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三・水たまりに咲くは、花の魚。

 空を厚く覆う雲は街の灯に淡く色づいて、雲間からほんの少しのぞく夜空の闇色をほのかに染めている。覆う雲さえなければ、天の河があふれんばかりの光を湛えて、空を満たしていただろう。宙の海に夏の大三角形は浮かび、落ちてくる煌く星々の流れが、月の光が、地上に降りそそいでいただろう。

 しかし今年は空は見えない。降り注ぐものと言ったら、雨の粒ばかり。水の香りを含んだ大気が肌にまとわりついて、蒸し暑さだけはいつもと変わらない夏の空気。それだけが、かろうじて季節が夏であることを告げていた。

 今は雨は止んでいるが、長く雨が続いていたため、道には水たまりが残っている。昼と違って自動車が通っていない静かな道路に、飛沫を上げるものはなく、水たまりは穏やかに、重たい空を映していた。見上げた空も、それを映す水たまりも、同じ色に染まっている。

 飛鳥はその水たまりを弾きながら、右へ左へとせわしなく歩いていく。その後ろをハクアと泳魚はついていく。

「飛鳥、転ぶぞー」

「だ~いじょうぶ~」

 飛鳥はくるくると回り、泳魚の方を見る。

「早く、神社のお祭りに行きたいの」

「ははは、本当にまだまだ、子供なんだから」


 そのとき、静寂を破る音が水たまりを揺らしながら地上から放たれた。大気を震わす音と同時に円状の花火が散る。紅玉や翡翠のような粒が飛び、夜空に落ちていく。

「あ、始まっちゃったよ」

 大きな音と共に、第一発目の花火が空に上がったのだ。飛鳥は駆け出した。

「早く、早く!」

「そんなに急がなくても、歩きながらでも楽しめるぞ」

 高い障害物の少ない田舎の町は、空も充分広く、花火を邪魔するモノは少ない。さらに言えば、町で行われる小さな花火大会なので、人もそれほど多くはない。始まってしまっても、ゆっくりと花火を見られる場所は確保できるだろう。

「でも、早く近くで見たいの」

「はいはい」

 泳魚も仕方なく少し歩く速度を上げる。

「もう、何やってるの? 早く!」

 なかなか来てくれない泳魚に痺れを切らして、飛鳥は引き返してくる。足元の水たまりの飛沫を舞わせながら、水たまりに映る花火を散らしながら。

「早く早く!」

 夜の闇、そして次にやってくるほんの少しの花火の光、交互にやってくる中、世界が揺らめいている。

 鱗の羽が舞い、泡が覆う。飛鳥は泳魚を見た。泳魚は微笑みながら、手を差し出している。

「兄ちゃん?」

 漂う気配に飛鳥は、目をこする。

「飛鳥? どうした?」

 泳魚の言葉が飛鳥に届くと、世界の揺らめきは収まり、残像のように消えていく。

「なんでもない。気のせいだったみたい」

 泳魚の手をつかむと、飛鳥は歩き出す。

「早く行こうよ」


 花火は曇った空を彩り、星の代わりに空を照らし輝いていた。

 小さな花火大会の会場とはいえ、数軒のちょっとした食べ物の露店が出ている。人々はそれに列を作り、花火を見ながら自分の番を待っていた。あいにくの曇り空で、花火の美しさは最大限には発揮されていなかったが、それでも見上げる人々は花火が上がるたびに感嘆の声を上げている。

「ほら、カキ氷を買って来たぞ」

 泳魚は、木に寄りかかり花火を眺めている飛鳥にカキ氷を手渡した。

「ありがとう」

 飛鳥は赤く染まったカキ氷を、一口食べた。

 冷たい氷は、口の中で溶ける。

「おいしいね」

 苺シロップの雫のような花火が空を飾る。空を赤く染めたかと思うと、すぐに溶けなくなってしまった。


「ちらほら、人間じゃない人たちがいるね」

 飛鳥はだからといって特に気にすることもなく、彼らとすれ違っていく。

「こういう祭りは、彼らも好きなんだ。な、ハクア?」

「霊も人も似たり寄ったりだ」

 盆の時期、騒いでいるのは何も人だけではない。現世(うつしよ)幻世(まぼろよ)のあいまいなこの時期は何もかもが騒がしい。精霊、祖霊、亡霊といった、霊とつく名のモノたちも、にぎやかな場に紛れ込んでは祭りを楽しんでいるのだ。

