夫の幼なじみが雷を怖がると言って、彼は一晩中そばにいた。私が胃癌の末期で、一人で一晩中血を吐いていたのに
「蓮、あの人とは離婚するって約束したよね。いったいいつまで待たせるつもり?」
白石清香から届いた離婚を催すメッセージを、今月に入って九十九回目に目にした時、とうとう我慢の限界が来た。神崎蓮のスマートフォンをつかみ、そのまま床へ叩きつける。画面には蜘蛛の巣のようなひびが広がった。
浴室から出てきた蓮は、床に散らばった破片を一度見ただけだった。怒るでもなく、私を責めるでもなく、壊れた端末を拾い上げてSIMカードを抜き、予備のスマートフォンに差し替える。そして清香に短い返事を送った。
「もうすぐだ」
それだけ済ませると、使い物にならなくなった端末をゴミ箱の横へ置いた。
蓮は知らなかった。その頃の私は、すでに進行胃がんを患っていた。
あの時はまだ、自分たちの結婚がどんな形で終わるのか知らなかった。
すべてはそこで終わったと思っていたのに、死んだ私の前に現れたのは、「人生再起動システム」と名乗る奇妙な存在だった。
そして、もう一度生きる機会を与えられた。
今度こそ、私は神崎蓮を選ばなかった。
1
蓮と初めて出会ったのは、私立青凪学園高等部だった。
二年生の時、席替えで偶然隣になった。成績がよく、容姿も整い、家柄まで申し分ないのに、当時の蓮は誰に対してもそっけなかった。彼に憧れている女子は多かったけれど、実際に話しかけられる人はほとんどいなかった。
そんな彼の隣の席になったのが、私だった。
授業中にうとうとしていれば、ペン先で教科書を軽く叩いて起こされる。朝には、なぜか一つ余分に買ったパンが私の机に置かれていることもあった。数学でつまずけば、蓮は私のノートを引き寄せ、面倒そうな顔をしながらも途中式から書いてくれた。
一緒にいる時間が増えるにつれ、学校で噂されている神崎蓮と、私が知っている蓮は別人なのではないかと思うようになった。
ある日、友達から一通の手紙を押しつけられた。
「美羽、お願い。隣の神崎くんに渡してくれない?」
仕方なく受け取り、そのまま蓮へ差し出す。
蓮は封筒を見下ろしたあと、私の顔を見た。
「美羽って俺のタイプじゃないけど……まあ、せっかく書いたならもらっとく」
「待って、それ私じゃ――」
ちょうどそこで始業のチャイムが鳴った。授業が終わったあとも先生に呼び止められ、その日は結局、誤解を解く機会を失ってしまった。
振り返れば、あれが私たちの最初のすれ違いだったのかもしれない。
蓮は何をしても人目を引く人だった。
一方の私は、父親が賭け事で多額の借金を作り、母と二人でその家から逃げるように出てきた子どもだった。暮らしに余裕があったわけでもなく、学校ではなるべく目立たないように過ごす癖がついていた。
けれど、蓮だけは私の家庭事情を理由に態度を変えなかった。
だから高校三年になった頃には、もう彼のことが好きになっていた。
ただ、蓮のそばにはいつも清香がいた。
二人は幼い頃からの知り合いで、家同士の付き合いも長い。明るくて華やかな清香は昔から人気があり、二人が幼なじみだというだけで、周囲は勝手に特別な関係だと決めつけていた。
清香は時々、蓮の教室まで朝食や旅行土産を持ってきた。
私が何となくお菓子を見ていると、蓮は何のためらいもなくこちらへ押しやる。
「食べたいなら食べれば?」
そんな些細なことだけで、一日中機嫌よく過ごせた。
あの頃の私は、本当に単純だった。
蓮が十八歳になった日。
私はようやく、自分の気持ちを伝える決心をした。
けれど、その日に蓮は自ら命を絶とうとした。
青凪中央病院へ駆けつけると、病室の前には神崎家の人たちが揃っていた。私を見るなり、なぜここにいるのかと冷たく聞かれた。
その数日前、清香が海外へ行くことを決めたらしい。
だから周囲は、蓮が清香との別れに耐えられず自殺を図ったのだと思っていた。
その話を聞いた瞬間、手の中にある告白の手紙がひどく滑稽なものに思えた。
最後に病室の小さな窓越しに彼の姿を見ただけで、私はその場を離れた。
間もなく転校の手続きを済ませ、青凪市からも離れた。
それからしばらく、蓮は何度も電話をかけてきた。
一つ番号をブロックすれば、別の番号からかかってくる。最後には耐えきれなくなり、私は番号そのものを解約した。
大学に入ってからの四年間は、思っていたより穏やかだった。服飾デザインを本格的に学び、新しい友達もできた。
それでも夜になると、ときどきネットで蓮の名前を検索した。
写真に写る彼は、年を重ねるほど無表情になっていった。
けれど、私には関係のないことだと思おうとした。
清香のためなら命まで捨てられる人にとって、私はいったい何だったのだろう。
2
大学三年の終わり頃から就職活動を始め、四年の春にはいくつかの企業の選考を受けていた。その中の一社が、神崎ホールディングス傘下のファッション関連会社だった。
選考の日、四年ぶりに蓮と再会した。神崎家では翌年の株主総会を前に後継体制の話が進み、蓮も大学時代からグループ各社で実務を経験していたらしい。そのうえ親族からは、取引先との縁談まで持ち込まれていた。
面接自体は何事もなく終わった。
ところが会社を出ようとしたところで、知らない番号から着信が入った。
蓮だった。
「仕事とは別に話したいことがある」
そう言われ、近くのホテルラウンジで会うことになった。
蓮は向かいの席で、左手首につけた赤い組紐の腕輪守りを指先で弄んでいた。
