序章 3 神獣
〈残ったのは、その小娘だけか〉
地の底から湧き出たような、荒れた声が聞こえた。いや、心で感じた。もし、それに形があるとするならば、表面にギザギザとした鋭い棘の生えた岩そのものだ。ふれただけで傷ついてしまいそうに凶悪で、人の力では到底動かせそうもないほどに重量感がある。
〈それにしても、バルめ……どこに隠れおった! 仲間を見殺しにしてでも命が惜しいとは――フフ、しょせんヤツも人間ということか〉
千鶴は眼をあけて、その声を感じていた。
意識を完全に取り戻したというわけではない。眠っているような感覚のさなか、瞼だけが開いている。夢のなかにいるような……しかし、現実だということはわかる。
〈野獣たちよ、はやくその小娘を始末しろ。この村にいる人間を殲滅しなければ、俺の使命は終わらんのだ!〉
直接、意識に入り込んでくる奇妙なその声が、なんとも不快だった。
眼には猛獣の姿が映っていた。右手を喰い千切ろうとしたさきほどのライオンが、仰向けに倒れている自分の顔を見下ろしている。とどめを刺すつもりなのだろう。
右手の痛みは感じなくなっていた。あまりの苦痛に、痛覚が麻痺してしまったのだろうか。それとも、まだ意識が朦朧としているからなのか。ただ辛さだけを感じた。右手だけでなく、全身を動かすことができない。
〈ガウウ!〉
ライオンが咆哮をあげた。
恐ろしい、と思う感情が蘇ってきた。
「いや――ッ!!」
悲鳴をあげ、必死に身体を動かした。
どう動かしたのかは覚えていない。
気がついたときには、ライオンと五メートルほどの距離をあけて立っていた。ライオンの後ろにはガゼル、ゾウ、ヒョウもいる。
なぜだか、その動物たちには見覚えがある――そう感じたが、深くは考えられない。
頬に、なにかがふれた。
リーちゃんだった。
その小さな瞳を見たら、恐怖は消えた。
動物たちに視線を戻す。
「ハア、ハア……」
心は落ち着きを取り戻したが、乱れた呼気は止まってくれない。胸の奥が破裂しような苦しみのなか、しばらく猛獣たちと睨み合った。
「――生き残ったか、客人よ」
突然、背後から声をかけられた。
さきほどからの奇妙な声ではない。ちゃんとした人間の肉声だ。しわがれているが、温かみのある老いた声。
驚いて振り向くと、そこには村の長老の姿があった。
「すべての万物には神がやどる……草にも石にも風にも雨にも、そして命すべてにも――わかるかな?」
長老は、やさしい笑顔で語りかけてきた。
腑に落ちなかった。いまは、こんな笑顔を見せられる状況ではない。この非現実な殺戮のただなかでは、あまりにも日常的な長老の態度――逆に、現実味を欠いていた。
「ち、長老さん!?」
長老の平静さへの疑問と、語った内容への疑問、どちらもふくんだ問いだった。
と――、千鶴は、あることに気がついた。
「言葉……」
言いたいことの真意はわからないが、どういう言葉が発せられたのかは、たしかにわかった。トゥガル族の言語など、まったく話せないはずなのに……。
長老が異国の言葉を話してるのはまちがいない。それはわかる。しかしなぜだか、その異国の言葉が、まるで日本語のように自然な流れで耳に入ってくるのだ。
「おぬしも、《鼓動》を受けた。だから、言葉も通じる」
「こ、鼓動……!?」
〈ククク、ク……〉
すると、喜悦した笑みが長老との会話をさえぎった。
耳から聞こえるのではない。
直接、脳に侵入してくるような――。
動物たちの背後、まるで彼らを従えるかのように、それはいつのまにか、いた。
一匹の獣……ジャッカルだろうか!?
ちがう!
似てはいるが、見たこともない異形!!
こんな生物が、この世にいるというのだろうか!?
