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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

『奈落に落ちた最強の監視官、月下の聖女に拾われて「やり直し」の剣を振るう』

作者: 楠木
掲載日:2026/04/03

 空が、燃えていた。

 綺麗だな、とセリアは思った。思ってから、自分が何かおかしいと気づいた。あれは村だ。人が住んでいた場所が、今も燃えている。家畜の焼ける死臭と、爆ぜた木々の煙を吐き出しながら、崩れ落ちている。それなのに、綺麗だと思った。

 赤と黒が混ざり合い、引き裂かれた煙が重たい空気となって喉にこびりつく。その下を、兵士たちが無言で行軍していた。誰も空を見上げない。絶望に飽きたのか。あるいは、見ることすら禁じられているのか。十三歳のセリアには、まだその判別がつかなかった。

 おかしい。熱くない。

 肺に入ってくる空気は、むせかえるほどの熱気を含んでいるのに。私の肌は、その熱を正しく受け取ることができていない。あの火はすぐそこに見えるのに、頬に届く温度だけが、どこか遠い。

 いつからだろう。自分の体が、だんだんと自分ではなくなっていくような感覚。日に日に増していくその「欠落」を、セリアは誰にも報告せず、ただ胸の奥に閉じ込めていた。報告すれば何かが変わる。けれど、それが良い方向へ変わる想像なんて、どうしてもできなかったから。

 行軍の足音に合わせて、左手首の呪紋がドクドクと不快に脈打つ。日焼けした肌を侵食するようにへばりついた、どす黒い紋様。

 ――守護印もどき。

 セリアが心の中でそう呼ぶそれは、精霊に選ばれた証などではない。ただ、彼女という『器』を縛るための、肉に食い込んだ鉄の鎖だ。隣を歩く男が指先一つ動かせば、セリアの体は意思を無視して凍りつく。戦闘能力を上げるためにつけられたものだと説明はされたが、セリアにとっては、自分という動物を縛るための首輪にしか思えなかった。

 隣を、ヴァルトが歩いている。歩幅の広い彼に置いていかれないよう、セリアは半歩早足で泥を蹴り続ける。それでも彼は、速度を変えない。背中を向け、ただ前だけを殺気立たせて歩く。

 セリアは、ヴァルトのことが怖かった。

 この男の怖さは、怒鳴り声や暴力とは違う。表情が、変わらないのだ。人を斬る時も、飯を食う時も、セリアを見る時も。いつも、同じ顔をしている。孤児院にいた頃から知っていた。感情の読めない人間が、一番怖い。何をされるかわからない。驚く暇もなく、すべてが終わってしまうから。

「――止まれ」

 声の意味を理解するより先に、足が地面を掴んでいた。命令が、思考を追い越して肉体を支配する。自分が自分のものではない絶望を、あきらめとともに痛感させられる。

 茂みの向こう。刺すような殺気が一閃した。セリアが術式の一節目を口にした、その瞬間――。

 隣から、爆音のような風圧が吹き抜けた。

「あ……っ!」

 視界が揺れる。ヴァルトが、消えていた。

 一直線の踏み込み。銀閃が夜気を一文字に断ち、短い呻きと金属音が一度だけ重なる。それで、終わった。セリアの紡ぎかけた詠唱は、行き場を失って夜の空気に溶ける。彼女が魔術を放つより、ヴァルトが命を奪う方が、あまりに早すぎた。

 ヴァルトが戻ってくる。剣を鞘に納めながら、こちらに視線を向ける。それは生きているか確かめる目――いや、手入れの行き届いた『兵器』の生存を確認するだけの視線。

「問題ないか」 「……はい」

 それだけの言葉。機械的な行軍が、再開される。

 ――ただ、踵を返す一瞬だけ。彼の視線が、セリアの左手首で止まった。一秒にも満たない、ほんの刹那。気のせいかもしれなかった。それでも、確かに止まった。

 夕暮れの空が、ゆっくりと暗くなる。地平線の火はまだ天を焦がしていて、熱いはずなのに。セリアには、それがただの『背景』にしか見えなかった。

 (だんだんと、自分が人間ではなくなっている気がする。)

