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序章   2 獣襲

 地響きとともに、黒い影が迫ってきた。

 何十種、何十頭いるのかわからない。

 ライオン、クロサイ、チーター、ジャッカル、ヌー、イボイノシシ、ハイエナ、インパラ、ヒョウ、ガゼル、サーバル、リカオン、バッファロー、カラカル――肉食獣も草食動物もへだてなく、この付近に生息する野生動物たちが津波のように押し寄せてきた。

 村人たちはその襲来に、ただ逃げまどうしかなかった。簡素な家々など、ヌーやバッファローの突進でひとたまりもない。サイに踏み潰され、ライオンに噛み砕かれ、凄絶な惨劇が展開された。普段は、けっして人を襲うことなどない、草食のレイヨウ類――ガゼルやインパラですら、その角で人間の胴体を刺し貫いていた。

 あきらかに、動物たちは狂っていた。

「お父さんッ!!」

 二人を裂こうとでもするかのように、チーターが自慢の疾走で、千鶴と良蔵の間を駆け抜ける。

「千鶴――ッ!!」

「お父さん!!」

 瞬く間に、二人は離れ離れにされてしまった。お互いが、お互いのもとに駆け寄ろうにも、凶暴な百獣たちがその余裕をあたえてはくれない。

 良蔵に狙いをさだめたのは、サーバルとハイエナだ。サーバルの外見は、ヒョウやチーターのようなネコ科の猛獣そのものだが、身体が細く小さいために、それほどの迫力はない。むしろハイエナのほうが恐ろしかった。

 体長は一.二メートルほど。いや、一.三メートルはあるだろうか。獲物を横取りする狡猾なイメージが嘘のような、身体を芯からおびえさせる威容だった。同じようにイメージの悪いジャッカルよりも、ずっと大きい。

 この地域に住んでいるのは、黒い斑点をもつブチハイエナという種類のはずだが、いまの良蔵にそんな模様まで確認するゆとりは、むろんない。

 一、二秒、ハイエナと睨み合った。

 ハイエナは、良蔵の必死の形相に臆したのだろうか、良蔵から眼をそらすと、ほかの標的を求めて走り去っていった。

 だが――!

「ぐわっ!」

 横手から、サーバルに太股を噛みつかれていた。

「は、はなせ!」

 両の拳で、何度も顔を叩いて抵抗のかぎりをつくす。いかに、この野生の楽園『セレンゲティ』においても、その姿を見ることはめずらしいとされる希少動物であろうと、躊躇はできない。

「くそっ!」

 はなれた。

 サーバルは、悔しそうに距離をおき、再び襲いかかろうと威嚇する。良蔵は、それを相手にしなかった。千鶴の姿をさがした。近くにはいるはずだが、暗さと混乱のために、見失っていた。

 噛まれた太股に苦痛はあるが、たいした傷ではなかった。襲われた相手に恵まれたのだろう。

 もしこれが、ライオンやヒョウだったとしたら……。

 背筋が寒くなるのと同時に、無性に千鶴のことが心配になった。

「千鶴――!」

 愛する娘の名を、懸命に叫んだ。

「お、お父……」

 一人になった千鶴は、恐怖で動くことができなくなっていた。良蔵は見当たらない。不安と絶望が、心を破裂させそうだ。なんとか正気はたもっているが、いつ崩壊しても不思議ではない。

 そんな追い詰められた少女であろうとも、畜生たちにとっては、手頃な獲物でしかありえなかった。すぐわきをジャッカルが掠めていったかと思えば、シマウマが自分めがけて突進してくる。

「いや――ッ!!」

 どうすることもできず、その場にしゃがみこんだ。頭上を飛び越えていったのが、風圧でわかった。視線は、下に向けていた。ただ地面を見つめていることしかできなかった。

「千鶴――ッ!!」

 勇気をふりしぼって声のほうに顔を上げた。少しだけ安堵した。良蔵が駆け寄ってくるのが見えた。片足を引きずってはいるが、無事のようだ。いま出せる精一杯の力で、千鶴は立ち上がった。

「お、おとう……さん!」

「大丈夫か!?」

 良蔵はそんな健気な千鶴の手をつかむと、まわりを見渡した。

 ヒョウに噛み殺されている村人、サイの角に突き刺さったままの幼い子供、リカオンに肉をえぐられているのは、ガイドのニエレレだ。数頭のハイエナがたかっている中心には、無残な亡骸が横たわっているのだろう。