 飛鳥と泳魚、もちろんハクアも、彼ら人ならざる者の姿が視える。たまに彼らの方も視られていることに気がつくが、だからといってどうということもない。お互い干渉しあわなければ、たいていの場合それ以上のことは起きない。特に用もないのに過度に接触してしまえば、ややこしくなる。例えば、突然に知らない人から馴れ馴れしく話しかけられたら、驚くだろう。時には、警戒されてしまうこともある。声をかけなければ、特に何もなく通り過ぎるだけなのだ。

 向こうの領域とこちらの領域を無駄に意識しすぎるのは、疲れるし面倒くさい。これはどの世界においても同じことだ。


 泳魚は飛鳥のほうを見た。飛鳥の顔が花火によって赤や緑の色に染まっている。

「飛鳥、君は……」

 泳魚は、花火に夢中の飛鳥に向かって言う。

「なあに?」

 飛鳥は首をかしげた。花火の音のせいで、泳魚の声は良く聞こえなかったのだ。

「……君は」泳魚は口を開きかけた。「……いや、何でもない、忘れてくれ」

「ん、うん」

 飛鳥は、空に輝く花火に夢中だった。


 空に響く音。橙の炎が再び夜空に放たれ、咲く火の花が空を彩る。散らす碧の波紋、流星のように飛び交う火、黄金の草が噴出して、空にも、そして、水たまりにも美しくあった。

「この空に、煌めくあの花火のように舞えたら、どんなに素敵なことか」

 泳魚は空を見上げ、そうつぶやいた。



 花火も終わり、飛鳥と泳魚は境内に並ぶ露店をめぐることにした。夜空の下、電球に照らされた露店の薄明るい光の中では、商品が雑多に山積みになっていると言うだけで、たくさんの露店が所狭しと並んでいるだけで、それだけで非日常的である。普段見かけるものでもどこか違うような、そんな不思議な雰囲気に染まっているように感じてしまう。

 少しくすんだ赤や青の布製の日よけが通りに沿って群れをなし、その露店はずっと遠くまで続いている。それが薄暗い境内の不思議な雰囲気と重なって、妖しい異界から来たような感覚に襲われ、気持ちは知らず知らずのうちに盛り上がってしまう。

「あ、金魚すくいだって」

 飛鳥は駆け出した。

「もう少し落ち着きがあると、良いのだが」

 露店に向かう飛鳥を見ながらハクアは言う。

「まぁまぁ、まだ子供なんだから」

「こういう日に、あんまり、うろちょろすると、別の世界に迷い込んでしまう」

 祭りの行われる場所は、この世界と違う世界の境界があいまいになる。特に境の内に存在する場所、神社の境内は、それが顕著に現れる。にぎやかな祭りの露店、露店からの間接照明で妖しく光る稲荷の像、像が見つめる境内の暗がり、暗がりの隅、ざわめき、そのゆらぎにそっと目を移せば、目に映るのは、現実の世界か、それとも、幻の世界か――