 それ以上のことは、まだ、思うことができなかった。


 野営地に帰ると、いつも通り配給された食料を食べる。

 味を、感じなくなっていた。

 干し肉の塩気も。硬いパンの麦の風味も。口に含んだ瞬間に、砂のように実感を失って消えていく。ただ噛んで、飲み込んで、また噛む。それは食事というより、機械に燃料を補給する作業に近かった。

 強くなっているんだ、とセリアは自分に言い聞かせている。余計なものを感じないよう、兵器として最適化されていく。そう思えば、自分の中から大切な何かが削り取られていく恐怖にも、耐えられる気がした。

 向かいでは、ヴァルトが淡々と携帯食を口に運んでいる。セリアは手元に残った、小袋の干し果実を見つめた。甘みがわからなくなって久しいけれど、これだけは、まだ何かを思い出せそうな気がして。

 ……けれど、今日はそれすら砂の味がした。

 食べる意味を見失い、黙って袋をヴァルトの前に置く。彼は一瞬だけ視線を落とし、何も言わずにそれを受け取った。

 焚き火がぱちりと爆ぜ、火の粉が一つ、夜空の深淵に消えた。少し離れたところからは、他の兵士たちの笑い声が聞こえてくる。同じ野営地にいるはずなのに、その音はまるで、分厚いガラスの向こう側の出来事みたいに遠い。

「……昨日殺した人のこと、夢に見ますか」

 口に出してから、しまったと思った。ヴァルトが手を止め、セリアを見た。射抜くような、けれどひどく静かな視線。

「最近、私は見ないんです。昔は、見ていた気がするんですけど」

 ヴァルトの隣で戦場を歩くたび、自分の手も同じ色に染まっていくような錯覚に陥る。夢に見なくなったのは、慣れたからか。それとも、罪悪感を感じるための機能さえ、削ぎ落とされてしまったのか。

 ヴァルトは少しの間だけ沈黙し、干し果実を一粒、口に入れた。答えはない。けれど、無視でもなかった。最近、この男の沈黙には種類があるのだとわかってきた。今のこれは、きっと、聞こえないふりをしてくれているのだ。

 不意に、眠気が来た。

 疲れによる穏やかなまどろみではない。唐突に、身体全体が重くなる。何とか開いた重たい瞼の隙間で、ヴァルトが動くのが見えた。彼が、私のもとへと近づいてくる。一瞬、心臓がドクンと跳ねた。けれど、彼は何も言わず、ただ私をそっと抱き上げた。

 伝わってきたのは、確かな体温だった。

 冷え切った私の指先とは違う、生きている人間の、静かな熱。そのまま、壊れ物を扱うような手つきで、彼は私を寝床まで運んだ。目を閉じたことで研ぎ澄まされた聴覚が、焚き火が爆ぜる音を捕まえる。ぱちぱちという柔らかな音の隙間から、やがて、あの音が聞こえてきた。

 ――シュッ、シュッ。

 ヴァルトが剣を研いでいる。石の上を鋼が滑る、硬く、けれどどこか澄んだ音。その規則正しいリズムは、これまでずっと、私の首を撥ねるための「処刑の準備」にしか聞こえていなかった。

 けれど、意識が闇に溶け落ちる寸前。今夜のその音に、不思議と、子守唄のような安らぎを感じた。

 ……気のせいだ、きっと。

 そう思考を閉じるより先に、心地よい闇が私を包み込む。



 セリアが眠った後。剣を研ぐ音だけが、夜に残っていた。

 石と金属が触れ合う、一定のリズム。ヴァルトはそれを、体に深く覚えさせていた。考えずとも手が動き、感情が邪魔をしても、刃だけが正確に命を断つように。魔術は使えない。呪文も唱えない。ただ、剣だけで動く。この泥塗れの戦場で、それだけが自分が生き残るために許された、唯一の技術だった。

 今日の戦闘を、頭の中で淡々と反芻する。

 アステリアの魔法師が、三人。一人目は、喉を裂いた。驚愕に目を見開く暇さえ与えず。二人目は、胸を突いた。防具の隙間を滑らせ、心臓を正確に。三人目は――詠唱が完成し、精霊の光が漏れ出す瞬間に、その指ごと腕を断ち切った。

 鉄の匂いと、肉を断つ嫌な手応え。それだけを、記憶の底に沈めておく。

 石を走らせる手を止めずに、倒した三人の顔を順番に思い出す。名前は知らない。知る方法もない。けれど、その死に顔だけは網膜に焼き付けておく。忘れることは、自分には許されない。それが、奪った側ができる最低限の責任だとヴァルトは思っていた。

