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第一章  1 狩猟

 もうすぐ、狩りの時間だ。

 夜、八時。都心から離れたこの街でも、まだ人通りは激しい。

 もっと人影が減らなければ、獲物は狩れない。

 獲物は、繁華街を歩きさえすれば、腐るほどいる。いくら狩っても、なくならない。狩っても狩っても、絶滅しない。だから狩る。少しでも数が減るように、狩る。一日もはやく絶滅するように、狩る。

 それが、世の中のためなのだ。

 それが……自分自身のためなのだ!

「クソッ、イライラする!」

「ゲームにアタんなよ、ユウジ」

 江島周防は、駅前のゲームセンターに足を踏み入れていた。踏み入れてすぐに、一番奥の脱衣麻雀の台を陣取っていた、二人組の少年たちの存在が眼についた。

 高校生、それとも高校中退のプータローだろうか……いや、まだ幼さを残した顔だちからすると、不登校ぎみの、すさみきった中学生といったところかもしれない。

 一人の特徴が、日本人にはまるで似合わない派手すぎる金色の長髪。もう一人のほうはサッパリとした短髪だが、毒々しい赤に染まっているところが、マジメとはほど遠い。

 二人ともギラついた視線で、ときおりまわりを威嚇している。ゲームで遊んでいるというよりは、その場に意味もなく巣くっているだけのようだ。このゲームセンターで、すでに二時間をすごした彼らだったが、実際にゲームをプレイしたのは、いまを入れて四回しかない。

 画面ではアニメ絵の女の子が、すべての服を着た状態でコンティニューするかを尋ねている。どうやら一回も勝てずに、ゲームオーバーになってしまったようだ。

 台にイラつきをぶつけた金髪の少年は、画面から視線をそらすと、となりの赤い短髪の友人に眼をやった。

 友人のほうから話しかけてきた。

「明日どうする、学校?」

「しけた話すんなよ」

 金髪の少年は、不機嫌そうに言った。彼のイライラの原因は、まさしくそのことだったのだ。明日からはじまる新学期――それが苛立ちの理由だった。

 二人は、つい数ヵ月前までは、こんなところに入り浸ってるような少年たちではなかった。それまでもゲームセンターで遊ぶことぐらいはあったが、それは純粋に『遊ぶ』ためであり、いまとは根本的にちがう。マジメとはいえなかったかもしれないが、現在のように、不マジメの見本のような少年でなかったことはたしかだ。

 数ヵ月前、あることをきっかけに、二人は堕落の道を突き進むことになってしまった。

(この匂いだ……)

 二人の少年を入口付近で眺めていた江島周防は、胸がやけそうな獣臭を嗅いだ。

 今夜の獲物……!

 彼らに近い位置へ移動し、手近な台に座った。クイズゲームのようだった。一〇〇円硬貨を入れて、ゲームをはじめた。耳は、もちろん彼らに向けている。

「でもよ、いかねえとジジイがうっせんだよ……受験にもひびくしよ」

「トオル、おまえ高校行く気かよ」

「あったりめーだろ」

《第一問 政治――戦後の歴代総理大臣で任期が四番目に長かったのは中曽根康弘。ではその在任日数は?》

(なんだ? 選択じゃないのか? 自分で数字を入力しなきゃならないなんて……無茶な問題だ)

『1806』

「高校ぐれえ行っとかねえとよ、カッコわりいじゃん」

「ケッ、いまさらマジメぶんなよ」

《第六問 化学――炭素分子がサッカーボール状につながってできている、バックミンスター・フラーレンと呼ばれる分子の炭素原子数は?》

(こんなの答えられるヤツいるのか?)

