受けることはない。中学という義務教育のもとでは――しかも公立という庇護のもとでは、彼らが退学処分になることはない。事実、彼らへのペナルティは数日間の謹慎だけだった。学校側の今後の方針としても、ほかの生徒たちと差別せずに接するということだ。
悔しい。
同じ女だから、というだけではない。
悔しいのだ。
彼女と自分に、血のつながりはない。
だが……『他人』でもない。
「先生、しめなくていいんですか?」
その声で、ハッと、われに返った。
「え、ええ……そうね」
チャイムが鳴りおわってから、すでに数分が過ぎていた。声をかけてきた女生徒のほかには、もうだれも見当たらない。
織絵は、あわてて門を閉じた。
「わたしは、セーフですよね?」
と、その女生徒は、当然のように言った。
この生徒が門をくぐったのは、もちろんチャイムが鳴りおわってからだが、ぼうっとして門をしめなかった自分が悪いのだから、いまさらダメとも言えなかった。
小さなため息をついてから、織絵は答えた。
「……特別よ、森野さん」
女生徒は、その言葉を聞くと微笑んだ。
可愛げのない笑みだった。
彼女の容姿に問題があるのではない。美しさなら織絵よりも上だろう。つまりそれは、一般人以上――芸能人なみの美少女だということを意味する。これからスカウトでもされて、将来、本当に人気アイドルとなっているかもしれない。そんな想像をしても、まったく違和感のない美貌なのだ。
しかしその笑みは、イヤな笑みだった。
すべてのものを見下しているような――すべての人間をあざ笑っているような、そんな微笑みなのだ。
女生徒は、その笑みをたたえたまま、校舎へと向かっていった。
織絵は、この生徒が苦手だった。おそらく、すべての教師が苦手にしているはずだ。素行に問題があるわけではないのだが、目上の者にとっては、なぜだか生理的に嫌悪してしまう少女だった。
織絵は、視線を門の外へ向けた。何人かの姿を視界に入れたが、いずれもだだの通行人のようだった。
マスコミ関係の人間が押しかけてくるかもしれない――と、教頭から言われていたのだが、そういうたぐいは見当たらないようだ。
教頭は、少年犯罪やイジメ問題などを報じるワイドショーの一コマでよく見かけるような騒ぎを危惧していたのだろう。通学してくる生徒たちにしつこく取材したり、校門前に何台ものカメラが陣取っているような、お馴染みのあの光景だ。
(大丈夫みたいね……)
どうやら、教頭の取り越し苦労だったようだ。縁起でもないことだが、殺されでもしないかぎり、そういう事態にはいたらないのだろう。
織絵はそのことに安堵すると、校舎に向かった。すでに緊急の職員会議も終わっているはずだ。クラスを受けもっている教員たちは、このあとのホームルームで被害にあった二人の説明を生徒たちにしなければならない。ホームルーム後の始業式でも、全校生徒を前にして、あらためて校長がそのことにふれるのだろうが、式での混乱を避けるために、さきに予備知識を入れておくということだろう。
織絵は副担任なので、その点だけは気が楽だった。突然、門番をやらされるはめになったことも、その役目をやらなくてすむのなら納得がいく。
ふと足が止まった。
(今日も……千鶴ちゃんは来ないのかしら)
そうつぶやいたが、すぐに思い出した。
織絵のなかに住んでいる少女は、まだ旅行中のはずだ。帰ってくるのは、あと一〇日ほどさき――。
しかし旅行から帰ってきたとしても、はたして彼女が、ここへ来ることはあるのだろうか……。
きっと来てくれる――。
そう願って、再び足を動かした。
まるで、わが子を心配でもするように。
「ねえ、知ってる!?」
「聞いた、聞いた!?」