大きさは、巨大なライオンと同じぐらい。千鶴の手を喰い千切ろうとした眼前のライオンとくらべられるので、まちがいはない。口からはみ出た牙が異様に長く、鞭のような尻尾が自分の身体に何重にも巻きついている。その先端が顔にあたっていた。
「ユルグ……創造神アンマの出来損ないか」
〈クククク――オイボレめ、この混乱のさなか、やはり隠れておったのか。仲間を見殺しにしてまで助かろうとは、かつて《然》の力で神々を牽制していた者とも思えん臆病さよ〉
「助かろうなどというつもりはない。わしはわしの使命をまっとうするだけじゃ」
〈ほう、なにをするというのだ? そんな老いさらばえた肉体で! 悲しいものだな、人間というものは〉
異獣の侮蔑にも、冷静さを微塵も崩すことなく、長老は淡々と続けた。
「おぬしも、わしに秘められた《四源礎》は知っていよう。だから抹殺しにきた。そうであろう、ユルグよ?」
〈そのとおりだ! 《地・水・火・風》のすべてをもっているおまえは、まさしく最強の人間――〉
そこで、獣の声音が変わった。
〈ま、まさか……〉
「わしも、ここらが潮時! 大地は言った、『力を解放せよ』――と。老いたわしでは、もうきさまらを圧することはできない。だが……新たなる戦士たちが、おぬしらの野望から、必ずこの世界を死守してくれるだろう」
〈自ら果てるつもりか!〉
「《源地》より、《然》へと導く使者が現れるであろう――大地は……われわれの神は、そうも予見した。そのことを確かめるために、わしは仲間を見殺しにせねばならなかったのじゃ」
〈源地よりの使者だと!?〉
「おぬしらのあやつる『人のめぐり合わせ』――運命においては、この村を訪れる者は一人だけだったはずじゃ。だが、おぬしらの意志からこぼれ落ちた人間が、全人類を救う使者としてやって来たのだ。希望の光じゃ! 生への未練を断ち、死ぬことを恐れない強い精神――」
〈そ、その小娘のことか!?〉
その問いには答えず、長老は両掌を合わせた。まるで神仏に祈るときのような合掌だ。
「いまこそ、わが力を解き放つ!」
〈そ、そうはさせんぞ!!〉
異形のジャッカル――邪獣ユルグ。ここより、人間の力であるならば遠く、神の力であるならば、ごくわずか離れただけのマリという国。そこに根づくドゴン族により伝えられし、神話のなかに登場する邪悪なる神獣。
創造神アンマと大地を父母にもちながら、その母である大地を穢すという大罪を犯したとされる。それにより、大地は不浄のものになってしまったのだという。
その神話のなかのユルグと同一の存在かはわからないが、人知を超えた異獣は、長老めがけて襲いかかろうと、地を踏みしめた。だが駆けだそうとするよりさきに、自らが従えた獣たちが前進をはじめた。
〈どうしたというのだ? 野獣たちよ、そのオイボレを殺せとは命じておらんぞ。おまえたちでは、いかに老いているとはいえ、倒すことはできん〉
命令を受けても、四匹の獣――ゾウ、ガゼル、ライオン、ヒョウの四頭は、ゆっくりとした歩調を乱さなかった。
長老と千鶴のわずか手前で、ようやく止まった。
ライオンとヒョウを中心に、その両わきをガゼルとゾウが固めるように並んでいる。四頭、横一線。どの獣も、その気になれば、一歩踏み出しただけで二人を殺せる距離だ。
「長老さん!」
「心配しなくてもよい」
身の危険にしぼりだされた声に、長老は安堵感を誘うゆるやかな声音で応じた。千鶴は、これまでに経験したことのない神秘がおこることを予感した。
長老の合掌している両手から、なにか熱いものが放たれているような……。
〈邪魔だ、どけ!〉
不可解な動物たちの行動に、襲いかかるのをしばし躊躇したユルグだったが、長老からのただならぬ気配を察知して、たまらずに駆けだした。
四匹の獣が、いっせいに振り返った。
そのうちの一匹――鮮烈なる斑を闇夜に浮かばせるヒョウが、ユルグよりさきに襲いかかっていた。
長老にではない。
ユルグにだ!
