一・天井で揺れる木目は、
湿った空気は、ほのかな露の香りがする。
視線の先には木製の天井があり、無数の木目が波紋のように円を描いていた。それと重なるように光の反射したものが、その天井で水面のように波打ち揺れていた。
――まるで、水の底に沈んでいるようじゃないか。
夢の続きのような風景は完全な覚醒を妨げている。
夢か現実か。水中に揺れていた、細く白い腕。あの体温が全く感じられない冷えた柔らかな手。いつもつかめないでいるあの――虚をつかんだような、指の間に残る感触が蘇る。
目覚めたばかりで、気だるい意識の飛鳥は窓のほうに顔を向けた。窓は開いている。湿った空気の匂いが部屋に充満していたのは、そのせいだろう。
窓にかかった白い布が風を受け、からから波打っている。時折見せる布の隙間からは光の筋が漏れていた。その光は黄色に淡く、まだ朝の色を濃く残していた。
飛鳥はもう一度寝ようと寝返りを打つ。しかし、この重々しい湿った空気が気に入らなかった。
飛鳥は起き、窓に近づくと外を見る。灰色の雲間から何本もの太陽の光が地面を突き刺して、天を支えていた。
「今日は曇りか」
ここ数日、雨が降り続き、外で遊べぬ日が続いたのだ。今年は雨の多い夏だった。もう盆も始まろうとしているのに、空が青色の日を数えたほうが早かった。
そして今日もまた真夏の日差しは厚い雲の上になりそうだ、とはいうものの、雨よりは晴れているほうが断然良かった。飛鳥は天気によって気分が変わる性分だった。雨さえ降っていなければ、何も濡れないのだ。
窓の外から目を離し、再び部屋の中を見る。飛鳥の寝ていた場所の隣には畳まれた布団があった。
「兄ちゃんは、早起きなんだね」
兄と言っても血のつながった兄弟ではなく、従兄である。夏休みと言うことで、飛鳥の家に遊びに来ていたのだ。
飛鳥は自分に従兄がいることを、今年になるまで知らなかった。従兄は飛鳥よりも年が上で、飛鳥のことを昔から知っているようだった。しかし、飛鳥には彼との記憶はない。おそらくずっと小さい頃に会ったことがある程度なのだろう。
従兄の名前は「泳魚」と言う。不思議な響きの名前ではあったが、「自分は飛鳥だから、似たような名前だ」とも、その時は思った。そして、飛鳥には兄弟がいないこともあり、その嬉しさもあってか、名前ではなく「兄ちゃん」と呼ぶことにしたのである。
「今日は、兄ちゃんとどこかへ行こうかな」
飛鳥は従兄がいるであろう居間へと向かった。
飛鳥が居間に入ると、従兄の泳魚はテレビを見ていた。いや、テレビを見ているというよりは、どこか別の場所を見てぼんやりとしていた。
「おはよ」
飛鳥は元気よく言った。その声に反応して、泳魚は白い歯を見せにこっと笑った。半袖から細身の白い腕が覗いている。その肌の色は日に焼けた飛鳥とは対照的で、暑さとは無縁の色をしていた。色白と言っても、決して不健康な病弱な感じの青白い色と言うわけではなく、太陽の照る外に出ない、家の中で過ごすほうが好きな人間の肌の色だった。
「暇そうだね」
飛鳥は言った。
泳魚は少し遅れて頷いた。
「飛鳥の感覚にあわせると、暇な部類になるかもな」
彼はもう一度頷いた。
「どういう意味?」
泳魚のからかうような口調が気になった。
「つまりオレは暇では無かったということさ。考え事をしていたんだ、ぼんやりと」
「そういうのを、暇って言うんだよ」
「それは、飛鳥の感覚でだろう?」
にっと笑う。
「いじわる、へりくつだ」
泳魚は少し変わっている思考の持ち主なのだ。
「そういえば、あの狐は? 今日は見かけないな」
泳魚は言う。
飛鳥の家は古い温泉宿である。その宿の一角に白狐を奉っている祠がある。泳魚の言うあの狐というのは、その祠に昔から住み着いている白い狐のことだ。
飛鳥と泳魚の二人以外の者には見えないこの狐は、飛鳥が幼いころから、いや、飛鳥が生まれるずっと前から、そこに住んでいる。