三年E組の教室では、その話題でもちきりだった。朝のニュースでは、大まかな地域だけをあげて「昨夜も少年たちが襲われた」という抽象的な報道しかなされてないのだが、ほとんどの生徒がすでに知っていた。
「あの二人が、狩られちゃったって!」
「ゲーセンをうろついてたんだろ、不良みたいなカッコしてさ」
「みたいな、じゃくて、あいつら正真正銘のヤンキーだろ、もう立派な」
林葉雄司と村田徹は、このクラスの生徒だった。それだけに衝撃も大きい。
「ちょっと、冷たくなーい? 大怪我したんでしょ」
同じクラスメイトだというのに、みんなの他人事のような言いぐさに、一人の女生徒が小声で囁いた。
「天罰でしょ」
すぐとなりにいた女生徒が囁き返した。
『囁き』といっても、こちらのほうは、まわりにいる者になら聞こえる声量、聞き取りやすいハッキリとした口調で。
「うん……でも……」
あきらかに、わざと大きめに出したその声に、最初に囁いた女生徒は、ドキリとしながら周囲を見回す。
「千鶴を苦しめたことにくらべれば、たいしたことない」
さらにハッキリした声が、教室内を一瞬、沈黙させた。まわりだけではなく、教室全体に声は届いていた。
「ちょ、ちょっと……」
うろたえた女生徒とは正反対に、声をたてたその女生徒は、自分たちを見ている顔を、挑戦的に睨み返している。
その敵意をこめた視線を無視するかのように、ざわつきはすぐに回復した。回復してから、最初に囁いた女生徒が、なにかを思い出したように顔を伏せた。
「ごめん……わたしが悪いんだ……」
「わたしに謝ってもしょうがないでしょ!」
そう突き放すように応えたことを後悔したのか、挑戦的な女生徒は、相方の女生徒から視線をそらし、肩の力を抜くのと同時に、深いため息をついた。
「しかたないよ……悪いのは早苗じゃない」
二人は、しばらく黙り込んだ。
いまここにはいない千鶴とは、一年のときから同じクラスで、洋子、早苗、千鶴といえば、いつもいっしょの三人組だった。
それが、ある日を境に――。
「今日も来ないのかな……」
「バカね……まだアフリカでしょ」
サラサラなショートカットの女生徒――早苗の悲しそうなつぶやきに、早苗の机の横に自分のイスを運んできて座っている洋子は、慰めるように言葉を返した。
「帰ってきたら、来るのかな……」
「来るわよ、きっと」
洋子は、力を込めて言った。
早苗とは対照的なロングヘア。同じようにロングだった千鶴と、よく髪の長さをくらべっこしたものだ。
女子中学生にしては長身で、小柄な早苗と千鶴の三人で並んでいると、頭一つぶんぐらいは飛び抜けている。それだけに三人のなかでは、お姉さん的な存在だ。
どちらかといえば美人の部類に属するのだが、本人にその自覚はなく、まわりからも、そういう対象として見られていないのが現状だった。ちょっと冷たく感じる顔だちが、敬遠される原因なのかもしれない。性格は見た目とはちがうが、女をナメきっているバカな男子生徒相手には、容赦なく冷やかだ。
洋子は、『あのとき、自分さえいえれば』、という気持ちに心をさいなまれる。
すべては、洋子が不在のときにおこったことだった。
夏のように暑いが、まだ春と呼ばれていた季節に、洋子はテニス部の練習で右足を骨折し、入院してしまった。自分のいない、そのわずかな期間に、千鶴はクラスのなかで孤立させられてしまったのだ。
「わたしがバカだった……森野さんの言いなりにならなきゃ!」
いまにも涙をこぼしそうに、早苗は声を出した。
はじめは無視する気なんてなかった。でも、すべての首謀者――森野由美は、早苗に静かな……それでいて絶対的な脅しをかけた。口元を楽しげに歪ませて、どこか退屈をもてあましている残虐な視線で、こう宣告してきた。
『わかってるわよね』
千鶴を無視しなければ、自分もイジメの標的にされてしまう!