 村は、完全に壊滅していた。

(なんとか、車まで……)

 良蔵は焦りながら、考えをめぐらせた。

 どんなことをしても、千鶴だけは助けなければ――。

「お父さんから離れるな!」

 そう叫ぶと、二頭のインパラがいる方向に走りだした。全方向、動物で入り乱れているのだ。どこへ逃げても、なにかにぶち当たってしまう。ならば一番、危険性の少ない動物へ――。インパラの湾曲した長い角は立派な凶器だったが、肉食獣よりはマシだ。

 しかしインパラは、無謀にも挑んできた親子に、容赦なく牙を――鋭い角をむけた。

「キャッ!!」

 良蔵は、咄嗟に千鶴を突き飛ばした。

 その判断により、千鶴は転んだだけですんだが、良蔵の右腕には深い傷が刻まれてしまった。刺し貫かれたのではなく、角の先端で切り裂かれたのだ。

「無事か、千鶴!?」

「お、お父さん!!」

 すぐに起き上がった千鶴は、勢いよく地面にたれていく血流で、父の怪我を知った。

「父さんは、大丈――」

 良蔵の、痛みをこらえて口にした言葉が、ふいに途切れた。

 広場の四方で燃えていた松明の灯も動物たちに倒され、いまでは二箇所が地面で燃え残っているだけだった。そのかすかな灯に良蔵の姿は照らされていたが、その明るさが、言葉が途切れたのと同時に、濃い闇にのみ込まれていた。大きな影が、良蔵の前にそびえ立ったのだ。

〈パオーン!!〉

 それは、そう鳴いた。

 長い鼻を誇らしげに持ち上げている。

「そ、そんな……」

 巨大すぎる、としか形容できないほど巨大なアフリカゾウ!

 ゾウは、もう一度、高らかに吠えると、前足を大きく上げた。千鶴の頭のなかが、真っ白に染まった。

「い、いや――ッ!!」

 嘘のような父の最期。

 別れの言葉をかわすこともできず、蟻が踏み潰されるがごとく、良蔵の身体はゾウの巨体の下敷きに!

「お父さん……お父さん……」

 たった一人の肉親の死に、千鶴はわれを忘れ、壊れた人形のように同じ言葉をつぶやくしかなかった。意志の消えた、さまよう瞳を見るまでもなく、あきらかな放心状態だった。

 ゾウは、のっそりと千鶴に近づいた。

 次の獲物だった。

 ゾウだけではない。血に濡れた鋭利な角を立てたガゼル、帝王の髪飾りのようなタテガミを誇るライオン、鮮烈な美の斑に飾られたヒョウ――。

 千鶴は、動物たちに囲まれた。

〈ガウウ〉

 ライオンが、じりっと歩を詰めてくる。

 逃げられなかった。

 逃げようという意志すらも、湧いてこなかった。もう、どうでもよかった。恐怖心も、麻痺してしまった。

 人間に対して心を閉ざした少女は、心を許せるたった一人の肉親を亡くし、好きだった動物たちにも牙をむかれた。

 もう、どうでもいいんだ。

 もう、どうでもいいんだ。

 もう、死んでもいいんだ……。

「――!!」

 死を覚悟した少女が一瞬、正気に戻ったのは、右耳に痛みを感じたからだ。動物たちの襲来にも、肩にのったままでいた《リーちゃん》が、千鶴の耳をかじったのだ。

(リーちゃん……まで……)

 友達と信じていたリスにまで裏切られた。

「はは……」

 なぜだか、可笑しかった。

 なぜだか、笑いがもれていた。

 千鶴は、大の字になって倒れた。

 こんな世界に、もういたくない!

 命を、自分から投げ出した。

 顔は、笑っていた。

 嬉しいときの微笑みでも、楽しいときの笑顔でもない。生への未練を断ち切った、悲しい覚悟の表情だった。

 チクリッとする痛みが、もう一度、耳にはしった。首を動かした千鶴は、そのときになって、リーちゃんの瞳が自分の予想していた色と、ちがうことに気がついた。

 仰向けになって倒れているために、もう肩にはのっていないが、顔のすぐ間近で、リーちゃんは千鶴の眼をじっと見つめていた。ほかの動物たちと同じように自分を襲おうとしたのだろうという思いが、まちがっていたことを知った。リーちゃんの瞳は、正気だった。

 まるで、友達をはげましているような視線だった。

「そっか……」

 裏切られたのではない。リーちゃんが耳を噛んだのは、自分をもとに戻すためだったのだ。

 まだ、大切な親友のままだ。

「そうだね……まだ死ねないね」

 千鶴は、リーちゃんに、そして自分自身に語りかけた。

 まだ死ねない――!

