第四章 4 記憶
次の月光は、確実に周防を狙ったものだった。
まさしく月明かりのような黄色がかった白い微光が、周防の身体に、とてつもない衝撃をくわえた。具体的に、どこが痛い、というわけではない。全身――いや、魂にいたるまで、ダメージが蓄積されていくような。
二撃目も、すぐに来た。
薄いはずの輝きが、眼をつぶらなければならないほどに、まぶしいのはなぜだろう。どうすることもできず、周防はその攻撃をただ受けるしかなかった。
紙人形のように吹っ飛ばされる。
「人間とは脆いものだな、須佐之男。だが、こんなものは余興にすぎん。生身の人間が、これまで耐えられるかな?」
月読の右手が、なにかを握った。
拳の隙間から輝きがもれる。
開いたとき、掌から零れた月光は、細長い湾曲した棒状のものを形づくっていた。光が物質化すると、それが立派な弓だということがわかった。
「わが『月弓』!」
「ど、道具を使うのかよ……卑怯者が!」
歯を食いしばって立ち上がった周防は、その場に落ちていた、さきほど折られた鉄パイプのかけらを振りかざし、月読めがけて走った。
しかし、さきに矢が放たれた。
矢!?
なにもないはずだ。
弦だけが弾かれた。
それも、天へ向かって!
「なんだ!?」
周防も、意外さを隠しきれない。また自分を狙ったとみせかけて、ほかのだれかに向けたものだろうか。
しかも、矢を射たわけではない。
……ちがう!
天高く跳ね上がっていく矢が、すぐに見えた。
月光が矢と化したものだ。
本物の月にまで届くのではないかというほど上昇したのちに、その光の矢は一転、急降下をはじめた。
逃げられなかった。
近づけば近づくほどに速度が増してくる!
「ぐわっ!」
「おまえは、この地上における二度目の大戦――そう、わが神軍が最初に人間どもを滅亡させようとした計画を、神の身でありながら邪魔した元凶!」
矢は、周防の左肩に命中していた。
凄まじい衝撃が肩だけでなく、全身に広がっていく。逆の腕に握っていた鉄パイプのかけらを手放してしまったほどだ。
矢は刺さっていない。
貫通したのか!?
いや、身体に当たった瞬間、まるで溶け込むように無くなってしまった。
「しかもわが姉にして、偉大なる大御神――天照に、償いようもない傷を残したのだ!!」
「な、なんのことだ、さっきから!」
苦痛に耐えながら、周防は声をあげた。
「思い出せないのなら教えてやろう! おまえは高天原において、わが姉を襲った……欲望のままに! まさしく、荒ぶる暴虐の神にふさわしい野蛮なるおこないよ!!」
再び、矢は放たれた。
横に飛んで逃げたつもりだった。
だが月光の軌道も、それを見越していたように変わっていた。
「……だ、だめだ……!」
射抜かれたのは右肩。
「――わが姉上は心を閉ざし、天の岩屋に籠もられてしまった。われわれの計画も失敗に終わったのだ! すべては、きさまのせいだぞ、須佐之男! しかも人間に堕ちたおまえは、新たなる神の計画をも邪魔しようとしているとは……!!」
「神とか人間とか……どうでもいい!」
周防は、倒れこんだ。
もう起き上がるつもりはなかった。
起き上がったところで、どうなるものでもない。殺されるなら、はやく楽になりたかった。
「どうした? そこまでか、須佐之男? 俺の憎悪は、まだ癒えんのだ。はやく立ち上がれ、俺の怒りを鎮めるために!」
周防は大の字になって、夜の闇を眺めていた。背中に、ひんやりとした地面の感触がある。アスファルトが削られたことで、地球本来の、むき出しになった大地が、周防の背後に広がっている。
(そうか……怖くないんだ……)
死ぬことの恐怖は、不思議なほど感じなかった。これまでも死ぬことなど恐れていなかったが、死を目前にしてまで、こんなにも穏やかなのはなぜだろう。
もう死んでもいいのだろうか。
もうやり残したことはないのだろうか。
ここで殺されても、悔いは残らないのだろうか?