 テントの方に、誰かの気配が近づいてくる。他の監視官だ。酔っているのだろう、頬を紅潮させ、身体を左右に揺らしている。目が合うと、向こうは無言で引き返していった。

 ふっと、背後の気配が変わった。セリアの呼吸が、柔らかく深くなる。

 ヴァルトは剣から目を離し、一度だけ、静かにそちらを振り返った。

 焚き火の光の中で、彼女の左手首にある呪紋が、かすかに、冷たく光っている。

 ……手が、無意識に動きかけた。その細い手首に触れ、こんな呪縛を今すぐにでも解き放ってやりたいと。

 ヴァルトは途中まで伸ばしたその手を――止めた。

 拳を強く握り、膝の上に置く。今、こんなことをしても、どうにもならない。軍にとって、彼女は不具合が出れば即座に廃棄し、新しい個体を補充すればいいだけの「消耗品」だ。そして、消耗品を助けようとするヴァルト自身も、軍から見れば不良品とみなされ、殺されてしまうだろう。だから、今ではない。無策に手を伸ばせば、彼女を、そして自分自身を殺すことになる。そんなことは分かり切っている。毎晩、それだけを自分に言い聞かせていた。

 セリアが眠っている。穏やかな吐息を立て、安らかに。泥を拭えば、まだ十三歳の、幼い子どもの顔だ。

 こんな地獄に連れてきていい顔じゃない。

 せめて。最後には、生きていてよかったと思えるように。そう願うことだけが、この救いのない地獄の中で、ヴァルトが自分に許している、唯一の温かな感情だった。

野営地の空気が変わり始めたのは、ある夜のことだった。

 はっきりとした変化じゃない。ただ、監視官たちの視線が刺すように鋭くなり、野営地の熱量がじりじりと下がっていく。感覚が削れていても、肌が先にそれを感じ取った。それとも、こういう「死の予兆」に敏感なことこそが、私の中に残った最後の人間らしさなのかもしれなかった。

「七番。……それと、監視官」

 昼下がり。上官に呼ばれた。隣には、ヴァルトが並んでいる。上官の目は、私たちを見ていない。手元の帳簿にある「在庫」の数字を確認しながら、冷たく、淡々と告げられた。

「今朝、他の師団が壊滅した。アステリアの精鋭部隊との正面衝突だ。……おそらく、ガーディアンがいたのだろう」

 ガーディアン。たった一人で一個師団を消滅させる、戦場の天災。上官は一度だけ顔を上げ、冷ややかな目でヴァルトを見た。

「お前と七番が、最前衛に出ることになる。……下がれ」

 なぜそんなことを言うのか、理由を聞く必要はなかった。

 (命令だ。私が潰れても、補充はある。だから、お前は生き残れという。……ただ、それだけだ)

 ヴァルトは無表情だった。感情を一切削ぎ落とした、鉄のような横顔。けれど。剣の柄を握る彼の指の関節が、骨が浮き出るほどに、白くなっていた。

 テントに戻るまで、二人とも一言も発しなかった。ヴァルトはそのまま外で剣の手入れを始め、私はその背中を見つめた。

「明後日……大規模交戦だそうです」「知ってる」「ガーディアンがいるかもしれない、って……」「……ああ」

 その一言で、研磨の音が止まった。耳が痛くなるような、不自然な静寂。

「……怖くないんですか」

 なぜこんなことを聞いたんだろう。沈黙の重さに耐えられず、言葉を絞り出す。

「私は、少しだけ怖いです。でも、少しだけです。前はもっと……心臓が口から飛び出すほど、怖かった気がするんですけど」

 言ってから、気づいた。私はきっと、これを聞いてもらいたかったんだ。明日この世界から私が消えてしまう寂しさに、誰かに共感してほしかった。

 ヴァルトは何も言わなかった。視線が、私の左手首に落ちる。呪紋のあたりを一秒か二秒、悔しさを飲み込むような目で見つめ、それから剣に戻した。

「……寝ておけ」

「……はい」

 横になって、ヴァルトの表情を思い出した。彼が私を見た、その刹那。その時だけ、彼の瞳の奥に、確かな「感情」が見えた気がした。

怖い人だ、とは思う。けれど最近は、それだけじゃない何かが、彼の瞳の奥に混ざっている。その正体がわからないまま、夜になるたびに、それは私の胸の中で少しずつ大きくなっていた。