 親友が、勇気をあたえてくれた。

 死ぬことへの恐怖は、蘇ってこない。

 べつに殺されてもいい。

 怖くはない。

 だが、自分からあきらめ、自らの意志で死を選ぶことだけはしたくなかった。死ぬのなら、全力で戦った結果でなければならない。

 人間不信に陥り、心を閉ざしてしまった少女は、この極限状態のもとで、常人を遙かに超えた精神力を手に入れた。たった一人の肉親の死にも自分を見失わず、迫った死の恐怖をも克服するほどの強靱な心を――。

 殺そうとするのなら、わたしはそれに抵抗する!

 千鶴は、上半身を起こした。

 ライオンの獰猛な牙が、いままさに襲ってこようとしていた。大きく口を開き、千鶴の喉元に噛みついてきた。

 咄嗟に、千鶴は右手を突き出した。

 小さな手が、ライオンの巨大な口内にスッポリとおさまった。ライオンの重さで千鶴は再び背中を地面につけた。凄まじい圧力が、か細い少女の身体にのしかかる。

 ガッ、とライオンは歯を噛み合わせた。

「ぐううう……っ!!」

 痛み、という表現以上の衝撃が、右手に集中した。

 身体に存在するすべての痛覚が悲鳴をあげているような!

 うめき声をあげるのが精一杯だった。どうすることもできない。ただその痛みに耐えるしかなかった。

 ライオンは、千鶴の右手を喰い千切ろうと首を動かしはじめた。真っ赤な鮮血がライオンの顎から垂れて、千鶴の顔に一滴、二滴と降りそそぐ。

 自分の血を浴びた千鶴の表情は、蒼白だった。もともとの白い肌が、さらに血の気をなくし、そこに鮮やかな薔薇のように、血の花びらを咲かせてゆく。

 千鶴が意識を失いかけたとき、小さな影が視界を横切った。

 その影がライオンの眼に激突すると、ふいの衝撃に猛獣とはいえ驚いたのか、ライオンは千鶴の右手を解放した。口のなかで溜まっていた血液が、ドッとあふれた。

(リ……リーちゃ……)

 しかし苦痛と出血のために、いまにも消えてしまいそうなほど意識は朦朧としている。かろうじて千切られてはいないようだが、酷い傷だということはわかる。ライオンがのしかかるのをやめても、千鶴は動くことができなかった。なんとか、頭を少し起こすことができたぐらいだ。

 血で滲む視界に、もう一度、襲いかかろうとしているライオンの姿が映っていた。ライオンだけではない。その後ろには、ヒョウ、ガゼル、ゾウの姿もある。

(も、もう……)