(ゆかり……)
もうすぐ、妹のところへ行ける……。
だから、死ぬことは怖くないのだ。
「立ち上がらんのなら仕方ない。つまらんが終わりにしてやる!」
(ここまでか……)
周防の瞳に、自分を見下ろしている月読の姿が映った。
弓は使わないようだ。
手を振り上げた。
手刀が心臓めがけて迫ってくる。
周防は、瞼を閉じた。
瞬間、記憶の断片が見えた。
「!?」
一人の女性。あでやかな色とりどりの衣装をまとった美姫が、おびえた瞳で自分を見返している。
周防は、身体を一転させた。
月読の手刀が、地面に突き刺さる。
「ぐわああっ!」
なぜだか、月読は悲鳴をあげていた。
立ち上がった周防は、地面に埋まった自分の手を必死に抜こうとしている月読から、遠く距離をとった。
見えた記憶の断片――。
記憶!?
あれは記憶なのだろうか?
映像は、たしかに見えた。
それが、自分自身の経験したものなのかは、はっきりしない。しかし、月読の話は理解できた。
だれかが……もしかしたら自分が、その女を襲った。
欲望のままに凌辱したのだろう。
本当に自分がやったのだろうか!?
それを確かめたい、と思った。
本当に、自分がそんな罪を犯したのか知りたかった。
それを確かめるまでは、死ねない!
「ぐぐぐ……」
月読が、手刀を抜いた。その手から、煙が発生しているではないか。まるで、地面のなかが灼熱のマグマで煮えたぎっているかのように、そこから引き抜いた手が、むごく火傷を負っている。
ドクン……。
周防は、音を聞いた。
ドクン……。
(なんだ!?)
「お、おのれぇ……わが肉体を傷をつけるとは……!」
月読は、怒りを抑え込むように弓をかまえた。
「だが……楽しみが続くというのなら、それもよしとしてやる!」
火傷で爛れた手が、弦を弾く。
周防は、やはりそれを避けることができなかった。しかもその一矢は、いままでよりも数段まばゆい光を放っていた。
「ぐっ、ぐううううっ!!」
うけた刹那、死んだ、と絶望した。
こんな凄絶な苦痛に、自分の肉体が耐えられるはずなどない!
ドクン、ドクン。
知らないうちに倒れていた。息ができなかった。心臓の鼓動が、はやい。どうしてこんなにも、自分の鼓動の音がよく聞こえるのだろう。
ドクン、ドクン、ドクン。
血が荒れ狂っているのか!?
ドクン、ドクン!
ドクン、ドクン!!
(ち、ちがう……!?)
自分の心臓の音ではない。
この音は、どこから!?
〈鼓動を受けなさい。死を恐れぬ者よ。あなたに力をあたえます〉
(だ、だれだ……)
〈あなたは、わたしの肌に触れているではありませんか〉
(肌?)
〈あなたの背にあるものが、わたしです〉
(だ、大地……!?)
〈かつては天界にいたことのあるあなただからこそ、わたしの声が聞こえます〉
(オレをどうしたいんだ?)
〈戦いなさい〉
(だれと?)
〈神と〉
(なぜ神は、人間を滅ぼそうとする!?)
〈存在をかけた争いに、理由はいりません〉
(……オレも昔は、神だったのか?)
〈神として天界にいただけです〉
(それを神というんだろ!?)
〈あなたには、わたしの肌をあやつる力をあたえましょう〉
(肌をあやつる力?)
〈《然》のバルが開放した力の一つが、この場所にたどり着きました〉
(……!?)
〈さあ、戦うのです。わたしの鼓動を受けし者よ。この世を形成する一つ、《地》の力で! 《地》はいずれ、《山》となり、《炎》とともに《灼熱の活火山》へ成長します。そして、《水》と《風》の力もくわえることにより、この世のすべて《然》となるのです〉
(然? なんのことだ!?)
もう、声は答えてくれなかった。
鼓動の音も消えた。
(《地》の……力だと?)
とにかく立ち上がらなければ――と頭のすみで思慮したことが、信じられないほどすんなり実現していた。
周防の下の地面が、上半身だけでなく身体全体で起き上がることのできるリクライニングベッドのように盛り上がっていた。
立ち上がった周防は、自分の身体を支えている地面の壁が、自らの意志で動いたことを知った。なぜなら、『戻れ』と思ったときには、背中の支えを失ったからだ。
「きさま、鼓動を……! あくまでも、兄であるこの俺に刃向かうというのだな!?」
「しるか! まだ死ぬ気がないだけだ!!」
周防が叫ぶと同時に、地が裂けていた。
月読めがけて、地割れがはしる。
速い!
