第三章 1 天閃
笑いが止まらなかった。
おかいし。
おかしすぎる!
今朝までの彼女は、屈辱と辛酸のなかでもがくアヒルだった。
惨めに溺れる、泳ぐことを忘れたアヒル。飛ぶこともヘタな、ただのアヒル――。
もともとは、あの女がアヒルだった。
バカにされる宿命しかもたない醜いアヒルは、あの氷上千鶴だった。自分より容姿も才能も、すべて下の醜いアヒルの子。それをクラスの男子が誤解した。見る眼のない男が、なにを言っているのか!
「氷上って、かわいいよな」
「ああ、なんか純情そうで、守ってあげたくなる」
「森野みたいに汚れてねぇしよぉ」
……あの女は、醜いアヒルの子。
醜いアヒル。
アヒル!
だから、イジメてやった。
イジメられることこそが、醜いアヒルの宿命なのだ。
あるとき気がついた。
醜いアヒルの子は、《白鳥》だった。
兄弟たちからバカにされていたアヒルは、物語のラストで美しく羽ばたき、兄弟たちを見返したのだ。
久しぶりに学校へやって来た氷上千鶴は、まぎれもなく《白鳥》となっていた。悔しいが、すべてにおいて圧倒された。彼女と握手した瞬間、自分の価値を思い知らされた。氷上千鶴は必要な人間で、自分は必要とされない人間――。
氷上千鶴の右手には、なにかがいた。
背筋が凍りついた。
喰べられるのかと死を覚悟した。
桁外れの存在感。
肉食の白鳥。
餌は、わたしだ!
ただのアヒルは、わたしのほうだ!!
醜い兄弟をバカにして、最後に見返される……美しい羽ばたきに心奪われる滑稽な、ただのアヒル――。
だから、殺そうとした。
あの女がいるかぎり、自分の存在意義はないと思った。彼女が生きていれば、自分は、ずっとアヒルのままだ。氷上千鶴を殺して、自分が白鳥にならなければ!
なるんだ、白鳥に!!
だが……。
所詮、アヒルは白鳥には、なれなかった。
アヒルはアヒルのまま。
よけいに無様をさらしただけだった。
わたしは、ただのアヒル……。
ただのアヒル……!!
変身に失敗してから、森野由美は街をさまよった。屈辱と辛酸の湖で溺れていた。気がついたときには、六本木の街を歩いていた。通りのさきには、東京タワーがそびえていた。
それは、信じられないほど前触れもなくおこった……!
東京タワーが、光の柱にのみ込まれた!?
大都会の街並みが、嘘のように崩れさっていた。ビルも道路も車も、すべてのものが破壊された。通りを急ぐ歩行者も、建物のなかにいた人々も、そのほとんどが死に絶えただろう。
自分だけが無傷だった。
おそらく、東京タワーの地下で爆弾でも破裂したのだろうが、爆風すら感じなかった。
笑いがこみあげてきた。
やっと白鳥になれたのだ。
わたしは、白鳥。
わたしは、神より選ばれた白鳥!!
〈ほほほ、やっと到着しおった〉
〈ほんに、《天閃》降りし時になってから、ようやっとな〉
〈伊邪那岐に続き、天宇受売ものう〉
〈砂粒ほどの差で、二体の傀儡もやって来るじゃろう〉
〈のう、高御産巣日〉
〈おう、神産巣日〉
東京タワーの真下――。
なぜだか森野由美は、そこに吸い寄せられていった。自分の意志ではなく、なにかべつの力で……見えない糸によってあやつられるマリオネットのように、由美はここへおもむいたのだ。
いや――、思い起こせば、すべてのことが最初から決められていたのではないか。自分が生まれてきたことも、美しく成長したことも、学校で女王のように君臨していたことも、醜いアヒルの子をイジメていたことも……すべてが、巨大な力によって決められていたことではないのか?
いままで生きてきたということは、その巨大な力によって決定された道順を、そのとおりに通過してきただけではないのか。
自分だけではない。
人間は、みな同じなのだ。
人間は、決められた道を進むことしかできない人形なのだ。
「おまえが踊り子として選ばれし者か」
そこには、長い暗黒のような髪をもった男がいた。
顔中に包帯を巻いた不気味な男――。
右眼の部分だけがあけられていた。そこから覗く眼球には、精気が感じられない。まるで死者のような瞳だった。
「あなたは!?」
「わが名は伊邪那岐」
包帯の男は、無感情に答えた。
由美の眼に、あるものが飛び込んできた。
それは、東京タワーの根元にあった。
かろうじて姿をとどめた東京タワー……残っているといっても倒壊寸前、もはや残骸に等しい。大きく傾き、赤い鉄骨はところどころが黒く焦げていた。それでも、まわりのビルのほぼすべてが吹き飛ばされ、一帯が焼け野原になっていることを考えれば、いたましい形といえど、残っているだけでも奇跡なのかもしれない。
その、なんとか首都のシンボルとしての役目をまだ果たしているタワーの根元の大地が裂け、這い出るように地下から突出しているものがあった。爆発のためにできた、崩れたアスファルトやビルの残骸などによる偶然の産物ではない。たしかにそれは、明確な固体だった。
建造物……のようだが、なぜこんなものが東京タワーの下にあるのだろう?