〈なに!?〉
ヒョウは、ユルグの首筋に噛みついていた。
「客人よ。鼓動により、おぬしには《獣》の力がやどった。あやつらとはちがう神――万物の精霊の一つが力をかしてくれたのじゃ。この獣たちは、おぬしの意に従い、おぬしの身を守ってくれる」
千鶴は、それが自分へ向けられた言葉だということが、すぐには理解できなかった。
まるで、自分とは無関係の幻のような光景。その幻のなかの出演者から声をかけられて、強引にこれが現実だと思い知らされた。
〈きさまら〜っ!〉
怒りにまかせた叫びとともに、ユルグの身体に巻きついていた尻尾が、知能をもった蛇のように動きだした。
ピシッと、ヒョウの顔を叩く。
その一撃で簡単に飛ばされたヒョウの身体は、数瞬後、鋭く長い牙によって貫かれていた。
〈畜生ごときが逆らいおって!!〉
なんなく倒したヒョウの姿を見下ろしながら、ユグルは憎々しげに吐き捨てた。
再び長老へ襲いかかろうとしたユルグを次に妨げたのは、ライオンだった。千鶴の右手を喰い千切ろうとした猛獣が、ヒョウと同様に、長老と千鶴にではなく、異形の化け物に闘いを挑もうというのだ。
「やめて!」
千鶴は叫んだ。いかに百獣の王とはいえ、この世のものとは思えない怪物相手に勝てるはずがない。自分の命を取ろうとした猛獣といえど、殺されるとわかっているのに黙ってはいられなかった。
理屈ではない。本能だ。
ライオンは、ユルグの鋭い牙に貫かれる寸前、千鶴の願いどおりに方向を転じていた。逃げるように距離をとってから、ユルグに向き直り、牽制の唸り声を放つ。
「いまのは、客人の命令に従ったのじゃ」
「え……!?」
「だが、このままではただの獣にすぎぬ。わしの最後の力を使い、偉大なる力の一部を授けよう……」
長老は、防壁となっていた残りの二匹――ゾウとガゼルの間からすり抜けるように前へ出た。合掌はそのままだ。
〈グググ、いま殺してやるぞ、オイボレ!〉
ライオンと睨み合っていたユルグは、長老の気配が動いたのを察して、濁った緑の凶眼を向けた。
「母なる大地より授かりし、《四然》の力よ」
長老の口からつむぎでた言葉に、ユルグは全身の毛を逆立てた。
長老の胸の前で、四つの光点がきらめいていた。
線で結ぶと、ちょうど胸の中央に正方形ができるように――。
〈や、やらせんぞ!〉
もはや猶予のできないユルグは、すべての瞬発力を駆使して、ライオンと対峙していた地点から、一気に長老のもとへ跳躍した。
〈させるかァ――ッ!!〉
次の刹那、光点が弾けた。
四つの光それぞれが、一直線に天へと上昇し、遙か四方へと散っていく。
北西に一つ、北東に二つ、東に一つ。
そして、その四つの光跡からこぼれるように、大地へも降りそそぐものがあった。
千鶴のいる周辺に、三つの光条が落ちてきた。それは、眼前で壁となっていたゾウとガゼル、そして千鶴自身に降りかかったではないか。
残りのもう一つの光条は、少し離れた位置で身構えているライオンへ――。
「な、なにこれ!?」
驚きの声をあげた千鶴が、説明を求めるために長老の姿を視界に入れた。べつの驚きが駆け抜けた。思わず動物たちへの警戒も忘れて、ゾウとガゼルよりも前へ出てしまったほどだ。
老いた身体に突き刺さる、長い牙!
ユルグの狂牙によって、長老の細い老体は串刺しにされていた。肩口から入った牙が、逆側のわき腹へと貫通している。
「グフッ! お、おまえらの目論見は、失敗だったようじゃな……グッ!」
〈ぬかせ! たとえ力を解放しようとも、四つを合わせなければ問題ないわ!!〉
死の呻きをもらしながら、長老は言葉を続けた。
「地・水・火・風……それはやがて、山・海・炎・嵐へと成長し、山と炎が合わさり灼熱の活火山となり……海と嵐が合わさり、凄絶なる暴風雨となる……グ、そ、そして……」
「長老さん!!」
必死の叫びに、長老は顔だけをなんとか千鶴のほうに向けることができた。
「い、いま……《地・水・火・風》の力の一部を、その動物たちにあたえ、た……さ、最後に……グフッ!」
途切れた言葉のあとに、激しい吐血。
それでも声をしぼりだす。
「さ、最後に……わしの叡智を……」
「もうしゃべらないで!!」
〈とっととくたばれ!!〉
息の根を止めようと、ユルグが顎に力をくわえた。それと同時だった。ユルグの身体を、まばゆい光が破壊していた。
〈グオオオオ――ッッッ!!〉
断末魔の叫びは、ユルグの身体が跡形もなく崩れさってからも、しばらく残っていた。
異獣を倒した光は、途中、角度を変えて、さきほど倒されたヒョウのもとへ――いや、いつのまに現れたのだろうか、そのヒョウに寄り添うようにして鳴いている二匹の子供たちへ――。
「うう……、源地へ戻られよ、新たなる鼓動の戦士よ……五獣を従え、源地へ……」
長老は息も絶え絶えに、やっと声を出していた。その身に食い込んでいたはずの牙も、ユルグの消滅とともに消え去っていた。なにも阻むもののなくなった傷口から、血が狂ったように噴き出している。
力尽きて倒れた長老のもとへ、千鶴は急いだ。
瀕死の老体を抱き起こす。
「しっかりしてください!!」
息はあるようだが、返事はなかった。
「やっぱり、ユルグじゃダメだったみたいね」
かわりに場違いな声が聞こえた。若い女性の声だ。こんな殺戮のシーンには似つかわしくない軽い口調だった。声の方向を見た千鶴は、今日何度目になるだろうか、激しい驚愕に襲われた。
女がいた。
ただし、顔だけの!