『60』

「あの計画を具体的にたてたのは、だいたいおまえなんだぜ」

「だってよ、ユミが……」

《第一二問 スポーツ――テニスでもっとも使用されているプレシャライズドボールに注入されているガスの圧力は、大気圧の何倍?》

(テニス……か)

『1.8』

「ちきしょう……あの女センコウさえこなかったら、うまくいったのによ!」

「そうだ、高橋のアマ!」

「次は、あいつをヤッちゃおうぜっ」

《第一八問 歴史――聖徳太子が斑鳩宮で死去したのは何年?》

(歴史は嫌いなんだよ……歴史の教師は、必ずと言っていいほど理屈っぽくて説教くさい……たしか、こうだと思ったんだが)

『622』

「おい……そんなことしたら、今度こそ警察沙汰だぜ」

「なにビビッてんだよ、トオル」

《第一九問 芸能――アイドル、島本ナナの身長は何センチ?》

(カンしかないな……これは)

『158』

「いいか、もう後戻りはできねえんだ! 残りのヤツら、オレら二人にだけ責任を押しつけて、逃げやがった! てめえたちだけ反省したフリかよ!! なんでオレたちが主犯格なんだよ! 正彦だって二郎だって、のり気だったくせにっ」

「ああ、ズリィよな」

「オレなんか、近所のオバチャン連中に白い眼で見られるしよ!」

「噂は、はえーからな」

《第二〇問 アニメ――美少女戦士ガクガクオウに出てきた怪獣ホナホナの登場話数は、第何話?》

(しるか!)

 1ステージ最後の問題を適当に答えようとした周防だったが、標的の二人組が立ち上がるのを確認すると、画面から眼をそらした。

 自分も立ち上がると、たまたま横の通路を歩いていた二〇歳前後の青年の肩を叩いた。

「続き、やっていいですよ」

 そう告げると、出ていった二人を追った。

「す、すげえ……」

 ゲームを譲ってもらった青年は、たかがクイズゲームごときで驚愕することになった。

 なぜならこのゲームは普通のクイズとはちがい、三択や四択で解答するのではなく、自分で数字を入力しなければならない。しかも問題自体も超難解かつマニアックな問題ばかりを集めているので、第1ステージすら何度やってもクリアできないクイズ自慢たちが続出しているというものなのだ。

 通称『ボッタクリ』と呼ばれている。

 それを残り一つまで全問正解しているとは……。



 林葉雄司と村田徹は、繁華街を目的もなく歩いていた。明るい未来を感じさせる、少年らしい無邪気なものは、表情にない。もう峠を越えてしまった、さきの予想できるあきらめの雰囲気が身体から滲み出ている。

 まるで、会社帰りの窓際サラリーマンだ。

 三ヵ月ほど前に二人のクラスでおこったイジメが、ことの発端だった。どこのクラスにもいる、内気でおとなしい女の子が、突然、イジメのターゲットにされた。

 イジメをはじめたのは、森野由美という女生徒だった。女子よりも、男子生徒に顔のきくタイプの女だ。普段は、男友達のなかにいることのほうが多いが、ひとたび睨みをきかせれば、女子にたいしても、だれも逆らうことのできない権力をもっている。

 最初は、おとなしいその子に、森野由美の命令で、クラスの女子たちが無視をしはじめた。そこから、持ち物を隠したり、ノートを破いたり……急激にイジメはエスカレートしていった。そして、この林葉雄司や村田徹などを中心とする男子グループも、イジメに加わることになった。

 より陰湿に……。

 より過激に――。

 ついには、暴力へ。

 力のない少女の身体を容赦なく傷つけ――そして、そして……。

 いけないのは彼女だ。

 担任にイジメのことを言いつけた。

 なにか報復しなければ、こちらのメンツが潰されてしまう。

 だから、思い知らせてやった。

 ――男、五人がかりで!