表面は、ゴツゴツとした岩の塊ともとれる箱のようなもの。入り口と推測できる両開きの扉がついている面が、やや上向きで地から顔を出していた。建造物らしきものは、まだまだ大きいものらしく、大部分が地下に埋まっているようだ。
扉には、その開閉を阻むように、一枚の御札のような紙が貼られていた。『太陽』と大きく書かれていることはわかるが、ほかの細かく記されている文字は、由美には読むことのできないものだった。
「さあ、踊るのじゃ! 天宇受売」
包帯の男――伊邪那岐は傲然と命令した。
「わたしが踊る!?」
「そうじゃ! おまえは天宇受売として選ばれた。わが娘、天照復活のために踊るのじゃ!」
「アメノウズメ……?」
どこかで聞いたことのある名だ。
太古の昔、まだ神々がこの国を創造している渦中にあった神話の時代。弟神スサノオの暴挙におびえたアマテラスは、天上の国――高天原で『天の岩屋』にこもってしまった。そのことにより、高天原も、葦原中つ国――つまり地上も、太陽のない暗黒の世界になってしまったという。
そこで知恵の神オモイカネは、アマテラスを岩屋から出すために、まさしく知恵をしぼった。アメノウズメという女神に舞を踊らせ、アマテラスの興味を惹いて、岩屋から出そうとこころみたのだ。
有名な『天の岩屋戸伝説』――。
(そうだ……!)
由美は、自分の名前を呼ばれた――と直感した。自分の名前は、森野由美なんていう安っぽいものなんかじゃない……天宇受売という名が、自分の本当の名前なのだ!
自然と、由美の身体は動いていた。
「そんな服では駄目じゃ」
伊邪那岐の右眼が光った。
その眼光が、矛となった。
『天の沼矛』――。
一振り!
由美の制服が、消失していた。
美しい裸体だった。人間とは思えない神々しい姿。
まるで女神のような……。
「見事な身体よ。それでこそ人間でありながら、神の踊り子として許された者にふさわしい!」
もう一度、矛を振った。
由美は衣装をまとっていた。
金糸銀糸で織られたような、美麗な衣を裸体の上に羽織っている。艶やかで、妖しい姿だ。
「激しく踊れ! 岩戸を開けるのじゃ!!」
見事な舞だった。
踊るために生まれてきたような、素晴らしき舞踏の極み。広大な空を舞う白鳥のように――兄弟たちを見返す、自由で美しい羽ばたきのように――。
「天児屋! 布刀玉!」
「ここにおりますですよ、伊邪那岐様」
「われ〜、おりまする〜」
伊邪那岐の呼びかけに、二つの声が返ってきた。一人は小太りで、どこか卑屈なしゃべり方をする男だった。もう一人は神経質そうな男で、まるで和歌か俳句でも詠んでいるような返事の仕方だ。
さきに名を呼ばれた『天児屋』のほうが、あとに声を返した男だった。小太りのほうが、『布刀玉』という最初に返事をした男だ。
「歌え、天児屋よ!」
「は〜い〜」
長い間を取ったあとに、そんな短い返事にも、歌を詠んでいるかのような声を出す。さきに名を呼ばれたにもかかわらず、布刀玉よりも、あとに声がしたのも理解できる独特の遅い口調だ。
「う〜〜れ〜〜ら〜〜」
天児屋は、歌いはじめた。
言葉に意味はなかった。
この男が発する声にこそ、真価があるのだ。
天児屋命――祝詞を奏上する神として知られるが、『天の岩屋戸伝説』では、この天児屋の祝詞に合わせて、天宇受売が踊りを舞ったと記されている。
神話が嘘でなかったことを証明するかのように、森野由美の踊りは、よりいっそう激しくなっていた。
「はい、わたくしめの役は、ただ応援することなんですよ、ええ」
なにも言われていないのに、布刀玉は、へつらっているような態度はそのままに口を開いた。手には、榊の枝葉に玉や紙垂をつけた御幣を捧げ持っている。
こちらの布刀玉命は、伝説でも御幣を捧持していたとされる神だ。ただし、布刀玉がなにかしたからといって、由美の踊りに変化はなかった。本当に、ただの応援だけなのだろうか。
森野由美は、狂ったように踊りつづけた。
地下から突出している物体――実際には、天上から《天閃》とともに落下してきたはずなのだが、むしろ地中から隆起してきたような『天の岩屋戸』が、カタッと音をたてたのは、由美の全身が、まるでシャワーを浴びたかのように、ずっぷりと汗で濡れてからだった。
「よし! あとは天手力男を待つのみ」
そう断言した伊邪那岐のまわりに、人魂のような……耐えがたい情念が形となってあらわれたような、煙のように不確かな発光体が漂っていた。
「まだか!? 天手力男の肉となるにふさわしい人間は!」
〈わが高天原の住人は、至高の神、天照大御神といえど、ここでは実体をもてぬ〉
〈それも、大地の力が、もっとも強くこの地にわきおこるからじゃ。ほんに、不便よのう〉
〈葦原中つ国で実体をとるには、生きている人を依巫とするか、成仏せずに浮遊している魂を喰らい、その記憶で実体を模造するしかないのう〉
〈魂の記憶に頼る場合、憑依にくらべれば、かなり力は劣る。とはいえ、下級の神は憑依の術を使えん……〉
〈天手力男の役目は、憑依の術を使わなければならん。だが、もちろん上級の神じゃ、問題はなかろう〉
〈われらのように高天原でも実体をもっていない《思念の存在》には、そんな苦労は関係ないのだがのう〉
〈関係ない、関係ない。のう、神産巣日〉
〈おう、高御産巣日〉
由美と同様、この地に引き込まれた人間が二人いた。倒壊しかけた東京タワーのもとで踊る由美に、その二人は欲望の眼差しをおくっていた。
どうやって自分たちがここに来たのか、覚えていなかった。気づいたら、ここに足を運んでいた。この近辺を中心とした広い範囲が、なにかの爆発により壊滅してしまったというのに、二人は、ここにたどり着けた。
どうして、こんな危険な場所に?
