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第三章  4 教祖

 なんという現実なのだろう……。

 玄崎太一は、逃げ出したい衝動にかられながら、震える足で前進を続けていた。

 ここはおそらく、青山のはずだ。

『街並み』と呼べるものが、まるで子供が無邪気に積み木を崩したかのように壊されていた。未来の消えた別世界を、ただ一つの目的のために、恐怖に張り裂けそうになりながも進むしかなかった。

 太一はあれから、会社を抜け出した。どうしても気になってしかたがなかった。正午前に見た、あの真っ赤な輝きのことだ。あの輝きこそが、丸井善學ぜんがく教祖が予言した《裁きの光》の前兆なのではないだろうか。あの光のもっと強力なものが、やがて地上に降りそそぎ、イルマ神を崇拝しない者たちを、皆殺しにしてしまうのではないだろうか!?

 そのことを確かめようと決意した。丸井善學教祖なら、わかるはずだ。どうせ、会社での仕事はない。途中で抜け出したとしても、だれにも迷惑はかけないのだ。

 時刻は、午後四時をちょっと過ぎていただろうか。池袋の会社から、北青山にあるクガンゼ教の本部に向かった。今日は集会があるはずだ。いつもどおりなら夜七時からだが、予言の前兆がおこったのだ。丸井教祖も、すでに駆けつけているにちがいない。

 その途上、電車に乗っているときに激しい輝きが世界を覆った。

 今度こそ、《裁きの光》だ、と思った。

 凄まじく、禍々しい輝きだった。

 光に遅れて、その証明となる荒れ狂った暴風が、けたたましく車窓を叩いた。

 電車の速度が落ちていった。惰性の距離だけ進むと、ピクリとも動かなくなった。代々木を出たばかりの地点だった。車内の灯も消えてしまったから、電力が寸断されてしまったようだ。車内アナウンスもないから、状況も理解できなかった。しかし、ただ事でないことはわかる。

 一〇分か一五分ほどの時間が経過したころだろうか、外に煙が立ちこめているのが見えるようになった。いや、粉塵?

 どこかで火災でもおこっているのか、それとも粉塵だとすれば、ビルが倒壊してしまったとでもいうのだろうか!?

 車内がパニックに陥るには、そのどちらでもよかった。乗客のだれかが、扉をこじ開けて逃げ出した。みんなが、それに続いた。人々が、ドッと外にあふれた。太一も、いっしょになって逃げた。

 代々木付近は、なにもなかった。ただ、煙だか粉塵のようなもので薄く霞んでいるだけだった。しかし、原宿・渋谷方面……いや、その中心は赤坂方面だろうか……とにかく、街が濃い煙にのみ込まれていた。

 太一は、恐ろしくなった。やはり、《裁きの光》がおこったのだ。もうこの世の終わりなのだ。持ってきた銅像を強く握りしめ、必死になって祈った。

 偉大なるイルマ神に!

 助けてください!

 助けてください!

 ボクは、まだ死にたくありません!!

 そうだ……教祖にお会いして、この世を救っていただけるようにお願いしよう!

 それがダメでも、ボクだけ助けてくれるようにお願いしよう!

 すくんだ足を、霞にのまれた街へ向けた。

 原宿方面へ、線路をそのまま進んだ。逃げてくる人々の流れに逆行する形だ。思えば、一人だけがちがう行動をおこすのは、はじめてのことだったかもしれない。なぜだかいまは、そういう勇気が湧いてくる。

 勇気?

 そんな立派なものではない。死にたくないから必死なだけだ。

 ……いや、それもちがう?

 自分は、本当に自分の意志で動いているのだろうか?

 だれかに導かれている!?

 丸井善學教祖にだろうか?

 イルマ神様にだろうか?

 そうだ、ボクは助かるために選ばれた人間なのだ!!