 言いだしたのは、森野由美だった。

 それを聞いたとき、男子グループのだれもが、ほんの冗談だと思った。いくら思い知らせてやるといっても、そこまでのことは本気で考えていなかった。冗談のつもりで、村田徹がその話に悪のりした。具体的に計画をたてた。計画といっても、だれでも考えつくような幼稚な企みだ。

 放課後の教室。

 事前に、クラスの人間には近づかないように命令しておく。

 狙うのは、彼女が委員会の仕事で遅くなる日だ。

 教室に戻ってきたら、逃がさない。

 廊下から見えない死角。

 仲間五人で囲む。

 徹の奸計に森野由美は楽しそうに笑った。男子たちは、由美が冗談など話していないことに、そこで気がついた。由美の瞳と口元はたしかに笑っていたが、その微笑みは、これからおこなおうとする残虐な仕打ちに胸踊らせる、狂った笑みにほかならなかったのだ。

 徹の計画は、そのまま実行された。

「やめよう」とは、だれも口にしなかった。

 由美の期待に応えることしか、少年たちの頭にはなかった。実行したのは彼らだが、あくまでも主導権は森野由美が握っていた。男たちは、由美のコントロールに従うだけの働き蜂にすぎなかった。

 結局、ことは未遂に終わった。通りかかった女教師に邪魔されてしまったからだ。しかし、ただ終わったわけではない。邪魔される寸前に、林葉雄司はゾクゾクするような快感を手に入れていた。彼女の片方の髪の毛を切り落としたのだ。

 彼女にたいしての罪の意識は、微塵もなかった。それどころか、あのときの――切り裂いた髪の毛を掲げて、仲間たちに見せびらかしたときの自分を、誇りにさえ思っている。あんなに興奮したことは、いままでになかった。最高の瞬間だった。もちろん、彼女の身を穢そうとしたことなど、なんの後悔もしていない。いや、失敗したことのほうに、後悔を感じている。

 未遂ということもあったのだろうが、警察沙汰にならなかった。被害を受けた少女の父親が、それを望まなかったからだ。学校側もその意向に内心ほくそえんで承知したのだろう。事件を未遂にとどめた若い女教師だけが、警察へ届けるべきだと主張したようだが、その意見が通ることはなかった。

 事件自体がなかったことになった。

 林葉雄司と村田徹をふくむ五人が、タバコの喫煙により、数日間の自宅謹慎になっただけだ。

 しかし、噂は囁かれた。

 謹慎が解けてから二人が学校に行くと、だれもが暴行未遂のことを知っていた。

 レイプマン、ヤクザの卵――様々な陰口をたたかれた。いままでいっしょになってイジメていたヤツらが、今度は仲間であった自分たちのことを除け者にしようとした。理由はすぐにわかった。イジメていた女子が、あの日から学校へ来なくなっていたからだ。新たな生贄が必要になったということだろう。

 林葉雄司と村田徹以外の三人は、すべての責任を二人に押しつけて多数グループへ逃げていった。善良な生徒のフリをして、「林葉と村田に命令されて、しかたなくやっただけなんだ」と言い張った。

 鬱陶しいから、そのうちの一人を殴った。

 ムカツクから、残りの二人を蹴り倒した。

 陰口は、たたかれなくなった。かわりに恐怖の眼差しで、まわりから見られるようになっていた。疎外されたんじゃない……自分たちから出ていったんだ!

 いつしか二人は、校内一の不良コンビと呼ばれていた。学校へも滅多に行かなくなっていた。夏休みを入れると、もう二ヵ月ぐらいは行ってないだろう。

「もうどうでもいい」

 林葉雄司は、吐き捨てていた。

 いつのまにか、人通りのない道にさしかかっていた。駅前はにぎやかだが、ちょっと離れると急に寂しくなる街だ。街灯がポツン、ポツンと点在するだけで、さっきまでが嘘のように薄暗い。

 高さ五階ほどの小さなビルが立ち並ぶエリアから、一戸建てがひしめく閑静な住宅地へと変わる境目付近だった。

 林葉は、ふと後ろを向いた。

 なにか、イヤな気配がした。

 ハッとしたときには、衝撃があった。

 鈍い音が、薄闇に吸い込まれる。

「ユウジ!」

 村田徹も異変に気づいて振り返った。

 鉄パイプを持った男と眼が合った。

 自分たちよりは上だが、若い男だ。冷たい知的な瞳が、刺すようにこっちを見ている。顔だちだけ見ると、鉄パイプなど似合わないような青年だ。

「なんだ、おまえ!?」

 林葉は、うつ伏せになってアスファルトに転がっている。顔が地面を向いているためにさだかではないが、額あたりを鉄パイプで殴られたのだろう。わずかな街灯の輝きが、アスファルトに流れた血で反射している。