 外で、再び剣を研ぐ音が始まった。

 ――シュッ。シュッ。

 規則正しく、静かな音。きっと、私は明日死ぬのだろう。それなのに、私の心はもうさざ波ひとつ立てない。悲鳴の上げ方すら忘れた自分を、どこか遠い場所から眺めている。

 剣が研がれる音に耳を澄ませて。私は、重たい瞼を閉じた。




 次の日の朝、野営地は水を打ったように静かだった。

 静かすぎる、というのは騒がしいより怖い。いつもなら聞こえる兵士たちの下品な笑い声は消えて、代わりに遠くのテントから地図を広げる乾いた音と、押し殺した密談だけが漏れてくる。セリアはふと、空を見上げた。青く澄み切った空に、白い雲が、戦場の雰囲気には似つかわしくないほど穏やかに漂っている。

(……綺麗だな)

 そう思った直後、胸の奥がちりと焼けた。昨日も同じ空を見たはずなのに、昨日の私は、何も感じなかった。私の心は、まだ、生きているんだろうか。

 重苦しい空気の中、行軍が始まった。

 百人以上の足音が泥を踏み抜く音だけが、地を這うように、前へ前へと刻まれていく。セリアは無意識に、左手首の呪紋を右手でそっと覆った。

 ドクン、ドクン。

 脈打っている。いつもより、ずっと速く。頭が理解するより先に、剥き出しの肉体だけが「それ」を察知していた。

 最初に気づいたのは、においだった。

 煙じゃない。火薬でもない。雨上がりの朝のような、清潔で澄んだにおい。その奥に、真夏の炎天下のような、狂おしい熱が潜んでいる。嗅いだことのない種類のにおいだった。

 隣を歩くヴァルトが、わずかに、歩速を落とした。

(……この男が、速度を変えた?)

 泥濘みでも、深い霧の中でも、常に一定の歩幅を刻み続けた鉄の男。その彼が、今、ほんの少しだけ遅れている。前を見据えたまま、何も言わない。その沈黙が、余計に怖かった。

 そして、木々が途切れた。

 視界が、一気に開ける。

 ――戦場の中央に、白金の火柱が立っていた。

 セリアの足が、止まる。命令でも本能でもなく、ただ、魂が「これ以上近づくな」と絶叫した。

 それは、セリアが知るどの炎とも違った。カスティアの魔術が生む濁った橙色ではない。白に近い金色。煙も、煤もない。ただ、空間そのものを侵食する純粋な「光」。太陽の欠片を地面に突き刺したような、あまりに場違いな神々しさ。

 その中心に、一人の女が立っていた。

 赤みがかった長い髪が熱気に揺れ、身軽な外套を纏っている。武器は持っていない。彼女の周囲で渦巻く白金の炎そのものが、どんな剣よりも鋭く、どんな盾よりも堅牢だった。

 ガーディアン――守護持ち。

 理解した瞬間、背筋を冷たい感覚が走り抜けた。感覚が削れていても、生物としての本能が理解してしまう。草原の小動物が天敵を前にしたときのように、理屈より先に、体が震えを止めることができない。

(逃げろ。今すぐ、ここから逃げろ)

 何かが脳内で叫んでいた。女の視線が、遠く離れたセリアたちを捉える。

 ――目が、合う。


 女が、動いた。

 ただそれだけで、戦場の景色が塗り替わった。

 カスティアの兵たちが、一瞬で白金の渦に飲み込まれていく。炎は意思を持つ生き物のように奔り、障害を避け、人間だけを選んで灰に変えていく。迎撃の詠唱は届かない。言葉が完成するより先に、白銀の閃光が術者の喉を焼き、沈黙させていく。

 強い、なんて言葉では足りない。

 あれは、災害だ。

 隣で、鋭い金属音が響いた。ヴァルトが剣を抜く。戦場の轟音の中でも、その音だけが妙にはっきり聞こえた。セリアが震える喉で詠唱を始めようとした、その時。ヴァルトが、彼女の前に踏み出した。

