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十・幻に流離う者。

 ハクアなら知っているかもしれない。そう思い立ち飛鳥は傘をさして、ハクアのいる場所へ向かう。そこは昔、白い狐が人々に示したという温泉が湧き出ている場所だ。歴史的に有名な場所であるが、朝が早いということもあり人の気配はない。

 覆うように常に湯気がたち、視界を狭め、その間から窺うように見える景色をも、うっすらと白で染めている。その世界の先にあるのは、現実の世界に似せた、もしかすると異界と呼ばれる場所なのかもしれない、そのような雰囲気を漂わせていた。

 飛鳥は慣れた様子でその微かに匂う温かな水蒸気をかき分けて、その奥にある祠へ向かう。そして、岩陰に小さくある祠の前で飛鳥はそっと呼ぶ。

「ハクア、いる?」

 木と石でできたこの古い祠は、ハクアの住処なのだ。

「ハクア、ハクア!」

 何度も名前を呼ぶ。

「そんなに、何度も呼ばなくても聞こえている」

 木の祠の暗がりから出てくる冷えた霊気は、大気に散っている。その不思議な白い霞は一カ所にあつまり、不定形でいびつな造形を作っていく。そしてそれは、風にそよぐ柔らかな毛並みとなり、濡れた石のようにつややかな瞳の形が開いた。

「探したんだけれど、兄ちゃんがどこにもいないんだ」

 飛鳥はハクアに説明した。泳魚の姿がどこにも無いことを。思い当たるところは探したけれども、見つからなかったこと、そして誰も彼のことを覚えていなかったことを。

「そうか、よかったな」

 ハクアはどこか興味なさげで、前脚を舐めひげを整えている。

「まさか、ハクアまで知らないって言うんじゃないよね?」

「そんなことはない。しっかり覚えている。人間たちと違って、どんなことも忘れることは無い。だから、やつはもういない。それで良いじゃないか」

「どういうこと?」

「……」

 その質問に、ハクアは口を開かない。

「ねぇ、ハクアってば! ハクアは、兄ちゃんがどこへ行ったのか、分かるの?」

「あいつのことは、忘れろ」

 どういうことなのかいくら問いただしても、黙ったまま何かを考えるように目をつぶっているだけであった。


「……どうしても知りたいのか?」

 やっと口を開いたものの、ハクアはやはりあまり乗り気ではないようだ。

「知っているんだね!」

 しかし、ハクアは答えず、再び黙り込む。

「ねぇ、ハクア?」

 飛鳥はじれったいと思った。どうして、こうもあやふやな態度をとるのだろう。もしかするとハクアにも泳魚の場所が分からないのではないかと心配になった時、ようやくハクアが口を開いた。

「やつは、もう向こうに……いや、まだ行っていないな」

「向こうって?」

「向こうは、向こうだ」

 ハクアは意味の分からないことを言う。どちらにしろ、居場所が分かっているのならば、教えてもらいたかった。

「すぐに行こう。場所教えて」

「……」

「どうしたの? はやく連れて行ってよ」

 しかし、ハクアは動こうとしない。何をためらうというのだろうか。

「どんな真実が待っていようと、飛鳥はそれを認めることが出来るか? 信じられるか?」

 ハクアは真剣な口調で、言う。

「……?」

「どうなんだ、覚悟は出来るのか?」

「覚悟?」

 ハクアはしつこいくらい、本当に良いのかどうか訊ねてくる。

 大げさな表現であるとは感じているが、一体何が待っているのだろう。それなりの心の準備が必要らしい。

「大丈夫、何があっても受け入れるよ」

 たとえ何が待っていようとも、飛鳥は進むことにしたのだ。

「あぁ、そう言うと思った」

 ハクアはため息をつきながらも、自分の住処から出た。

「どうなっても、知らないぞ」


 ハクアの足は裏庭に向かっていた。裏庭からは河原に出ることが出来る。昨夜この道を通って、蛍を見に行ったのだ。曇り空で朝早い時間の薄暗さとはいえ、夜の暗さよりは、はるかに明るく隅々まで見える。

