第三章 3 岩屋
東京タワー直下の、岩を加工して組み立てたような扉のさきは、地下深くまで続いているであろう謎の建造物――神話においては天上の国《高天原》にあるという『天の岩屋』の前に、巨大な体躯を有した男神が現れた。
天手力男神――。
日本神話に出てくる神と同一の存在だとすると、この神はとてつもない剛力をほこり、『天の岩屋』にこもったアマテラスを引き出したとされる人物……いや、神物だ。
「さあ、おまえの力で、その岩屋戸を完全に開け放つのじゃ!」
右眼だけをあらわにした包帯の主――伊邪那岐が、強く命じた。
天手力男は、巨大な――自分よりもさらに巨大な岩屋の扉に手をかけた。両開きの扉は、わずか隙間があいていた。さきほど、カタッと音がしたのは、このためだったのだろう。自然に開いたものか、伝説どおりに、アメノウズメの踊りに興味を抱いたアマテラスが、外を覗こうとしたものかは推し量れない。
アメノウズメ――森野由美は、使命を果たしたいまとなっても、踊りつづけている。アマテラスの興味は惹けたのかもしれないが、しかし伊邪那岐の関心は、すでに彼女から遠のいていた。伊邪那岐は、右だけの凄絶な眼光を巨大な男神に向けている。
天手力男は、力を込めた。この巨体が力を込めるだけでは、岩屋戸はビクとも動かなかった。
扉が重いだけではない。
開閉を阻んでいるものがあった。
御札のような紙……。
そんなものが、巨大な男神から岩屋戸を守っている。
『太陽』と大きく書かれていることはわかるが、そのほかの小さな文字は、読むことはできない……人間では――。
《われ、封印す。これ解くもの、われなり。これ解けるもの、われなり》
要約すると、「わたしが自ら封印した。これを解くのはわたしであり、また、解くことができるのも、わたしだけである」という意味になるだろうか。
「天児屋、布刀玉!」
すでに祝詞の奏上(踊りに合わせた歌)と、御幣の捧持(ただの応援)を終えていた二神に、再び伊邪那岐は頼ることとなった。
「なんなりと、どうぞ」
「は〜い〜」
さきほどと同じく、あとに呼ばれた布刀玉の返事のほうがはやかった。
「鏡で『太陽符』を焼き払うのじゃ! 文字どおり天照の力でなければ、封印を解くことはできん」
布刀玉の手に、掌よりも一回り大きな円形の鏡がにぎられていた。
いまにも沈みそうな陽光を集め、扉の御札――『太陽符』に照射した。
「太陽の光は、その女神である天照の力。この力をもって封印を解く!」
御札が燃え上がったのは、次の刹那。
「どうした、剛力の化身よ! いまこそ真の力をみせるのじゃ!!」
伊邪那岐の叱咤が、剛の男神の本気を引き出した。
じょじょに……じょじょにだが、岩屋戸が開いていく。だが、炎に包まれているとはいえ、まだ御札の効力は生きていた。このままでは、わずかな隙間しかできない。
そのとき、天手力男の腕が淡い光によって覆われた。《手の力の強い男の神》の名をあたえられた本領を見るがいい!
「うおおおお――っ!!」
燃えた『太陽符』が、千切れとんだ!
阻むもののなくなった岩屋戸は、勢いよく開け放たれた。
「よくやった!」
使命を果たした男神は、汗を滴らせ、その場で脱力していた。もてる力を出し切ったのだろう。
「いよいよじゃな」
伊邪那岐は、あふれる感情を抑え込むように声をあげた。その抑えた感情とは、目的の一歩を達成したことによる満足感か、それともこれからの大役にのしかかる緊張感か。
そのどちらでもないのなら……悠久の時を経た、娘との再会に歓喜している?