 広い背中が、視界を塞ぐ。

「下がれ」 「でも、私も――」 「――下がれ」

 二度目は、短く。振り返らなかった。その背中は何も語らず、ただ前方の絶望だけを見据えている。

 ヴァルトが一歩踏み出した瞬間、女の目が動いた。白金の炎がわずかに収まり、戦場に不自然な静寂が生まれる。

「……剣だけで来るの?」

 静かな声だった。怒りでも嘲りでもない。ただ、目の前の男を確かめるような響き。

 ヴァルトは答えない。答える代わりに、泥を爆発的に蹴った。銀閃が空気を断ち、白金の障壁に叩きつけられる。

 ――ガギィィィィン!

 火花ではなく、光の欠片が四方に散る。弾かれた勢いを殺さず横へと流し、着地と同時に次の一歩へ変換する。泥を蹴り、間合いを詰め、叩く。弾かれ、また踏み込む。

(彼は、今日も生き残る予定のはずだ。なのに、どうして・・・)

 障壁が厚くなる。ヴァルトが吹き飛ばされる距離が伸びていく。それでも、止まらなかった。

 炎の余波が、彼の左腕を直撃した。外套の袖が一瞬で燃え上がる。

 セリアは悲鳴を上げそうになり、口を両手で強く押さえた。

 ヴァルトは燃える袖を一瞥し、迷わず素手でそれを引きちぎった。燃える布を地面に叩きつけ、再び剣を構える。赤く爛れた左腕。剥き出しの皮膚。それでも、表情は1つも動かない。ただ、前だけを見据えている。

 セリアには、分からなかった。なぜ彼は、あんなにボロボロになりながら、前に立ち続けているのか。なぜ、その背中が、こんなにも大きく見えるのか。

 セリアの手が、無意識に胸元を掴んでいた。

「……しぶとい」

 女が唇を噛んだ。

 ヴァルトの踏み込みが、さらに深く、鋭くなる。剣先が障壁に触れた瞬間、真っ向から力をぶつけるのではなく、触れた点を支点にして剣を滑らせた。白金の炎が剣の腹を伝い、外側へ受け流されていく。

 ――障壁に、縦の亀裂が走った。

 女の目が、初めて大きく見開かれる。その隙を、銀の刃が逃さなかった。女の外套が裂け、鮮血が舞う。

 魔法を持たない人間の剣が、ガーディアンに、届いた。

 戦場を支配した、一瞬の静寂。

 直後、世界が白銀に染まった。契約者に触れられた精霊の、本能的な怒り。制御を失った爆炎が全方位へ爆ぜ、ヴァルトを無慈悲に吹き飛ばす。

 地面に激しく叩きつけられる、重たい衝撃音が戦場に響いた。

 ヴァルトは、動かなかった。

 腕の皮膚が裂け、腹からも血が滲んでいる。

それでも、気だけはしっかり保っているようだった。



 左手首が、ドクンと跳ねた。

 一拍遅れて、熱が来る。

 手首から肩へ、肩から胸へ。どろりとした、おぞましい熱が這い上がってくる。呪紋が、狂ったように脈打っていた。

 指先が、自分の意志を拒絶し始める。

 膝から力が抜けて、セリアは泥の中に崩れ落ちた。手をついても、感触がない。体が、自分のものではなくなっていく。どこか遠い場所から、泥の中に沈んでいく「自分」を眺めているような、酷く冷めた感覚だった。

 怖くもない。痛くもない。

 ただ、暗い水の底へ落ちていくように、すべてが塗り潰されていく。

(嫌だ。このまま、何も感じず死にたくなんてない・・・)

そう思うが、セリアの中に残る感情も、だんだんと浸食されていった。

 その時。

 地面を蹴る音が、こちらへ向かってきた。

 荒い息遣いが、近づいてくる。顔を上げる力もなかったけれど、視界の端に、何かが映った。

 ヴァルトだった。

 血まみれで、体を引きずるようにして、走ってくる。これまで一度も見たことのない顔をしていた。あの無表情が、跡形もなく崩れている。

 あの人が、こんな顔をするんだ。そう思ったら、胸の奥で、何かがかすかに動いた気がした。

◆◆◆

 ヴァルトが最初にそれを察知したのは、セリアの呪紋が光り始めた瞬間だった。

 強制起動。その意味を、ヴァルトは知っていた。知っていたから、体が動いた。思考より先に、足が地面を蹴っていた。

 右脇腹の傷が悲鳴を上げる。左腕の皮膚は裂けたまま、血が滴り続けている。口の中に鉄の味がした。それでも走った。守護持ちとの死闘で限界を超えた体が、それでも、走った。