身体は獣……ライオン!?
背には大きな翼もある。
「ス、スピンクスか……」
長老のかすれた声が言った。
「あら、生きてたの。久しぶりね、《然》のバル。もっとも当時は、まだ《炎》の力しかもってない生意気な坊やだったけど」
顔だけ見れば、美しい女性だ。
だからこそ、本能から身をすくませる恐ろしい威容――。
「お、おまえがいるということは……オリュンポスも動いているということか!?」
「わがオリュンポスだけじゃないわ。アース神族もダーナ神族も、すでに行動を開始しているのよ。今度の計画では、確実に全人類を滅ぼすつもりだからねぇ」
「な、なんと……」
「でもユルグのバカのおかげで、その計画も少し遅れちゃうかもしれないわね。あんたはもう助からないとしても、肝心の力を解放されちゃったんだから」
顔だけまともな獣身の化け物――スピンクスは、背中の翼を大きく広げた。
「それじゃ、おしゃべりはここまで。わたしにも仕事があるのよ。ホントは監視だけですむはずだったのに、ユルグの無能ぶりには、まったく腹が立つわぁ。あいつの果たせなかった使命を、わたしが引き継がなくちゃならないの。面倒よねぇ」
愚痴っぽくそう言うと、軽い口調が嘘のように、平気で小動物を痛めつけられる屈折したサディストような視線で、千鶴たちに近寄っていく。
翼を広げたのは、ただの威嚇か、もしくは瞬きのように、たんなる無意識のなせる行動の一つだったのか。見た目の空想的な姿からすれば、普通に地面を歩いているのが、かえって不気味だった。
「どいていなさい、客人――」
どこにそんな力が残っているのだろう。長老は、千鶴の腕のなかから立ち上がると、自分の背後へ避難させるかのように、千鶴の身体を後方へと押し退けた。
閉じかかっていた瞼が大きく開き、瞳が最期の輝きを放つ。
「しぶといわねぇ」
「まだ、死ねん!」
長老の右手が燃えていた。
激しい緋色の炎に包まれていた。
「《炎》のバル、最強最大の技を受けよ!!」
燃えた右手は、天へと掲げられた。
その意志のまま、炎は天高く噴き上がっていく!
「すご……」
千鶴の感嘆の声は、あまりの迫力に圧倒されて、言葉にはならなかった。
しかも、炎はそれだけでおさまったわけではない。最初、手の大きさほどの直径しかなかった炎が、五〇センチ、一メートル、二メートル……急速に太さを増していく。最終的には直径五メートル、高さは測定不能。暗い闇夜の向こうまで届くほどの、高くて太い炎の柱ができあがっていた。
「不浄なるもの、すべて燃え去れ――ッ!!」
迫りくるスピンクスめがけて、天を支えるがごとき炎柱と化した灼熱のエネルギーを倒していった。
これぞ、最強最大の――『天柱紅蓮』!!
「きゃっ!」
飛んでくる火の粉で、背後にいた千鶴も危険にさらされたが、その華奢な身体になにかが巻きつくと、ひょいっと宙に舞っていた。自慢の鼻を使って、ゾウが千鶴を炎から遠ざけてくれたのだ。
「し、信じらんない……」
これが、人間のなせる技だというのだろうか!?
こんなおこないができるのは、神とか悪魔とか、そういうたぐいの、人知を超えた存在だけのはずだ。
もし、人間の身でおこすことができるとすれば、それは――。
奇跡……?