高校時代、周囲では清香から贈られたものだと思われていた。
蓮が顔を上げる。
「美羽。一年間だけ、俺と結婚してほしい」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「久しぶりに会って最初に言うことがそれ? 結婚って、そんな簡単に決めるものじゃないでしょ」
「来年の株主総会までは、親族が勝手に進めてくる縁談を止めたい。結婚していれば、それで済む」
「それで、どうして私なの?」
「お互い昔から知ってるし、余計な期待もしないで済む。俺にとっても美羽にとっても、その方が楽だろ」
少し間を置いて、蓮は条件を口にした。
「報酬は三千万円。婚姻届を出した時点で一千万円、約束どおり一年間結婚を続けたら残りの二千万円を払う。生活費は俺が持つ。必要な時だけ夫婦として振る舞ってくれれば、それ以外は干渉しない」
私はその話を受け入れた。恋愛に期待したからではない。断れるほど余裕がなかった。
四年前、母は私に会いに来る途中でひき逃げ事故に遭った。
一命は取り留めたものの、神経や下肢に重い後遺症が残り、それ以来ずっと入院とリハビリを繰り返している。長期の療養や介護にかかる費用は少なくなかった。
母のために使えるお金が必要だった。
六月、私たちは婚姻届を提出し、小さな結婚式を挙げた。
神崎家の姓を選んだため、戸籍上の名前は神崎美羽になった。ただ、デザイナーとしてはそれまでどおり藤原美羽の名前を使い続けた。
蓮のお母さんは私をとても可愛がり、式の日には自分が姑から受け継いだ真珠のネックレスを首にかけてくれた。後になって何度か返そうとしたけれど、蓮は受け取らなかった。
「母さんが美羽に渡したものだろ。俺が返してもらうものじゃない」
幸せなのか不幸なのか、自分でも分からなかった。ただ、十七歳から好きだった人と、本当に結婚してしまった。
結婚から三日後、清香がInstagramに幼い頃の写真を投稿した。
海辺に立つ、子どもの頃の蓮と清香。添えられていた言葉は一つだけだった。
「すれ違い」
写真はすぐに芸能系アカウントからXへ転載され、数時間もしないうちに、清香は夢を追うため初恋を諦めた女性、私は幼なじみ二人の間に割り込んだ妻という扱いになっていた。
スマートフォンを蓮へ差し出す。
彼は画面を一度確認した。
「俺が処理する」
その夜には、特に拡散されていた投稿のいくつかが削除された。それでも初めて、この結婚を受け入れたこと自体が間違いだったのではないかと思った。
その後の暮らしは、意外なほど平穏だった。
私は高校時代に蓮が好きだった料理を今でも覚えていたし、蓮も私の生活習慣をよく知っていた。
ある休日、目を覚ますと午前十時を過ぎていた。
ベッドの横には蓮が立っている。
「美羽、高校の時に授業中ずっと寝てたの、誰が起こしてやってたか覚えてる?」
「蓮」
「じゃあ、どうして今日は俺を起こさなかったんだよ。もう十時なんだけど」
「珍しく寝坊してる蓮を見てみたかったから」
蓮はねぎが苦手で、私はパクチーが嫌いだった。外で食事をすれば、店員に聞かれる前に相手の苦手なものを口にしてしまう。
そんな時だけは、本当の夫婦になれたような錯覚を覚えた。もしかしたら蓮も少しくらいは私を好きなのではないかと、期待までしてしまった。
しばらくして、私が手がけた服のデザインが海外ブランドの目に留まった。
アルヴィアで行われる共同企画に招かれ、出発の準備をしていると、蓮は隣で延々と口を出してきた。
「向こう寒いだろ。厚手のコートは? 薬も持った? 最近また胃の調子悪いって言ってたよな。着いたら連絡して」
「そんなに心配なら、蓮もスーツケースに入っていけば?」
冗談のつもりだった。
翌日、蓮は本当に同じ飛行機に乗っていた。
アルヴィアの街を二人で歩いているところを現地メディアに撮られ、日本では新婚旅行のように報じられた。その記事を見ていると、本当に普通の夫婦になれたような気さえした。
けれど、その夜、また清香からLINEが届いた。
「どうして美羽と海外にいるの? 私が帰ってくるのを待つって言ったよね」
「考えすぎるな」
「じゃあ、いつ離婚するの?」
「もうすぐだ」
画面を上へスクロールすると、清香から送られてきた日常の話と何度も繰り返された通話履歴が並んでいた。二人の関係は、一度も途切れていなかった。
浴室の扉が開いた。
濡れた髪のまま出てきた蓮が、私を見る。
「何してるの? ちょっと髪乾かして」
慌てて端末を元の位置へ戻し、ドライヤーを手にした。
それでも指先はずっと上の空だったらしい。
蓮が何度かこちらを振り返った。
「美羽、今日どうした?」
日本へ戻ったあと、二人で神崎家の実家へ行った。
お義母さんは私の好きな料理を用意して待っていてくれた。
「美羽、おかえりなさい。今日は好きなものばかりにしてもらったのよ」
蓮が昔使っていた部屋には、高校の体育祭で撮った私たちの写真が今も飾られていた。長距離走で一位になったあと、無理やり私を呼んで撮った一枚だ。
何年も経っているのに、写真は昔と同じ場所にあった。もちろん、清香と一緒に写った写真も残っていた。
夕食の席で、お義母さんが子どもの話を始めた。
私は黙って箸を動かす。
蓮は少し眉を寄せた。
「母さん、そういうの急かすなよ」
その横顔を見ながら、私は考えてしまった。
私と蓮の間に、本当に子どもができる未来などあるのだろうか。