臆病な早苗は、それに従うしかなかった。
〈ガラッ〉
二人の表情が、急にかたくなった。
ざわついた教室が、一瞬、静かになる。
「あら、なんの騒ぎ?」
自分が入ってくるまでの雑然とした雰囲気が、自分が入室したとたんに静寂へと変化してしまったことを不満にでも思ったのか、森野由美は冷たげに言った。
すぐに、ざわめきは戻ったが、彼女が入ってきてからのざわめきは、どこか不自然なところがあった。
洋子は、早苗のことを責められないという心境に、あらためてなった。しかたがない……この女の言いなりにならないと、無性に怖いのだ。家がヤクザとか、女のわりに腕力が強いとか、そういうことではない。精神を圧迫されるような言い表しづらい怖さがあるのだ。森野由美という一五歳の少女のことを、まるで世界を支配する女王のように感じてしまう。
「雄司と徹が、狩られたって」
男子生徒の一人が、由美に騒ぎの理由を説明した。ちがう男子が教室の前、窓側におかれているテレビをつけた。名目上は国営放送しか映らないテレビだ。中三ともなると、授業ではもう使われることはないのだが、この星友中学校では、昼休みに放送部が自主制作の番組を放映しているために、全教室にテレビが設置されている。
国営放送と放送部の番組以外、映らないことになっているとはいえ、あつかいに慣れている者がちょっといじれば、簡単に民放も映すことができる。
テレビをつけた生徒が、裏側にある調整ツマミをいじると、すぐにワイドショーの画面が映し出された。
そのテのニュースは、こういうワイドショーのほうが詳しく報じる。しかし、いまやっているのは、歌舞伎役者と人気局アナとの不倫騒動だった。
「ダメでしょ、勝手につけちゃ!」
迫力のない叱責が入口から聞こえてきた。
このクラスの副担任、高橋織絵だった。
「今日は虹川先生がお休みなので、ホームルームはわたしがやります」
憂鬱な気持ちで、織絵は言った。
まさか担任教師が身内の不幸で欠勤することになろうとは……。
会議の終わった職員室に戻ると、学年主任からそのことを伝えられ、自分がホームルームに出ることを指示された。これから、昨夜の事件のことを生徒たちに説明しなければならない。
(こんなことなら、わたしも出たかった)
主任からは、会議で話し合われたホームルームでの説明の仕方も教えられていたが、なにぶん短時間でのこと。どう伝えればいいか頭を抱えたくなる。とにかくむずかしい年頃だ。ヘンに興味をひかせてもいけないし、あまり簡潔すぎても子供をバカにしてると思われる。新米の織絵には、厄介な仕事だった。
もしこれが普通の傷害事件であったならば、犯人が許せない!、怪我をした××君がかわいそう、みんなも気をつけるのよ――完全に犯人が悪で、被害者が善というスタンスで説明すればいい。だが〈A狩り〉となると、話はちがってくる。襲われた生徒のほうにも、非はあるのだ。
そしてなによりも、当事者のクラスということが、話しづらさに拍車をかけていた。だいたい新米の自分に、こういうことをやらせようとする学年主任や教頭の人間性を疑いたくなる。
「みんな、席について」
生徒たちは、緩慢な動作で自分の席に戻っていく。
「テレビも消しなさい」
テレビを操作していた生徒は、かまわずにチャンネルを変えていた。どこの局でも〈A狩り〉のことはやっていなかった。
『本当に腹立たしいですねぇ! こう連日、児童虐待のニュースをお伝えしなければならないんですから! もっと児童相談所と警察が連携してですね――どうですか、コメンテーターのみなさん!?』
「牧野くん!」
怒った織絵の声に、その生徒は「最後だから」と返事をして、総合テレビに合わせた。
朝のニュースをやっていた。
『埼玉県××市で摂取されたダイオキシン濃度が、体重一キロ当たりの許容摂取量のおよそ二倍にあたる、一九〇ピコグラム検出されました。この地域では、ゴミ処理場の――』
「知ってる人もいるかもしれないけど、昨日の夜……ちょっと、牧野くん!」
「はいはい、消しますよ」
『次のニュースです。先月一〇日から、タンザニアに現地部族の研究のため――』
