表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

モブ侍女ですが、闇落ち令嬢の未来を変えたい

作者: 錆猫てん

 ミストラル侯爵家の一人娘、エリーザ・ミストラル。 屋敷の皆は、愛着と敬意を込めて彼女をこう呼ぶ。「リーザお嬢様」と。


 そして私は、エルナ。 平民で、姓はない。十一の歳に奉公に出て以来、この屋敷で呼吸の仕方を覚え、礼法を学び、貴族社会に適した言葉を選ぶ癖を身に染み込ませてきた。


 お嬢様付きの侍女に抜擢されたのは、偶然と評価が重なった結果だ。 「年齢の割に受け答えが妙に落ち着いている」と、人事を取り仕切る家令が言ったらしい。 「大人と対等に話ができる」と。


 それは褒め言葉に見えて、時々、私の胸の奥を冷やす。 子どもであることを許されない環境が、どれほど残酷かを知っているからだ。


 けれど――だからこそ、私は守りたいと思う。 この屋敷で一番小さな、いちばん大切なこの子を。


***


「お嬢さ……」


 声をかける前に、リーザはこちらを見ていた。 大きな瞳は涙で濡れ、縁が赤く腫れている。小さな肩が小刻みに震えていた。 怒りと悲しみ、そしてどうにもならない寂しさで、肺いっぱいに息を詰め込んでいるのが見て取れる。


 今日の癇癪は、いつもより酷かった。 けれど、理由は痛いほど分かっている。


 今日は、エリーザ・ミストラル六歳の誕生日。 多忙なミストラル侯爵が、「今日は必ず早く帰る」と約束した日だ。


 それなのに。


「来ないの……?」


 リーザの声は、怒鳴り声ではなかった。 事実を確かめるような、すがりつくような、幼い声。 その弱々しさのほうが、鋭い刃物よりも深く胸に刺さる。


「侯爵閣下は、急なご公務が入ったそうで……」


 言い終える前に、リーザの顔がくしゃりと歪んだ。 小さな口が一度きゅっと結ばれ、堰を切ったように開く。


「お仕事、お仕事、お仕事!」


 机の上の花瓶が、細い指で掴まれた。 指先が怒りで白くなるのを見た瞬間、私は反射的に一歩前へ出た。


「お嬢様、どうか……!」


 花瓶が宙を飛ぶ。 空気を裂く音は短く、軽い。


 私は目を閉じず、心の中でだけ祈った。どうか、致命傷になりませんように。


 花瓶は私の額に当たり、派手な音を立てて砕け散った。 硬い衝撃。視界が白く弾ける。 床が遠のき、自分の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちていく感覚。


 薄闇の中に意識が沈む直前、私は冷静に思った。


 ――準備はしていた。これ以上の対処は、できない。 この花瓶は、予め私がすり替えておいたものだ。 見た目は同じだが、脆く割れやすい素材でできた模造品。 それでも衝撃はあるし、痛い。もしこれが、重厚な本物の花瓶だったなら、私は今頃――。


 思考が途切れ、意識が反転した。


***


「……なさい……」


 誰かの声がする。


「……ん……」


 耳元で、すすり泣く音が聞こえる。 子どもの泣き方だ。息が詰まって、言葉にならず、ただ涙だけが零れ落ちる音。


「……ごめん……なさい……」


 重いまぶたを持ち上げると、視界いっぱいにリーザがいた。 大きな目はさらに腫れ、長い睫毛が濡れて束になっている。頬には涙の跡が何本も走っていた。 私の袖を握りしめる小さな手が、小刻みに震えている。