 原宿周辺も、大きな変化があったわけではなかった。台風が去ったばかりのように、看板やポリバケツが飛ばされて散らかっているぐらいだった。霞は濃くなってきたが、まだ日常がそこにあった。

 線路からホームに登り、駅員も逃げ出した無人の改札を抜けた。クガンゼ教の本部は表参道駅のすぐ近くだ。ここから地下鉄に乗り換えれば一駅だが、やはり動いている気配はなかったので、降りて確認することもしなかった。それに、この駅での乗り換えは面倒なので、むしろここから歩くことのほうが多い。

 表参道に近づくにつれ、あたりの景色が荒廃していくのが、イヤというほどわかった。

 割れたビルの窓ガラス。折れて、車のフロントガラスに突き刺さった道路標識。引っ繰り返ってる車もあった。

 しかしそこまでなら、まだ常識の範囲内だった。

 もう間もなく表参道駅という周辺域に入った途端に、世界が一変していた。

 自分がどこにいるのかわからなくなった。

 崩れ倒れたビルの群れ。

 コンクリートの残骸が広がる荒野。

 そこからは、廃墟の街並みが続いていた。

 太一は、あまりの恐怖に泣きだしそうになった。うるんできた眼が赤く染まっていた。

 イルマ神様!

 イルマ神様!

 助けてください!!

 逃げ出したい衝動を耐えた。

 逃げるよりも、唯一、信じられる神に祈りを捧げることのほうを選んだ。

 太一は、廃墟に足を踏み入れた。丸井善學教祖なら、この惨事でも無事なはずだ。きっとたくさんの人々を救ってくださるはずだ!

 震える身体で、必死に前へ進んだ。

 街は、完全に壊滅していた。巨大地震でも、ここまでにはならないはずだ。火災などの二次災害はおこっていないようだが、それにしても酷い。もし、これが爆発の衝撃がもたらしたものだとしたら、まさしく一瞬の輝きが、すべてを光の速度で消滅させてしまったのだろう。

 瓦礫の都。

 残骸の森。

 崩壊の広野。

 そのあまりの乱れように、この区域の人々の全滅を予感した。

 だが、生存者はいた。

 コンクリート塊の下敷きにされている男、飛来してきたガラスに全身を傷つけられてうずくまる血まみれの女性、軽傷のようだが恐怖のために号泣している子供――。

 そんな人々を助けようとする者はいない。

 太一と同じように、あとからこの廃墟に入り込んだ人間もいるはずなのに……みな、自分の身が大切なのだ。また爆発がおこるかもしれいという不安から、踏み込んでもすぐ逃げていく。この惨状を知ると、あわてて逃げ去っていく。

 太一にとっても、負傷した人たちのことはどうでもいいことだった。かわいそうだとは思う。しかし、自分とは関係のないもの……いまは、自分のことだけで精一杯だ。はやく丸井善學教祖にお会いして、この世界を――いや、このボクを救っていただけるように、お願いしなければ!

 そのビルの残骸には、見覚えがあった。

 クガンゼ教の総本部が入っていた雑居ビルだ。タイルのような青い外壁に、その面影がある。場所もこのあたりのはずだ。まちがいない。

 五階建てのビルだったが、上の三階分はすでに無くなっていた。二階も無くなりかけていて、一階部分だけが、かろうじて原形をとどめていた。クガンゼ教の本部は一階だ。やはり丸井善學の霊力は本物だったのだ。教祖の力により、本部は守られたのだ!

 瓦礫の山を乗り越え、ガラスの地面を踏み越えて、太一は本部のなかに入っていった。

 その眼に、人影が映った。

 だれかが生存していた。

 太一の顔が、希望に満ちあふれた。

「教祖様!」

 その生存者は、向こうを見ていた。

 太一の気配に気づいたのだろうか、その生存者が振り返る。

 ギョッ、とした!

 なんだ、これは!?

 丸井善學教祖のようだ……だが、まったくの別人――。

 遙か昔の武人がまとっていたような鎧を身につけている。鎧といえば、江戸や戦国時代の武者を連想するが、もっともっと昔の……どんな時代劇でも見たことのない鎧だった。胴体部分と、肩を覆っただけの、なんの宝飾もされていない黒の防具。材質はさだかでないが、少なくても鉄製の重量感はない。胸に動物をかたどった白い模様が描かれている。角が生えているところをみると、鹿かなにかだろうか。

 そいつは、邪悪な顔をしていた。

 顎髭をたくわえた丸井善學教祖の顔をベースにして、鬼のような形相がそれに融合している。

「な、な、な……」

 不気味なものを抱えていた。

 いつも、奇跡の実演を見せるときのパートナーとなっている信者……その生首だ!

