七・飛び交う火々の虫を見る。
「飛鳥、蛍を見に行かないか?」
もう雨は上がっていたが、湿気が立ちこめる夜に、泳魚はそう言った。月の明かりも雲の上に淡くあるだけの、暗闇の空。そんなに風もない静かな夜に蛍は舞う。
「蛍?」
飛鳥は急な申し出に聞き返してしまう。しかし、返事を待たずに泳魚は歩き始めていた。
「あぁ、兄ちゃん!」
河原の石たちが闇に湿って、かすかに輝いている。昼ならば苦もなく歩ける慣れた河原も、灯りの少ない夜には歩きづらい。雨露の涼気に混じり、不思議な霊気を肌に感じる。川の流れは穏やかで、月か何かが出ていれば、黒いシルクのように滑らかな色を乗せ凪いでいるだろう。今は蛍の灯りだけが、水面に淡くその光の筋を映している。
「たくさんいるな」
泳魚は言う。彼の闇に消えてしまいそうな透き通った肌は、淡く瑠璃の色に染まる。蛍光りの点滅にあわせるように揺らぐ泳魚の影。彼は無言のまま、さらに蛍の飛び交う闇のほうへ歩き出した。
「待ってよ」
飛鳥は慌てて追いかけ、白く細い腕をつかみ引き止めた。湿気た夜の空気に、草木の露に濡れた手は冷えている。まるで温かみを感じない肌である。しかし、飛鳥はこのひんやりとした体温に安堵する。飛鳥はぎゅっと力をこめる。その手、指、体温、全てがそこにある。
「どうした?」
泳魚は、いつものように微笑んでいるだけだった。
「待ってよ」
飛鳥はもう一度言う。
そう、声をかけなければ、呼び止めなければ、このまま蛍と一緒にどこかへ言ってしまうような気がしたのだ。泳魚は飛鳥が掴まっていない方の手で、そっと飛鳥の頭をなでた。
「飛鳥……」
蛍火は緩やかに羽ばたき、いつまでも光の粉を散らしていた。
「あいつは、いつだって飛鳥には甘い」
ハクアは家の生垣の上に座り、河原にいる飛鳥と泳魚の様子を見ていた。夜の闇の中でもハクアの目は関係なくよく見える。
「気楽なものだな、飛鳥は」
河原で無邪気に蛍を追う飛鳥を見て、目を細める。
「迷い込んだ、魂の煌き、か……」
眼前で舞うものたちを、ハクアは目で追いかけた。妖しい光を湛え、短い命たちが彷徨っている。
ハクアは白い尾を群れにそっと差し出した。白い毛並みが、灯りで透けるほどに白く浮かび上がる。一匹、また一匹と、蛍は優雅に円を描きながら飛び交い、宙を廻る星のようにハクアを囲みこんだ。
「あの雨男。奴がいる限り、この雲は晴れない」
蛍の星が照らす空、暗く沈んだ雲は重く、未練がましくそこに留まっている。
雲はまだ厚いが、その綻びが見え始めていた。ハクアの目にはそれが見て取れた。
「長い夏も、この揺らぐ空も、そろそろ終わりだ」
ハクアは、尻尾にとまっている蛍たちに語りかける。
「さぁ、在るべきところへ早くお帰り」
明滅する蛍の光り、水に映る揺らいだ灯りは、煌々と残像を残し宵の口が迫る川の向こう側へと、ゆっくりと列を成していく。蛍たちはその暗がりの中へ、吸い込まれるように、風景の中へと消えていった。