二十五歳の誕生日、蓮は青凪港沿いの小さな会場を貸し切り、海の上に花火を上げてくれた。背後から両目を覆われる。
「願い事、一つくらいしてみたら?」
目を閉じた。好きな人にも、私を好きになってほしい。あの頃の私は、そんな願いを本気で信じていた。
3
結婚一周年の日、清香が正式に日本へ戻ってきた。
蓮は夜には戻ると言っていた。私はレストランを予約し、ささやかな贈り物まで用意していたのに、時間だけが過ぎていった。
やがてXに写真が流れてきた。
高級レストランで食事をする蓮と清香。清香は親しげに彼の腕へ手を回している。
同じ頃、私のスマートフォンには蓮からこんなメッセージが届いていた。
「急な仕事が入った。帰りは遅くなるから待たなくていい」
しばらく、写真とメッセージを交互に眺めた。
会いたいなら、会えばいい。
どうして私に嘘までつくのだろう。
少しして、今度は清香本人から写真が送られてきた。
二人で写った一枚。
文章は何もない。
それでも、何を見せつけたいのかは十分伝わった。
深夜零時を過ぎてから、ようやく蓮が帰ってきた。
ベッドに入り、後ろから私の腰に腕を回す。
「ごめん」
何について謝っているのかは聞かなかった。
翌朝、蓮は早くに家を出た。
昼頃には、昨夜ネットに出ていた二人の記事はほとんど消えていた。
結婚してからも、私はフリーのデザイナーとして仕事を続けていた。
契約時の約束は、お互いの私生活へ口を出さないこと。必要な家族行事や仕事上の場面だけ、神崎蓮の妻として振る舞えばいい。
その日の夕方、蓮は珍しく早く帰ってきた。
「清香が戻ってきたこと、変に気にするなよ」
「心配しなくていいよ。私たち、最初からそういう約束だったでしょ」
しばらくこちらを見ていた蓮が、小さなジュエリーケースを取り出した。
中には、先月のオークションで高値がついていたネックレスが入っている。
私はケースごと彼へ押し返した。
「高すぎる。受け取れないよ」
「美羽は俺の妻だろ」
法律上は、確かにそうだ。
だからこそ分からなくなる。
妻が私なら、清香は彼にとって何なのだろう。
清香はその後も、意味深な昔の写真をInstagramに上げた。
週刊誌や芸能メディアでも、蓮と一緒にいる姿を何度も撮られていた。
一度なら偶然で済む。
何度も続けば、誰も偶然だとは思わない。
そんな時期に、私は初めて血を吐いた。
洗面台に落ちた赤を見つめながら、指先の震えが止まらなかった。
けれど、病気そのものを知らなかったわけではない。
数か月前、すでに進行胃がんだと告げられていた。
治療を続けても楽観できる状態ではない。今の進行速度なら、残された時間は半年程度かもしれないと医師から聞いていた。
誰にも話していなかった。
蓮との契約も、もうすぐ終わる。
残りの二千万円と自分の貯金を残せば、母の療養や介護をしばらく支えられるはずだった。
それからも、蓮とは何事もないように暮らした。
ネットには数日おきに蓮と清香の記事が出た。世間では、平凡な家の出身である私がいつ神崎家から追い出されるのかと面白がられている。
私はその陰で、何度も病院へ通った。
そんな時、相沢直哉が日本へ帰ってきた。
高校時代の先輩であり、当時の蓮がなぜかひどく嫌っていた相手だ。
美術部で相沢先輩と一緒に活動した日は、教室へ戻ると蓮の機嫌が決まって悪かった。二人が顔を合わせても、どこか張りつめた空気になる。
私はずっと、単純に相性が悪いのだと思っていた。
海外で経験を積んだ相沢先輩は、日本で自分のファッションブランドを立ち上げるため戻ってきた。
久しぶりに二人で食事をすることになった。
「先輩が日本に戻ってくるなんて、なんだか嬉しいです」
「自分のブランドを始めるんだから、戻ってこないわけにいかないだろ。美羽も手伝わない?」
「私なんて、まだフリーで細々やってるだけですよ」
「だからいいんだよ。軌道に乗ったら、クリエイティブを任せたいと思ってる」
話している途中で、レストランの入口に見覚えのある二人が現れた。
蓮と清香だ。
どうかこちらへ来ませんように。
そう願った時には、すでに清香が近づいていた。
「美羽、偶然ね。今でも相沢先輩と連絡を取ってたんだ?」
清香の腕は、当然のように蓮の腕へ絡んでいる。
「白石さん。その人、今は私の夫なんだけど」
蓮は黙ったまま私を見る。
相沢先輩だけが目を丸くした。
「美羽、結婚してたの?」
私が答えるより先に蓮が口を開く。
「少し前に。連絡できなくてすみませんでした」
清香は空気を察したのか、ほどなく蓮を連れて離れていった。
食事のあと、相沢先輩に家の前まで送ってもらう。
別れて中へ入ると、リビングには蓮がいた。
普段ほとんど吸わない煙草を手にしている。
「自分が結婚してることくらい、少しは意識したら?」
「分かってる。自分で考えるから」
それが気に入らなかったのか、蓮の表情がさらに険しくなった。
「相沢にはずっと『先輩、先輩』って親しそうにしてたくせに、俺にはずいぶん他人行儀なんだな。誰が夫なのか忘れた?」
「私たち、契約で結婚しただけでしょ」
どうして蓮がそこまで不機嫌になるのか、私には分からなかった。
話を続ける気にもなれず、寝室へ戻った。
後ろから蓮が名前を呼んでいた。
4
医師から、残された時間はあまり長くないと言われた。
病状が急に変わらなければ、蓮の二十六歳の誕生日までは何とか間に合いそうだった。
そう考えて、少しだけ安心した自分がいた。
私はずっと、蓮に言っていないことがある。
