第二章 8 天才
放課後の夕焼けが、あの日のことをイヤでも思い起こさせる。
セレンゲティ国立公園での惨劇――あのときも、陽が暮れる直前は、これぐらい美しいオレンジだった。
千鶴は、お気に入りのベンチに座り、その夕焼けのなかに身をおいていた。まるで、あの日に帰っていくような……そんな錯覚をおこしてしまいそうだ。
父と永遠の別れをすることになったあの日に、自分は戻りたいのだろうか? 本当は思い出したくもないはずなのに、あの日に帰りたいというのだろうか?
もし、もう一度……いま手に入れている力を最初から持ったままで、自分がもう一度、あの惨劇に出くわしていたなら、結果はどうなっていただろう。
《獣》の力をすでにあたえられていたなら、父は死なずにすんだかもしれない。いや……こんな力などなくても、ちがった結果を生み出せたかもしれない。いまでも父と楽しく暮らしていたかもしれない……。
〈どうしたニャ? ぼうっとして〉
隣で丸まっているムクムクが話しかけてきた。ネコの鳴きマネばかりやっているから、最近では話し言葉まで、すっかり『ネコ調』になってしまった。
「なんでもない」
千鶴は、それだけを答えた。
早苗と洋子は、すでに下校している。渋谷へ、スポーツ用品メーカーのイベントに行くと言っていた。明日から開催されるテニスの大会に出場する有名選手たちのサイン会があるらしいのだ。
早苗はともかく、洋子は無類のテニスファンだった。世界ランキング一位から一〇〇位までの選手(男子のみ)を順番に暗記しているほどだ。ランクの変動があっても、即それに対応できるという。国内ランクやジュニアランクも、つねに注目しているマニアなのだ。
すでに三年生なので夏休みを最後に引退してしまったが、自らもテニス部に所属していた。洋子の練習が終わるまで、千鶴と早苗が図書室で待っているということが、かつての日常だった。腕前は、お世辞にも上手とはいえない。春にはボールを空振りし、転倒。そのあげく骨折してしまったという、お粗末なこともあった。
現在、千鶴のカバンのなかには、四冊もの雑誌が入っている。洋子が忘れていったテニス雑誌だ。毎月、三誌も買っているそうだ。
残りのもう一冊は、二年ほど前の古い雑誌だった。その号には、洋子の憧れの人が特集されているということで、いつも持ち歩いているのだ。特集といっても、巻末に数ページだけの小さなコーナーなのだが、それでもその憧れの人が雑誌に載った数少ない貴重な一冊だという。
〈いっしょに行けばよかったニャ〉
「そんな気分じゃない」
ムクムクの言葉に、やはり素っ気なく応えた。千鶴も誘われたが、にぎやかな場所へ行く気には、どうしてもなれなかった。今朝、森野由美に襲われたこともそうだし、授業中に空が紫色に輝いたことも、心を重くする原因となっている。
朝の傷害未遂事件は、あのままウヤムヤにした。織絵は納得していないようだったが、千鶴の願いを聞き入れるという結果に落ち着いた。だから朝の事件を知る者は、狙われた千鶴本人と狙った森野由美、そして織絵だけしかいない。
いや、もう一人……。
〈まだ朝のこと引きずってるのかニャ?〉
千鶴の心中をうかがうように、ムクムクが問いかけた。
「べつに」
〈ほら、まだ怒ってるニャ〉
「……なんのこと言ってるの?」
〈わがはいが、ちづるの髪に乗っかって寝てたことニャ〉
千鶴は、ため息まじりに苦笑した。
「そんなこと、頭の隅っこにもないよ」
〈ニャら、殺されそうになったことニャ?〉
「怪我しなかったんだから、森野さんを責めるつもりはないよ。でも、ヤダね。殺す、生き残る、そんな世界は」
〈やっぱり、あの子たちと行けばよかったニャ。いい気分転換になったニャ〉
「そんなことよりも、あの光よ……」
〈空が紫になったことニャ?〉
「なにかわかることない?」
ムクムクは、人間のように首を横に振る。
「胸騒ぎがする……とっても!」
〈ガウウ!〉
突然、木の根元で爪を研いでいたソワソワが、唸り声をあげた。
「どうしたの、ソワソワちゃん!?」
〈敵ニャ!〉
ベンチから下りたムクムクは、ソワソワが睨んでいる少し離れた木の方向に身構えた。
と、思ったら――。
ソワソワは、何事もなかったかのように爪研ぎを再開していた。
〈なんニャ、まぎらわしいヤツ!〉
「まって! だれかいるっ」
その木の陰から、男が姿を現した。
千鶴も知っている……名や経歴などは知らないが、会ったことのある人物だ。
「また……あなた」
全体として知的な印象をあたえる容姿。
だが、おとなしい羊でない。
野性を忘れた狼――?