「セリア!」

 自分が、こんな声を出せるとは知らなかった。

「セリア、しっかりしろ! 返事をしろ!!」

 膝をついて、両肩を掴む。揺さぶった。セリアの目がうつろにこちらを向いた。焦点が合っていない。まるで、どこか別のところを見ているような。

(間に合わなかったのか)

 呪紋が光り狂っている。手首から上へ、術式が全身に広がろうとしていた。ヴァルトはその光る手首を、両手で力強く包んだ。

 そして、低く、静かに、詠唱を始めた。

 セリアの中で荒れ狂う魔力に、真っ向から意志をぶつける。押しつぶされそうな圧力の中で、ヴァルトは声を揺らさなかった。詠唱を紡ぐ手だけが、かすかに、震えていた。

 詠唱が終わる。

 呪紋の光が、静かに消えた。

 セリアの体から、少しずつ、力が抜けていくのがわかった。ヴァルトはそっと、セリアの頬に触れる。

「……よかった」

 そんな言葉を自分が言うとは思っていなかった。

「セリア。もう、大丈夫だ」

 セリアの目に、少しだけ焦点が戻ってくる。何か言おうとして、まだ体の自由が戻っていないのか、口が開いたまま止まっていた。

 ヴァルトも、何も言えなかった。

 言いたいことは、たくさんあった。ずっと、たくさんあった。でも全部、今日まで言えなかった。言う場所がなかった。言っていい場所が、どこにもなかった。

 その時。

 背中に、衝撃が来た。

 味方の方角から。

 ヴァルトはセリアに覆い被さったまま、それを背中で受けた。体の中で、何かが壊れる音がする。口から血が出た。それでも、離さなかった。

 爆風が収まるまで、セリアを地面に押しつけたまま、動かなかった。セリアの頬にヴァルトの血が散る。

 轟音が、遠ざかった。

 足元の地面が、ぐらりと傾いた。砲撃が地盤を抉ったのだ。亀裂が走り、土くれが崩れ落ちていく音がする。その向こうから、川の音が聞こえてきた。轟々と、重く、何もかもを飲み込むような濁流の音が。

 背中の感覚がない。右腕も、思うように動かない。

(……これは、もうダメだな)

 静かに、そう思った。

 ヴァルトは覆い被さったまま、そっとセリアを抱いた。腕の中で、セリアの呼吸音がする。小さくて、でも確かに、生きている音だった。

「……人間らしく、生きてくれ」

         ――。

 セリアの体が、わずかに震えた。

 ヴァルトは守護持ちの女を見た。女はずっとそこにいた。炎を消して、武器も構えず、ただ静かにこちらを見ている。目が合った。ヴァルトは何も言わなかった。言葉はいらない。ただ一瞬、その目に全部を込めた。

「――こいつだけは、頼む」

 そう言って、セリアを女の方へ突き飛ばした。

 渾身の力で。最後の力で。

  足元の地面が、音を立てて崩れていく。一歩踏み出すたびに、土が川へ落ちていく音がした。轟々と、何もかもを飲み込む濁流の音が、すぐ耳元まで迫っている。ヴァルトは一歩踏み出した。もう一歩踏み出した。

「ヴァルト!!」

 セリアの声が、後ろから来た。

 視界の端で、女に抱えられながら叫ぶセリアが見えた。

(これでもうあいつも、大丈夫だろう・・・)

 崖が崩れる。土砂と水が、一気に視界を埋めた。冷たい。痛い。でも不思議と、怖くなかった。

 最後に頭に浮かんだのは。

 セリアからもらった、あの干し果実の、甘い味のことだった。

◆◆◆

 セリアは、ガーディアンの女に支えられながら、それを見ていた。

 ヴァルトが、濁流に飲まれていくのを。

 叫ぼうとした。走り出そうとした。でも体が動かない。女の腕が、静かにセリアを引き留めていた。

 川は、轟々と流れ続けている。

 ヴァルトがいた場所に、もう人の形はなかった。あるのは、流れていく濁った水と、崩れた土砂だけだった。

(生きろ、と言った人が)