十八歳の時、彼が自殺を図ったあと、私は青凪市郊外にある白鷺神社へ何度も通った。
お百度参りをしながら願ったのは、一つだけ。
どうか蓮が目を覚ましますように。
どうか、無事に生きていてくれますように。
最後に授かったのが、赤い組紐の腕輪守りだった。
蓮がずっと左手首につけているものだ。
けれど、いつからか周囲では清香が贈ったものだと思われるようになった。清香自身も、腕輪守りをつけた蓮の写真をInstagramへ投稿したことがある。
そこには「無事でいてね」とだけ書かれていた。
私は一度も訂正しなかった。
相沢先輩が帰国後に開いたブランドの展示会へ招待された。
そこで蓮に会うとは思っていなかった。
どうやら取引先に同行していたらしい。
私と相沢先輩が話しているのを見て、蓮は露骨に不機嫌そうな顔をした。
数分後、LINEが届く。
「結婚してるんだから、相沢とそんなにくっついて話さなくてもいいだろ」
本当なら聞き返したかった。
なら、蓮と清香はどうなの。
結局、送ったのは短い返事だけだった。
「分かった」
しばらくして、清香が大型ドラマの地方ロケへ入った。
神崎グループの関連会社も製作委員会に参加していたため、蓮も仕事で撮影地へ行くことが増えた。
山間部では電波が不安定らしく、一日連絡がつかない日もあった。
そして、そんな時期に蓮の誕生日が来た。
朝からケーキを焼いた。
メッセージを送っても返事はない。
夕方にはまた体調を崩し、ようやく落ち着いた時には時計の針が零時へ近づいていた。
高校時代の誕生日を思い出す。
十七歳の蓮が、ふいに聞いてきたことがある。
「美羽、俺の誕生日の願い事、知りたい?」
もちろん、知りたいと答えた。
「これから先の誕生日も、ずっと美羽が一緒にいてくれたらいい」
日付が変わってから、蓮はようやく帰ってきた。
テーブルのケーキを見た瞬間、足が止まる。
「清香が誕生日を祝うって言うから、向こうにいた。電波が悪くて、美羽のメッセージに気づかなかった」
私はろうそくを片づけた。
「もう時間が経ってるから、ケーキは食べなくていいよ。今日は休むね」
「美羽、ほかに何も言わないの?」
「誕生日おめでとう。今日は本当に疲れたの」
部屋へ戻ったあと、また病状が悪化した。
その夜、ようやく実感した。
死はもう、遠いところにあるものではない。
医師からは、いくつかの治療方法を提示されていた。
中には保険適用外の治療もあり、時間を少し延ばせる可能性はあるものの、費用も大きい。
同じ頃、母のリハビリや今後の介護について、医療ソーシャルワーカーからも連絡を受けていた。
後遺症は重いものの、根気よくリハビリを続ければ改善の可能性があるという。
だったら、残せるものは母に残したいと思った。
幼い頃、父の借金取りが家まで来た時も、母はいつも私を後ろへ隠してくれた。誰にも望まれていないと感じていた子どもの私を、必死で守ってくれたのは母だった。
だから今度は、私が母を支えたい。
蓮には、蓮の人生がある。
私がいなくなっても、きっと生きていける。
5
浴室の前で、蓮が何度も扉を叩いていた。
返事をする余裕がなく、しばらくすると扉が開く。
私は血の跡をまだ片づけられていなかった。
その光景を見た蓮が、その場で動きを止めた。
あんなふうに取り乱した顔を見るのは初めてだった。
「何があった?」
「大丈夫」
「これのどこが大丈夫なんだよ。病院に行く。俺が連れていく」
蓮が上着を手にした瞬間、スマートフォンが鳴った。
清香からだった。
撮影現場で転んで怪我をしたらしい。
蓮は数秒だけ迷った。
そして結局、清香のもとへ向かった。
扉が閉まる音を聞きながら、不思議と肩の力が抜けた。
知られない方がいいのかもしれない。
残された時間の中で突然優しくされても、それが愛情なのか、罪悪感なのか、もう考えたくなかった。
蓮の二十六歳の誕生日が過ぎ、一年間という約束の期間も終わった。
離婚届は、証人欄まで必要なところをすべて埋めてあった。あとは蓮本人の署名だけだった。
何度か離婚の話を切り出した。
「蓮、離婚しよう」
「今は忙しい。また今度にして」
毎回、似たような返事で話を終わらされた。
どうやら蓮も、私の様子がおかしいことには気づき始めていたらしい。
私が頻繁に病院へ通っていることまでは調べたようだった。
けれど、病名までは分からなかった。
そんな時、清香から会いたいと連絡が来た。突然の呼び出しに嫌な予感がして、店に入る前からスマートフォンの録音をオンにしておいた。
待ち合わせたカフェで、清香は隠そうともせず私を見下すような笑みを浮かべていた。
「蓮から聞いてる。二人は最初から契約結婚だったんでしょ? 綾子さんが蓮に身を固めてほしがってなかったら、美羽が神崎家に入ることもなかったよね」
言い返す気にもなれなかった。
すると清香は、さらに声を落とした。
「今でも、お母さんをひいた車のこと調べてるの?」
顔を上げる。
「どういう意味?」
「あの日、あの車を運転してたの、私。……でも、今さら証明できる?」
清香は、当時の証拠がすべて消えていると信じていた。
けれど私は何年も探し続けていた。
事故現場付近の店の映像はとっくに上書きされていたものの、当時その道を通りかかったドライバーが、事故直後の映像をネットへ投稿していた。そこには、現場から走り去る車と、そのナンバーがはっきり映っていた。
そして今、清香本人が「あの日、車を運転していたのは自分だ」と口にした。その声も、スマートフォンには残っている。