「リーザ、さま……」


 かすれた声が出た。 喉がひりつく。頭がじん、と鈍く痛む。


「エルナ! ごめんなさい、ごめんなさい、わたし……ッ」


 リーザは、私の胸元に額を押しつけるようにして泣きじゃくった。 伝わってくる体温が、あまりにも幼くて、熱い。


「お嬢様。エルナは……大丈夫です。綺麗な目が、腫れていますよ?」


 私の言葉に、リーザはぱっと顔を上げた。 泣き腫らした目が、必死に私の顔色を探る。


「ほんと? ほんとに、死んでない?」


「はい。死んでいません」


 言い切ると、リーザは糸が切れたように脱力し、安堵の息を吐いた。 それからまた泣いた。今度は、恐怖が溶けた涙だった。


 私はゆっくりと上半身を起こした。 視界の端で、床に散らばった花瓶の破片が見える。白い欠片が、照明の光を受けてきらきらと光っていた。 あの花瓶が狙い通りに砕けたことを確認し、胸の奥が少しだけ軽くなる。


 本来、私は運悪くこのまま目覚めないはずだった。 そういう未来を、私は知っていたから。


『父親に約束を破られた癇癪で、侍女を殺めてしまう』 その後、侯爵は娘を疎み距離を置く。 リーザは愛されない自分に傷つき、同時に、自分を愛してくれた唯一の人間を殺めた罪を背負う。 そうして正しい道を見失い、やがて――闇に落ちる。


 そんな破滅への分岐点が、今日だった。


 なぜ未来が分かるのか。 それはここが、前世で私が夢中になった乙女ゲームの世界だからだ。 仕事に追われる日々の癒やしだった物語。 そして、その物語の中でエリーザは、必ず不幸になる運命にあった。


 けれど私がこの子を救いたい理由は、正義感でも、物語の強制力への抵抗でもない。 ただの、私の身勝手だ。


 十一歳で奉公に出たのは偶然だった。 平民の娘が口減らし同然に屋敷へ入れられ、受け答えが大人びているから「使える」と評価されただけ。 それが巡り巡って、私は生まれて間もないリーザの世話係になった。


 最初はただの仕事だった。 抱き上げ、泣き声の違いを覚え、熱の出方に神経を尖らせ、眠れない夜には背を撫で続けた。 いつの間にか私は、彼女を「お嬢様」と呼びながら、どこかで妹のように、あるいは娘のように思うようになっていた。 使用人と主。その一線を越えた感情だと分かっていても、もう引き返せなかった。


 けれど、ある日。

 リーザが何気なく口にした一言が、前世で聞き飽きるほど覚えた台詞と重なった。

 この子は、闇に落ちる令嬢だ。

 そう気づいた瞬間、胸の奥が冷え、次に熱くなった。


 だから、準備していた。 今日が運命の分岐点だと知っていたから、体を張ってでも止めたかった。


 リーザが、私の袖を握ったまま言う。


「エルナ……嫌いにならないで……」


 幼い唇が震えている。 ああ、この子は今、叱られることを恐れているんじゃない。 見捨てられることを恐れているのだ。


「嫌いになどなりません。リーザお嬢様」


 私はゆっくりと、震える小さな手の上に自分の手を重ねた。


「エルナは、ここにいます」


 それだけでリーザは、泣きながら何度も頷いた。 その頷きが、本当に安心からくるものなのかは分からない。 けれど私は、信じるほうを選ぶ。


 この子を独りにはしない。 それが、私の最初の選択だ。


***


 誕生日から数日後。 リーザの情緒は、波のように揺れ動いていた。


 笑っている時のリーザは、息を飲むほど愛らしい。 窓辺で陽を浴びてプラチナブロンドの髪が光ると、まるで絵本の挿絵のようだ。 花の名前を覚えるときの真剣な横顔。 読み聞かせをせがみ、物語の結末を先に知りたくて身を乗り出す癖。 小さな指でページをめくるたび、カサリと乾いた音がする。


 けれど、ふとした瞬間に影が落ちる。 廊下で父の靴音がしない日が続くとき。 使用人が「侯爵閣下はお忙しい」と囁くのを耳にしたとき。 夜、寝る前に無意識に「お母さま」と呟いたとき。


 その日もそうだった。


 台所から運ばれてきた菓子の皿が、ふらりと傾いた。 給仕係の若いメイドが慌てて持ち直そうとしたが、間に合わず、皿は床に落ちた。 甘い匂いと一緒に、砕けた焼き菓子が無惨に散らばる。


