序章 1 霊祭
子供たちの声が聞こえる。
澄んだ大気にしみわたる透明な声。
囁くように……。
囁くように……。
……いや、小さな囁きではなく、遠くから聞こえてくる声だから、かすかにしか聞こえないのだ。だんだんと近づくにつれ、それが叫びだとわかった。
ドン、ドン、という鼓動のような鈍い打楽器のリズム。それにのせて、まだ変声期をむかえていない少年たちの歌声が、陽の沈みゆく黄昏の大地に響きわたっている。
歓喜、悲哀、希望、警鐘……? なにを歌っているものかはわからない。しかし、そんなすべてにあてはまる不思議な韻律が、心をとらえた。旋律ではない。音程の変化はあってないようなものだ。これは《曲》ではなく、《叫び》なのだ。
狩りの大収獲を祝う喜びの歌なのかと思えば、仲間の死を哀悼する鎮魂歌のように悲しく、明日への情熱に心を焦がしているのかと思えば、自然を恐れない文明にたいしての怒りの意志を表現しているようでもある。
「な、なにがはじまるの……?」
十数人の少年たちの歌声に合わせて、七、八人の成人した若い男たちが踊っている。村の広場だ。まわりを見れば、枝と枯れ草で作られた家々が並んでいる。
千鶴は車からおりると、父に引っ張られるように、その場所へと連れてこられた。
鼓動のようなリズム。
少年たちの歌声。
それにのせて踊る若者たち。
千鶴の眼に飛び込んできたのは、異様ともいえる別世界の風景だった。ここを訪れたのは今日で三度目だが、こんなにまで非現実な雰囲気を感じたのははじめてだ。
踊る若者たちの上半身はむき出しだった。黒い胸に、象形文字を思わせる模様が描かれている。顔にも、まるで記号のような化粧がほどこされていた。
「な、なんなの!?」
かろうじて下半身だけは乾燥させた植物の葉で隠されているものの、全裸に近い男たちの集団を見て、千鶴は自分の頬が熱くなるのを意識した。普段でも彼らは、草を編んだものを身体に覆っているだけの簡素な出で立ちだが、ここまで露出度は高くない。一五歳の少女には、眼の毒だ。
「これから、神をおろす儀式がおこなわれるのさ。とても貴重な体験だぞぉ! たぶん、わたしたちが、このトゥガル族の『霊祭』を最初に眼にする日本人ということになるんだ」
民族学者の父、氷上良蔵が言った。高鳴る興奮を抑えようともしていない。世紀の歴史的瞬間を目撃でもするかのように、大袈裟な抑揚をつけて言葉をつむいでいる。
良蔵の研究対象は、主にアフリカ中東部の少数部族だった。ケニアのドロボ族、コンゴ盆地のンガンドゥ族などの論文では、学会で高い評価を得たこともある。過去には、ブラジルのヤノマモ族や、死者の肉を食べることで知られるニューギニア高地のジャレ族なども研究したことはあった。しかし、良蔵にとってのライフワークは、やはりこの灼熱の大陸だ。
タンザニア――ケニアとの国境に近い、セレンゲティ国立公園。
『セレンゲティ』とは、この地域で有名な遊牧部族マサイの言葉で、《広い平原》を意味するという。まさしく、無限に果てることのない広大さを感じさせるサバンナだった。
トゥガル族とは、この国立公園内に村をもつ少数部族のことだ。乾季には弓矢で野生動物を狩り、雨季になると木の実や根茎類を採取するという原始的な生活をいまでもおくっているのだという。ここからさほど遠くないマンゴーラというサバンナ地帯に住むハツァピ族によく似ているのだが、大きくちがう点は、ハツァピ族が移住するのにたいして、トゥガル族は一つの村にずっと定住しているということだろう。これは、牧畜や農耕をおこなわない狩猟採集民にはめずらしいことだった。
良蔵は、五年前にはじめてトゥガル族のことを知った。長年、民族学を研究してきたというのに、それまでこの部族のことなど、まったく聞いたことがなかった。国立公園内に村をもつというのに、タンザニア政府もその実態をあまりつかんでいないらしい。まさしく、未知の部族といえるのだ。
なんとしても、じかに足を運び、トゥガル族の生活風習や文化を探究したい――。良蔵は、この地にやって来ることを夢見た。その願いが、今年になってようやく叶ったのだ。
「いま踊っている青年たちが、この世の万物をあらわしている。動物や植物、土や水……なんでもそうだ。この世界のすべてが彼らなんだ。そして彼ら一人一人のなかに、それぞれちがう神様が住んでいる」
眼の前の光景に圧倒されている千鶴に、良蔵が説明をはじめた。良蔵も、つい数日前に得たばかりの知識だ。
こういう少数部族の宗教は、アニミズムが一般的だった。森羅万象、この宇宙に存在するすべての物に霊魂がやどっていると考える信仰――アニミズム。山や川、木や草や石、火、雷、空気にいたるまで、それぞれに神がやどり、そのそれぞれを信仰する。キリスト教やイスラム教のように、一つの神を崇拝する一神教ではなく、いくつもの神を祀る多神教なのだ。