牧野という生徒は、今度こそ消そうとスイッチに手をかけた。
織絵の背筋を、駆け抜けるものがあった。
「待って!!」
「は、はい!?」
あまりの声量に、牧野だけでなく、クラスの全員が驚いていた。
織絵は、そんな生徒たちの反応にも気づかないほどに、画面を食い入るように見つめている。
〈邦人民族学者、行方不明〉というテロップが出ていた。
『――東京都××区に住む民族学者、氷上良蔵さん四六歳が、現地で行方不明になっていたことがわかりました。氷上さんはタンザニアのセレンゲティ国立公園内に居住する現地部族、トゥガル族の調査研究をしていましたが、先月一七日を最後に消息がわからなくなっていたということです。調査していた現地部族の村人が多数死亡しているのが発見されたことから、その村が猛獣の群れに襲われ、氷上さんもそれにまきこまれた可能性が高いとみて――』
頭のなかが、真っ白になった。
「……氷上?」
生徒たちの何人かも、気づいたようだ。
「氷上って、あの氷上?」
『――なお、氷上さんの長女も同行していたという情報があり、二人の安否が心配されます』
「イヤ――ッ!」
悲鳴をあげたのは、早苗だった。
自分の席に戻っていた洋子も、顔を蒼白にさせて、思わず立ち上がっていた。
教室内が、凍りついたように静まった。次のニュース原稿を淡々と読みつづけるアナウンサーの声だけが、無慈悲に流れている。
事情を理解できない数人が首を傾げていたが、それでもこの場の空気を読みとって、みな険しい面持ちになっていた。
ただ一人――理解できているのか、いないのか、その少女だけは表情を変えなかった。
いや、かすかに笑みをたたえていた。
と――、そのとき。
〈ガラッ〉
教室のドアが、非現実に開いた。
そこに、女生徒が立っていた。
みんなの視線が、その女生徒に集中する。
左右の長さがちがう髪。
しかし、不思議とおかしくはない。
「おはようございます」
その生徒は、驚くほどさらりと挨拶の言葉をかけてきた。久しぶりに学校へ来たというのに……ニュースで自分のことを報じていたというのに……。
返っていく言葉はない。
凍てついた時間が続いていた。
教卓に立つ織絵と、前方のドアから入ってきたその女生徒が眼を合わせた。
「ち、千鶴ちゃん……」
「どうしたんですか、先生?」
「だ、だって……いま、ニュースで……」
織絵の表情が、急速にゆるんでいく。
良蔵も千鶴も、無事に帰ってきたのだ。行方不明とされたのは、アフリカの通信事情が悪いせいで、二人は運よく難を逃れて、予定よりはやく帰国することにしたのだろう。
「よかった! 無事だったのね!!」
「父は死にました」
嘘のように、千鶴は言った。
なにを言われたのか、織絵にはわからなかった。
「え?」
「死にました、アフリカで」
なにを言ってるの、この子は!?
「動物に襲われたんです。ライオンやチーター、ヒョウ……インパラやガゼル、ヌーなどの草食動物もいました。父は、アフリカゾウに踏み潰されたんです」
感情が欠落したような、淡々とした口調だった。ちょうど、ニュース原稿を読み上げるアナウンサーのようだ。
「わたしも襲われたけど、助かりました」
「そ、そんな……」
「だから、父はもうこの世にはいないんです――人間の家族は、もうこの世にいない」
最後のフレーズだけ、感情がこもっていたように聞こえた。
織絵は、そのセリフで現実を理解した。千鶴は嘘を言っているのでも、冗談で驚かせようとしているのでもない。そもそも、そんな悪趣味なことが言える少女ではないのだ。
「りょ、良蔵さんが……死ん……だ」
「そんな悲しい顔しないで、先生。本望だったと思います。大好きな研究をしながら死ねたんだから」
そう告げると、微笑んだ。
織絵は、立ちくらみでもしたように膝をついた。最初は、咳を我慢しているようにも見えた。くっ、くっ……という息が聞こえた。泣いているのだ。生徒の前だろうと関係なく嗚咽していた。それでも声を殺そうとしているのは、教師としての責任からか。
「先生……」
洋子が、織絵のもとに駆け寄った。織絵が涙を流す理由を、洋子は知っている。織絵にとって、千鶴の父親が、ただの父兄でないことに気づいていた。