ちがう。
右の瞳から垣間見える感情は……。
許しを請う後悔の念――。
「……」
そんな複雑な思いを振り払うかのように、右眼がきらめいた。
きらめきとともに、伊邪那岐の身体全体から、魂のような……心の奥底に溜まる欲望の念が形になったような、ゆるやかな発光体が分離されていく。
伊邪那岐は、顔の包帯を取った。
いや、すでに伊邪那岐ではなかった。
左眼と鼻が、もとに戻っている。
髪も短くなっていた。
本来の血気盛んな若武者の顔に――。
「では、父上」
自分のまわりを浮遊する発光体に声をかけると、それは、ゆらゆらと岩屋のなかへ入っていった。
〈ついに大御神が復活しようぞ!〉
〈おう、ついにか!〉
〈おう、ついにぞ!〉
〈あとは伊邪那岐しだいじゃ。子を思う親の情が、須佐之男のまき散らした恐怖を上回ることができるか否か〉
〈では、われわれは戻るとしようかのう〉
〈なに? 最後まで見届けぬのか?〉
〈すべては思惑どおりに進んでおる。あとはもう、なるようにしかならんであろう〉
〈なるほど、もはや運を天にまかせると〉
〈天の存在であるわれわれが、それを口にするとは、ほんにおもしろい〉
〈ほほ、おもしろい、おもしろい〉
〈では帰って、わが原初神――天之御中主神に報告でもするとしようかのう〉
〈とはいえ原初神は、われらのような実体を持たぬ思念体よりも、さらにもっと崇高なる存在。その思念すらも……〉
〈おっと、それ以上は――〉
〈ほほ、下級の神にでも聞かれたら事じゃからのう〉
〈そうじゃ、そうじゃ〉
〈では、帰るとするか、神産巣日〉
〈おう、高御産巣日〉
岩屋のなかは、なにもない闇だった。
その闇が、長く長く続いている。
〈このさきは、常世か……〉
漂う発光体――伊邪那岐の魂は、畏怖をこめてつぶやいた。
常世とは、黄泉の国。
つまり、ここは黄泉路というわけだ。
〈いかに天照といえど、そう長くはもつまい……思金め、無謀な策をめぐらせおって!〉
一転、怒りをのせて吐き捨ててから、永遠に続いているかのような黄泉路を急ぐ。
〈常世へ送られたとて、この岩屋のなかにいれば、多少は身を守れるだろうが……〉
さきへ進むにつれて、えも言われぬ圧迫感が伊邪那岐の存在自体を締めつけてきた。その感覚は、以前にも味わったことのあるものだった。
遙か昔――悠久の過ぎ去りし時への回顧。
まだ神が神々しく、人間が人間らしさを忘れていない時代……。
伊邪那岐は、亡き妻を求めて黄泉の国に旅立ったことがある。黄泉の国とは、死の国。死の国とは、地の下に広がる世界のことだ。
現代の人間は、その地下世界に鉄道という箱を走らせ、水の通り道を埋め、黄泉の支配者の財産でる鉱物資源を堀り尽くしているという。本来、地下とは、死者の眠るべき安住の地でなければならないはずなのに……。
伊邪那岐は人間のおこないに落胆し、そして恐れを感じていた。
神は、黄泉へ行くことはできない。まれに例外的な力を有している存在もあるが、ほとんどの神は地下に降りると消滅してしまう。黄泉の国へ堕ちた神は、もうそこから戻ることはできないのだ。
伊邪那岐は、黄泉から戻ることのできた数少ない例外だった。
ただし、高天原に……天の世界に戻ることはできなかった。黄泉におもむいたことで穢れた身体では、高天原の神聖なる空気に染まるとは許されなかったのだ。
大地との力の関係で、太古の昔から、日出づる国の神々は、その姿を地上で形づくることはできない。生きている人間を依巫とするか、成仏できない浮遊する魂を取り込んで、その記憶から実体化することしかできなかった。伊邪那岐の穢れた身体は、そのどちらの能力も失ってしまった。神でもなく、人間にもなれない。
いつしか、この世をさまよう怨霊のような存在になりさがっていた。
〈わが娘よ……〉