千鶴の母国である日本の神道もアニミズムの一種で、八〇〇万もの神々がこの世には存在するとされている。
「少年たちの歌声は、彼らにやどった神を歓迎する人間の意志さ。どうやら、悪魔を祓う効果もあるらしい。悪魔は、澄んだ子供の声を聞くと逃げ出しちゃうんだってさ。つまり少年たちの声は、神にたいする合図なんだ」
「合図?」
「そう。出てきてもいいよ、っていう合図」
良蔵はそう答えると、やさしく微笑んだ。つられたように、千鶴も微笑んでいた。心を和ませてくれる、父の笑顔だった。
ここに来る前の千鶴には、この微笑みさえ苦痛でしかなかったというのに……。
いまから数ヵ月前――まだ新学年での生活がスタートしたばかりのころだった……千鶴へのイジメがはじまったのは――。
三年生に上がるまで、そういうこととは無縁の中学校生活をおくっていた千鶴だったが、ある日突然、ターゲットにされた。
たぶん、千鶴のおとなしい性格が原因だったのだろう。イジメた側にも、きっと受験を控えたストレスのようなものがあったのだろう。
最初は、たんなる無視からはじまった。それが、教科書や上履きを隠されるようなものへと進行し、やがて暴力へエスカレートしていった。
足をかけられ転ばされる。
背中を押されて、階段から落とされる。
お腹を殴られる。
顔をはられる。
顔を殴られる。
顔の痣で、やっと良蔵は自分の娘がイジメに遭っていることを知った。すぐさま学校にのり込み、担任教師にイジメの実態を激しく抗議した。そのときの冷やかな担任教師の眼が、いまでも忘れられない。「そうですか」と他人事のような返事をすると、イジメグループを特定し、やめさせることを教師は約束した。最後まで、視線は冷やかだった。
おそらくその担任教師は知っていたのだ。千鶴が、どんな生徒にイジメられていたのか……どういうイジメに遭っていたのか。それを見て見ぬふりをしていた。面倒な仕事を増やしたくないから……イジメの事実をほかの教員たちに知られると、自分の立場を悪くするから……。もしかすると、ほかの教員たちも知っていたが、学校の方針としてイジメの認知をタブーとしていたのかもしれない。
結局、ろくな対処はされなかった。イジメグループとおぼしき数人を呼び出し、事務的なセリフと口調で、イジメたのかどうかを尋ねただけにすぎない。「イジメてなんかいません」――その答えを聞いて、担任教師の事実確認は終了していた。
それにより、いきり立ったのは、イジメグループのほうだ。千鶴が担任に《チクった》と勘違いした彼らの怒りは、なんの腕力もない、いたいけな少女の身体を生贄とした。
放課後――薄暗い教室内。
男子生徒五名。
口をふさがれ、叫ぶこともできず……身体を押さえつけられ、逃げることもできず……それでも、千鶴は抵抗した。
懸命にあがいた。
そんな気力も、髪を切られたことで、すぐに消えた。胸を隠すほどだった左サイドの髪の毛が、耳の下あたりまでバッサリと切り落とされた。略奪した戦利品を掲げるように、切った髪を男子生徒たちが見せびらかす。
どうすることもできないと悟った。
ただ泣くしかなかった。
世界を拒絶するように瞼を閉じた――。
再び開いたとき、クラスの副担任の顔が、涙でぼやけて映っていた。昨年の春に赴任してきた、高橋織絵という女教師だ。たまたま教室の前を通りかかり、異変に気づいて助けてくれたのだ。
もう大丈夫よ、もう大丈夫だから――女教師は、何度も千鶴にそう言い聞かせた。制服は乱れていたが、最悪の事態はまぬがれていた。ある理由から千鶴はこの女教師のことが好きではなかったが、かまわずその胸で泣きじゃくった。知らせを受けた良蔵が駆けつけるまで、千鶴は泣きやまなかった。良蔵の顔を見ても、ずっと涙は流れつづけた。
そして、千鶴は心を閉ざした。
「……神様を呼び出して、どうするの?」
千鶴は微笑をたたえたまま父に問いかけた。ただ、なぜだか『神様』と口を動かした一瞬だけ、心なしか暗い表情になったような気がした。
あれからの千鶴は、完全な人間不信に陥ってしまった。父親さえ、その例外ではなかった。ずっと部屋に閉じこもり、外に出ようとは……自分以外の人間と会おうとはしなかった。学校へも、あれ以来一度として行っていない。そして人だけでなく、神や仏といった崇拝の対象、救いを求めるための精神的な存在をも否定するようになっていた。
「たいした用があるわけじゃないよ。豊かな生活ができますように――とか、病気を治してくれますように――とか、そういうお祈りをするためさ。人間なんて、どんな人種だろうと、だいたい願うことは同じなのさ」
千鶴には、理解できなかった。
あのとき、何度、神に祈っただろう。あのときだけではない。イジメに遭っているときは、いつも祈っていた。
――助けてください!