長老が人間でない存在であろうと、奇跡をおこした人間であろうと、どちらにしろ、現れた怪物を退治できるだけの力はもっているだろう。
そう。
倒れていく圧倒的な炎柱の前では、いかに化け物とはいえ、ひとたまりもないはずだった。だが炎の塊は、まるでスピンクスを避けるかのように、二つに割れていた。
「最強最大? 笑わせないでよ。力のほとんどを解放したあとじゃあ、こんなの子供の火遊びといっしょじゃない」
「そ、そんな……」
千鶴に絶望がのしかかった。奇跡がおこっても、この化け物にはまるで通用しない。
ゾウの鼻からおろされても、自分一人で立つことができずに、よろけてしまった。それをまた鼻に支えられた。
「かつて最強を誇った〈洗礼者〉も、もうろくすれば、ただのジジイでしかないわね。自分の衰えをその身で実感するがいいわ!」
獣身の毛一本も燃えることのなかったスピンクスは、凄絶な形相で長老を見据えた。
スッ、と空間がズレていた。
その直後、長老の片腕が飛び、血がドッと噴き出した。
「グッ、炎を切り裂いたのか……」
「フフフ、そうよ。わたしの『現界断刃』は大気をも両断する。思い出してくれた? わたしの得意技」
無くなった腕からの出血は、すぐに少なくなった。さきほどのユルグによる傷で、すでに身体中の血液のほとんどが出てしまっていたのだろうか。
だとしたら、それでもまだ息をしている長老の生命力はどこからくるのだろう。
「あなたが全盛期だったあのときには、簡単によけられちゃったけど、いまの身体じゃムリみたいね。フフ、ユルグにやられた傷と、その腕で、いくら鼓動を受けているあなたでも、このままほっとけば死んじゃうでしょうけど……わたしって、ほら、やさしいじゃない? だから、すぐ楽にしてあげる」
心の底から楽しげにスピンクスは言った。
「次は、その首よ!」
腕が飛んだときと同様に、残忍な眼光が長老を射抜いた。
「やめて!!」
たまらずに、千鶴が飛び出していた。
長老をかばうように、両腕を広げて立ちはだかった。怪我をしている右手が、心持ち下がっているのが痛々しい。
〈ガウウウ――ッ!!〉
獣の咆哮が轟くと、首が飛んでいた。
「あ、あなた……」
それは、ユルグに殺されたはずのヒョウのものだった。まだ息があったのだろう……最後の力を使い果たし、千鶴の危機を救ってくれたのだ。
「邪魔ねえ! もう、はずさないわ!!」
次は、よけられない!
今度こそ、スピンクスから放たれた空間にズレを生じさせるなにかが、長老に――その前に立ちはだかる千鶴に襲いかかってきた。
もうダメだ!!
そうあきらめが脳裏をよぎった瞬間、足元のほうから声が聞こえた。
〈この技で切り裂くことができるのは、気体と固体だけガウウ〉
声の主を確認する余裕もなく、言葉の意味を理解する時間すらない。しかし、異変はおこっていた。
千鶴の肩から、青い靄のようなものが、急激に拡散していた。
「リーちゃん!?」
そう……千鶴の肩にのったままのリスから、青い靄は放たれていた。
〈靄というのは、小さな水滴の集まりガウ。つまり、液体ガウウ!〉
青い靄によって、千鶴の身体は覆いつくされた。大気すら切り裂く衝撃波が襲ってきても、千鶴の身体には傷一つつかなかった。
衝撃が当たった箇所にだけ、波紋のようなものができただけだ。
〈その『水の羽衣』のなかにいるかぎり、あいつの技はきかないガウウ!〉
でも、どうしてリーちゃんが、そんな不思議なことを!?
