二・波紋のように凪ぎ、
雲に見え隠れする太陽は南の空高く昇っている。暑さは最高潮に達し、蝉の宴も盛り上がっている。
「もう二時間は歩いているんじゃない?」
飛鳥は膝に手をつく。曇り空に遮られ、日差しの暑さは和らいでいるが、蒸し暑さは存在する。その中で山道を歩くのは辛いものがあった。
「まだ三十分も経っていないぞ」
飛鳥の前を歩いていた従兄は振り返る。
「迷ったとか、思ってないか?」
ハクアはからかうように言う。
「もう、迷うわけ無いじゃん、一本道なんだから!」
「はっはっは。二人は、見ていて楽しいな」
そんな様子を見て、泳魚は笑った。
川沿いの山道を歩いていると、二人の視界に青い橋が入ってきた。青色が所々剥がれ、赤褐色が除いている。この橋は少し上流の方にある鉄筋の橋が完成したら、無くなってしまう。
「この橋、無くなっちゃうんだよね」
飛鳥は先頭にたって橋を渡り始めた。橋の半分ほどを渡ると、川を見下ろした。
「ここも、ずいぶん変わっちゃったんだ」
川の土手は全てが灰色、左右対称で機械的だった。
「ほらほら、こんな所で止まらない、止まらない」
泳魚は後ろから声をかける。
「その通り、感傷にひたっている暇は無い。後ろがつかえている」
宙に浮かんでいて、つかえる要素の無いハクアまで言う。
「ハイハイ、分かりましたよーだ」
飛鳥はわざと早歩きを始めた。
橋から少し進むと、灰色のアスファルトの道から、土の地面に変化した。急な上り坂の路には、所々雑草が根づいていた。木々の合間から見える河原の石は角張り巨大なものが増えていく。
「あ、滝の音が聞こえる」
飛鳥は言った。
「とうとう幻聴を聞くようになってしまったのかい」
ハクアは面白半分に言った。
「む。確かに聞こえたんだよ」
飛鳥は自分の耳が正しいということを、示すため河原に降りた。
「ほら、やっぱり滝の音だった」
飛鳥の指差す先、そこには滝があった。その滝は『虹蜺の瀧』と呼ばれている。滝は遠くから見ると黒い岩肌と緑の森を縫いつけている白い糸のように見え、流れ落ちているという感じは受けない。しかし、近くから見ると全く違う印象を受ける。黒い岩肌と白い水しぶきの正反対同士の関係が押し寄せてくるのだ。それだけではない、とても晴れた日には突き出した岩岩に滝がぶつかり、しぶきを撒散らすと太陽の光を受け七色に輝くのだ。
「本当に綺麗だな。水しぶきの銀に、黒い岩肌に」
「ここでは、誰でも詩人になれるらしい」
ハクアはにやりと笑う。
「どうしてハクアはそう、兄ちゃんに突っかかるの」
「ふん」
ハクアはそっぽを向く。
「もう」
飛鳥はため息をつく。
「基本的に、精霊とかそう言う類のものは、身内以外の『モノ』とは関わろうとしないんだ。一応、オレは部外者なわけだし」
「そういうものなのかなぁ」
飛鳥は、あまり納得できなかった。
「飛鳥も、こっちにおいで。霧吹きみたいで気持ちいいぞ」
泳魚はしぶきが軽くかかるくらいまで近づいていた。
「遠慮しておく……」
飛鳥は首を振った。水に濡れるのは嫌だったのだ。
「まだ、水が怖いんだな……」
ハクアはそっと飛鳥にささやく。飛鳥は幼い頃、溺れたことがある。そのせいなのか、あまり濡れるのは好きではないのだ。
「前よりはましになったよ。プールでは泳げるようにもなったし」
飛鳥はひざをつき、水中の黒い岩肌に触れた。
「ほら、こうやって、覗くことも触ることもできるようになった」
樹の影が映った水は、差し込む光と合わさり、いっそう透き通って流れ布のように、柔らかい感じがした。水中の魚は光を反射して、黄金に輝いている。それは宝石箱のように見えた。
「あれ?」
飛鳥は一瞬、水の中に森の木々から漏れる光ではない何か煌めく赤を見たような気がした。
「飛鳥?」
泳魚は飛鳥を呼ぶ。
「その辺は滑るから気をつけて」
泳魚は飛鳥に注意する。
「えっ?」
泳魚の言葉に、飛鳥ははっとした。
「わわ」