ちがう。
たしかに荒々しいが、もっと高貴なものを連想させる。
下卑た獣ではない。
聖なる神獣が、そのうちなる奥底に、けっして抱いてはいけない暴虐の邪念を生んでしまったかのよう。
狼が、おとなしいフリをしているのではない。それより遙か貴い存在のものが、獣の残忍さを心に芽生えさせてしまったのだ。
千鶴には、すぐにそれがわかった。
冷たい瞳。
その奥に隠れているものは、なに?
怒り、憎しみ、復讐心?
それとも、悲――。
「なにか用ですか? 今朝のことは礼を言いますけど……」
千鶴は立ち上がりながら、おざなりに感謝をのべると、制服のポケットから一枚のコインを取り出した。
「返します」
「いらない。あげたものだ」
そういう言葉が返ってきたが、千鶴は無視してコインを――百円硬貨を指で弾いた。放物線を描いて、百円玉はもとの持ち主の手中に帰った。
「だれと話してた? ここには、キミしかいなかった」
青年は、責めるように千鶴を見つめていた。
「独り言」
どこか挑戦的に、千鶴は答えた。
「……あの夜は、ライオン。朝は――あの動物はなんていったかな……レイヨウ類だ、そう――トムソンガゼル」
千鶴の返答に納得したとも思えなかったが、青年は唐突にべつの話をはじめた。
「なんのこと?」
「キミは、その指に動物を飼ってるのか? このナイフで襲ってきた女に人差し指を向けたら、風のようにガゼルが疾走してた」
知的な青年――当事者の二人を除く、織絵以外の唯一の目撃者は、百円玉をつかんだほうとはちがう手に、バタフライナイフを持っていた。
「凄いスピードだ……オレのサーブよりも遙かに速い。動体視力のすぐれた人間でなければ、眼でとらえることは不可能だ」
「サーブ?」
「テニスのサーブは、時速二〇〇キロを超える。わずか数メートルのコートをそのスピードで駆け抜けるんだ」
「テニス……?」
千鶴は、あることを思い出しかけた。
すぐには、出てこない。
「……」
「どうかしたか?」
「そうよ……あなたの顔、そういえば」
ようやく思い当たった。
「……やっぱり、あなたのこと知ってるみたい。たしか、ええと、……ス、ス……めずらしい響きだった……」
そこで、千鶴はベンチ上のカバンのなかに手をのばした。
「たしか、これ」
洋子の忘れていった四冊のうちの一つ。いつも持ち歩いている二年前の一冊だ。最後のほうのページをめくっていく。
「これ!」
千鶴は載っている写真の男と、眼前に現れた男の顔を見比べた。
「やっぱり! 名前は、え〜と、江島……」
書いてある名を見ても、やはり言うことができなかった。
「なんて読むの、この字?」
「スオウだ。江島周防」
気分を害したふうもなく、青年――江島周防は答えた。
「ふ〜ん、テニスの世界では有名人なんだ」
さして興味がわいたとも思えない口ぶりだったが、千鶴は一応、記事に眼を通しはじめた。これまでにも何度か洋子から読み聞かせられていた内容だが、ほとんど頭のなかに残っていない。
「なになに……高校二年の終わりにテニスをはじめ、わずか数ヵ月のテニス歴で関東大会を制覇した天才――」
記事から眼を離し、まじまじと周防の顔を眺めてみた。
「天才……ねぇ」
そこからは記事ではなく、思い出した記憶を頼りに口を動かす。
「たしか――その一回しか、ちゃんとした大会には出なかったんですよね。そして、そういうところが伝説化して、いまだに学生テニス界では有名人……」
「関東ローカル、しかも過去の栄光だ」
周防は、おもしろくなさそうに言った。
「初心者だったのに負けたことがないから、《不敗のナギサ》って呼ばれてるんだった」
自信ありげに千鶴は言ったが、すぐに無感情な訂正の言葉があがった。
「サナギ」
「どっちでもいいじゃない!」
なぜかキレ気味に、千鶴は声を荒らげた。
「……キミは、人間?」
そんな千鶴をあしらうように、周防は失礼な質問をいきなりぶつけた。
眉を寄せ、千鶴はさらに熱くなる。