「ふむふむ、この身体はヨに丁度よい。この男、火を熱いと感じぬ特異体質だったようだな。不届きにも、神を騙っておったようだじゃが、それもよしとしよう。ヨと波長も合っておるし、この男を依巫よりましにして正解だったわい!」

 声まで丸井善學に似ていた。

 しかし、しゃべり方がまるでちがう。

「だ、だれなんですか!?」

「ヨの名前を知りたいか? そうよのう、知りたいだろうのう。わが名は火之迦具土ヒノカグツチ。偉大なる火の神じゃ。さあ、ヨを拝めるのだ、低俗なる人間よ!」

「か、神!?」

 太一は、言われたとおりに拝んでいた。

 この方が、この世を救うイルマ神様なのだ!

 善學教祖の身体を借りて、この世界を……このボクを救ってくださるために降臨してくれたのだ!!

「拝め、拝め! 拝んだら、この人間のように首をちょん切ってくれよう」

「え!?」

 恐ろしいことを笑いながら口にしていた。

「人間どもを滅ぼすために、われは不浄なるこの地へおもむいたのじゃ」

「ほ、滅ぼす!?」

「死ぬのじゃ死ぬのじゃ、人間は跡形もなく滅ぶのじゃ! ほれ、この人間のように」

 火之迦具土ヒノカグツチと名乗る神は、信者の生首を、太一に見せつけるように掲げた。

「ひゃああ!」

 太一は、情けなく悲鳴をあげた。

 腰を抜かし、それでもなんとか外へと逃げてゆく。地面を這いながら、無様に、滑稽に――とにかく逃げた。

「無駄じゃ、無駄じゃ、ヒャッハハハ!」

 歓喜に満ちた奇声を響かせると、火之迦具土もビルの外へ出た。太一のあとを追おうとした。

 だが――。

「なんじゃ、おぬしは!?」

 その前に、一人の男が立ちはだかった。

 凛々しく、端整な顔だちの男だった。

 年齢は二〇代後半だろうか。スーツ姿のところをみると、無様に逃げていく太一と同じサラリーマンのようだ。

 しかし、太一とは質がちがっていた。

 あちらは、落ちこぼれ。

 こちらは、きっとエリートなのだろう。

 さわやかな外資系サラリーマンといったところか。

 スーツの値段も、髪形の決まりぐあいも、センスのよいネクタイのガラも、顔のカッコよさも、登場したタイミングからはかれる間の取り方も、すべてにおいて太一よりも数段上だ。

