第三章 5 救出
ここは、どこなんだ!?
玄崎太一は立ち止まった。なにも考えられずに逃げつづけていたから、いまいる場所がどこだか見当もつかない。
怖かった。こんなにまで恐ろしい体験をしたことはなかった。丸井善學教祖が……ヒノカグツチという神に乗っ取られた教祖様が、自分を殺そうとした。
あれは、神などではない。
悪魔だった。
この世は、あの悪魔によって滅ぼされてしまうのか。所詮、この世の支配者は、神ではなく、悪魔だとでもいうのだろうか!?
なんだか、バカバカしくなった。
逃げるのが……。
恐怖を感じるのが……。
生きるのが……。
自分は、なににおびえているのだろう。
あの悪魔にだろうか?
さきほどまでは無性に死ぬのが怖かった。しかし、あの悪魔から逃げ出しているうちに、その怖さが薄れていった。
殺されそうになり、逃げてきた。だが生き残った自分に、どれほどの価値があるというのか。
会社では《ヤギ》とバカにされ、趣味もなし、これといって熱中できるものもない。いや、唯一はまったものが新興宗教。しかも、完全な信者にもなりきれない中途半端なダメ男。友人もいない。この歳まで恋人ができたためしもない。なによりも、間が悪い。
生きていたって、なんの価値もない人生ではないか!
あのまま殺されるのも、このまま生きつづけるのも、同じではないか!
その程度の命ではないか!!
と――。
視界のすみに人影のような……。
生存者だろうか、それとも教祖の身体にとり憑いた火の神が、自分を殺そうと追いかけてきたのか!?
「なんじゃ。だれかと思ったら、おまえさんかい」
そこにいたのは、老婆。
非日常的な風景に平然と溶け込んだ老婆が、まるで公園のベンチでくつろいでいるかのように、瓦礫に腰をおろしていた。髪に飾られた赤い櫛が印象的だ。
太一にはそれがだれだか、すぐにはわからなかった。老婆は、自分のことを知っているようだ。だが、太一には老婆がだれなのかわからない。
「あ、あの……どこかで……?」
そう言っているうちに、会ったことのある人物だということがわかってきた。
「なんでおまえさんが、こんなところをうろついてるんじゃ?」
太一の声が聞こえていないのか、老婆は太一の言葉を無視して、逆に問いかけてきた。
あなたこそ、なぜこんなところで座ってるんですか――と、さらに太一は言い返そうとしたが、やめた。老婆の正体を思い出したからだ。
「あ、あなたは……織絵さんの……」
「今日のお昼に、なにか見えたか?」
「は?」
「空の色が変わらなかったか?」
つくづく太一の訊きたいことは無視して、老婆――小さな小さな身体に、猿のような顔をのせた早乙女イネは、話を一方的に進めようとする。
「え、そ、そ……空が、赤く……」
「赤?」
イネは考え込むように首をかしげた。
「ん、まあええじゃろ。ここにたどり着くのは、おまえさんだったのかもしれん」
そう告げると、太一を手招きする。
「こっちこい」
太一は、それに従うしかなかった。
「わしをおぶれ」
「え?」
「いいから、おぶるのじゃ」
これにも、太一は従った。小さな身体を背負う。
「あっちじゃ」
背上から、イネは指示を出した。
ある一点を指さしていた。すでに方向感覚のない太一には、それがどの方角なのか、まったくわからない。
「あ、あっちですか?」
「はよせ」
徹底して一方的だ。
太一は、意味もわからず歩きだした。
廃墟のなかの、奇妙な二人組。
生き残った老婆を助けた男が、安全なところまで老婆をおぶっている――という図にも見えないことはないが、天下泰平、いかにもいい身分、といったような老婆にたいして、背負ってる男のほうが疲労感の濃い、真に助けるべき遭難者のようなのだ。
「あの……どこへ?」
「新たなる〈洗礼者〉を導かねばならん。おまえさんは、わしの指示どおり、ただ進めばいいのじゃ」
「洗礼者……?」
「大地の鼓動を受けし者たちのことじゃ。神と敵対できる能力をさずかった、選ばれし者たち――」
なにを老婆が言っているのか、太一にはまったく理解できない。
太一は、イネをおぶっているいまでも、右手にあるものを握りつづけていた。クガンゼ教のイルマ神像だ。
「おまえさん、神になにを祈る?」
「……」
突然の問いに、太一は答えに窮した。
《裁きの光》から救ってもらうようにという願いは、もうどうでもよくなった。生への執着は、さきほどの逃走途中に消えたままだ。
そんなことよりも、もっと根本的な願いを思い出そうとした。
「幸福か? 不死か? 野望の達成か?」
「ボクは……幸福なんて、贅沢なことは言いませんよ」
太一は、さびしく語りだした。
「ただ人並みの人生を送りたいんです……老けてるし、ハゲてきてるし、外見もダメ。話すのも苦手だし、性格も暗い。趣味もこれといってないし、友人もいない。恋人だって、いままで一度も……。仕事もできないし……会社で《ヤギ》って呼ばれてるんです。紙をシュレッダーにかける仕事しかないから。きっと、もうすぐクビです」
「お先真っ暗じゃな」
遠慮なく、イネが言葉を挟む。
「そうです、そのとおりです……。なにかのせいにしたくないけど……ほとんど自分の責任なんだろうけど……でも、きっと神様に嫌われるから、そういう人生しか送れないんだって思っちゃうんですよね」
「神のさだめた運命が悪いと?」
「そうです。だから神に祈るんです。もうこんな人生はイヤです。せめて、人並みの容姿と、人並みの性格と、人並みの能力と、人並みの運をくれたなら……」
「そうじゃな、それがいいだろ。神は偉大じゃ。神を崇め奉れば、人並みの一生なら送れるかもしれん」
太一は、歩みを止めた。
「な、なんだ!?」
悲鳴?
