第二章 6 狼煙
〈われらのめぐらせた運命の糸により、愚かな人間どもが手繰り寄せられておるわ〉
〈そうじゃ、そうじゃ、神産巣日よ。手繰り寄せられておる、手繰り寄せられておる。まるで傀儡のようじゃ〉
〈この巨大な骨の塔のもとで、大御神は、まもなく復活する〉
〈『天の岩屋』の転移はどうじゃ?〉
〈それは思金に任せておけばよい。おぬしの御子神にして、高天原の頭脳じゃからな。手筈どおり、《天閃》は降りそそぐであろう〉
〈しばしすれば、天宇受売もたどり着く。そして、天手力男の肉となる二匹もな〉
〈ほほほ、哀れよのう。人間滅亡のための弓引きを、人間自らが運命づけられておるのじゃからな〉
〈どうやら、伊邪那岐も到着したようじゃ。これで目障りな人間どもも終わりじゃな。のう、神産巣日〉
〈ほんに、高御産巣日よ〉
東京、赤坂――。
赤い骨組みが、誇らしげに天高くまでのびている。東京のシンボルになってから、もう何十年経っただろうか。
そんな《骨の塔》――東京タワーを見上げるにはちょうど良い小さな公園に、その異国人は姿を現した。
名は、サラディン。
彼は毎日、ここから電車で数十分は行かなければならない郊外の街から、ジョギングをしていた。かなりの距離だ。
走ることが好きなわけではない。
しかし、毎日走っていた。
「ヤット来タネ。コレデ使命ヲ果タセルヨ」
外人独特のイントネーションで、彼はつぶやいた。長距離を走りきった安堵感からなのか、とても穏やかな顔をしている。
サラディンの出身地は、イランでもなく、パキスタンでもない。
イラクだった。
彼の家族は、みな戦争で死んでいる。
サルマーンという町の南、砂漠に囲まれた小さなオアシスが、サラディンの生まれ故郷だった。辺境のオアシスでは、独裁政治の影響も少ない。原理主義とも無縁だった。そこで彼は、両親と五人の兄弟とともに、慎ましくも幸せに暮らしていた。当然、重要な軍事施設など近くにあるはずがない。
だが、米軍による誤爆はおこった。
誤爆?
そんなはずはない。
まちがえるような建物自体が存在しないのだ。小さな家々が散らばっているだけのオアシス。誤爆のわけがない。
しかし爆撃は、容赦なく降りかかった。
逃げる時間もなかった。
一瞬で、家族は爆死してしまった。
なぜ自分だけ生きている……?
爆風と炎熱に焼かれたはずの自分の身体が、なぜだが砂のなかにあった。砂にのみこまれていた。ここはどこだ!?
砂のなかに沈んでいく身体。
ドクン、ドクン――。
砂に溺れる!
いや、身体が浮き上がってきた。
冷たい!
なんだこれは!?
水。
海……!?
ドクン、ドクン!
砂が、大海原に変わっていた。
どうして海の上を漂っているのだろう?
サラディンは、ただ流れに身をまかせた。
あの爆破は、夢だったのだろうか!?
海を漂流しながら、爆撃をうける夢をみていたのか……。
ちがう、そんなことがあるか!
夢だとするれば、いま海に浮いていることのほうが夢か幻だ。
自分はどうして、ここで生きているのだ。
なぜ家族は、死ななければならなかったのだ!?
運命――。
そんな言葉が脳裏にわいた。
戦争のさなかとはいえ、軍人でもない、軍事施設の近くに住んでいたわけでもない、テロリストともつながりのない自分たち家族が攻撃を受けたのは、神によって死ぬことを宿命づけられたからだ。アッラーフか、もっとべつのものかは知れないが、そういう絶対的な存在によって決められたことなのだ。
自分が死なずにすんだのも、また神による意志なのだろうか?
いや、ちがう気がする。
同じような絶対的な存在ではあるかもしれないが、それとはちがうものから自分は救われた。ならば、このまま流れに身をまかせ、その救った意志を見極めようではないか。
サラディンは、身体の力を抜いた。
自分が、なにかをなすために生かされたのだとしたら、きっとそこに流れ着くはずだ。
もし流れ着いたさきで、自分に待っている人生が納得のいかないものだったとしたら、その意志には従わない。これからの生き方は自分自身で決める。
静かだった海原が、大きく揺れた。
近くに大型タンカーが近づいていた。数時間後、サラディンはそのタンカーの船員によって救助された。
日本へ向かう船だった――。
「ミンナ……モウスグ行クヨ」
今度こそ、本当の『終着点』にたどり着いたことを悟ったサラディンの前方に、一人の男がやって来た。
時刻は、正午少し前。もうすぐすれば、昼休みをむかえたサラリーマンやOLの姿がこの公園でも見られるだろうが、いまは老人が一人と、失業中らしき冴えないスーツ姿の中年男がベンチに座っているだけだ。
サラディンは、やって来た男の進路を阻むように立ちはだかった。
男の顔全体には、包帯が巻かれていた。ただ右眼の部分だけがあけられている。まるで、生のない幽鬼のような気配を漂わせる男だった。漆黒の長い髪だけが、生き生きと艶をまとっていた。
「なに用じゃ、そこをどけ」
男が、死者のような声で告げた。
「ワタシ、サラディン。《道》ノ指令ニヨリ、アナタノ来ルノ、ズット待ッテタヨ。ズット、ズット……」
「ほう……すると、われがだれなのか知っているのだな?」
「ソーネ」
「ならば、われを阻んでみよ、人間! われも娘のために前進をやめるわけにはいかん」
「ワタシ、ソンナチカラナイネ。ワタシノ授カッタチカラ、アナタタチヲ打チ倒スモノジャナイ」
サラディンは、不自然な笑みを浮かべた。
それは、喜びや楽しさをあらわした笑みではないのだ。生をまっとうした人間だけが表現できる、死を恐れない覚悟の笑み――。
「では、なんのための力じゃ?」
「ワタシノチカラ、《煙》ネ!」
「なに? おもしろいことをほざくわ! 煙がなんの役に立つというのだ」
のんびりと公園での一時をすごしていた老人も、長すぎるヒマな時間をもてあましていた失業中年男も、外国人の青年の足元から漂いはじめた紫色の煙に、ギョッと眼を見開いた。
「ワタシノ持ツ、唯一ノ技ニシテ、一回ダケ使エル能力ネ!」
「死ぬ気か?」
「ワタシ、死ヌタメニ生キテタネ! コレカラハジマル神ト人間トノ開戦ヲ知ラセル狼煙……コノ公園、ヤット見ツケタ死ニ場所」
サラディンの出す紫煙は、足からだけでなく、全身から漂いだしていた。
「小賢しい! そんな煙など跡形もなく吹き飛ばしてくれよう!!」
包帯だらけの顔で、ただ一つ露出している右眼が、鋭い光を放った。日中でも視認できるほどの光だ。そのきらめきを右手でつかむような仕種をとると、次の瞬間には右手に長い棒状のものが握られていた。
先端が鋭利に輝いている。
槍?