「おれの名は鈴宮京介。わけあって、この世に未練がなくなった」

「生への未練がない、とな? そういう人間がヨの前に現れる理由など、一つしか思い当たらん。きさま、〈洗礼者〉か!?」

 立ちはだかった男――鈴宮京介は、うなずくかわりに微笑していた。

「さきまらを一神でも多く葬るのが、この生を全うするただ一つのすべ――」

「ヒャハハッハ! 言いおるわ! おもしろい、おもしろい!! さて、どんな力でヨを楽しませてくれるのだ?」

「雨」

 つぶやくように、鈴宮京介は答えた。

「雨? 雨? 雨? ヒャッハハハハッハ! 笑わせてくれおる! 雨でなにができるというのじゃ!!」

「おまえを消すことぐらいなら」

「愚かな人間よ、身のほど知らずとはこのことか! ヒャハハハ、ならば返り討ちにしてくれるわ!!」

 火之迦具土は生首を放り捨てると、鈴宮京介めがけて突進した。

「おぬしの首もちょん切ってくれよう!」

 その突進を、大きく後方に跳躍することでかわした京介は、着地すると、さらに後ろへさがった。

 充分な間合いを確保して身構える。

「この火之迦具土と会いまみえたのが、おぬしの不運! いいや、人間とはみな不幸な運命をめぐらされておるのだったな!」

「なるほど、きさまがあのヒノカグツチか。たしか神話では、創造の女神イザナミを焼き殺した罪で、その夫イザナキに首を斬り落とされたのだったな」

「遠い遠い昔の話よ! 首だけになったヨは数千年のときを経て、やっと胴体に戻ることができた。これも、月読様の恩赦の賜物」

「それで今度は、人間の首を斬ってまわってるってわけか、この外道!」

 その言葉に火之迦具土の眉が、ヒクッと動いた。

「外道だと!? 神を冒涜するとは……! 許さん、許さん、許さんぞ! 首をちょん切って一瞬で殺してやろうと思ったが、おぬしには、もっとも苦しい死をくれてやろう!!」

 火之迦具土は、両手を前にかざした。

 ヒュウ!、と鋭く呼気を吐くと、両手の隙間から、鮮やかな紅蓮の炎が噴き出した。

「ヒャッハハハ! 焼け死ね、愚か者!!」

 炎は、京介の身体を容赦なく焼いた。

 赤い、赤い、炎。

 憎悪の色。

 殺戮の色。

 鮮血の色。

 深い、深い、赤!

(めぐみ……おまえのところに行けるよ)

 灼熱に焦がされた京介の脳裏は、不思議と穏やかだった。

 京介には妻がいた。大恋愛のすえ結婚した最愛の妻だった。おたがいの命が尽きるまで愛を誓い合った二人だった。彼女以外、京介には考えれなかった。

 だが、それは突然やって来た。

 交通事故だった。暴走車に轢かれそうだった少女を助けようとして、彼女は巻き込まれた。少女もろとも車に撥ね飛ばされた。

 救急車で病院に運ばれていく途中、救急隊員の話によれば、妻は自分の命も危ないというのに、うわ言で少女の安否を気づかっていたという。京介が彼女と会えたのは、病院のベッドで、すでに息を引き取ったあとだった。

 冗談のように、妻はなにも語らなかった。

 信じられなかった。

 あんなに愛していた彼女が、信じられないほど呆気なくこの世を去ってしまった。

 それが三年前。

 二人で幸せに暮らせたのは、わずか一年たらずだった。

 暴走車を運転していたのは一六歳の少年。酒を飲んだあげくに、ムシャクシャを晴らすために車を乗り回していた。いっしょに轢かれた少女も即死――妻と合わせて二人も殺したというのに、少年への罰は軽かった。

 だが、そんなことはどうでもよかった。

 彼女がいなくなった時点で、ほかのだれがどうなろうと関係なくなっていた。

 少年への憎しみも湧かなかった。

 ただ……。

 なにかが許せなかった。

 わからない。

 犯人ではない、『なにか』が許せない。

 死んだような時間だけが、とてもゆるやかに流れていった。

 三年間――永遠とも感じられる日々のなかで、晴れた空は一日もなかった。

 いつも雨だった。

 雨のなかで、さがしていた。

 妻がなぜ死ななければならなかったのか――許せない『なにか』の正体……その答えを。

 運命……。

 結局、そんなものか。

 彼女が死んだのは、運命でそう決められていたからなのか。所詮、その一言で片づけられてしまうのか、人の死なんて……。

 だとしたら、運命が許せなかった。

 運命をさだめている神が許せなかった!

 生きている意味は、妻の死とともに無くなっていた。

 もう死んでもよかった。

 むしろ死にたいぐらいだ。

 しかし、自分から命を絶ちたくはない。

 この生を全うしなければ、死ねない――。

 そして京介は、《鼓動》を受けた。

「大地の守護により、〈洗礼者〉の身体は常人を超える。この程度の炎では焼かれない」

 業火のなか、京介は言った。恐怖も感じていなければ、動揺もしていない。淡々とした口調だった。

「なにをほざく! いまに赤々と、黒々と、きさまの身を焼いてくれよう、焦がしてくれよう!! ヒャッハッハッハ! それよりも、はやく《雨》とやらの力を見せるがよい!」

 火之迦具土の軽蔑の笑いは止まらない。

 だが京介は、あくまでも動じなかった。

「雨は、すべてを洗い流してくれる。おまえの罪も、おれの悲しみも……すべて!」

「ぶざけたことを!」

「浄化する! おまえの深き罪を、汚れた存在を!!」

 炎のなかにいる京介の身体が、青白い薄光に包まれた。

「ヒャッハハ! 無知とは恐ろしいのう! 知らんようだから教えといてやるが、ヨのように名前を持っている崇高な神は、けっして消滅はしないものなのだ!!」

「ならば、受けてみればいい! わが力、不浄なる存在を滅するのみ」

 雨よ降れ!