「あとは自分の目で、耳で、探すことだ」

 ハクアにそう言われ、飛鳥は見渡してみるが、しかし人の気配はしなかった。人があまり寄り付かないその場所は、寂しさに満ち溢れていた。

「本当にいるのかな?」

「まずはよく視てみろ」

 ハクアは諭すように、飛鳥にもっとよく見るように促した。

 飛鳥は仕方なく、もう一度よく庭を見回した。細かい雨の粒が、岩にあたって白い靄が、温泉の湯気のように、視界を狭めている。

 湿った空気が木々の茂みを揺らし、雨に打たれて、水滴を滴らせている。風に雫が散り、白い砂利もコケの少し生えた黒い大きな石も、濡れて煌々としているだけであった。

「……何か聞こえる」

 どこからともなく聞こえてくるその呼び声に、飛鳥の心臓が、とくんと、力強く鳴る。

「向こうから聞こえる。……行ってみよう」

 濡れた庭石を駆け、小さな水滴の宝石で飾られた垣根を抜けて、河原へと続く道へ出る。木々の合間から見える川の流れは穏やかで、鏡のように平らで金属的だった。太陽の光がなくとも、そこには硝子の破片が輝くように乱反射していた。湿ったような厚い空気の流れ、のどの渇き。そこには存在しない嫌な感情だけを残して、ぼんやりとのど元に、しこりのようにそこにあった。


 空には雲、山は緑に覆われて、土の地面も木で出来た建物もいつもと変わらずそこにある。緑に覆われた谷間から立ち上る霞や、木々の合間からから見える空は、水墨画の世界のような霧吹きで造ったような白が漂っていた。木々の隙間から見える山間の町は灰色の雲に照らされて、同じ色に輝いているだけで、夏の湿った空気は雨の匂いを運び、草花から滴る甘い朝露の匂いがたち籠めていた。

 忘れかけていた記憶が、昔の記憶が、景色がうっすらと脳裏に映っているような気がした。川から吹いてくる水気の含んだ空気に、硝子のように透明な流れが肌に伝わり、飛鳥はそう思った。人気のない通りに、飛鳥は不安になりハクアの方を振り返る。

「なんだ? 帰りたくなったのか?」

 からかうように、笑みを浮かべた。

「ちがうよ」

「だろうな。何のことはない。ここは単なる河原への道だ」

 しかし、飛鳥は戸惑っている。見える景色は、いつもと変わらない光景である。しかし、自然も、建物も、風も、空気も、匂いも、時間も、全てのものの息吹が、あのどんよりとした空のように、重く深く停滞している。それらから漂う気配は、単なる無機物、単なる造形物(オブジェ)でしかないように、葉々のざわめく風のまにまに満ちていたのだ。

 飛鳥は一歩も動き出せず、ただ傘にあたる細やかな雨粒の弾けたその音色、夏の水気を帯びた風の渦に立ち尽くしていた。


 どれほどそうしていただろうか。視界の端で何かが動いたような気がして、飛鳥は目を細めた。川の対岸に何かいるようなのだ。河原の木の陰、暗がりの下にぼんやりと立っている人影を見つめた。それは見覚えのある後姿だった。

「あ! 兄ちゃん」

 遠くにあるその姿は、はっきりと捕らえることができた。

「そこにいたんだね」

 飛鳥は手を振る。しかし、泳魚は気がついていないのだろうか。ただ川の流れを見ているだけであった。

「今から、そっちへ行くから」

 飛鳥は川の淵に立って、水の流れを見た。透明な水は穏やかで、底の丸みを帯びた石は、深い緑色を生やし揺れていた。

「これなら、いけるかもしれない」

「あんまり無理はするな」

 ハクアは心配そうに声をかける。

「大丈夫、もう平気だから」

 飛鳥は意を決し足を一歩、川に入れる。冷たい流れは、一瞬、飛鳥の心に昔のおぼれた記憶をかすめたが、すぐに水は柔らかに飛鳥の足を包み込み、記憶の奥深くに流れ落ちていった。

 飛鳥はさらにもう一歩進む。浅いとはいえ、流れる水の中歩くのはうまくいかない。飛鳥はぬめった石に足をとられ、体制を崩してしまった。飛鳥は思わず、手にしていた傘を離してしまう。手元を離れた傘は、あっという間に、水の流れに乗って向こうの方へ流されてしまった。「あっ」と思い、傘を追いかけようとしたが、不安定な石に足を滑らせ、ついにしりもちをついてしまった。水の飛沫が散る音は鮮明に、あたりに響いた。