涙する織絵と、その織絵を慰める洋子の二人を残して、千鶴は自分の席へ向かった。
新学期開始の今日か明日にでも席替えをすることになるのだろうが、まだもとのままのはずだ。ちょうど真ん中あたりの席――しばらく……夏休みの期間より長く、もうそこに主が座ることはないのではないかと思うほど長い時間を経て、その席がうまろうとしていた。
「氷上さん」
数ヵ月ぶりの着席は、かけられた声で阻まれた。同じ列の一番後ろの席からだった。
「いまあなた、『人間の家族』はいない――って言ってたかしら」
「ええ」
「だったら、人間以外の家族ならいるの?」
森野由美からの奇妙な問いに、千鶴は沈黙した。どう答えればいいのかを考えあぐねている沈黙ではなかった。なぜなら、由美を見る千鶴の視線が、逆に尋ねていたのだ。
《本当に、それを知りたいの?》
《知ってしまっても、後悔しない?》
由美は、その視線の意味を理解することができなかった。いや、できたのかもしれないが、千鶴の『警告』を無視してしまった。
イスを引こうとしていた手を止めて、千鶴は由美のもとへゆっくり歩きだした。部屋の空気が冷たくなっていく。みな、由美と千鶴の確執は知っている。由美の命令で、千鶴は孤立させられたのだ。
「家族なら、ここにいる」
そう言って、千鶴は右手を差し出した。
「……?」
なんのつもりなのだろう。家族がここにいる? それとも、たんに仲直りの握手でも求めているのだろうか。
だとしたら――。
(おめでたい女)
冷やかに内心でつぶやいて、由美も右手を差し出した。
(またイジメてあげるわ、アヒルさん。だって、あなたみたいな子がイジメられているのって、滑稽で楽しいんだもの)
由美は、千鶴の手を握った。
どちらの右手も、白くて傷一つない。
(ふふ――)
由美の口許が優美に、それでいて醜く歪んだ。
きれいに整えられた長い爪を、千鶴の手に突き立てた!
(みじめに泣き叫びなさ――え!?)
当然、千鶴の表情が苦痛にうめつくされるものと確信していた。しかし……しかし千鶴の表情は――まったく変わっていなかった。
(な、なんなのこの子!?)
表情を変えたのは、むしろ由美のほうだ。
「これが、わたしの家族」
声も平然としていた。やはり痛みは伝わっていない。
(なに言って……!?)
「指は家族の象徴なの」
イヤな予感!
由美は、咄嗟に千鶴の手を放そうとした。だがその前に、五つのイメージが由美の脳裏に襲いかかった。
圧倒的な質量をほこる巨岩。
鋭く駆け抜ける刃のごとき疾風。
高く燃え上がる炎の柱。
すべてをのみこむ巨大な津波。
暗闇に浮かぶ猛獣の眼、眼、眼!
「ヤダ!!」
イスから転げ落ちた。落ちたあとも、千鶴から離れようと、倒れたまま後ずさりする。女王を気取っていた由美にあるまじき無様な姿だ。
巨岩に押し潰されて、圧死した。
疾風に切り刻まれて、悶死した。
炎に焦がされて、焼死した。
濁流にのまれて、溺死した。
いや、いずれも死にきれず、もがき苦しんでいた。そして虫の息になったところを、何匹もの獣に喰われたのだ。
肉も皮も内蔵も屠られた。
血も啜られて、眼球すら舐められた。
最後には、骨だけになった。
「こ、来ないで――ッ!!」
幻影は一瞬のうちに、由美の全神経に永遠の恐怖をこびりつかせた。千鶴は、迫っていない。しかし由美には、そう見えた。
このままでは、喰い殺される!
この女は、人間ではない。
人間とはべつの、《獣》だ!!
「森野さん、どうしたの!?」
いつも由美に従っている取り巻きの女生徒が声をかけるが、由美はただおびえるだけだった。
「臆病な人ね」
自分の右手を見ながら千鶴は言った。
由美の異変に気づいた織絵が、ハンカチで涙を拭いながら、洋子に支えられるようにして立ち上がっていた。
「どうしたの、千鶴!?」
声をかけたのは、洋子のほうだった。
「握手しただけ」
右手に眼を向けたまま、千鶴は答えた。
傷一つない右手……。
もし、アフリカでの惨事を知っている者がいれば、こう驚くだろう――千鶴の右手は、ライオンに噛み砕かれたのではなかったか!?