 セリアの視界が、ぼやけた。

 涙なのか、爆風の煙なのか、わからなかった。

 膝から力が抜ける。女の腕がそれを支えた。

 空が、灰色だった。雲一つない、ただ灰色の空が、どこまでも続いている。

 声が出なかった。

 ただ、あの背中だけが、目に焼きついて離れなかった。

 最後まで振り返らなかった、あの背中が。

 ――人間らしく、生きてくれ、と。

 あの人は、私にまだ人間でいられると、そう思っていたのだろうか。

 答えは、灰色の空の向こうに消えていった。

 気がつくと、森の中にいた。

 どうやって辿り着いたのか、わからない。川に飲まれた記憶がある。冷たかった記憶がある。それ以降は、何もない。ただ、気がついたら、木々の隙間から月の光が差し込んでいた。

 体を動かそうとした。動かなかった。

 指先一本、思い通りにならない。冷たい水の中を長い間漂っていたせいか、それとも守護持ちとの死闘のせいか、あるいはその両方か。どちらでもよかった。

(今度こそ、本当に死ぬんだろうな)

 不思議と、怖くなかった。川に身を任せたあの瞬間、一度は手放した命だ。今こうして息をしていること自体、すでに余分だった。

 何とか力を振り絞って、仰向けになった。

 夜空が、視界いっぱいに広がった。星が、いくつも光っている。その中で月だけが、他の何とも違う存在感で、静かに輝いていた。

(セリア)

 あいつは今頃、どこにいるだろう。ガーディアンの女に保護されたはずだ。あの目は、信用できる目だった。だから、大丈夫なはずだ。

(ようやくあいつは、自分の人生を歩み始められる)

 そう思ったら、口元が緩んだ。自分でも気づかないうちに、そうなっていた。

(俺の命程度で、あいつが笑って過ごせるなら。こんなに清々しいことはないな)

 目を閉じる。

 耳に届くのは、川の音と、風が木々を揺らす音だけだ。このまま眠れば、もう目が覚めないかもしれない。それでもいい、と思った。やるべきことは、すべてやった。

 その時。

 音が聞こえた。

 自然が奏でるはずのない、軽やかな旋律が。

「ふんふん、ふーん」

 

 足音が、こちらへ近づいてくる。枯れ葉を踏む音が、少しずつ大きくなる。こんな夜更けに、こんな場所で、鼻歌を歌いながら歩く人間がいるとは思っていなかった。

 どんどんと大きくなっていた足音が止む。

 気配が、すぐそこにある。

「……あら」

 短い声だった。驚きと、それから何か別のものが混ざった声。ヴァルトは目を開けようとしたが、重かった。それでも薄く開けると、月明かりの中に、一人の女が立っていた。

 若い女だった。長い髪が夜風に揺れていて、ヴァルトを見下ろすその目は、警戒でも恐怖でもましてや動揺でもなかった。

「大丈夫ですか」

 しゃがんで、顔を覗き込んでくる。声を出そうとしたが、うまく出ない。。喉から漏れたのは、声とも呼べないうめき声だった。

 女は顔色一つ変えなかった。ただ、ヴァルトの全身を一度だけ見渡して、小さく息をついた。

「……これは、酷い」

 

 女がヴァルトの体に手を添えた。温かかった。冷え切った体に、じわりと熱が染み込んでくる。それがひどく、懐かしい感触だった。

「アリス 頼むね。」

そういうと、女の周りに淡い光が満ちる。

「月の守り人よ。空の盟約に従い、かのものに宿り、傷を癒せ」

 静かな詠唱だった。押しつけがましくない、聞くものを虜にするような、穏やかな声。女の周囲の淡い光が、ゆっくりとヴァルトの体へ溶け込んでいく。

 直後、全身がじんわりと温かくなった。痛みが遠ざかる。重かった体が、少しずつ軽くなっていく。そして、抗えないほどの眠気が来た。

「眠ってください」

 女が言った。

「そうしないと、治るものも治りませんよ」

  ヴァルトは、その声に逆らえなかった。

  目を閉じる直前、最後に見えたのは、月明かりの中で静かにこちらを見ている、女の顔だった。




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