飛鳥が足を置いた石は安定していなかった。石は飛鳥の足を乗せたまま、川のほうに滑り落ちた。右足の感じた水温は冷たかった。飛鳥は、慌てて足を水の中から出した。
「って、言うそばから」
「兄ちゃんが、急に声をかけるから、落ちちゃったんだよ!」
「そうか、悪い悪い」
泳魚は悪びれた様子もなく、駆け寄ってくる。
水面はもういつものように、変わらず緑の木々を映し揺らいでいた。
飛鳥は濡れた片足を見つめる。
「飛鳥、大丈夫か?」
ハクアは声をかける。
「う、うん、大丈夫。濡れたって、平気だよ」
しかし、飛鳥は水辺から離れた。
「どうして、兄ちゃんは滑らないの?」
泳魚は、滑りやすい河原を苦もなく歩いているように見えた。
「転びたくないから、地面を踏んで歩いてないんだ。地面さえ踏まなければ、すべらないだろ?」
彼は口の端をくいっと上げ、にぃっと笑う。
「もちろん冗談だが」
「もう、兄ちゃんったら……」
その時、「ぐぅ」と音が聞こえた。二人は、顔を見合わせた。そして、一斉に吹き出した。
「飛鳥、お腹鳴ったろ」
泳魚は、飛鳥の肩を軽く叩く。
「もうお昼だからな。よし昼飯を食べよう。これはお前の分」
「うん、ありがと。お弁当、持ってきてたんだ」
飛鳥は、泳魚が差し出した弁当箱を受け取る。準備のよさに飛鳥は感心する。泳魚のリュックに入っていたのは、水筒だけだと思っていたのだ。
「今朝、こそこそと作っていたからな」
全て見ていたハクアは言った。
飛鳥はお弁当の蓋を開けた。中には好物が入っていた。
「あ、卵サンドだ。いただきます」
昼食も食べ終わり、二人と一匹は滝を見ていた。見上げた空が木々の緑で隠されている。
「魚が滝を昇り、七色に輝く鱗を持つ龍となって、空に還るとき虹ができる」
「なにそれ」
「よく言うだろ? 滝を昇った魚が竜になると言う話」
「なんとなくは」
飛鳥は言った。
「ところで、一本だけの虹を見ると、寂しくならないか?」
泳魚は、ぽつりと言った。飛鳥は彼の思考についていけなかったので首をかしげた。
「何だそれ?」
「虹にはオスとメスがいるんだ。虹が二つで来たとき、濃くて鮮やかな主虹がオスで虹と呼ばれ、薄くて淡い副虹がメスで蜺と呼ばれている。だから、一本のときは、オスだけなのさ。さびしいだろ?」
説明口調で言う。
「そういうものかな?」
「飛鳥には、まだ早い話かな?」
「そんなことないもん!」
「さて、どうだか」
泳魚は、ニヤニヤと笑う。
「虹の雄雌で思い出したが、あの滝にはひとつ伝説がある。雄竜と雌竜が互いを慕って呼び合っている声が、時々しぶきの音に混じって聞こえると言う……」
ハクアは語りだす。
「へぇ、そうなんだ」
ハクアのその話に、飛鳥は聞き入っている。
「昔の人は、虹をとうてい美しいものとしては扱えなかった。実体のない滝の主に、不気味さと畏怖を持ってここを奉っていた」
水気の含んだ涼しい風と音が、時を流れていく。
「あれ? 飛鳥、何か言ったかい?」
突然、泳魚は辺りを見回しながら言う。
「な、何も言ってないよ」
「おかしいな? 声が聞こえたんだけれど……」
「き、気のせいじゃない?」
飛鳥は、息を飲んだ。さきほど、ハクアが言っていた話が本当なら、それは、龍の声と言うことになる。
「おかしいな? ほら、耳を澄ましてごらん、何か聞こえないかい?」
泳魚はさらに言う。
「本当に、聞こえないのか?」
ハクアは、にやりとする。
「ど、どういう意味?」
泳魚だけではなく、ハクアにまで聞こえたと言うのだろうか。
「ほら、飛鳥! 水の中から手が、青い手が!」
泳魚は叫ぶ。
「ひゃああ」
飛鳥は、泳魚にしがみつく。
「冗談だ」
泳魚は肩を震わせ笑う。
「もう、ハクアも兄ちゃんも、こういうときは、気が合うんだから」
飛鳥は、声を張り上げる。
「悪い悪い」
泳魚の笑いは、まだ止まらない。
「ちっ、良いところは、持っていかれたか」
ハクアは、そうつぶやいた。