「て、てめえ!」

 友人をやられた怒りに、村田徹は冷静さをなくした。素手でも負ける気がしなかった。いかに相手が武器を持っていようとも、余裕で勝てる。もう自分は、普通ではないのだ。こんな優等生っぽいマジメ君など、あっという間だ。ちょうどいいハンデになる。

 薙ぐように横から叩きつけてきた鉄パイプを、村田徹は左腕でブロックした。

 予想以上の激痛がはしった。

「……くっ!」

 骨が折れたかもしれない。

 無謀だった。

 たとえ見た目が理知的な青年でも、鉄パイプを手に闇討ちするような人間なのだ。最近デビューしたばかりの新人不良中学生の経験では、勝てるはずなどなかったのだ。

 鉄パイプは、その後も容赦なく、彼を襲った。右肩、両脚、わき腹、背中、とどめの後頭部への一撃を受けて、村田徹は意識をなくした。

「くくく……」

 二人を闇討ちした青年――江島周防は、愉悦の笑みをもらしていた。人を傷つけて、なにがそんなに可笑しいというのだろうか。周防の瞳は、危なく輝いていた。

〈A狩り〉――。

 この界隈では、そう呼ばれる傷害事件が、ここ最近、連続しておこっていた。手口はいまの通り、鉄パイプなどの凶器で、二、三人の不良たちを闇討ちするというものだ。被害者であるにもかかわらず、少年A、Bとしか報道されないところから、そう呼ばれるようになっていた。

 まさか世間を騒がせている犯人が、こんな暴力と無縁そうな青年とは、だれも想像していないだろう。

 すでに何件罪を重ねたかは覚えていない。

 最初にヤッたのが、三ヵ月ぐらい前だろうか。それから、五日ぐらいの間隔で狩りを続けている。警察も当然のことながら動いているだろう。今日もそうだが、顔は見られている。このままやり続ければ、いずれ捕まる。やり続けなくても、いままでの目撃証言で捕まってしまうかもしれない。

 やめるつもりはなかった。

 捕まることも、警察も、刑務所に入ることも、怖くはない。怖いのは、クズどもに対する復讐心が鬱積され、それが発散できないもどかしさに身を焼かれることだ。

 ヤツらなど、どうなってもいい。

 死んだっていい。

 この行為がエスカレートしていけば、本当に殺してしまうかもしれない。

 それも、いいだろう。

 こんなヤツらのために人生を棒に振るのもバカバカしいが、どうせ周防の人生は、このさき晴れることはないのだから……悔しさと無念さの暗い雲に覆われた、薄闇の一生しか待っていないのだから――。

(もっと狩ってやる……オレの気がすむまで、いくらだって!)

 周防は、鉄パイプを捨てて歩きだした。

 すでに狩った獲物には、眼もくれない。

 歩きながら、どんなにはらっても消えてくれない情念の原点を思いおこした。

 三年前――。

 一七歳、高校二年の秋だった。

 周防には、三つ歳の離れた妹がいた。『いた』という過去形を使わなければならないのが、心苦しい。

 妹のゆかりは、殺された。

 一六歳の少年が運転する自動車にひき殺された。もちろん、運転していた少年は無免許だ。信号無視に、あきらかなスピード違反、飲酒までしていた。「ムシャクシャしていたから、殺すつもりでひいた」と取り調べで殺意も認めた。しかも、ゆかりを助けようと飛び出した女性まで、いっしょにひき殺していた。二つの命を奪った。本来なら、重い罰を科せられなければおかしい。