「あ、あそこ……」
倒壊しかけたビルの周囲に、十数人の生存者がいた。この地域は爆発による被害が少なかったのだろうか、無傷というわけにはいかなかったが、かすり傷程度ですんだらしい生存者たちが群れをなしていた。
しかし惨劇は、はじまっていた。
黒い鎧をまとった男たちに、生存者が次々と殺されていく。あのヒノカグツチがまとっていたものと同種の鎧だ。彼らも神なのだろうか。持っている宝刀で首をはねたり、彼らがなにかを念じたかと思えば、炎が突然発生し、生存者の身体を容赦なく焼き焦がす。
神!?
悪魔!?
そのどちらにしろ、人知を超えた力の持ち主だということはまちがいない。そして彼らが、人間の常識を超えた残虐性を有しているということも――。
しかも、今度は一人では……いや、一神ではない。
二、三……四神もいる!
「ま、また……神が……」
「あやつらを神だと知っておるのか?」
茫然とつぶやく太一に、背中の老婆が冷静な言葉をかけた。
「さ、さっき、殺されかけました……」
「そのとおり、あやつらは神じゃ。さあ、祈るのだろう、神に」
彼らは、楽しそうに生存者を殺していた。
「愚かな人間ども、死ね死ね!」
「滅べ、人間!」
これが神だというのか!?
これでは、悪魔だ!
太一は、イネが背中から降りたのも気づかずに、神たちの血の狂乱に眼を向けていた。
「いや――ッ!!」
少女の叫び声。
悲愴な叫びが、眼をそらさせた。
「見るのじゃ!」
老いているはずの、だが意志のこもった激しい叱咤が、イヤでも現実を直視させる。
中学生!?
髪の短い女の子だった。
彼女自体は軽傷のようだが、その友人らしき長い髪の少女が、コンクリートの塊に足を取られていた。それほど大きな塊ではないようだが、小さな少女一人では、どかせそうもない。親友をおいて逃げることもできず、この場にとどまるしかなったのだろう。
ほかの生存者たちは、自分のことで手一杯のようだった。とてもアカの他人を助けることなどできる状態ではない。
「いや――ッ! なんなの、あの人たち!?」
「さ……早苗だけでも、逃げて!」
「なにいってるの、洋子ちゃん!?」
「このままだと……あんたまで……こ、殺されちゃう!」
男たちは決めたらしい。
次の標的を――。
二人の少女に、四人が……いや、四神が迫る!
「ど、どうし……」
「逃げて!」
恐ろしい得体の知れない男たちが、楽しげに歩調を弾ませながら近寄っていく。
早苗と呼ばれたショートカットの少女は逃げることもできず……どうすることもできず、その場にうずくまってしまった。
「おいおい、一人ずつ殺していくのも、いいかげん疲れるぞ」
少女たちを襲おうとした一神が、頭上を仰ぎながら提案した。
「そうだなぁ、まだまだいるしなぁ」
ちがう一神が、少女たちと同様に、逃げ出すこともできず、ただ殺されることを待っているだけの生存者たちを、喜々として眺めながら応えた。
「まとめてやるか!」
男たち――殺戮の四神は、なにかを念じるように、いっせいに頭上を……倒壊しかけたビルを睨んだ。
ガガガガ。
軋む音。
ビルが、完全に崩れようとしていた。
(これが神!? これが!?)
太一には、もう祈ることなど思いつかなかった。こいつらに祈ったところで、願いを叶えてはくれないだろう。
こいつらに殺されることが、この人たちにあたえられた避けられぬ運命なのだ。この人たちの――自分もふくめた人間たちの死を、神は望んでいるのだ。
それに従うしか、われわれに残された道はないのだろうか!?
太一には、もう死の恐怖はない。
ただ、あの少女たちを……ここにいる生存者たちを助けてあげたかった。
心から!