薙刀だろうか?
「別天津神よりあたえられし、開闢の力――『天の沼矛』じゃ!」
天地を斬り結ぶように、一閃した。
サラディンの右腕が、嘘のように無くなっていた。
「グワアア――ッ!!」
落ちた片腕。噴き出す大量の血液。
あまりの出来事に、老人も中年男も猛スピードで公園から逃げ去っていった。
サラディンは、血液の噴き出す傷口を、苦しみに喘ぎながらも、天へと向けた。噴水のように舞い上がる血の飛沫。
「テ……天ニ住ム者ノ支配ハ、天ダケニスレバイイ! コノ地上ヘノ干渉ハ不用ネ!!」
「黙れ!」
再び男は『天の沼矛』をかまえた。
二撃めは、斬るのではない。
突きかかった!
「ウグッ……」
サラディンの胴体を、矛の穂先が軽々しく貫いていた。
「ワ、ワタシハ……ココデ死ヌガ……マ、負ケテハイナイ……ワタシハ、自分ノ意志デ生キテキタ……カ、神ヨ、勝チ誇ルノハマチガイダ……」
男が、矛を抜いた。
サラディンは、それでも立っていた。
「ナゼナラ……、タトエ、コノ死ガ、神ノ決定シタ運命ダッタトシテモ……ワタシガ生キテキタ時間ハ本物ネ……自分ノ意志デ選ンダ生キ方ネ! カ、神ノ思惑ドオリニ、死ヌノダトシテモ……自分ノ人生ヲ貫イタ……ワ、ワタシノ勝チダ……ザマアミロ!」
神により人生を狂わされた男の、最後の意地だ!
「ウオオオオオ――――ッ!!」
命の炎とひきかえに、青年の身体から発生していた紫の煙も、もげた腕の付け根から噴き出していた血の飛沫も、凄まじい速度で上空へと昇っていった。
煙と血が混ざり合い、渦を巻きながら天へ上昇していく。
見るがいい!
生きてきた証を!
だれに決められたのでもない……自分自身で選んだ死にざまを!!
〈この死をもって、開戦とする〉
『血流ノ狼煙』――!!
それは、紫の光となっていた。
血と混じり合うことで、紫煙から紫光へと変化していった。
上空かなりの高さまで昇ってから、光は弾けた。
青空を、紫の輝きが支配した。
「!!」
まだ授業中の教室――。
千鶴は、空が紫色に輝くのを見た。
それに気づく生徒は、ほかにはいない。
街中でも、大多数の人々は、その空の異変に気づかなかった。
だが、わずか……。
「使命をまっとうしおったか、サラディン。おまえさんは、人間として精一杯、生き抜いたんだよ……」
家の縁側で空を見上げながら、早乙女イネはつぶやいた。
友人の死を彼女は知っていた。
「――見事な生きざまよ! こんな人間ばかりなら、神々も滅亡は望まんだろうに……」
輝きは去り、空はまたもとの青へと――。
地に倒れた青年のまわりにだけ、まだ紫の煙が残っているだけだった。包帯の男は、その青年の亡骸をまたいで越えた。
(屍を越えることが、父上の称賛の意というわけですか……)
心の内から聞こえる声に、包帯の男は応えようとはしなかった。
視線を赤い塔へ向けた。
右手の矛を一振り!
刃についたサラディンの血が飛ぶ。
その散った飛沫が大気に吸い込まれると、眼には見えない怪異がおこった。形にはあらわれないが、なにかが生まれていた。
「こやつが開戦を知らせた以上、こちらも八百万の神々を蘇らせねばなるまい」
神話の時代――『天の沼矛』で国生みをおこなったイザナキとイザナミは、同時に数えきれぬほどの神々を生んだとされている。そのさまが、現代で再現されたというのだろうか。
「月読よ、どうじゃ?」
(名だたる神たちは、高天原で健在です。それで充分でしょう)
包帯の男の心にひそんでいる《暗夜の王》には、見えていた。
青空を駆ける、おびただしい数の御霊の群れを――。
「《天閃》よ、降るがいい……時は満ちた」
空を一瞥すると、男は前進を再開した。
めざすは、赤い骨の塔のもと――。