神は、それに応えてくれなかった。神とはいったいなんなのだろう。人間を救ってくれる存在ではないのだろうか。
神とは……?
千鶴の髪形は、数カ月経った現在でも、あのときのままだ。胸あたりまで伸びているストレートロングの左サイドだけが、耳のすぐ下までしかない。切り裂かれたまま髪形を変えていないのだ。
左右そろえることを千鶴は拒否した。それだけではない。なぜだか髪自体も、あれから伸びることはなかった。まるで、神を信じられなくなった罰として、神からその成長を止められてしまったかのように――。
千鶴のなかでは、あの日から、ずっと時間が静止したままなのかもしれない。
(わたしには、祈ることなんてない)
胸のうちで、そうつぶやいていた。
その思いがわかったのか、良蔵は軽くため息をついた。だが、こうして笑顔で会話ができるようになっただけでも、ここに連れてきて正解だったのだろう。
ちょうど夏休みということもあったし、千鶴を強引にこのタンザニアへと連れてきた。日本へ帰るのは九月に入ってからだが、どうせこのままでは、それまでに登校できるようになっているかわからない。
それに、いまの状態の千鶴を一人にして、自分だけがやって来るわけにもいかない。千鶴の肉親は、もう自分しかいないのだから。妻は――千鶴の母親は、七年前に病気のため帰らぬ人となってしまった。千鶴の頼れる人間は、もう自分一人しかいないのだ。
やって来て、すぐに効果はあらわれた。
広大なサバンナを駆け回る動物たち、大自然からしぼり出た草や木や土の匂い、猛獣の唸り声や草食動物の群れが疾走する地響きの音、吐き出しそうにまずいが刺激的な現地部族の歓迎料理、火照った肌に吹きつける乾いた熱い風。
五感すべてが刺激されることで、千鶴のふせた心は――閉ざされた精神の扉は、少しずつだが開いてくれたようだ。それに、まだ人間を受け入れることはできなくても、動物はちがった。動物となら心を通わせることができる。
この近くを縄張りにしているライオンの群れがある。三日前にこの村へ来る途中、ランドローバーを停め、その群れを観察していたところ、一目でリーダーとわかる威風堂々とした雄ライオンが近寄ってきた。
安全な車内にいたとはいえ、タテガミをなびかせ、鋭い牙をもった獰猛な野獣の姿は、見る者にたとえようもない恐怖をおぼえさせた。眼の前のライオンは、檻のなかにいるのでもなければ、人間たちに餌をあたえられて生きているのでもない。正真正銘、本物の野生なのだ。
良蔵は、千鶴が怖がっていないかと心配した。だが千鶴は、おびえた様子もなく、そのライオンのことをじっと見つめていた。久しぶりに見ることのできた千鶴の生きた視線だった。
ライオンはそんな千鶴を睨み返していた。
いや、ちがった。威嚇しているのでなく、ライオンのほうも、千鶴のことを見つめているだけだった。薄い車窓をへだてただけの見つめ合い……まるで、視線だけで会話をしているような、そんな不思議な光景――。
(好きなんだな)
良蔵は、あらためて感じた。いままで、家ではなにも飼ったことはなかったが、近所の野良猫を可愛がっている姿なら何度も見たことがある。もしかしたら、動物とふれ合うことで、閉ざされた心をもとに戻すことができるかもしれない。
「きゃ!」
突然、千鶴が悲鳴をあげた。
ジーンズの裾から一気に小さな影が駆け登り、肩で静止すると、キョロキョロとあたりを見回している。
「リーちゃん!」
千鶴は明るい声で、自分の肩にのった小動物に呼びかけた。リスだった。すでに顔なじみになっている。
六日前――最初にこの村へやって来たときに、このリスと出会った。日本にいるような木に巣を作るタイプのリスではなく、地面に掘った穴を巣にしている『ジリス』という種類だということを、そのときに良蔵から教えてもらっている。人を恐れていないようだから、よくこの村に餌をもらいにきているのかもしれない。千鶴が手を出すと、リスのほうから近寄ってきた。すぐ友達になれた。その三日後、再びこの村を訪れたときに、《リーちゃん》と名前をつけていた。