「大丈夫だろ、ハクア? 君が、そうさせないのだから」

「しかし、限度というものがある。最近は、誰かさんのせいで特に揺らぐ……」

「……分かっている。それはもう、充分に」

 泳魚は空を見た。厚い雲が今も風にゆっくりと流されている。その雲と風の合間に、夜は舞っている。

 ハクアは、ため息をつき、口を開いた。

「まぁ、飛鳥は常に片足、向こう側の世界に突っ込んでいるようなものだ」

「だから、飛鳥は君が見えてしまうのだろ?」

「その通り。しかし、お前も似たようなものだ。片足を突っ込んでいる先が、こちらの世界で……って、おい、聞いているのか?」

「飛鳥が呼んでる、行かなきゃ」

 泳魚は聞き飽きたとばかりに、飛鳥の隣へさっさと行ってしまう。ハクアは、再びため息をついた。

「だから、あいつは……」


 飛鳥は、その水の張られた水色のプラスチックの水槽を覗きこんでいる。水面に映る露店の明かりが、水と共に踊っている。水の中で泳ぐ金魚たちがその照明に照らされて、その赤みのある鱗がはっきりと金色に輝いていた。赤や黒の金魚は群れを成し、尾を振りながら悠々と泳いでいる。

 飛鳥の家では、少し前まで1匹の金魚を飼っていた。飛鳥が物心つく頃には、家にいた金魚である。小さな頃から、ずっと飛鳥と共に育ってきた。そこまで育つと、もはや金魚ではなく立派なフナのようであった。しかし、夏の訪れとともに死んでしまった。長く生きたから、もう寿命だったんだと、大人たちは言っていた。

「飛鳥は、金魚すくいしたいのかい?」

 泳魚は赤い魚をじっと見ている飛鳥にそう語りかける。

「わからない」

 飛鳥はそう、短く言った。

「家に金魚がいたんだ。最近、死んじゃったけれど。あの金魚も、こういうお祭りで、家へ来たのかな」

 今はもういない金魚を思い、飛鳥は言う。

「多分。……ずっと、昔にね」

 泳魚はそう言う事しか出来なかった。

 飛鳥は飽きもせず、ただただ揺れる水面を見ているだけである。

「あのうちにいる金魚、もしかして兄ちゃんが取ってきたの?」

「どうしてそう思うんだ?」

「だって……」

 飛鳥は泳魚を見上げた。泳魚は黙ったまま、飛鳥を見つめている。露天の明かりに照らされて、白い肌に黄色の光が揺れている。

「だって、兄ちゃんがあのからっぽの水槽を見るとき、本当に寂しそうな目になるんだもの」

 そうなのだ。今朝だって、泳魚は居間に置かれた空っぽの水槽を、うわの空で見ていたのだ。

 飛鳥は、泳魚の目を見る。黒い闇色に水面の光が揺れていた。まるで水の中にあるかのような揺らぎが見えた。その眼に泳ぐ赤い魚が優雅に泳いでいる。

「……金魚?」

 飛鳥は、瞬きをした。露店の金魚も瞳の金魚も、煌きを身にまとい、ゆらゆらと光りの中にあった。とても美しくあるその金魚たちは、飛鳥を誘うように、ゆっくりと手を伸ばす。

「おーい、飛鳥。どうした?」

 泳魚は、心ここにあらずな飛鳥に語りかける。

「え? 何? 兄ちゃん?」

 飛鳥は、はっと我に返る。

「どうした、オレの顔に何かついているのか?」

「ううん、何でもない」

 泳魚の瞳をもう一度見てみるが、もうその魚はいなかった。

「気のせいだったみたい」


「ところで、金魚すくいはいいのか?」

 どこからともなく現れたハクアは、飛鳥の背後から言う。

「ハクアの言う通りだ、飛鳥。いつまでも、金魚を見ているだけというわけにはいかない」

 店は混んでいるという訳ではないが、いつまでもここにいて、見ているだけでは、露店の人や他の客の邪魔になってしまう。

「ん、どうしようか迷っているんだよね。お祭りの金魚って、すぐに死んじゃうこと多いから……それだとちょっと悲しいかなって」

「確かに……(ここにいる金魚で、生き残れるのは、半分もいないだろうな……)」

 泳魚は目を細め、おびえたように隅っこへ集まっている金魚たちを見る。

 金魚は、露店の仄明かり(ほのあかり)にぼうっと映え、宝石のようである。水面付近で口を大きく開けて、くらくらしているように見える金魚たち。過密とも思える水の中、追われ、時には、紙でできた(ポイ)が破けて、そこから落とされているのだ。