 メイドの顔がサッと青ざめる。 同時にリーザの表情が、ぴき、と凍りついた。


「わたしのおやつ!なんで!」


 鋭い声。 小さな身体からは想像できないほどの圧がある。 周囲の大人が息を呑んだ。叱責の連鎖は、いつも大人が作るものだ。子どもは、それを敏感に真似る。


 メイドが震える唇で謝罪しようとしたその刹那、私は一歩前に出た。 言葉ではなく、音もなくその場に膝をつく。


 床の菓子を拾い始めた。 割れた欠片を一つ、また一つ。


「エルナ?」


 リーザが戸惑った声で呼ぶ。怒りの矛先を見失った声だ。


「大丈夫です。床が汚れてしまいますから」


 私は淡々と拾い続ける。 叱らない。諭さない。 ただ、「一緒に片付ける」という姿勢を見せる。


 リーザは一瞬、拳を握りしめて固まっていたが、やがてゆっくりと膝を折った。


「……わたしも」


 小さな手が床に伸びる。 指先が菓子の欠片に触れて、べた、と砂糖がついた。


 メイドが息を呑んだ気配がした。 侯爵令嬢が床に膝をつき、ゴミを拾うなど、普通なら止められる行為だ。 けれど私は止めない。 この子が自分で選んだのなら、その選択を尊重したい。


 リーザは欠片を拾いながら、ぽつりとこぼした。


「……ごめんなさい。びっくりしたの」


 怒鳴りつける代わりに、自分の感情を言葉にした。 それは、怒りの形を変えるための大きな第一歩だ。


 メイドは涙を浮かべたまま、何度も頭を下げた。


「こちらこそ、申し訳ございません……!」


 リーザは少し顔を赤くして、上目遣いに私を見た。 褒められたいわけじゃない。でも、自分の行いが間違っていなかったか、確認したい目をしている。


 私は小さく、深く頷いた。


「よく、言えましたね」


 それだけでリーザの口元が、こっそりと緩む。 花が綻ぶような笑み。 この笑顔が見たくて守っているのだという単純さは危険だ。けれど、今はそれでいい。


 拾い終えた後、リーザは砂糖で汚れた指先を見つめて、真剣な顔で言った。


「手、洗う。ちゃんと」


 私は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


 本来の設定シナリオでは、この場面でリーザは「身分による支配」を覚えるはずだった。 誰かを叱責することで、自分の心の不安定さを誤魔化すことを覚えるはずだった。


 でも今、彼女は「一緒に片付ける」を選んだ。


 些細なことだ。 けれど、小さな変化が積み重なると、人は違う道を歩き始める。


***


 侯爵が屋敷に戻ったと聞いたのは、翌朝のことだった。


 私はリーザの部屋で髪を梳かしながら、いつものように何気なく告げた。


「侯爵閣下は昨夜、お帰りになったそうですよ」


 リーザの手がぴたりと止まる。 鏡の中で、ぱっと瞳が輝いた。


「ほんと?」


「はい。ただ、執務室にお籠もりのようで……」


 その続きを、リーザはもう知っている。 瞳の輝きが、すう、と萎んでいく。


「……会えないの?」


「すぐには難しいかもしれません」


 リーザは唇を尖らせた。怒りそうで、でも怒りきれない顔。 その表情を見て、私は誕生日の夜の悲痛な泣き声を思い出した。


 この子の癇癪は、ただのわがままではない。 「こっちを見て」という悲痛な叫びだ。


「リーザお嬢様」


 私は髪飾りを留める手を止めた。


「お父様に、手紙を書きませんか」


 リーザが鏡越しに目を丸くする。


「……お手紙?」


「はい。会えなくても、言葉は届けられますから」


 リーザはしばらく黙って、鏡の中の自分を見つめた。 それから、少しだけ眉を下げて言う。


「……お返事、くれるかな」


 正直に言えば、分からない。 侯爵は多忙を極めている。夫人が亡くなってから、屋敷の管理も社交も政治も、全て一人で背負い込んでいる。 背負うことに慣れすぎた人は、他者に手を伸ばすことを忘れてしまうものだ。