 大地に降りそそげ!

 雨よ……雨よ!

『懺悔の涙』――!!

「なに!?」

 信じられないことがおこった。

 雲一つない青空――本来なら、すでに黄昏の時刻をすぎているというのに、なお明るい青空には、雲一つ無かった。

 しかし……しかし、雨は降りそそいだ。

 火之迦具土にだけ!

「こんな雨ごときで――グッ! ば、馬鹿な!?」

 一笑にふそうとしたが、口からは苦悶のうめきがもれていた。

 溶けていく。

 丸井善學の身体を乗っ取った火之迦具土が、まるで化粧が雨によって洗い流されてしまうかのように溶かされていく。

「ば、馬鹿な……!! ヨが、この崇高な神である……上級の神である、この火之迦具土が……グッ、グワアアアアア――!!」

 一回り小さくなった身体が、地に倒れた。

 雨は、やんだ。

 倒れたのは、残った丸井善學の本体だった。

 すでに息絶えている。おそらく、火之迦具土が憑依する前の段階で、街を破壊した爆発により、すでに瀕死の状態だったのだろう。

 その遺体のかたわらに、さきほど放り捨てた信者の生首が転がっていた。

「おまえが崇高な神だと? たとえそうだったとしても、人間を虫けらのように殺したときに、おまえは悪魔に変わっていたのさ」

 丸井善學の亡骸と、それを責めるように瞳を見開いている生首を眼下におきながら、京介はつぶやいた。

 炎は衰えることを知らず、京介の身を焼きつづけている。大地の守護により、この炎のなかにあっても無事でいられた。

 だが、このままでは……。

「終わった」

 自分の身体には、雨を降らせなかった。

 神を滅することのできるほどの雨ならば、この炎も消せるかもしれないのに、そうしなかった。

 なぜ?

「これで、めぐみに会える……」

 ただ一つの心配は、自分が死んで、はたして天国に行けるのかということだった。彼女は天国に昇っただろう。それは、まちがいない。彼女なら……彼女のようなやさしい女性なら、必ず天国にいるはずだ。

 しかし、自分は――。

 神……本当の神なのかどうか知れないが、そう名乗る軍団に、戦いを挑んだ。

 はたして、そんな自分に――。

 そのときだった。

 このまま焼け死ぬ覚悟をしていた京介の身に、異変がおこった。

 いや、身体というよりも、その身体を包んでいた炎に異変が!

「ちょいと兄さん、感心できないねえ」

 炎が、氷となっていた。

 一瞬にして、灼熱が冷気と化していた。

「敵の一人を倒したぐらいで死んだとあっちゃ、そのめぐみさんとやらに会わす顔もないんじゃないかい?」

 凍りついた炎に罅が入り、砕け散った。

 鈴宮京介の肌には、火傷の跡一つない。

 声をかけた女性は、勝気な眼差しを京介に向けていた。歳のころは、二〇代半ば。京介よりも、何歳か若いぐらいだろう。切れ長の眼で見つめられた京介には、その美貌が氷のように冷たく、吹雪のように激しく感じられた。

 薄化粧だが、色気は充分だった。しかし、そういう甘さを強調せずに、しん、と凍りつくような緊張感のある美を演出している。

 口許の笑みだけが、温かかった。

「あたしは桐生玲。これでもヤクザの三代目だったんだけどねえ。ちょいとした事情で組は解散。しばらくカタギをやったんだけど、刺激のない生活がイヤでねえ。それで、鼓動を受けたってわけさ。力は、いま見せたとおり、《氷》だよ」