「三日ぶりだね、リーちゃん」
人間不信が嘘のように、千鶴はリスに話しかけていた。動物が相手なら、ごく普通の少女に戻れる。
良蔵は、微笑ましく、その光景を眺めていた。眼鏡の奥のやさしい瞳が、さらにやさしくなっていた。やはり、千鶴をこの地へ連れてきたのは正解だったのだ。
――と、そのとき。
「ん?」
それまで聞こえていた少年たちの歌声がやんでいた。神を降臨せる儀式――『霊祭』が終了したというわけではなさそうだった。なにか不測の事態がおこり、やむをえず中断してしまったような印象だ。
「どうしたの?」
突然の静けさに、千鶴が心配げな表情で、良蔵に問いかける。
じょじょに明度の落ちてゆくオレンジ色の陽光が、その可憐な顔を照らしていた。本来なら漆黒のはずのアンバランスな髪も、燃える鮮やかなオレンジに染まっている。
素直さをあらわす、大きな眼。
そのなかできらめく、澄んだ瞳。
形のよい純朴な鼻梁に、燃える色彩にも負けない無垢な朱唇。
どこか浮世離れしているが、充分に美しい顔だちだった。その穢れを知らない清らかさは、まるで咲いたばかりの白百合のよう。
「……ちょっと訊いてみるよ」
千鶴の問いに答えられなかった良蔵は、このタンザニアで常に行動をともにしているガイドのニエレレに、まず話しかけた。スワヒリ語を使っているため、千鶴にはどういう会話なのかわからない。千鶴の覚えたスワヒリ語といえば、おはよう=ジャンボ、ごきげんいかが=ハバーリ、ありがとう=アサンテ・サーナの三つだけだ。
二、三回、言葉のやり取りがあってから良蔵が説明してくれた。
「なんだかわからないが、神がやって来たらしい……」
「え?」
「神がおりてきたんだ」
「だって、神様を呼んでたんでしょ?」
千鶴は、不思議そうな声を出した。神を呼ぶ儀式をおこなっていたのだから、神がやって来たのは、もっと歓迎すべきことではないのか。それこそ歌も踊りも、より激しくならなければおかしい。
そのあたりの疑問は良蔵も感じたらしく、再びニエレレと会話をはじめる。ニエレレはいままで儀式を見物していた村の女たちの一人から話を聞き、それを良蔵に通訳したようだった。「それはどういうことなのか」――という良蔵の問いを、今度は逆に、その女に伝えている。この村の言語は、コイサン語という特殊な言語がさらに複雑化したものなので、いかに民族学者の良蔵といえど、直接、原住民と話をすることはできない。
質問された女は、ただ首を左右に振るだけだった。わからない、を表現するのはここでも同じようだ。
静寂に支配された時間が、十数分過ぎた。
陽も沈んでいた。遠くの地平線に、わずかな光が残っているだけだ。
すると、広場にざわめきがおこった。
七〇……いや、八〇歳をも越えているだろうと思われる老人が姿を現していた。原始的な生活を続けている少数部族のなかにあっては、かなりの高齢だ。まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、村人たちはその老人のまわりへと集まってゆく。
「長老だ」
良蔵はつぶやいた。六日前と三日前にここを訪れたとき、その二度とも会っている人物だった。良蔵たちをとても歓迎してくれて、この部族の生活風習や、今日の『霊祭』についての話をくわしくしてくれた。
良蔵たちは村人と同じように、長老のもとへ移動した。この村には四〇人ほどが住んでいるということだが、儀式を中断してしまった広場の中央に、その全員が集まってしまったようだ。踊っていた青年たち、歌っていた少年たちも、不安げな表情で長老に近寄っていた。
『神が来た』
長老は言った。