立ち上がり、清香の頬を叩いた。
「今のは母の分。証拠は警察に出す。もう逃げられると思わないで」
背後から声がした。
「美羽、何してるんだ?」
振り返ると蓮が立っていた。
清香はすぐに目を潤ませ、蓮のそばへ寄る。
その変わり身の早さに、もう呆れる気力すらなかった。
蓮は険しい表情のまま、清香を連れて店を出た。
二人の後ろ姿を見ても、腹立たしさすらあまり残らなかった。
怒ることにも体力がいる。
今の私には、その力さえ惜しかった。
その後、相沢先輩へ連絡した。
会ってすぐ、USBメモリを渡す。
「先輩、この資料は警察に提出するつもりです。でも、もしその前に私が動けなくなったら、代わりに持っていってください。母のひき逃げ事故に関する資料が全部入っています」
相沢先輩が眉をひそめた。
「何かあったらって、どういう意味?」
もうごまかす気力もなかった。
「胃がんなんです。もう長くないって言われてます」
言い終える頃には、立っていられなくなっていた。
相沢先輩は何も聞かず、そのまま私を病院へ連れていった。
数日間、入院することになった。
治療中は電話に出る余裕もなく、蓮から何度も着信が残っていた。
相沢先輩は、ほぼ毎日顔を出してくれた。
その姿を見ていると、ときどき考えてしまう。
十七歳の時、好きになった人が蓮ではなかったら、私の人生は違っていたのだろうか。
けれど、もう過去を考えている時間はなかった。
契約の残り二千万円を受け取る。
母が治療とリハビリを続けられるようにする。
そして清香には、あの事故の責任を取ってもらう。
今の私に必要なのは、それだけだった。
蓮はしばらく家へ帰っていなかった。
仕方なく、神崎ホールディングスの本社まで出向く。
受付の女性は私を知らなかった。
「申し訳ありません。ご予約がない場合は、お取り次ぎできません」
「神崎蓮の妻の美羽と申します。取り次いでいただけますか」
近くにいた社員が、小声で話しているのが聞こえた。
「神崎さんの奥さんって、この人なんだ」
「白石清香との記事、ずっと出てるよね」
「奥さんも大変そう……」
気にする余裕はなかった。
蓮のいる部屋へ入り、離婚届と契約書を机の上へ置く。
「一年終わったよ。離婚届に署名して。それと、残りの二千万円も契約どおり清算してほしい」
蓮の表情が冷たくなる。
「そんなに俺と離婚したい?」
「最初から決めてたことでしょ」
蓮は乾いた笑いを漏らした。
「そんなに急いで金を受け取って、相沢とどこかへ行くつもり?」
「何の話?」
「まだ離婚もしてないのに、病院であいつに抱えられてたじゃないか。ずっとこの日を待ってたんじゃないの?」
「私をつけてたの?」
「そんな暇あるかよ。清香の薬を受け取りに行った時、たまたま見ただけだ」
もう説明する気はなくなった。
清香の薬を取りに行く時間はあるのに。
妻がなぜ病院へ通っているのかは、考えもしなかったのだろうか。
最終的に、残りの二千万円は振り込まれた。
それでも蓮は、離婚届には署名しなかった。
6
それから蓮は、ほとんど家へ帰らなくなった。
浴室で大量の血を見たことについても、改めて聞いてくることはなかった。
ある日、蓮の秘書をしている佐藤拓也さんから電話が来た。
高熱が続き、蓮が入院しているという。
迷った末に粥を作り、病院へ持っていった。
私を見た蓮は、少し驚いた顔をした。
「どうして来たの?」
「佐藤さんから連絡をもらったから。具合が悪いって聞いて」
保温容器を置こうとしたところで、手をつかまれた。
「美羽、離婚したくない。このまま一緒にいてくれないか」
「嫌」
指先に力が入る。
「どうして? 本当に相沢が好きなの?」
「蓮には関係ないでしょ」
長い沈黙のあと、蓮は低い声で言った。
「美羽が好きなんだ。いなくなってほしくない」
返事をするより先に、病室の扉が開いた。
清香が慌てた様子で入ってくる。
「蓮、入院したなら教えてよ。ずっと心配してたんだから」
私はその場を離れた。
蓮は昔からそうだった。
私に好きだと言いながら、清香との距離をきちんと整理することだけはしなかった。
高校時代の大晦日もそうだった。
一緒に青凪港の年越し花火を見ようと約束していた。
ところが家を出る直前、清香から連絡が入った。
「美羽、ごめん。清香がどうしても話したいことがあるって。今度は絶対一緒に行くから」
結局その夜、私は一人で花火を見た。
離婚届は相変わらず署名されないままだった。
それから半月ほど経った頃、今度は蓮の方から話があると言ってきた。
「美羽。離婚しよう」
ようやくその気になったのかと思った。
「清香が体調を崩してる。でも、治療を受けようとしない。俺が昔の約束を果たしたら病院へ行くって言ってる」
蓮は一度言葉を切った。
「先に離婚しよう。そのあと清香が治療を受けるようになって、それでも美羽が嫌じゃなければ……その時にまた、これからのことを考えたい」
笑うしかなかった。
これだけ時間をかけて、ようやく離婚を受け入れた理由さえ清香だった。
「蓮。離婚したら、私はもう蓮とは結婚しない」
長い沈黙があった。
「……好きにすれば」
翌日、二人で青凪市役所へ離婚届を出しに行くことになった。
私は結婚指輪を外し、テーブルへ置いた。
「幸せになってね」
家を出たあと、不意に母校へ行きたくなった。
青凪学園の古い中庭には、大きな楠がある。
私たちが在学していた頃は、文化祭になると生徒たちが願い事を書いた短冊を枝へ結んでいた。