千鶴の当然な疑問に、足元からの声は、ちゃんと答えてくれた。
〈さっき長老の力を、そのリスも分けてもらったガウ。ちづるも浴びたあの光は、ちづるじゃなくて、肩にのっていたリスへのものだったガウウ〉
ちゃんと答えてはくれたが、そんなことを教えられても、すぐに理解などできるわけがなかった。とはいえ、この状況下ではこれ以上、声と問答しているわけにもいかない。
スピンクスが、次なる攻撃を繰り出そうとしていた。
「生意気なお嬢ちゃんね! そういえば、あなたも大地の鼓動を受けていたんだったわね……! 〈洗礼者〉となったからには、子供だからって容赦はしないよ!!」
やはり誇らしげな翼は使わずに、四つの獣の足で地面を駆けだした。直接来られたら、こんな靄では防げそうもない。
だが――。
「なに!?」
地を揺らす振動が、スピンクスを襲う。
〈パオオオン!〉
ゾウの鳴き声が、大きくこだました。
振動は、ゾウの一踏みによりおこったものだ。
スピンスクは振動を飛び越えた。
そこではじめて翼を使い、宙を舞う。
そこに、炎が巻きおこった。
「こしゃくな!!」
炎を噴いたのは、ライオンだった。
なんとか灼熱の攻撃をかわしたスピンクスを次に襲ったのは、疾風だ。見えない風の刃が、スピンクスの片翼を切断していた。『現界断刃』に勝るとも劣らない威力!
重力に逆らえなくなったスピンクスは、身体を地面に激しく打ちつけた。
〈これが、地・水・火・風の力ガウウ〉
倒れたスピンクスを、ゾウ、ライオン、そして疾風の刃を放ったガゼルの三頭で包囲する。
〈そして、わがはいは長老の叡智――《然》の力を分けてもらったガウ!〉
やっとそこで、千鶴は自分の足元に眼を向ける余裕ができた。
声の主は見当たらなかった。そこには、かわいいヒョウの子供が一匹いただけだ。
この子には見覚えがある。いまスピンクスによって息の根を止められたばかりのヒョウの子供だ。二匹いたうちの一匹だろう。
「え……!? まさ……か」
信じられない想像が、幼い頭脳を支配した。
いや、そうとしか考えられない。足元にいるのは、その一匹しかいないのだから。石や枯れ枝がしゃべると考えるよりは、それでもずっとまともな想像だろう。
〈ちづるのことは、よく知ってるガウ。知ってるというよりも、わがはいが知りたいと思ったことが、自然に頭のなかに浮かんでくるガウウ。好きな食べ物は、おでんのタマゴと吹雪――つぶあんの入った白いお饅頭ガウ。好きな飲み物は、缶ミカンの汁で、ミカンそっちのけで、そのシロップをさきに飲んでしまうほど好きガウウ〉
その子が、次々に千鶴の好きなものを言い当てていく。偶然に当てられる内容ではない。眼は、一度も千鶴に向けられることはなく、前方を見据えている。
「しゃ、しゃべってる……」
千鶴は、自分の想像が正しかったことに、ただただ呆然としたつぶやきを放つしかなかった。
〈いまさら、そんなことで驚いてほしくないガウ。こんなことで驚いてたら、このさきやっていけないガウウ〉
その子――ヒョウの子供の見据えるさきには、三頭の動物たちに囲まれる異形の姿があった。小さな瞳だが、千鶴はその眼光に、大きな憎しみの念を感じ取っていた。
この子にとって、スピンクスは親の仇なのだ。父親を殺されたばかりの千鶴には、このヒョウの気持ちが痛いほどわかる。
〈ガウウ!!〉
同じような迫力のない鳴き声だが、千鶴と会話をしている足元のヒョウとはちがう――ほんのちょっと甲高い鳴き声が聞こえた。
少し離れたところからのようだ。
〈あれは妹ガウ〉
声のほうを見た千鶴に、足元のヒョウが教えてくれた。もう一匹の子ヒョウ――その妹ヒョウは、いまにも飛びつかんばかりに、スピンクスを威嚇している。
「クッ、人間と獣の分際で……神獣であるわたしに刃をむけるとは……!!」
スピンクスは、怒りに身体を震わせて起き上がっていた。四つの獅子の足が、大地を悔しげに踏みしめる。
千鶴の顔を睨んだ。
なにかに気づいたようだ。
「あなたのその顔……たしか、東洋の顔だちだったわね。そうだわ……バルが言っていたわね――『源地よりの使者』……て」
「源地、源地、って……さっきから、なによそれ!?」
〈豊葦原、大八洲、倭国、日出づる国――簡単に言うと、ちづるの国のことガウ〉