 ここで無責任に「きっとくれますよ」と言うのは簡単だ。 だが、期待は裏切られた時に鋭利な刃になる。


「返事がなくても、いいんです」


 私は静かに言った。


「お嬢様が、お父様に伝えたいと思ったこと。それを形にすることに意味があります」


 リーザは不思議そうに私を見た。 完全には理解できなくても、興味はあるようだ。


 机に上質な紙とペンを用意する。 リーザは椅子に座り、舌を少し出しながら、慣れない手つきでペンを走らせ始めた。


『おとうさま きょうは りーざは おはながすきです』


 途中で、リーザは不安げに顔を上げた。


「これ、変?」


「いいえ。リーザお嬢様の、素敵な言葉です」


「……お母さまがいたら、どう書くかな」


 消え入りそうな声。 私は一瞬だけ息を呑み、それから努めて穏やかに答えた。


「お母様なら、きっと、こう言います」


 言葉を慎重に選ぶ。 母の不在は埋められない。埋めたふりをしてはいけない。


「『リーザが書いたことなら、お父様はなんだって喜びますよ』と」


 リーザはまた紙に向き直った。 ペン先が紙を擦るカリカリという音が、静かな部屋に響く。


 書き終えると、リーザは封筒に紙を入れ、封をした。 蝋封を押す指先がぎこちない。 でも、その不器用さがいい。これは誰かに「やらされたこと」ではないからだ。


「……これ、届けて」


 リーザが私に差し出す。 その手は少し震えていた。 渡す直前に、もう一度だけ躊躇っている。拒絶されるのが怖いのだ。


 私は両手で受け取り、胸の前で丁寧に抱えた。


「大切に、お預かりします」


 その日、私は執務室の前に立った。 扉の向こうからは、硬い声と書類をめくる音が聞こえる。 私は扉を開けず、控えていた執事に封筒を託した。


 予想通り、返事は来なかった。 数日経っても、数週間経っても。


 けれど、リーザは一度も癇癪を起こさなかった。 代わりに、時々、私に聞く。


「届いた?」


「はい。間違いなくお渡ししました」


 それだけでリーザは頷き、少しだけ胸を張る。


 返事がなくても、自分の気持ちは伝えた。 その事実が、彼女の孤独を少しだけ薄めてくれる。


 私はそう信じた。


***


 秋の初め、冷たい雨が降り続く夜のこと。 リーザが熱を出した。


 額は焼けるように熱く、頬は赤いのに、手足は氷のように冷たい。 呼吸が浅く、長いまつ毛が脂汗で濡れている。


 往診に来た医師は、厳しい顔で言った。


「今夜が山です。念のため、侯爵閣下にお知らせを」


 執事が侯爵を呼びに走る。 私は濡れた布でリーザの額を拭きながら、胸の奥がざわつくのを必死に抑えた。


 ゲームの設定シナリオでは、ここで侯爵は形式だけの見舞いをする。 部屋に入って、苦しむ娘の顔を一瞥し、「治療は任せる」と言ってすぐに立ち去る。 それがリーザの心に決定的な傷を残す。


 でも、今は設定シナリオではない。 設定シナリオを外れた先は、手探りの暗闇だ。 だからこそ、私が動く。


 扉が開き、侯爵が入ってきた。 背は高く、肩幅が広い。黒い外套の裾から雨粒が床に落ちる。 顔色は悪かった。目の下に濃い隈があり、口元が真一文字に結ばれている。 「仕事」という怪物に追われている男の顔だった。