「あなたのような美しい人が?」

「あら、それは口説いてるのかい?」

 京介は、困ったように微笑んだ。

「いや、女性がこんな戦いに参加するなんて……怖くないですか? 恋人だって心配するでしょうに」

「生来、死ぬことなんて恐れちゃいないよ。それに、あたしの愛した男は、とっくに死んじゃったさ」

 勝気な女性――桐生玲は、さらりと言ってのけた。

「それじゃおれたち、似た境遇ってわけか」

 おたがい笑みをたたえて、見つめ合った。

 その二人に、忍び寄る影があった。火之迦具土と同じ種類の鎧をまとった男だ。由緒正しい神社に祭られているかのような、古代の宝刀らしき剣をたずさえている。

 しかし鎧は同じでも、その男から感じ取れる気――神が発するという《威気いき》は、火之迦具土よりも数段劣るものだった。

「チッ、下級の神か!?」

 身構えた二人だが、その神は襲ってこなかった。

 これなかった。

 男神は、どこからともなく舞ってきた花びらによって、その身をのみ込まれていた。こんな荒れ果てた廃墟のような場所に花が咲いていたのだろうか? 

 数えられないほどの花びらが、男の姿を隠してしまう。色とりどり、多種にわたる花々が楽しげに乱舞する。そのなかから聞こえる悲鳴だけが、殺伐としたこの荒野に似つかわしかった。

「お姉さま、なにを見つめ合っているんですの!? そんなキザったらしい男を相手にするなんて、レイ姉さまらしくありませんわ!」

 美しい色彩を踊らせる花びらと同様、この戦場には不釣り合いな玲瓏とした鈴のような声が響いた。まだ高校生ぐらいだろうか、鮮やかな着物姿の少女が現れていた。

 ひな菊のようなあどけなさと、白百合のような清廉さ、そして撫子のような愛らしさをもった少女だ。日本髪に結うのではなく、長い鮮烈な黒髪をストレートにのばしている。満月のように、まん丸の円を描く大きな瞳も、美しく輝いた黒だった。

「桜子!」

 花びらの乱舞がやんだ。

 そこには、だれの姿もなかった。

「どうやらいまのは、魂の記憶を食べた〈偽神体ぎしんたい〉だったみたいだねえ。さっきの憑依タイプとちがって、倒したあとにはなにも残らない」

 亡骸だけでなく、あれほど花吹雪が舞っていたというのに、地面には数えられるほどの花びらしか落ちていなかった。

 その数枚も、風に散らされてゆく。

「いまのは、この子の仕業よ。紹介しとくね。名前は、久世桜子。本当は華道の家元の令嬢なんだけど、なにをまちがえたか、あたしを追っかけまわしちゃってね……」

「わたくしの命は、レイ姉さまに差し上げました! 生きるも死ぬも、お姉さまと一緒です!!」

 着物姿の女性――久世桜子は、健気に言い放った。

「わたくしの力は、《花》……どんな花々でも季節にかかわらず咲かせることができます」

 すると、右手を左の袖に差し入れた。

 出したときには、花が一輪だけ指に挟まれていた。

 黄色い花だ。それを地面に放った。

 下級の神が果てたあたりの場所だ。

「その花は、シベリアヒナゲシ。春に咲く花なのですが、あなたに捧げます」

 地面に向かって告げた。

 もちろん、返ってくる言葉はない。

「そういえば兄さんの名前、聞いてなかったねえ」

 思い出したように、桐生玲が言った。

「鈴宮京介だ」

「鈴宮さんね。それとも、『京介』って呼んだほうがいい?」

 いたずらっぽい視線を、くすぐるように投げかけた。

「お好きなほうで」

 そんな京介の見事なスルーに、少し不機嫌になる。

「つれないねえ」

 ため息は一度きり。

 すぐに玲は、新たなる敵の接近を知った。

 ここより西のほうから、人々の悲鳴が聞こえてくる。

「いくよ」

 走り出す三人だったが、桜子だけが、駆けだしてわずか数歩で足を止めた。

 振り返って、ただ一輪、置き去りにされた地面の花を見た。

「シベリアヒナゲシ、花言葉は――慰めよ」

 それだけを言い残すと、二人のあとを追って再び走りだした。

「待ってください、レイ姉さま!」


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