高いところへ結ぶほど願いが叶う。
そんな噂が、当時は本気で信じられていた。
十七歳の蓮は、私の短冊を奪い取った。
「美羽の身長じゃ全然高いところに届かないだろ。貸して」
梯子を使って、わざわざ上の方へ結んでくれた。
何年も経った今、あの頃の短冊などとっくに残っていない。
それでも楠の下に立つと、高校生だった蓮の姿を思い出した。
「美羽って、本当に鈍いよな。何にも分かってない」
十七歳の私は、その言葉の意味を知りたかった。
今はもう、どうでもいい。答えのなかったことは、そのまま過去に置いていけばいい。
校門を出て少し歩いたところで、急に視界が暗くなった。
次に目を開けた時には、集中治療室にいた。
一番に来てくれたのは相沢先輩だった。
海外の病院にも問い合わせると言い、ほかの治療法も探そうとしてくれた。
「もういいです、先輩。私、疲れました」
病状はいつ急変してもおかしくないらしい。
医師からは、今後の治療方針について家族や緊急連絡先と確認したいと言われた。
けれど、母はまだ療養中だ。
父親がどこにいるのかも分からない。
その夜、相沢先輩は私の手を握ったまま、初めて自分の気持ちを口にした。
「美羽、今さらだって分かってる。でも俺は、ずっと前から美羽が好きだった。まだ治療を続ける気が少しでもあるなら、俺が一緒に行く。国内でも海外でも、どこだっていい」
泣いている先輩を見ながら、返事をする力も残っていなかった。
ただ、一つだけ強く思った。
もし本当に次があるなら。
自分を大切にしてくれた人の気持ちを、もう無駄にはしたくない。
その後、消化管からの大量出血を起こし、緊急手術が決まった。
入院時の緊急連絡先には、まだ蓮の名前が残っていた。
その頃、蓮は青凪市役所で私を待っていた。
病院から電話が入る。
「神崎さんでしょうか。奥さまの神崎美羽さんの容体が急変しています。至急、病院までお越しいただけますか」
蓮はすぐに市役所を飛び出したらしい。
結局、意識があるうちに顔を見ることはなかった。
何も分からなくなる直前、誰かが何度も謝っている声だけが聞こえた。
蓮の声だったような気がする。
けれど私はもう、十七歳の頃のように彼を慰めることができなかった。
少し前に、短い手紙を書いていた。
「清香と幸せになってね。さようなら。蓮が私にしたことを全部返すのは、たぶん一生かかっても無理だと思う」
あの頃の私は、本気で思っていた。
これから先、蓮が私を思い出すたび、自分が何を失ったのか思い知ればいい、と。
7
「神崎美羽さん」
真っ暗な空間に、淡い光を放つ画面のようなものが浮かんでいた。
「私は人生再起動システムです。あなたの前の人生は終了しました」
何を言われているのか理解できない。
私は死んだはずだった。
システムは淡々と続ける。
「あなたの死後、相沢直哉が残された資料を警察へ提出しました。白石清香は過去のひき逃げ事件について再捜査を受け、その後起訴され、実刑判決を受けています。現在も服役中です。神崎蓮はあなたの葬儀後、長い間生活が荒れ、公の場にもほとんど姿を見せなくなりました」
あまりにも現実味がなくて、むしろ笑いそうになった。
「それで?」
「二つの選択肢があります。高校時代へ戻って人生をやり直すか、新しい身分を得て同じ世界へ戻るか」
ほとんど迷わなかった。
「二つ目で」
もう一度十七歳に戻り、同じことを一から経験したいとは思わない。
「承認しました。新しい身分に必要な記録はこちらで用意します」
再び目を開けた時、私は神崎美羽ではなくなっていた。
新しい名前は、朝倉希美。
顔立ちは以前の私によく似ているものの、別人として通る程度には変わっていた。
設定された経歴では、海外で活動していた若手ファッションデザイナーだ。
日本へ戻った直後から、私の顔は少し話題になった。
ネットには「神崎蓮の亡くなった妻に似ている」という投稿まで現れた。
それを見ても、笑うしかない。
せっかく人生をやり直せるのに、また蓮を中心に生きるつもりなんてなかった。
それから一年、ほとんどすべてをデザインへ注ぎ込んだ。
コンペに参加し、新しいコレクションを発表し、ブランドとの仕事を増やしていく。
一年後には、いくつかの新人賞を受賞し、ようやく業界でも朝倉希美の名前が知られるようになった。
年末のデザインアワードで、蓮と再会した。
記憶の中にいる彼より、ずっと疲れて見えた。
この一年で急に年を取ったようにさえ感じる。
清香が刑務所にいるからなのか。
それとも、神崎美羽が死んだからなのか。
ステージで挨拶をしている間、私はなるべく彼の方を見なかった。
母は昔、人は目で嘘がばれると言っていた。
それでも授賞式が終わると、蓮は私を見つけた。
「朝倉さん」
足を止める。
少し離れたところから、蓮がこちらを見つめていた。
「昔、よく知ってた人に似てる。……もう亡くなったけど」
「そうなんですね」
蓮は何か言いかけたが、結局そのまま口を閉じた。
ちょうどそこへ相沢先輩がやってきた。
さりげなく私と蓮の間へ入る。
「希美、行こう」
相沢先輩は、この世界で唯一、私が誰なのか知っている人だった。
生まれ変わった話をした時は、自分でも信じてもらえるとは思わなかった。
けれど長い沈黙のあと、先輩が聞いたのは一つだけだった。
「じゃあ、本当に美羽なんだな」
それからも変わらず接してくれた。
そして今は、私に好意を伝えてくれている。
蓮はあの日以来、仕事を理由に私へ接触するようになった。