そして、デカい!
巨人すらのみ込むことのできる深い地の裂け目が、月読に――神に挑む!!
弓をかまえる時間をあたえなかった。
〈神は地面の下、つまり地下に落ちると、消滅しちゃうガウ! チャンスガウウ!!〉
いつのまにか織絵の胸から飛び出してきたムクムクが、周防の近くで助言する。
それを聞いた周防の行動に、ためらいはなかった。
跳躍する。
高い!
こんなにも人間が高く跳び上がれるものなのか。これも、あたえられた力の一部!?
咄嗟に、空中でポケットに指を入れた。
ある物をつかんだ。
重力に従って、身体が落下をはじめる。
そこで、やはり跳躍して地割れをかわそうとしていた月読の姿を確認できた。その身体が浮き上がりきる前に捕まえた。
「いいこと聞いたぜ!」
「な、なんだと!?」
振りほどかれても、落とされなかった。
月読の背中に回した手が、牙で獲物を放さない猛獣のように、強くナイフを突き立てていた。あのときのバタフライナイフだ。
しがみついたまま、周防は地割れに落ちてゆく。
「仲良く行こうぜ、兄弟!」
「ば、馬鹿な! うわあああ――ッ!!」
月読の悲鳴が空気を切り裂くなか、二人は地割れのなかへ吸い込まれていった。
地割れは、千鶴とスピンクスの戦局にも影響をあたえた。
ライ吉とテン蔵の力だけでは、スピンクスを倒すことはかなわなかったのだ。当初、テン蔵の一踏みで地を揺らし、スピンクスが飛び上がったところを、ライ吉が炎で攻撃する――というアフリカのときと同じ作戦を取るはずだった。
これは、再び戦うこともあるだろうと、ムクムクが以前から想定していた戦略だったのだが、はっきりいって失策だ。
スピンクスの弱点は空中にある――という分析があってのことだが、それはよしとしよう。現にアフリカでは、あんなにまで立派な翼があるにもかかわらず、テン蔵の地の揺れを避けるために飛び上がるまで、地上から離れることはなかった。そして飛び上がったところを攻撃して、片方の翼を切り裂くことができたのだ。
しかし今日の戦いにおいては、まったく機能しなかった。登場時には浮かんでいたにもかかわらず、戦闘がはじまると、千鶴の戦法を読んでいたかのごとく、地に降り立ってしまったスピンクスは、そこから空中に舞うことがなかった。テン蔵のおこす地の揺れ程度では、スピンクスの動きを封じることはできなかった。あのときは不意をついたからうまくいったのだろう。激しく振動する大地の上で、ライ吉の炎を踊るような足取りでかわしてしまう。
スピンクスを倒すためには、スピンクスを飛び上がらせるしかない。いや、それだけではダメだ。また地上に降りられたら同じことになる。なおかつ、地上に戻れない状況をつくらなければ……。
だが、そうこう思案しているうちに、女の牙と獅子の爪が、ライ吉とテン蔵の皮膚に容赦なく突き刺さり、鋭く肉をえぐる。二匹が距離をとって同じ攻撃を仕掛けても、結果は変わらなかった。
このままでは、やられるのを待つだけだ。千鶴は、二匹のことを考えると、逃げだすことも視野にいれていた。
そんなとき――。
地割れが……大地が怒りの叫びを発するために開口しているような、そんな巨大地割れがはしったのだ。
「なに!?」
スピンクスは、空中に浮遊した。
この地割れの前では、飛ぶしかなかった。
しかも、すぐに戻ることはできない!