 しかし少年は、少年法に守られていた。

 ろくな処罰はされなかった。

 ひと二人が死んだというのに、少年院に十数ヵ月ほど、収容されただけだ。

 納得できなかった。

 無念だった。

 その無念さを少しでもまぎらわすために、残りの高校生活をついやした。確実視されていた東大への進学をやめて、それまでやったことのなかったテニスに情熱をそそいだ。わずか半年のテニス歴で、関東大会を制覇するまでにいたった。しかも、地区予選から1ゲームも落とすことなく勝ち進んだ。対戦者のなかには、優勝候補のジュニアランカーたちもふくまれていたが、そのすべてを完璧に打ち倒しての優勝だった。

 中学まで軟式をやっていて、高校で硬式に転向した無名選手が、突如として好成績をおさめることはあっても、まったくの初心者が1ゲームも落とすことなく優勝をさらってしまうとは、奇跡を通り越して、それは異常な事態といえた。

『彼のプレイは、なにかに憑かれている』と評した雑誌記者もいたほどだ。

 しかし、そんな快挙を達成しようとも、無念さは、ほんの少しも薄れなかった。どんなに汗をかいても、勝利を積み重ねても、晴れることなどなかった。

 インターハイの出場権も得ていたが、その関東大会以降、周防が公式戦に出場することはなかった。名門テニスクラブから誘われもしたが、プロになるつもりもなかった。自分が華やかな表の舞台に立つことは、死んだゆかりにたいしての裏切りのように思えたからだ。テニスは続けたが、それはあくまでも、無念を晴らすための目的でしかなかった。

 この無念さが晴れなければ、自分は何者にもなれないと思った。結局、浪人した。就職もする気はなかった。自由な時間を使って、テニスをやり続けた。

 それでも晴れない。

 気がつけば、もう二〇歳だ。

 進学もできない、就職もしない、恋人もつくらない――普通の人が幸福だと思うようなことはやらなかった。

 できなかった。

 胸に沈むこの無念さが消えなければ、喜びなど感じられるはずがないのだ。

 サナギ……。

 殻を破れないサナギのようだ。

 かつて、初心者でありながら負けを知らない周防のことを、こう呼んだ者がいた。

『不敗のサナギ』――。

 成長できずに、殻のなかで閉じこもっている姿が、とても自分とかぶっているように感じられた。お似合いだと思った。

 もう自分は、このまま成長できずに、一生サナギのまま果てていくのだろうか?

 そんなのは、イヤだ!

 そう拒絶しても、胸の奥のしこりが邪魔をして、殻を叩いても罅すらつかない。

 もどかしさ。

 焦り。

 無念さをふくめたそれらを振り払うために、周防は暴虐者の道に入り込んだ。

 狩りをはじめた。

 最初の獲物は、ゆかりをひき殺した張本人。一九歳になっていた犯人の少年だった。テニスで鍛えあげた腕力を使って、鉄パイプで滅多打ちにしてやった。

 ダメだった。

 そんなことでは晴れないのだ。

 だから、狩りを続けている。

 同じようなクズを見つけては、いたぶり続けている。

 この無念さが晴れるまで。

 厚い殻を破ることができるまで――。

「……!!」

 周防は、歩みを止めた。

 信じられないものが、眼の前にいた。

 こんな住宅街の真ん中に、猛獣!?

 まちがいない!

 その巨大な威容は……ライオン!!

 いるはずのない存在が、こちらを見ていた。

 三メートルも離れていない。

 もしこれが夢でも幻でもないのなら、一気に飛びかかってこられたときには、まず助からない距離だ。

「なぜ、あんなことしたの?」

 猛々しいライオンから少女の声……!?