「これは、また数歩も行かないうちに、派手に転んだものだ」

 ハクアは飛鳥の頭上から声をかけた。

「……大丈夫だよ」


「ん? 飛鳥が派手に転んだものだから、奴が気がついたようだ」

 ハクアにそう言われ、飛鳥は泳魚の方を見る。飛鳥と泳魚の目が合った。光を反射した、水の揺らめきで染まった、彼の顔は微笑んでいた。泳魚の瞳は瞬き一つせずに、飛鳥を見つめている。

「……飛鳥?」泳魚の唇が、小さくそう動いたように見えた。

「あ、兄ちゃん!」

 びしょ濡れになりながらも、飛鳥は立ち上がる。

「そこで、何していたの?」

 そう尋ねた。

 しかし、泳魚はその質問に答えなかった。泳魚は何も言わず優しく微笑んでいた。彼のその笑みは、変わらず優しかった。彼の笑顔はいつもと変わっているはずが無い。

「あれは、兄ちゃん、だよね?」

 山からの静かな流れは、雨に揺らめき、その輝くモノたちから生まれた、夏色の結晶が揺らいている世界は、水の中のように見えた。

「こっちへおいで……飛鳥」

 飛鳥の耳に、泳魚の響くような声がはっきりと聞こえてきた。飛鳥は向こうへ行こうとするが、足は動かない。流れる水の中で凍ってしまったかのように、すくんでいる。

「いや、オレの方から、そっちへ行こう」

 泳魚が川を歩くたびに、水面(みなも)は揺れて、飛沫(ひまつ)の透き通った声音(こわね)が、氷雨(ひさめ)と響きあう。鈴を振るような声は、水声に溶けて、水泡(みなわ)に帰っていく。泡沫(うたかた)の雨は、まだ降りやまない。垂れ込めた雲から、大地の全てを濡らすように。

「……」

 飛鳥は川を歩く泳魚をただ見つめていた。泳魚の、その無表情な笑顔をただただ、見つめていることしかできなかった。


「どうして、ここへ来たんだ」

 泳魚は、その柔らかな気配を纏わせたまま、優しく問う。

「だって、朝起きたら兄ちゃんがいなくて……それに、誰も……知らなくて」

 飛鳥はうまく言葉に出来ないでいた。

「だから、ハクアに」

 かろうじて、もう一言絞り出すように漏らす。

「飛鳥がどうしても、と言うから」

 飛鳥と目が合ったハクアは、助け舟を出す。

「ハクアは、飛鳥には甘いな」

 泳魚は苦笑いをする。

「お前にだけは、言われたくはない」

 ハクアはにわかに顔を横にそむけた。ハクアと泳魚のそのやり取りは、仲が悪いようでいて、どこか許しあっている雰囲気を漂わせていた。

「来てしまったものは、仕方ない」

 泳魚はため息をついて、どうしたものかと腕を組んだ。いつもと変わらないその少し冷めたような泳魚の笑顔に、飛鳥はすっかり安心した。雨に憂いた川の緩やかな水の反射が、泳魚がもともと持っていた影のある雰囲気と混ざって、さらに蒼く翳りに揺れたのだろう。飛鳥はそう思った。


 泳魚はしばらく考え込んでいたが、何かを決意したように頷いた。

「飛鳥。君に大切な話がある」と、急に改まる。

 そして、飛鳥の肩にそっと手を添えて、澄んだ響きを持った声で囁いた。

「この何もかも映し出す水鏡は、真実を見せてくれる……」

 泳魚は静かに言い、川の流れをその瞳に映し出した。川は揺らぎに染まり、泳魚の白い肌も、さらに蒼白に揺れ、そよいでいた。

「飛鳥も見てごらん。水の鏡は、何を映し出すと思う?」

 最初、飛鳥は気が進まなかったのだが、泳魚の口から発せられるその言葉は、妙に心地よく、まるで魔法にかかったかのように、心の中に引っかかっていた氷を解いていく。言われるがままに、緩やかに流れる水面を覗きこんだ。

「その水に、映るのは何だろう?」

 水面に自分の顔が揺れている。何の変哲もない普通の流れだ。揺らぎ一つ無い水面に、空や木の影が明瞭に映って見える様子は、まるで鏡のようで。空と樹と地面の境界線は鮮麗に、空は雲に覆われて、揺らいでいた。水鏡に映る景色は、別世界のように幻想的で、木々は鮮明な緑をたたえ、鮮彩にありのままの姿でそこにある。