食事に誘われたり、イベント先で待たれたりする。
明らかに何かを確かめようとしていた。
私はそのたびに距離を取った。
「神崎さん、奥さまはもう亡くなっているんですよね。私をその人と重ねるのはやめてください」
相沢先輩から、母の近況を聞いた。
私の死後も治療とリハビリを続け、今では杖があれば一人で歩けるまで回復したらしい。
介護施設を出て、青凪市郊外の青樫町で暮らしているという。
どうしても顔が見たかった。
遠くから眺めるだけのつもりだった。
道の反対側から母を見つめる。
以前よりずっと年を取っていたけれど、自分の足で歩いている。
玄関前で箱を持ち上げようとして身体がぐらついた瞬間、考えるより先に走り出していた。
「危ないですよ」
身体を支える。
母が顔を上げた瞬間、息を呑んだ。
「ありがとう……」
私の顔を見つめたまま、少しずつ目が潤んでいく。
「あなた、娘に本当によく似てるの。今、一瞬だけ帰ってきたのかと思った」
声を出したら泣いてしまいそうだった。
そこへ、まさか蓮が現れた。
私が死んでから、罪悪感から時々母の様子を見に来ていたらしい。
最悪のタイミングだった。
帰りは蓮が車で送ると言い出した。
強く拒絶する理由も思いつかず、助手席に座った。
車が走り出してしばらくすると、蓮が何でもないように話し始めた。
「妻とは高校で知り合った。大人しくて、ちょっと鈍いところがあって」
こちらをちらりと見る。
「朝倉さんは、高校どこだった?」
「海外です」
答えた瞬間、右手で左の手首をつかんでいた。
自分でも気づかなかった癖だ。
蓮が低く笑う。
「それ、美羽と同じなんだよ」
「何のことですか?」
「嘘をつく時、いつも右手で左の手首をつかむ」
指先が固まった。
蓮の目が細くなる。
「この前の食事でも、紙ナプキンの角を小さな三角に折ってた。美羽も緊張すると、昔からずっとそうしてた」
心臓が大きく跳ねる。
「美羽。俺には分かる」
必死に平静を装った。
「神崎さん、亡くなった奥さまと私を混同しないでください」
けれど蓮の目から疑いが消えることはなかった。
8
いくら否定しても、蓮は私が美羽だと確信しているようだった。それからというもの、何かと理由をつけて仕事場へ現れる。
一方、相沢先輩も自分なりのやり方で距離を縮めてきた。
「希美、一週間で一番嫌いな曜日っていつ?」
「月曜日です」
それ以来、毎週月曜になると花が届いた。嫌いな曜日を少しでも楽しみに変えたかったらしい。
初めてその花を見た蓮は、分かりやすいほど不機嫌になった。
「美羽、その花、相沢から?」
「神崎さん、私は朝倉希美です。奥さまはもう亡くなっているんでしょう? 私をその人と重ねないでください。誰から花をもらおうと、誰と食事をしようと、あなたには関係ありません」
翌日から蓮まで花を送るようになった。薔薇やかすみ草、チューリップと毎日種類は変わったけれど、一度も受け取らなかった。
電話も同じだった。番号をブロックすれば別の番号からかかってきて、高校時代や結婚生活のことを何度も持ち出す。それでも、もう心は揺れなかった。
相沢先輩と食事へ向かう途中、不意に聞かれた。
「希美。本当にもう、蓮のこと好きじゃない?」
「正直、自分でも分かりません。でも、もう一度蓮を選ぶことだけはありません」
大晦日、今度は相沢先輩と青凪港へ行った。その年のカウントダウンイベントには神崎グループも協賛している。
ドローンショーの終盤、夜空に突然文字が浮かんだ。
――美羽、愛してる。
周囲がざわめき、「そんなに奥さんを愛してたんだね」と誰かが言った。
胸に浮かんだのは感動ではなく、皮肉な気持ちだった。本当に大切なら、病気で弱っていく妻を何度も置き去りにはしなかったはずだ。別の女性との関係を曖昧にしたまま、今さら愛していると言われても信じられない。
また蓮から電話が鳴る。
「明けましておめでとう」
「神崎さん、私、今デート中なんです。もう電話しないでください」
そのまま切った。
二十六歳の誕生日、相沢先輩が正式に気持ちを伝えてくれた。豪華な演出もなく、仕事場の床に二人で座り、周りには描きかけのデザイン画が散らばっていた。
「希美。過去を忘れてほしいとは言わない。前の人生で俺に申し訳ないと思ったからって、付き合ってほしくもない。今の希美が、今の俺と一緒にいたいと思ってくれるなら、付き合ってほしい」
うなずいた。死ぬ前の美羽の後悔を埋めるためではない。今の朝倉希美も、直哉という人を好きになっていた。
家へ戻ると、入口の前に蓮が立っていた。
「本気で相沢と付き合うの?」
「私のことだから」
翌日、大きな荷物が届いた。名前を書き間違えた教科書、私が折った紙の星、体育祭のメダル。どれも高校時代のものだった。
メダルを手にすると、三千メートル走の日を思い出した。一位でゴールした蓮が最初に受け取った飲み物は清香からのものだった。
立ち去ろうとした私を追いかけ、蓮はメダルを差し出した。
「これ、美羽にやる」
「清香にあげれば?」
「美羽にあげたいんだよ」
その時は受け取らなかったのに、いつの間にか私の引き出しに入っていた。
箱の底には、十七歳の私へ宛てた手紙があった。
美羽へ。
こういうことを書くのは得意じゃない。でも、あの手紙をあんなに真剣に書いてくれたなら、ちゃんと返事をした方がいいと思った。
美羽に会うまで、誰かを好きになることなんてないと思ってた。でも、美羽が隣の席になってから変わった。
俺と付き合ってくれない?