どうして、二人そろって!?
たしかに最近の行動は、いつも二人いっしょだった。一週間前――あの〈A狩り〉に遭って入院していた病室もいっしょ。退院したのも、今日の午前で同じだ。
そして――。
退院したとはいえ、まだ完治していないというのに、二人はそろって街に出た。目的はなかった。
ないはずだった。
二人は、運命を感じた。
いま自分たちがここにこうしているのは、運命によって天から定められていたことではないのか。生まれてからのすべての出来事が、神によって決められていたのではないのか。自分たちは、その運命の筋道を、自分の意志とは無関係にたどってきただけではないのだろうか!?
眼の前で、森野由美が踊っている。
二人は欲情した。
もともと二人は、由美の虜だった。
由美のためなら、なんでも出来た。
由美が欲しい、と思った。
頭のなかは、それしかなかった。
(由美!)
二人は、由美の身体を求めて走った。
欲望のままに、二人は走った。
ふと、おかしな感覚におそわれた。
走っても走っても、由美に行き着かない。
進んでいないのか?
時が止まっている!?
いや、由美は激しく踊っているのだから、それはない。
ではなぜ、由美との距離は縮まらない?
すぐ近くにいるはずなのに。
なぜ!?
自分たちだけの時間が止まっているのか……?
(由美! 由美!)
二人は、叫んだ。
声は、届かない。
困惑する二人は、おたがいの顔を見合った。
信じられなかった。
どうして、いままで気づかなかったのだろう。
(雄司……)
(徹……)
おたがいの名前を呼んだつもりだった。
しかし、声は出ていない。
声など出せるわけないじゃないか!
二人の――林葉雄司と村田徹の顔面は、燃えているように血で染まっていた。顔だけではない。全身、血でずぶ濡れだった。こんな状態で生きていられるのか――そう震えるがくるほどの凄惨さ。
走っても、たどり着けないはずだ。
ゆっくり歩くことすら、本来ならできないはずなのだから。
「来たか! 天手力男よ、二人を取り込むのじゃ! 奴らには、生まれ落ちたときより、『不死の法』がほどこされておるはず」
この後におよんでも、彼らは知らない。
その『不死の法』で、何度も命を救われていたことを――。
雄司は小学一年生のときに、車にはねられたことがある。車の破損状況からすると即死であっても不思議ではなかったというのに、雄司は奇跡的に一命を取り留めていた。徹のほうも、幼いときに海で溺れた経験があるのだが、一時間以上も水のなかにいて、死ぬことはなかった。
〈A狩り〉にしても、じつは致命傷になる打撃を二人とも後頭部に受けていた。やはり、それでも死ななかった。
――そして、大都会を破壊した謎の爆発に巻き込まれても、二人は生きている。
「喜べ! 女に欲情した男は、おまえの大好物であろう」
伊邪那岐のまわりを漂っていた浮遊する発光体は、瀕死の二人へ向かった。絡みつくように、彼らの周囲を飛翔する。
二人には、それがわからなかった。
もう眼も耳も……五感すべてが機能していなかった。外界との接触をなくした彼らに残されたことは、ただ考えることだけだ。
二人の身体が、膨らみはじめた。
どんどん、どんどん膨らんでいく。
大きく、大きく!
もとの三倍……四倍までも膨らんだ!!
二人の身体がその膨らみのために密着し、そのまま融合していくではないか。
(助けてくれ――っ!!)
自分たちにとって、生死のかかった『なにか』がおころうとしていることだけは理解できた。無限の広さを予感させる孤独な精神世界の檻のなかで、二人は絶叫していた。
(いやだ〜〜〜〜!!)
(死にたくない〜〜……)
心の声も、そこで途切れた。
身体が合わさっていく。
浮遊する発光体もそれに呼応するように大きくなり、二人の融合した身体を包み込んだ。
数瞬後、巨大な男神が誕生していた。