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十二・夢に落ちる鳥は、赤い魚を追いかける。

 飛鳥は塗装のされていない土の道を走っていた。手には、お気に入りの小さなバケツを持って。

 道は夏の日差しのせいで、水分を失い硬くなってしまっている。整備された地面とは違い、足跡があちらこちらに残っていた。それは飛鳥の足よりも幾分か大きな足跡だ。数日前に雨が降ったときに誰かが歩いて出来た物なのだろう、足跡のふちは少し風化して滑らかに土の地面と同化していっている。かつて滅んでしまった太古の生物の化石ようなその乾いた靴底の跡は、向こうの川へ続いている。飛鳥はその足跡に自分の足を重ねながら、跳ねて駆けていく。

 川に着くと飛鳥は水面を覗いた。太陽の光に照らされて、曇りのない硝子のように淡々と透き通っている。飛鳥は川の底まで良く見えるその水を、玩具のバケツに汲んだ。そして飽きることなく、小さな水面に映る、移り変わる光彩を眺めていた。

 この揺らめく硝子は確かに澄んでいて綺麗だ。本物の硝子の破片となれば、触れれば柔らかい子供の指などすぐに切れて、赤い血が滲み出てしまうにちがいない。しかし、このきらめきの硝子は、指を傷つけることなく、川の水と混じってすぐに見えなくなってしまう。

 飛鳥は水の破片をすくっては、指の間から滴る滴の感触を楽しんでいた。


 ふと飛鳥が顔を上げると、太陽の日差しを遮る岩の陰に、鮮やかな赤い流れがあるのを見た。鮮やかな血のようなその流れは、まったく水に馴染んでいなかった。まるで紅玉でできているかのような明瞭な赤い色が、水の中にあった。

「あかい、さかながいる」

 どこかの家から逃げてきたのだろうか、岩陰に金魚が泳いでいた。夏の暑い日ざしのなかで、魚の赤い鱗は涼しげにそこに揺らめいていた。

 この手で、その魚を捕まえてみたい。飛鳥はそう思った。子供だけで川に入ってはいけないと、大人からは言われていたのだが、その凍ったように煌めく鱗をつかみたい欲求に、すっかりその約束は抜け落ちてしまったのだ。

 飛鳥は一歩、川に足を入れた。膝の下まで浸る冷たい川の流れが、夏の日差しで火照った肌に心地良い。音を立てないように歩こうとしたが、まだ幼い足取りは歩くたびに小さな白銀の飛沫を空に舞いあげてしまう。その音に魚が逃げてしまったのではないかと、岩の陰に目を向けてみたが、金魚はそこから動かないでいた。岩の暗がりに一匹揺らいでいるだけであった。

「こんなところで、ひとりは、さびしいから、おいでよ」

 飛鳥は金魚に語りかけた。しかし、もちろん金魚は何の反応も示さない。その場を動かない金魚を、両の手でそっとすくってみた。

 飛鳥は思い描いていた。濡れた鱗を激しくくねらせ、捕まえようとするその小さな指の間を軽々とすり抜ける感触を、そして悠々と水の中に戻る映像を脳裏に浮かべていた。

 しかし、捕まえられず何も無い手の平を想像していたのだが、予想に反して金魚は飛鳥の手の中に収まっている。それは決してその魚が弱っていると言うわけではなかった。金魚の尾が力強い様子で水を弾き、数滴の水が飛鳥の顔にかかったのである。金魚が元気な様子なので飛鳥は安心した。

「よかった、げんきみたい」

 飛鳥は手の平にある赤い金魚を、ずっと見つめていた。

 しかし、そうしている間に、飛鳥の手の平からはどんどん水が無くなっていく。ちいさな手の中では、水はそう長くはとどまっていることが出来なないのだ。いつしか手の平の水は無くなり、金魚は息苦しそうに口を何度も開けたり閉じたりしはじめた。

 水の中でしか魚は生きられないことを、飛鳥は絵本を読んで知っていた。なので金魚を一旦、水の中に戻そうかと考えた。この金魚を川に戻したら、金魚は遠くへ逃げてしまうだろうか。逃げてしまうのは悲しいが、飛鳥の手の上でこのまま死んでしまうのは、かわいそうだと、そう思った。

 飛鳥は決心し、金魚を川に静かに放した。金魚は川の本流へ向かうどころか、飛鳥の様子を見るように、ゆっくりと岩の陰から陰へと泳ぐだけであった。

 飛鳥はすっかりその金魚が気に入ってしまった。

「あすかのなまえは、あすかなんだよ」

 飛鳥は名前を名乗る。

「  」

 赤い魚は、口を動かした。


「ふしぎな、なまえだね。でも、あすかのなまえと、ちょっと、にているね。いっしょに、あそぼう」

 魚のヒレが動くと、水に映った自分の姿が歪む。飛鳥は、ただその金魚を追いかけていた。

 誰もいない一人だけの川遊び。魚を追いかけるのに夢中の子供が、いつの間にか川の深みの方へ向かっていることなど誰も知るはずがない。飛鳥は一人で、その川へやってきたのだから。

 その深い流れに捕まってしまったことなど、誰も気がつくはずがない。

 泡に満たされた水に包まれて、伸ばした小さな指の先には、青く染まった空の揺らめきと、銀色に震える同心円の世界が広がっている。いくらその水流をつかもうとしても、そこに何もあるはずがなかった。

(みずのそらを、あかい、あかい、さかなが、およいでいる)

 飛鳥の意識は、青に溶けていった。

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