 しかし、飛鳥はその風景に違和感を感じた。そこには一人分の影しかその中に、揺らいでいなかった。

「あれ? おかしいよ?」

 飛鳥は泳魚のほうを見た。無表情であった彼の目が、はじめて感情に乱れたようすで、揺れ動いたように見えた。

「オレは存在していない……これは真実だ」

 かすかに震える唇は、確かにこう言ったのだ。

「そう……オレは、もともと存在していない。それが真実だ」

 機械的に、繰り返した。

「で、でも、そこに……」

 予想外の事態に、どうしてよいか分からず、飛鳥は動揺していた。

「それは飛鳥だから。まだ視える」

 ハクアが、そう付け加える。

「まだ、視える?」

 ハクアの言葉を、心ここにあらずといった虚ろな様子のまま、口の奥で何度か繰り返しつぶやいていた。

「ハクアの言う通り、飛鳥以外の人間には、もう感知されない。記憶さえも消えている。そして、もうすぐ飛鳥の目にも映らなくなる。記憶からも消えてなくなってしまう」

 泳魚はまだうつむいていた。水たまりに映った飛鳥を見つめながら、泳魚は小さくそう言った。

「どうして?」

 飛鳥は、泳魚の存在を確かめるように、飛鳥は泳魚の腕をつかむ。泳魚の細い体が、びくりと動く。雨に濡れた冷たい腕からは、ぬくもりは感じることはできなかった。しかし、確かにそこに存在していた。

「オレは……」泳魚は黙ったまま、顔を上げ、飛鳥を見つめた。

「……このまま、ここには居れない」

「だから、どうしてさ」

 泳魚は飛鳥のその質問には答えず、泳魚は無言のまま飛鳥に背を向けた。泳魚は黙ったまま、ただ(そら)を見つめている。

「黙っていちゃ、わからないよ」

「消えてしまっても、オレは、飛鳥を見守っているから」

 少しの沈黙のあと、泳魚は消えいりそうな声でそう言った。

「理由になっていないよ」

 要領を得ない泳魚の回答に、飛鳥は彼の腕を強く握り締めた。泳魚は少し顔をゆがめたが、すぐに笑むだけであった。降り注ぐ雨、黒い髪から滴る雫が、頬を伝っていくのが見えた。雨粒に濡れた草は、水の色に香っていた。

「……本当ならば、死んだ魂は、こんなにも長くとどまっていてはいけない」

 視線は飛鳥のほうに向けているのだが、意識がここにないといったように、独り言のように誰に聞かせるでもなく、泳魚はそう言った。

「死んだ?」

 そこに佇む泳魚の姿が風に揺らいで、景色に溶けたように見えた。肉体の器に収まらなくなった魂は、もうその時をただ待っているだけなのだ。

「ごめんな、飛鳥」

 泳魚も本当は、飛鳥と離れたくなかった。

「でも、そろそろ時間なんだ」

 泳魚に与えられた時間は、夏のほんの数日間。現と夢の境界があやふやになる盆の期間だけであった。少しでも、少しだけでも、一緒に過ごしたかったのだ。たとえそれが、幻の記憶なったとしても。

「うそだ」

 飛鳥は後ずさりする。

「そんなの、うそ、だ」

 後ずさった飛鳥の足元の石が、コトリと滑り落ちる。崩れる石、流れる深間に足をとられ、飛鳥はおもわずよろめいた。

「飛鳥!」

 泳魚は手を伸ばすが、それはとどかず飛鳥は川の淵にはまってしまった。

「飛鳥!」

 泳魚が再び叫ぶ。飛鳥の耳には、その声がとても遠くに聞こえた。

 水の流れる音は木々の揺れる囁きとなり、時が刻む静寂の空間を作り出す。天から滴る雫は、その下に広がる深い(あお)の中へしみこむ。天から降り注ぐ水は地へ流れ出て、すべてを満たし、再び天へ還る循環。その水面(みなも)は、すべてを映し出す、鏡。水は、母なる生命の液体(スープ)

 その透明な液体の中を、珠玉のように鮮やかな紅に染まる魚が、泳いでいた。

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