あの日の「ラブレター」への返事だった。ただ、その手紙を書いたのは私ではない。
十七歳の美羽は、この返事を読むことがなかった。今の朝倉希美にも、もう必要のない答えだった。
その後、蓮から一度だけ母校へ行きたいと言われた。
再び楠の下に立つと、蓮は長い間枝を見上げていた。
「十七歳の時、俺が書いた願い事、美羽と一緒にいられますようにって書いたんだ。美羽はずっと知らなかったけど」
十七歳の私なら、泣いて喜んだかもしれない。
「蓮。結局、何が言いたいの?」
「愛してる」
聞いても、胸は高鳴らなかった。
「じゃあ、清香とのあの何年は何だったの? 私が二人の間に入ったのか、清香が私たちの結婚に入ってきたのか。それすら分からないのに、どうして今さら愛してるなんて言えるの?」
蓮は答えられなかった。
「ここまでにしよう。蓮の気持ちは、もういらない」
9
直哉と付き合うようになって初めて、恋人の顔色ばかり読まなくてもいいのだと知った。私がデザイン画を直している時は、直哉も隣で自分の仕事をする。忙しい日が続いても拗ねたり、愛情を確かめようとしたりしない。
少しずつ「自分なんて」と考えることも減り、朝倉希美としての仕事にも自信を持てるようになった。
翌年、二人でアルヴィア国際デザインウィークへ参加した。授賞式のあと、直哉は少し震える手でリングケースを差し出した。
「希美、俺と結婚してくれる?」
「はい」
直哉の目が赤くなるのを見て、高校時代を思い出した。美術部の部長だった彼は、一人で服のデザインを描いていた私の絵を見て、初めて真剣に褒めてくれた人だった。
「藤原さん、すごくいい。ちゃんと才能あるよ」
三年生の途中で海外へ行ったあとも、連絡は完全には途切れなかった。あの頃の私には、こんな未来が来るなんて想像もできなかった。
結婚式の前日、蓮が交通事故を起こした。ほとんど減速しないまま道路脇へ衝突したらしいが、幸い脳震盪と軽い外傷で済んだ。
一度だけ病院へ行った。
「本当に相沢と結婚するの?」
「うん」
「美羽」
首を横に振る。
「私はもう、昔みたいに蓮を待ち続ける美羽じゃない。もう蓮を愛することはできない」
長い沈黙のあと、蓮は小さく笑った。
「じゃあ……幸せになれよ」
結婚式の日、蓮は会場の一番後ろにいた。近づいてくることも、声をかけることもない。
一度だけ彼を見て、それから前を向いた。
翌年の夏、私と直哉の間に娘が生まれた。名前は相沢雛。
ある日、雛が高校時代の古い箱から一枚の紙を見つけた。
「ママ、これ何て書いてあるの?」
薄くなった文字で、こう書かれていた。
――美羽が好き。
文化祭の罰ゲームで「普段は言えない本音」を書いた時の、蓮の紙だったらしい。
「大事な人?」
「昔は大事だったのかも。でも、もうずっと前のことだよ」
ちょうど帰ってきた直哉のもとへ、雛が駆けていく。二人を見ていると、胸の奥が静かに満たされた。
それからしばらくして、蓮が重い病気だと聞いた。
雛を連れて青凪中央病院へ行くと、病棟裏の庭にいた蓮は前よりずっと痩せていた。
「おじさん、具合悪いの?」
「ちょっとね」
雛は少し考えたあと、蓮を抱きしめた。
「じゃあ、早く元気になってね」
蓮は驚いたように固まり、やがて私を見た。
「昔、考えたことがある。俺と美羽に娘がいたら、どんな子になるんだろうって。……結局、見られなかったけど」
「病気、どうなの?」
「たぶん、もうそんなに長くない」
末期の胃がんだった。高校時代、朝食を抜くたびに小言を言ったことや、面倒そうに聞き流していた顔まで妙にはっきり浮かんだ。
もう強い怒りはなかった。残っていたのは、名前のつけにくい淡い寂しさだけだった。
それが、蓮と会った最後の日になった。
その年の冬、蓮は亡くなった。
葬儀の日、直哉と一緒に見送りへ行き、墓前に向日葵を置いた。高校時代、蓮が私を向日葵みたいだと言ったことを思い出した。
振り返ると、髪がほとんど白くなった綾子さんがいた。涙をこらえられなくなった私の肩を、直哉が抱く。
「泣きたいなら泣けばいい。俺がいるから」
翌日、蓮が生前に書いた手紙が届いた。
美羽へ。
十八歳の時、俺が死のうとしたのは清香が海外へ行ったからじゃない。祖母が亡くなったからだ。子どもの頃から育ててくれた祖母を失って、生きる理由までなくしたと思っていた。
最初に俺を見つけて助けを呼んだのが清香だった。それからずっと、自分はあいつに命を借りていると思っていた。恩と恋愛感情を区別できないまま、本当に大事にしなきゃいけなかった人を傷つけた。
赤い腕輪守りのことも知っていた。美羽が白鷺神社でもらってきてくれたものだって、分かっていた。
六歳の頃、月影町の路地で飴をくれた女の子がいた。高校で美羽を見た時、すぐにあの子だと分かった。美羽は覚えていなかったけど。
たぶん、俺が思っていたよりずっと前から美羽が好きだった。十八歳の俺はそれを言えず、大人になった俺は自分の手で愛していると言う資格を失くした。
美羽を一度失って、もしやり直せるなら今度こそ失いたくないと思った。でも、相沢と一緒にいる美羽を見て分かった。
償うっていうのは、連れ戻すことじゃない。手放すことなんだと思う。
雛ちゃん、すごく可愛かった。美羽に似てた。
美羽、ごめん。これで、本当に最後にする。
手紙を折り直し、封筒へ戻した。
昔ほどの悔しさは、もう残っていなかった。聞けなかった説明も、遅すぎた謝罪も、長く引きずった二人の関係も、ここで終わらせられる気がした。
蓮は私を愛していなかったわけではない。ただ、自分の気持ちと向き合うまでに、あまりにも時間がかかりすぎた。
今の私は、もう彼の愛を証明してもらう必要がない。
もし本当に次があるのなら、今度はお互い、もう少しだけ勇気のある人間でいられたらいい。
キッチンから直哉の声がする。
「希美、ご飯できたよ」
続いて、雛の明るい声が響いた。
「ママ、早く手を洗って! 今日はママの好きなものばっかりだよ!」
目元に残っていた涙を拭い、明かりのついたダイニングへ向かう。
今度こそ、振り返ることはなかった。
(完)