それにも周防は、独りよがりの語りをやめない。
「アフリカのサバンナ地帯から、たった一人で戻ってきたんだってな……父親をはじめとした現地部族の全員が、キミを残して死んだそうじゃないか。動物に襲われて……」
「なにが言いたいんですか!?」
「キミは、動物をあやつれるんだろ?」
「……」
「キミが、ヤッたんじゃないのか?」
表情は変わらず、あくまでも冷たい。
「そんなこと訊くために、わたしをつけまわしてるんですか? ずいぶん、ヒマな人」
負けじと、千鶴も言い返す。
「キミは、人間じゃないんだ。動物を指に飼っていて、それで人間を殺すために生きているんじゃないのか?」
「だったら、なに!?」
不快感を隠そうともせず、千鶴は、キッと刺すように睨んだ。
だが次の返答で、わずか視線がゆるむ。
「だとしたら……キミも、オレと同じだ」
「同じ?」
「人間が嫌いなんだろ」
(そうだ、嫌いだ)
周防は、心のなかで強く叫んだ。
嫌いだ。
みんな、くだらない。
みんな、利己のためだけに生きている。
欲望のために生きている。
そんなくだらない人間のために、妹は死んだ――!
殺された!
人間など滅んでしまえばいい!!
「……だから、〈A狩り〉なんてやってるの?」
「そうだ、妹を死に追いやったクズどもに、天誅をくわえてやったんだ!」
「妹?」
「ゆかりを殺したクズを……それと同類のゴミどもを狩ってやったんだ! 法律では裁けない――だから、オレがやるしかなかった!! この世には、神などいないんだ! このオレが断罪するしかないだろ!?」
怖い眼だった。憎悪……そんな言葉では表現しつくせないほどの赤黒いものが、この江島周防という青年から感じられた。
だが、共鳴できる部分があるのも事実だった。
「……神なんていない――っていうのは、同感だわ」
その千鶴の声とかぶさるように、明るい声が聞こえた。
「あら、ソワソワちゃん!」
高橋織絵が、ソワソワを抱き上げていた。
織絵は、千鶴を家まで送っていくという約束をしていたのだ。朝のことを心配しての配慮だった。
「千鶴ちゃん、この人は!?」
見知らぬ男が学校内にいることよりも、二人の間の空気がとてもギスギスしていたことのほうに、織絵は警戒感をおぼえたようだ。
「天才テニスプレイヤーの江島スモウさん」
「スオウだ」
《不敗のサナギ》と呼ばれる男は、やはり無表情に訂正した。織絵の登場とともに、手にしていたナイフは素早く隠している。
「テニス?」
「わたしのストーカーみたいです」
その千鶴の一言で、織絵の眉がピクンと引きつった。『ストーカー』という言葉に、過剰に反応してしまった。一瞬、小太りでハゲた中年男のことが脳裏をよぎった。
二人の間をさえぎるようにして、千鶴の前で仁王立ちする。
「うちの生徒につきまとうのは、やめてください!」
これには、さすがの周防も苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
「中学生に、そんな興味もつかよ」
「制服、売ってくれないか、ってお願いしてたじゃない、さっき」
らしくない、嫌味な笑みを浮かべながら、千鶴は言った。ちょっと前までの千鶴なら、こんな表情も、こんなセリフも、不釣り合いだったはずだ。どこで覚えてしまったのだろう。
織絵は、そんな教え子――娘のような教え子の将来をかすかに心配しながら、青年への警戒をさらに強めた。
キッとした睨みを、周防におくる。
それ以上近寄ったら、大声出しますよ!――そんな雰囲気だった。
しかし三人の膠着状態は、そう長くは続かなかった。
それは、突然おこった。
「え?」
南の空が色を変えた。
激しい風が、千鶴の片方だけのおさげを揺らす。
「な、なに!?」
爆発音!?
ゴオオオオオオオ!!
南の空が燃えていた。
炎のような……いや、黄金色の光の柱が、天空を貫いていた。
いずれ知ることになる。
それは天を貫いているのではなく、天から地上に落ちてきたということを――。