千鶴は――その意に従うライ吉は、紅蓮の炎を吐き出した。
「しまった!」
炎は、赤々と翼を燃やした。だが炎上した片翼は、それでもスピンクスの身体を浮かばせている。
じょじょに沈んでいくが……。
「な、なんということ!?」
皮肉なことに、狼狽と焦燥が、妖艶な美女の顔を、よりいっそう官能的に悩ましく歪ませていた。
翼がこうなった以上、空中では、もはや完全なる無防備。地は大きく裂けている。降りられない。地割れを回避して飛ぶだけの揚力も、むろんない。
沈んでいく。
沈んでいく。
充分に届く高さになってから、ライ吉がスピンクスの異形めがけて、崖の縁から跳ね上がった。さすがはネコ科の王様。巨大な地の裂け目にも負けない跳躍力を誇る。
裂け目の中央付近の中空で、業火に包まれる翼に噛みついた。放さない。勢いで、飛び上がった縁とは逆側に、スピンクスを押し退ける。しかし縁には、わずか届かない。断崖スレスレに、スピンクスと、その翼に噛みつくライ吉が浮いている。
自分の体重をかけて、ライ吉はスピンクスをそのまま地割れの底へ引きずり込もうとした。それでもなんとか浮揚していたスピンクスだったが、重力に抗いきれなくまでの時間は、意外に短いものだった。
「いやぁぁぁぁ――ッ!!」
急降下、地割れに落ちてゆくスピンクスとライ吉――いや、ライ吉だけは、うまくスピンクスの身体から、寸前に離れた。離れたときに、翼を完全に食い千切ってやった。深淵に続く断崖ぎりぎりに降り立つと、燃えた翼を吐き捨てた。すぐにそれは灰と化す。
両翼の折れたスピンクスも、深淵への落下だけは、かろうじて防ぐことができた。なんとか獅子の前足を断崖の縁にかけて、それを命綱とした。その前足と顔だけが、地面の上に出ていることになる。それ以外の部分は、地の下だ。
「ぐわあああ――ッ!!」
凄絶な悲鳴だった。
女のものとは思えない。それこそ、野獣の断末魔の声だ。
スピンクスの身体からは、煙が立ち上がっていた。
「熱いぃぃぃっ!! 焼けるぅぅぅっ!!」
苦悶する顔と、前足だけが無事だった。
その瞳に、一匹の獣の姿が映った。
ヒョウの子供――無邪気な可愛さを誇る天真爛漫としたその姿は、ムクムク同様、織絵の胸から飛び出してきたソワソワだ。
〈ガウウ!〉
ソワソワは、一声吠えた。
スピンクスの瞳が、恐怖に凍りついた。
命綱に……スピンクスの前足に、ソワソワが噛みついたではないか!
狂おしいほどの美貌が……、一匹の異形が……この世界から消えた瞬間だった。
〈親の仇はとったガウ〉
ソワソワのもとに駆け寄ってきたムクムクが、深い闇の底を見下ろしながら、悲しげにそうつぶやいた。
「あの人は……?」
勝利のあと――。
極度の緊張から解放された千鶴は、テン蔵の太い足に寄りかかって、かすれた声でムクムクに問いかけた。
自分の戦いに夢中で、周防がどうなったのか、千鶴は知らないのだ。
「地割れに落ちたわ」
答えたのは織絵だった。
「……そう、死んじゃったの」
千鶴は、大地の裂け目……いまはもう閉じてしまった、荒れ果てた地面を見つめた。
夜は明け、再び陽光がまぶしく空を塗りつぶしている。
どちらが本当の空なのだろう?
光が皓々と照らす大地に、文明の残骸とは異質な、確固たる存在を主張しているものが落ちていた。
弓だ。
千鶴は、その弓が、周防と戦っていた男のものだとは知らない。
〈たぶん、生きてるニャ〉
またネコ調になったムクムクが、いまの空に負けないような明るい声で否定していた。
そのとおりだった。
千鶴と織絵の真下――テン蔵の足元の土が盛り上がるように動いていた。思わず、二人と大きな一匹までもが、そこから飛び退く。
まるで水面に浮き上がってくるように、周防が仰向けになって姿を現した。
「白と青」
ぱっちりと眼を開けた周防は、真っ先にその言葉を口に出した。
千鶴と織絵には、意味がわからない。
ムクムクだけがわかったようだ。
〈ちづるが青、オバサンが白ニャ〉
ムクムクの説明で二人にも意味がわかったのか、千鶴も織絵も恥ずかしさと怒りに顔を朱に染めて、軽蔑の眼差しを周防におくる。
もちろん、ムクムクにも。
「変態」
周防の生還と、ほぼ同時に――。
ぽつんと置き去りにされたような弓が無くなっていることに、その場のだれも気づくことはできなかった。