 後ろに、だれか少女が隠れているのだろうか。それにしても、タテガミをなびかせた恐ろしいライオンに、静かで玲瓏な少女の響きとは……なんとアンバランスな組み合わせなのだろう。

 声の主がライオンの背後から現れると、そのアンバランスさは、よりいっそう濃くなった。ここまでアンバランスだと、逆に蠱惑的なものがあるかもしれない。

 猛獣のわきに立つ、少女の姿――。

 アンバランスといえば、少女の髪形を見てもそうだった。右と左で、長さがちがっている。右サイドは胸まで長いストレートロングだが、左サイドは耳の下までしかないショートだった。

 周防はライオンへの畏怖も忘れ、そのアンバランスな少女の顔を見入ってしまった。

「ゆ、ゆかり……!?」

 死んだ妹だ、と思った。

 思ったのは一瞬だった。すぐに、その思いは消し飛んでいた。

 似てはいるが、別人だ。

 そうだ……ゆかりが生きているはずはない。

「殺すつもりだったの?」

 少女は、言った。

 小さくて、紅い唇。

 アンバランスな髪は漆黒、肌は白磁のように透き通っている。

 不治の病におかされてるような儚さがあった。余命あと数日だというのに、ふと病室から抜け出してしまったような、そんな悲しさがあふれている。

 しかし、瞳は力強かった。

 薄闇でも輝きを失わない、黒曜石のような強い瞳。街灯を反射しているというだけではない。たしかに、その瞳は輝いている。

 周防はこの瞳を見て、妹ではないと確信したのだ。眼の光がこうまで力強くなければ、ゆかりが冥界から自分に会うために地上へ舞い戻ったのではないか――そう信じたろう。

 この瞳は、死者のものではない。

「どうせなら、殺しちゃえばよかったのに」

 少女は、怖いことを平然と口にしていた。

 背筋に寒けがはしるのを周防は自覚した。

 やはり、生者ではないのか。冥界からの使者が、人間の死を見届けるためにやって来たのだろうか。

「……キミは、何者だ!?」

 周防は、やっとそれだけを声に出すことができた。それ以外は、震えて唇が動かない。その震えの正体は、こちらを睨んだまま動かないライオンによるものなのか、それとも少女から感じる得体の知れない『なにか』なのか!?

 ただ言えることは、この光景が現実のものだとすると、自分は、けっして入ってはいけない禁断の世界に迷い込んでしまったのだろう……ということだけだ。

「うい〜す、よ〜、シャッチョさん♪」

 少女が答える前に、ご機嫌な歌声が聞こえてきた。完全にできあがっている酔っぱらいのサラリーマンだ。いまどき、こんなヘンテコな歌詞を口ずさみ、絵に描いたようなコントのごとき千鳥足で歩いている人間はめずらしい。

 いかに酔っているとはいえ、街中でライオンを見かければ、当然のごとくパニックをおこしてしまうはずだ。周防は、サラリーマンの悲鳴を予想した。

 しかしサラリーマンは、あいかわらずの千鳥足で周防の前を通り過ぎてゆく。酔いすぎのあまり、そんな分別すらつかなくなっているのだろうか。

 周防は、ライオンを見た。

 いなかった。

 いままでいたはずの巨大な猛獣は、その姿を消失させていた。

 あれは、幻!?

 周防の足は、無意識のうちに動いていた。

 呪縛が解けたように、少女から逃げ去っていた。



〈あいつらは、どうするガウ?〉

 周防の姿が見えなくなってから、少女の足元で声が聞こえた。

 ネコ? もしそうだとすると、めずらしい新種のネコだろう。身体のところどころに黒い斑点がある。まるでヒョウのような……。

 いつから、ここにいたのだろうか。さきほどのライオンが縮んで、このネコになってしまったとでもいうのだろうか。

「あの人……」

〈どうしたガウ〉

「どこかで会ったこと……」

〈ガウ?〉

「ううん、なんでもない……。彼らのことはもういいわ。あの人が、あそこまでやってくれたんだもの」

〈殺しちゃえばよかったのに……なんて、なんだか、らしくないガウ。ちょっと懲らしめてやるだけだったはずガウ〉

「……」

〈ほかにもいるガウ? 懲らしめたいヤツ〉

「いるけど、あの二人が主犯格よ。だから、あの二人さえやられればいい」

 そう言ってから、つけたすように――。

「もう一人いた……森野由美」


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