暗闇のなか、やはり浮遊する発光体があった。伊邪那岐には、その本当の姿を看破することができていた。歳のころ、一七、八の少女だった。
少女は、泣いていた。
〈なぜ泣くか、娘よ〉
〈シクシク……だって、だって、弟がイジメるんだもん!〉
返ってきた声だけを聞くと、まるで幼女のような泣き方だ。
〈須佐之男のことか〉
少女の魂が発する光量は、わずかなものだった。伊邪那岐の輝きよりも、ずっと明度が低い。いまにも消えてしまいそうだ。
〈そんなに震えて……娘よ、むかえにきた。いかに至高の神といえど、これ以上ここにいたら、おまえは死んでしまう〉
〈いやよ、また弟がイジメに来るもん〉
〈心配するな。須佐之男が……弟が来ても負けないように、この父が力をあげよう〉
伊邪那岐は、やさしく約束した。
自分の消滅を意味することなのに――。
〈……本当?〉
〈ああ……、それが父としてできる最初で最後のおこないじゃ〉
伊邪那岐は、少女の魂と合わさった。
〈さあ、蘇れ、天照! 実体化のための魂も、月読が用意しておる。この魂の記憶を食べれば、きっと須佐之男の暴挙も止められよう〉
すると、二つ合わさった発光体は、一人の少女の姿へ変貌をとげた。いままで伊邪那岐が見ていた少女の顔とはちがう――歳のころも、若くなっていた。一四か一五ぐらいだろうか。
儚げに泣いていた面影はない。
さざ波にも流されてしまいそうな脆弱さは消えていた。暴風吹き荒れる荒波にものまれることのない、女帝のような威厳があふれていた。
顔形はべつとして、この威厳に満ちた高貴なるたたずまいこそが、彼女の真の姿なのだろう。
〈その顔をもったならば、大丈夫であろう。まだ蘇ったばかりで力は弱いだろうが、この父のすべてをあたえた〉
少女は、無表情にその声を聞いていた。
「礼は言いませんよ、父上」
むしろ、憎しみすら感じさせる声で、少女は応えた。
〈最後に忠告しておこう。須佐之男は、神では――いや、それは言うまい……。さらば、わが娘よ〉
声は、それきり聞こえなくなった。
少女は――太陽の女神《天照大御神》は、岩屋の出口へと動きだした。
もう日が暮れる時刻のはずだった。それが一人の少女の登場によって、真昼のような明るさを取り戻すとは!
「ついに出てこられましたか、姉上!」
岩屋戸の前で待ち続けた月読は、こらえようともせずに、歓喜の声をあげた。
「心配かけたな、月読よ」
「いえ、姉上が蘇られたのならば、それで」
「久方ぶりの外界が、こんな汚れた中つ国のただなかとは不愉快じゃがな」
一〇代半ばの少女に、すでに成人した青年が礼をとるとは、なんとも奇妙な人間……いや、神間関係だった。
「この身体は?」
「志那都比古と建御雷之男に命じて捕獲させました。愚弟に所縁のある魂のようでしたので」
「大丈夫なのじゃろうな?」
「はい! その姿ならば、奴は手を出せません」
自信をこめて、月読は答えた。
「これにて、神々の計画もすべてうまくゆくでしょう」
「いいや、まだじゃ! 大地が……その洗礼を受けた人間どもが、必ず邪魔しにくるじゃろう!」
「そのことなら心配ありません。そんな人間など、わが軍勢にかかれば一溜りもないのですから。見てください、これを!」
本来なら暮れているはずの晴れた青空に、勢いよく飛び回る人魂のような発光体が無数に……おびただしいほど数限りなく飛び交っていた。空を塗りつぶすほどだ。
「父上が蘇らせてくれました! 姉上に従う神々――その数八〇〇万の神軍です!!」
月読が右手をあげると、その神魂たちは、散り散りに飛んでいった。
「この《天閃の地》に近づこうとする人間を、一人残らず殺し尽くせ!!」
しかしそれでも、少女の顔色は安堵にうまらなかった。
ある一点の方向を見つめている。
北西の方角だ。
「来るのか……須佐之男!?」