「でも、どうせ飛鳥は、したいのだろう?」

 ハクアは、白い小さな牙を見せ、笑ったような表情を見せる。飛鳥は黙ったままだが、ハクアには分かっているのだ。飛鳥が金魚すくいをしたいということが。

 そうでなければ、金魚すくいに興味は持たないはずだ。すぐに死んでしまって悲しむかもしれないと思っても、やってみたくなる、それが金魚すくいの魔力なのだ。

 飛鳥はしばらく考えて、「やりたい」と、正直にそう答えた。

「じゃあ、オレがお金を店の人に渡す」

 そう言って泳魚は露店の人にお金を渡し、それと引き換えに金魚をすくうための網を受け取る。

「ほら、飛鳥。がんばれな」

 そして、泳魚は飛鳥に紙製の網を手渡した。

「ありがとう、兄ちゃん」

「せいぜい、がんばれ」

「うん、がんばるよ」

 泳魚とハクアの声援に意気込み、紙製の網を手にしっかりと持つ。水面下を泳ぐどの金魚に狙いを定めるのか、身じろぎもせず、食い入るように見つめている。飛鳥は意を決し、そっと、白い紙網を水の中に入れる。紙は水を吸い、瞬く間に薄灰色に変わっていく。

 水の抵抗が紙の部分にかからない様に注意しながら、飛鳥は金魚を追う。

「右だ。左だ。もう、トロいなぁ、飛鳥は」

 熱気のこもったハクアの声援が、頭上から絶え間なく聞こえる。

「ハクア、うるさいよ……」

 飛鳥は、集中できないでいた。

「ハクアも意外と子供なんだな」

 泳魚は、そんな様子のハクアを優しい笑みを浮かべながら見ていた。

「む、少なくとも、お前たちの数百倍は生きているぞ」

 ハクアは、そう反論する。

「ちょっと静かにしてよ」

 二人は静かになったので、飛鳥は再び集中し水中に網を入れる。少しの奮闘の末、泳ぐ方向に迷いが生じたのか、一匹の金魚の動きが鈍くなった。飛鳥はそれを見逃さなかった。すっと紙の網を金魚の下のもぐりこませ、水面まで持ち上げる。そして、すぐに水の少し入ったおわんに、紙の網に乗せた金魚を移す。

「一匹取れた」

 しかし、紙はふやけ、ちいさな穴も開いている。慎重にしなくては、すぐに破けてしまうだろう。

「落ち着いてすくえば、大丈夫だな」

「うん、がんばるよ」

 飛鳥は細心の注意を払いながら、再び水の中へ網を入れる。一匹の金魚に狙いを定め、うまく網の上へ誘導する。金魚の尾が、網に当たり紙は破けたが、間一髪、なんとか二匹目の金魚を、器にすくうことに成功した。網は大破し、水色の枠にほんの気持ち程度、へばり付いているだけであった。

 飛鳥は、枠だけになった網越しに魚とハクアを覗き見る。滴る水滴が、飛鳥の手を伝っていく。

「あぁ、すっかり、やぶけちゃったね」

「でも、二匹、すくえたな」

 ハクアはそう言って、器の中の金魚を眺めた。

「そうだね」

 すくった二匹の金魚を、透明のビニール袋に入れてもらう。透明なビニール袋の中、慣れない空間に、大きな目であたりを落ち着きなく見回している金魚たち。

「この金魚、うちの金魚のように長生きするかな」

「多分、大丈夫だよ、その金魚たち、戸惑っているけれど元気そうだし。二、三日、静かなところで休ませれば、きっと……」

「じゃあ、この金魚さんを、驚かさないようにそっと持ち運ばないとね」

 飛鳥は、金魚の入った袋を目の高さまで上げ、照々と煌やかに瞬く赤い鱗を、夢現な心地で見入っている。

「そうだ、オレが長生きさせるとっておきの秘訣を伝授しよう」

「本当? 帰ったら教えて」

 二匹の金魚を手に入れて、満足げなその表情の飛鳥を見て、泳魚はほほえましく、見守っていた。

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