 千鶴は、ガクッと頭を落とした。

 見えるのは、暗い空だ。

 もう千鶴の思考は、それを空だと認識していなかった。ただ暗いもの。暗いだけの未来……光など存在しない、孤独と絶望――。

「お、おとう……」

 千鶴の意識は、そこで途切れた。



 ドクン……。

 ドクン……。

「……ち……」

 ドクン……。

「……ち……る……」

 ドクン……。

「……ちづる……」

 ドクン……。

「……千鶴……」

 ドクン……。

「……千鶴!」

「え!?」

「どうしたんだい、千鶴?」

「え、え……」

「大丈夫かい? 時差ボケがひどいようだったら、今日はヤメにしてもいいんだよ」

「こ、ここは……?」

「アフリカだろ、アフリカ。昨日から、このタンザニアのセレンゲティ国立公園にやって来たんじゃないか」

「タ、タンザニア……そ、そうだったね」

「これから、お父さんが夢にまでみたトゥガル族の村まで行くんだぞ。楽しみだなぁ」

「そっか……こんな遠いところまで、ホントに来ちゃったんだ」

「日本にいたほうがよかったかい?」

「……わかんない」

「きっと、イヤなことなんて忘れちゃうさ、この大自然のなかでなら――あっ! 見てみなよ、千鶴っ、あそこ!」

「え……なに?」

「あれだよ、あれ。凄いなぁ、アフリカゾウの水浴びだよ! 豪快だろう!」

「……」

「どうしたんだい?」

「……だって……だって、すごく大きいんだもん」

「うん、大きいね。あんな巨大なゾウは、お父さんも見るのはじめてだ」

 ドクン……。

 ドクン……。

 ドクン……ドクン……。

「速い……!」

「おお、チーターとガゼルの追い駆けっこじゃないか! 滅多に見れるもんじゃないぞ」

「あの鹿みたいな動物、このまま捕まって食べられちゃうのかな」

「ガゼルのことかい? うん……たぶんね。しょうがないよ、それが弱肉強食の世界なんだから」

「弱い動物は、ただ食べられちゃうだけなんだよね……悲しいね」

「ただ食べられるだけじゃないさ。ほら、あのガゼルだって一生懸命、走ってるじゃないか。あきらめさえしなければ、逃げきれることだってあるよ」

「でも……チーターって、地上で一番速く走れる動物なんでしょ?……ムリよ」

「どうかな? たしかにチーターの時速は一二〇キロといわれてるけど、そのスピードが出せるのは、ほんの一瞬なんだ。長距離ではガゼルのほうが速いよ。それにね、実際にはそんなに速くないっていう説もあるんだ。地上で一番速いのは、モウコガゼルだって主張する学者もいる」

「ガゼル? あの動物!?」

「あれはトムソンガゼルという種類だよ。モウコガゼルは、アジアにしかいない」

「……ダメなのかな、やっぱり」

「いや……! わからんよ」

「え?」

「あのガゼル、むちゃくちゃ速いぞ! 角が短いからメスだと思うんだけど、オスでもあんなに速く走れるガゼルはいないよ!」

「ホ、ホントだ」

「いけ……がんばれ、いけ、いけ……よし! やったよ、逃げきった!」

「すごい、風みたい!」

 ドクン……。

 ドクン……ドクン……。

 ドクン。

「近くで見ると、やっぱり迫力があるね。あのライオン……千鶴のこと、じっと見てるけど、怖かったら移動しようか?」

「ううん、平気」

「怖くないの?」

「大丈夫、とってもやさしい眼だよ」

「やさしい……? そうかなぁ、お父さんには、すっごく怖い眼にしか見えないよ?」

「なんだか悲しそう」

「ん?」

「悲しい……って言ってる」

「百獣の王がかい?」

「なにか、辛いことがあったのかもしれない……だれにだってあるよね、そういうの」

「……すごいね、百獣の王の心が読めちゃんうんだ」

「そんな気がするだけだよ」

「千鶴は、動物が好きなんだね」

「……動物は、裏切らないから」

 ドクン。

 ドクン。

 ドクン、ドクン。

「あっ、リス!」

「ああ、このまえのリスか。長老が言ってたけど、リスは病を治す精霊なんだってさ。だからトゥガル族の人たちは、リスを大切にすんだって」

「かわいいなぁ……そうだ、名前をつけてあげる! なにがいい? え〜と、んーと、リスだから……う〜ん……きっと女の子だしぃ……よし、決めた! リスのリーちゃん!」

「そりゃちょっと、安直すぎないか?」

「いいの。今日からあなたは、《リーちゃん》ね!」

 ドクン。

 ドクン、ドクン。

 ドクン!

「ほら、見てみなよ。あの木の陰」

「なーに?」

「ほら、あそこ」

「わ、きれいなヒョウ!」

「子供が二匹いるよ」

「ホントだ、かわい〜! ネコみたい!」

「そりゃ、同じネコ科の動物だからね」

「……あんなかわいいネコ、ウチでも飼ってみたいなぁ」

「ヒョウガラっていうわけにはいかないけど……日本に帰ったら、飼ってもいいよ」

「え、ホント!?」

「ただし、ちゃんと面倒みるんだよ」

「大丈夫! まかせといてっ」

「それにしても、あのお母さんヒョウ、人間だったら、きっと美人だぞ」

「あ、お父さん……ヘンな想像してるぅ!」

「ははははっ!」

「もう、笑ってごまかして」

 ドクン!

 ドクン!

 ドクン!!


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