自分の生への未練がなくなったかわりに、あの人たちの不条理な死を許すことができなくなった。
ドク……。
これが運命!?
だとすれば、運命とはなんなのか!?
人間は、神のさだめた道筋に沿って生きるだけなのか!?
その神が人間の死を望んだなら、人間はそれに従って死ななければならないのか!?
ドク……ドク……。
そんなのは、イヤだ!
そんなのは、まちがってる!
ドク、ドク……。
ビルが崩れはじめた。
巨大なコンクリートの塊が、無力な生存者たちへ落下してゆく。
ドク、ドク。
少女たちの悲鳴。
ドク、ドク、ドク。
助けたい、助けてあげたい!
力を!
運命に逆らえる力を……!
神と戦える力を――!
ドク、ドク、ドク、ドク!!
死を運命づけられたはずの生存者たちは、奇跡を見た。
降り迫ってきたはずのコンクリート塊が、生存者を下敷きにする寸前に、その落下をピタリと静止させていたのだ。自然の法則を無視した現象。コンクリートもガラスも鉄骨も、宙に浮いている。
それだけではなかった。動けなかった少女……その彼女にのしかかっていたコンクリートの重りも、宙に持ち上がっていた。
「洋子ちゃん!」
「こ、これは……!?」
縛めを解かれた本人も、困惑している。
「動ける!?」
「くっ……」
少女は動こうとしたが、押し潰されていた足がそれを許してはくれなかった。骨が折れているようだ。出血もしている。
「なんだ、これは!? なぜ浮いている!?」
「だれの仕業だ!? われらに抵抗するとは、神にたいする冒涜!」
自分たちの企みを阻止された神々が、激しい怒りを声にする。
「おまえか!?」
神々が、太一の存在に気づいた。
太一にも、事態がよくのみ込めない。
だれの仕業なのだ、これは!?
「おまえさんも、《鼓動》を受けた。大地より力をさずかったのだ」
老婆の声が、背後から聞こえた。
「《重》の力……地球に存在する重力をあやつる能力、おまえさんは手に入れたのだ!」
神々は、太一めがけて襲いかかってきた。ある神は宝刀を振り上げ、ある神は念の力で太一を呪殺しようとする。
太一の身体が、不可視の衝撃を受けた。
これが念波の衝撃!?
だが、傷を負うことはなかった。
身体が、なにかによって守られていることがわかる。しいて表現するならば、眼に見えない鎧でもまとっているかのよう。
宝刀で斬りかかってきた神は、その刃が太一をとらえる前に、宙へと浮かび上がっていた。
「な、なんだと!?」
太一は、強く念じた。
そのまま地面に叩きつけてやった!
「ぐわっ!!」
自覚があった。
まちがいない、自分の意志だ。
「こいつらは下級の神……おまえさんでも充分に倒せるが、その程度ではダメじゃ」
老婆が言った。言ってから、下から腕を回して物を投げるように――下投げのように腕を振った。
その手から、丸い光球が飛び出した。地面をえぐるように一直線に飛んでいく。飛んでいったあとの地面には、地割れのような裂け目がついていた。
「神は、常世へ落ちると消滅する! 常世とは黄泉の国、地の下の世界のことじゃ!!」
太一は、さらに念じた。
その直後、この場にいた四つの神々が、天高く浮き上がった。
「な、なにをする!?」
「やめるのじゃ!!」
中空で命乞いする憐れな神々を見ても、太一の心は変わらなかった。
脳裏で叫びをあげた。
落ちてゆけ!
落ちろ!
落ちろ!!
「うわあああああ――っ」
風を裂き、急降下していく四つの影。
そして、おくった。
地の底へ――黄泉へおくった。
「ようやったの」
イネに声をかけられて、太一はわれに返った。とにかく必死だった。必死に、みんなを救いたいと願った。
生存者たちの真上で静止したままのコンクリート塊を安全な場所でゆっくりおろすと、太一はやっと安堵のため息をついた。
「それが、生きるということじゃ」
「あなたは……何者なんですか?」
「わしも、鼓動の〈洗礼者〉――《道》の力をさずかった者よ」
イネは、ニヤけながら答えた。
「どうじゃ、神に祈ったか?」
太一は、首を横に振った。眼の前に、まだ浮いているものがあった。いつの間にか手放してしまったイルマ神像だ。
「なにかには祈ったかもしれません。でも、これにではない……」
数秒後、そのイルマ神像も、地の裂け目めがけて落ちていった。
外は暗闇に包まれているはず……なのになぜ、そんなに楽しげなのでしょう?
あなたよりも、偉大な神が現れたからです。外へ出て、確かめたらどうですか?
岩屋の前では、天宇受売が舞い、天児屋が歌っています。
まあ!
あそこに見えるのは、だれなのです!?
鏡に映る、あなた自身です。
天手力男! なにをするのです!?
だましたのですね、思金!!
ようこそ、絶望の外界へ――。