疑問に答えてくれたのは、子ヒョウだった。
「……わたしが日本人だったら、なんだっていうの!?」
「ならば、ここで決着をつけることはないのよ、お嬢ちゃん。源地で再会すればいいのだからね。この美しいお姉さんも、オリュンポスからの監視役として、《鉄の種族との戦い》に参加することになるからねぇ」
「鉄の種族……戦い!?」
〈鉄の種族というのは、ギリシア神話において、神々のつくった五つの種族のうちの一つのことガウ。黄金の種族、銀の種族、青銅の種族、英雄の種族、そして最後につくられた鉄の種族――〉
「むずかしいことはいいから、結論だけ言って! 鉄の種族って、なに!?」
〈人間ガウ〉
これからが本番というところで、知識のひけらかしをさえぎられてしまい、気分を損ねたのか、子ヒョウはぶっきらぼうに答えた。
「人間との……戦い!?」
「そうよ。まもなく人間を滅ぼすために、天界の神々が地上に降り立つの。きっと、壮快な光景が見られるわよぉ」
スピンクスは、ゾクゾクするような恍惚の笑みを浮かべた。
「な、なにを言ってるの!?」
「フフフ、まずは源地よ。大地の力が、もっとも強く地上に湧きおこる場所。その源地を、わたしたちが奪って神域としてしまえば、人間なんて、あっというまに滅亡しちゃうんだから」
「なんなの!? なんのことよ!?」
「お嬢ちゃん、あなたも大地の鼓動を受けたのなら、戦いに参加なさい。そこで、今日のかりは返させてもらうわ!」
スピンクスはそう宣告すると、真上に跳躍した。片翼だけしかないはずだが、かなりの高さまで跳ね上がる。
「そのとき、確実に殺す!!」
唯一まともな美貌を崩し、なんともおぞましい表情を最後に残して、スピンクスの姿は一瞬でこの場から消失してしまった。
激しく威嚇していた子ヒョウ――妹ヒョウは、スピンクスが消えたのと同時に、おとなしくなっていた。
〈わがはいは知恵の象徴ガウ。そして妹は無知の象徴ガウ。頭はよくないけど、そのかわり野生の本能をちゃんともちつづけてるガウウ。妹がおとなしくなったということは、もう敵はいないということガウ〉
「いったい、なんなのよ!?」
千鶴は、思わず吐き出していた。
父親が殺され、この世のものでない化け物たちが現れ、動物がしゃべり、自分の意志で獣たちをあやつることができる……わけがわからなかった。
〈悩んでるヒマはないガウ〉
「うるさい! うるさい! うるさい!!」
いままでのすべてを否定するかのように頭を左右に激しく振り、もうどんな言葉も聞きたくないというように、手で両耳を押さえつけた。
右手の痛みすら忘れてしまうほど、頭のなかが混乱していた。
「き、聞きなさい……客人」
自分だけの世界に逃げ込もうとしていた千鶴をとどめたのは、いまにも消えてしまいそうな、か細い老人の声だった。
「長老さん!」
千鶴は、自分の背後で倒れていた長老に眼を向けた。まだ息をしているのが信じられない状態だった。
「よ、よいか……人間の進むべき道は、神々の住む光の世界ではない……こ、混沌の闇から、人間は……に、人間は……自分たちの世界を築かなければ……」
「長老さん!!」
瀕死の身体を抱き寄せた千鶴は、必死に呼びかけた。
「よ、よいな――」
だがそれ以上、長老の口から言葉は出てこなかった。
千鶴は、長老の瞼を閉じてあげた。
しばらくの間をおき、茫然と立ち上がる。
「わたしに、どうしろっていうのよ……」
泣いているような声だった。
〈まずは、帰らなければいけないガウ。ちづるの国……源地、日本へ――〉
子ヒョウはそう言うと、千鶴を見上げた。
次の瞬間、その子ヒョウが――いや、その場に残った五種六匹の動物たちが光となり、まるで流星のように宙を駆けていく。
『まずは、源地――日本へ』
夜空をひとしきり舞ってから、すべての流星は大地の一点に――千鶴の右手へと吸い込まれた。燃え残った松明の炎も完全に消え去り、永遠を感じさせる闇のなかに、千鶴だけがたたずんでいた。
地・水・火・風――
それはやがて、山・海・炎・嵐へと成長し
山と炎が合わさり灼熱の活火山となり
海と嵐が合わさり凄絶なる暴風雨となる
そして四つの力が集結し
この世界のすべて《然》となる
戦うのです、私の鼓動を受けし者よ――鼓動を受けし〈洗礼者〉たちよ。
わが……子供たちよ――。