 侯爵はベッドに近づき、眠るリーザを見下ろした。 ほんの一瞬、眉が動く。 それだけで、この人が娘をどうでもいいと思っているわけではないと分かる。


 けれど、どう触れていいか分からない人の手は、いつも空中で迷い、止まる。


「……容体は」


 低く、枯れた声。


「熱が高く、咳が少し。医師は今夜が山だと申しております」


 私が答えると、侯爵は重々しく頷いた。 そして、短く言う。


「必要なものは全て手配させよう」


 それだけで終わらせようとした。 踵を返し、立ち去ろうとするその背中に、私は言葉を投げた。


 責める言葉ではない。 嘆願でもない。 ただの、事実の報告。


「閣下。リーザお嬢様は、花がお好きです」


 侯爵が足を止める。


「……花?」


「はい。最近は、難しい名前も覚えるようになりました。 それから、本を読むのも。自分でページをめくって、最後まで聞き分けよく座っていられます」


 侯爵はゆっくりと振り返り、私を見た。 驚きと、困惑が混じった目。


「……それは、知らなかった」


 その言葉が漏れた瞬間、この人の内側で何かが音を立てて崩れた気がした。 「知らなかった」という事実を、認めたのだ。


 私は畳みかけない。 言葉で追い詰めれば、彼は逃げる。 逃げる先は仕事だ。彼はそれに慣れすぎている。


「以前、お嬢様は閣下へ手紙を書きました」


 私は静かに続けた。


「返事がなくても、お嬢様は怒りませんでした。 届いたかどうかを聞いて、頷いて、それだけで……少し、安心したようでした」


 侯爵の瞳が揺れる。 罪悪感以上に、驚きが見えた。 娘がまだ、自分という父親を諦めていないことへの驚き。


「手紙は……」


「執事が渡しております」


 侯爵は唇を噛み、しばらく沈黙した。 執務室の机の山の中に埋もれていた、拙い文字の封筒を思い出したのかもしれない。


 彼はベッドへ近づき、眠るリーザの髪にそっと手を伸ばした。 触れるか触れないかの距離で止めて、ためらい、結局、指先が柔らかな髪に触れた。


 そのたった一瞬のために、人は何年も遠回りをする。


「……エリーザ」


 侯爵が、小さな声で娘の名を呼ぶ。 リーザは反応しない。熱で眠りが深い。


 侯爵は、座った。 椅子ではなく、ベッドの端に。


 私は息をするのを忘れそうになった。 彼がここに留まるなど、設定シナリオにはない展開だ。


 雨音が窓を激しく叩く。 衣擦れの音。 リーザの浅く早い呼吸。


 侯爵は、視線を娘に落としたまま私に言った。


「……妻が亡くなってから、私は、屋敷のことを他人に任せられなくなった」


 吐き出すような声だった。言い訳ではなく、懺悔に近い告白。 自分の弱さを他人に晒すのは、きっと彼にとって酷く困難なことだ。


「任せればいいと分かっている。だが、手放した瞬間に全てが崩れ落ちる気がして……」


 私は黙って頷いた。 肯定でも否定でもなく、ただ「聞いている」という合図を送る。 仕事に生きる人間が陥る、孤独な完璧主義。それが彼を追い詰めていた。


 侯爵は続ける。


「娘に、どう接すればいいのか……分からなくなった」


 その言葉は、ひどく人間臭かった。 冷徹な侯爵も、子どもの前ではただの不器用な父親になる。 優しさがないのではない。優しさの渡し方を見失っているだけだ。


 私は、腹を決めた。 ここで私が、父と娘の橋になる。


「閣下。お嬢様は、閣下が来ると言った日を覚えています」


 侯爵が苦しそうに目を伏せる。 それでも私は言葉を紡ぐ。


「だからこそ、来ない日は傷つきます。 でも、来てくださると……今も信じています」


 侯爵は長い沈黙のあと、祈るように低く言った。


「……私が、信じるに足る父であればいいが」


「今夜、ここにいらっしゃるだけで、お嬢様には届きます」


 侯爵の視線が、眠るリーザの顔へ戻る。 強張っていた口元が、ほんの少しだけ緩んだ。 笑みではない。けれど、強張りが溶けた柔らかい線だ。