ニエレレの通訳により、良蔵も村人たちとほぼ同時にその言葉の意味を理解している。
『ついに来おった』
村人たちは互いの顔を見合って、困惑した表情を浮かべた。ざわざわとした囁き声が聞こえる。
「なにが来たというのですか?」
良蔵が、スワヒリ語で問いかけた。良蔵の言葉もニエレレの通訳により、瞬時に長老へと伝わった。
『だから、神じゃよ』
「あなたがたは乾季の間ずっと、一五日ごとに神を呼んでいるのでしょう? 三日前、あなたはわたしにそう教えてくれた。『霊祭』は、神を呼び出すための儀式ではないのですか?」
『その通りじゃ』
「それならば、なぜそんなに驚かれるのです? あなたがたにとっては、日常の出来事ではないのですか?」
『本当の神が、来たからじゃ』
「……!?」
長老の言葉をどう解釈していいのか判断に迷った良蔵は、眉を寄せ、しばし考え込んだ。その間を、具体的な説明の催促と感じたのだろうか、長老は続けた。
『霊祭は神を呼び出すための儀式だがな、それで呼び出された神は、神であって神ではないのじゃ』
「神ではない……? では、いったいそれは、なんだというのですか?」
『鼓動の主……じゃ』
さらに混乱する良蔵だが、暗黒に刺し貫かれたような、重く鋭利な気配を感じたために、その思考を中断させた。
「な、なんだ!?」
近くに、なにかがいる!?
完全に陽光の消えた夜の世界。広場の四方に立てられた松明の灯がなければ、間近にいる人物の顔もわからないほどに暗くなっていた。村のすぐ外側を見ても、闇しか見えない。
その闇に、ポツ、ポツ、と光るものが――小さな輝きだが、それがいたるところに散らばっている。
グウウ……、という唸り声。
「な、なんなの……お父さん!?」
千鶴も異変に気づいたのか、良蔵の身体に震えながら寄り添ってきた。
『獣をあやつるか……《神獣》じゃな』
村は、無数の光点により囲まれていた。
それは、眼だった。
おびただしい数の眼が、良蔵たちをふくむ村人全員を睨んでいた。
『覚悟されよ……客人』
「ち、長老……なにがおこるんだ!?」
『神が人間を滅ぼしにやって来るのじゃよ。これよりわしは、《鼓動を受けし者》として、最後の戦いをしなければならん』
「か、神が人間を!? どういうことです!!」
そのことに、長老は答えてくれなかった。
かわりに不可解なことを口にする。
『今日この場に居合わせたことも、神のさだめし運命じゃ。運命とは人間の生きる道筋。運命に従わずして、人は生きられぬ。しかし……運命に従っているかぎり、人は幸福にはなれんのじゃ』
「長老、そんな話はいい! これから、なにがおこるのかを教えてください!」
『聞くのだ』
長老は、冷静に良蔵の言葉をさえぎった。
『人間は、みな不幸。不幸だからこそ、神は人間を生かしておる。よいか、今日これからおこることも、その不幸の一つにすぎん……生き残りたければ、神に祈れ。たが、死を覚悟してでも幸福になりたいのなら……神の呪縛から解き放たれたいのなら、神を拒絶するのじゃ! さすれば、神の守護を受けられるやもしれん』
良蔵は、本当にわけがわからなくなった。
長老は「神に従え」と言っているのか、それとも「神に逆らえ」と言っているのか。そもそも、神を拒絶して、その神からの守護を受けるとは、どういうことなのか!?
『神は二つ存在する。一つは、この世界そのもの。それが霊祭で呼び出せる神なのじゃ。その神は予見した。もう一つの神が、人間を滅ぼしにやって来ると――』
「だから、そのもう一つの神とは、なんのことなんだ!?」
たまらずに、大声をはりあげていた。
得体の知れない圧迫感が、良蔵を緊張させる。
『それが本当の神……』
〈グウウ!〉
唸り声が大きくなった。
空気を濁らせる獣臭。
気配が動いた。
飢えた眼光が近づいてくる。
『その本当の神が人間に牙をむいたとき、それをわれわれは、《悪魔》と呼ぶ』