飛鳥は、その狐をハクアという愛称で呼んでいる。狐の真の名は、現を生きる者には認識できない言葉で成り立っているので、名が呼べないことに不便を感じた飛鳥は愛称をつけたのだ。
「ハクアとは、いつも一緒にいるわけではないからね、どこにいるかまでは分からないや」
「そうか、いつも一緒にいるわけではないんだな」
「でも、近くにいると思うよ。ここの、この場所の守り神なんだから」
宿は年間を通して観光客で賑わっている。夏休みなど長期の休みがある時期は、大人たちは特に忙しく誰も相手にしてくれない。身近な大人たちは仕事で忙しく、昔から一人遊びばかりだった。しかも飛鳥の住む町は、過疎化が進んで同世代の子供も少なく、一番近くの友人の家は山を登ったところにしかない。そういう環境だったので、飛鳥は多くの時間を一人で過ごさなければならなかった。子供が架空の友人と遊ぶことはよくあることも手伝って、遊び相手が誰にも見えない白狐だったとしても、誰も気にしなかったのだ。
それに加えてハクアの方も、人の多い所をあまり好まなかったので、飛鳥が「何か」と遊んでいる姿を見ることも少なかったであろう。ハクアが他人には見えていない、ということに気がついた時期も早く、幸いにも気味悪く思われることはなかったのである。
「まさか兄ちゃんも見えるとは思わなかったよ」
今まで飛鳥にしか見えなかった、この秘密を共有できる人ができたことに密かに嬉しさを感じていたのだ。
「俺も同じさ。伝説の狐さまに会うことができるとは。さすが白狐旅館だ」
「……そう、この宿の血を引くものは、たまに視える人間が生まれる」
噂をすれば、現れる白狐のハクア。
「飛鳥は間違いなくこの地の加護を受けている」
「きたな、狐の」と、泳魚は言う。
「まぁ、君も加護を受けていることには違いない」
ハクアは目を細める。ハクアはなぜか泳魚と一定の距離を置いているように見え、打ち解けようとはしなかった。
「どうして、こう、ぎくしゃくしているのかな」
飛鳥はため息をつく。
「仕方ないさ。オレは従兄といえ、この地で生まれた人間ではない。この土地にそぐわない変な匂いでも、染み付いているのだろう」
「そう言うものなのかな」
「まぁ、飛鳥も喜んでいる。多少は我慢してやる。なにせ飛鳥の『従兄』だしな」
そう言うとふいっとそっぽを向き、またどこかへ消えていってしまう。相変わらず自由気ままである。
「さすが、白狐様は心が広い」
泳魚は苦笑いした。
「ところでさ。今日は久々に雨が降っていないからどこかへ行かない? 曇っててあいにくの天気だけれど、山とか川とか綺麗なんだよ」
飛鳥は泳魚に一つの提案をする。
「ほほう、それはぜひ行ってみたいな」
「じゃあ、ハクアも連れてさ、行こう!」
飛鳥はハクアと泳魚に仲良くなって欲しかったのだ。
「今から行くのは良いが。寝巻き姿の奴は、さっさと着替えた方がいい」
泳魚はそう指摘した。飛鳥は自分が寝巻き姿ということに気が付いた。
「すぐ着替えてくる」
飛鳥は慌てて部屋を出ていった。
「まだまだ、子供だな」
彼はくすっと笑った。
泳魚は窓を開け目をつぶった。風に乗ってやってくる瀧のしぶきの音が彼には微かに聞こえていた。この温泉から見える山の中腹にその瀧がある。しかし、瀧があるといっても、木々の合間から見えるというだけで、全容を見るには山を登らなくてはいけない。
「着替えてきたよ、さぁ行こう!」
飛鳥はやる気満々だ。
「朝ごはんは? 飛鳥はまだだろう? もちろん食べてから行こうな」
「むぅ」
飛鳥は、再び部屋を出て行く。
「朝から元気だな」
泳魚は微笑んだ。
「そうだ、滝につく頃にはお昼になっているだろう。弁当、準備しておいてやるか。宿の人に、適当におにぎりかパンでももらって」
その後について泳魚も、部屋を出ていった。