 その夜、峠は越えた。 リーザの熱は明け方には下がり、呼吸も穏やかになった。


 侯爵は、夜明け前まで部屋を出なかった。


 別れ際、侯爵は私に向き直り、小さな声で言った。


「……エルナ。君は、よくやってくれている」


 不器用な労いの言葉は、私の中で重く、温かく響いた。 私は微笑んで深く頭を下げた。


「私は、リーザお嬢様の侍女ですから」


 それ以上は言わなかった。 私は、誰かの代わりにはなれない。 亡くなった母の代わりにも、多忙な父の代わりにも。


 でも、二人の間を繋ぐ橋にはなれる。


***


 二年は、短いようで長い。 リーザは八歳になった。


 背が伸びた。髪は肩甲骨の下まで届くようになり、結ぶとふわりと揺れる。 言葉の数が増え、考える癖がついた。 怒りそうになる時、目を一度伏せる。深呼吸の真似をする。 私が教え込んだわけではない。この子が自分で学び取った処世術だ。


 侯爵も変わった。劇的ではない。 でも、確かに変わった。


 月に一度、必ずリーザとお茶の時間を作るようになった。 殺人的なスケジュールの合間を縫い、時間を削り取るようにして。 その時間に、リーザが花の話をする。 侯爵は相槌が下手で、時々花の名前を間違える。 リーザがくすっと笑う。 そんな些細な時間が積み重なっていく。


 完全な和解ではない。 父娘はまだ、互いに傷つかない距離の取り方を探している最中だ。


 けれど、断絶はしていない。 それだけで、未来は違う形になる。


 アカデミー入学の前夜。 リーザの部屋には、真新しい制服が掛けられていた。 小さな革靴。新しい鞄。 紙とインクの匂い。未知の生活の匂い。


 リーザはベッドに腰かけ、足をぶらぶらさせながら私を見た。 目は輝いているのに、眉が少し下がっている。


「エルナ」


「はい」


 リーザは、指先でシーツの端をつまんで揉んだ。 子どもが不安なときにする仕草。今でも変わらない。


「わたしね……嫌われないかな」


 その言葉は、私の胸の奥を強く掴んだ。設定シナリオでは、この不安がやがて刃に変わる。 「嫌われる前に、自分から拒絶する」「傷つく前に、相手を傷つける」。 それが闇落ちへの防衛本能だ。


 私は、慎重に答えを選ぶ。


「嫌われることも、あるかもしれません」


 リーザの目が大きく揺れた。 けれど私は、あえて甘い嘘はつかない。


「でも、それで終わりじゃありません。 もし嫌われたら、考えればいいのです。 どうしてそうなったか。どうすれば違う言葉が選べたか。 それができるなら、明日は、今日より少しだけ良くできます」


 リーザは、黙って聞いていた。 やがて、自分に言い聞かせるようにゆっくりと頷く。


「……明日は、今日より、少しだけ」


「はい」


 リーザは、ふっと笑った。 あの誕生日の夜のように、花が綻ぶような笑み。


「エルナ、明日も一緒?」


「もちろんです。お嬢様の傍にいます」


 リーザは満足そうに息を吐いた。 それから、内緒話をするように声を潜める。


「……お父さま、明日、来てくれるって」


 その言葉には、まだ疑いが混じっていた。 約束は、破られた記憶を連れてくるからだ。


 私は力強く頷く。


「はい。閣下は、間違いなく来るとおっしゃいました」


「……ほんとに?」


「ほんとうに」


 リーザは、安心したように目を細める。 それでも完全には信じきれない顔。 それが、今の自然な彼女だ。


 夜が明ける。


 玄関の前で、リーザは鞄をぎゅっと抱えた。 制服姿は少し大人びて見える。 でも、手が私の袖を探す癖は変わらない。指先が布を掴む感触。


「行ってくる」


 小さな声が震えている。 それを誤魔化すみたいに、精一杯胸を張る。


「大丈夫ですよ」


 私が背中を押すように微笑んだ、その時。


 玄関ホールに、カツ、カツと重い足音が響いた。 侯爵が現れる。外套を着ていない。珍しいことだ。 仕事のついでではなく、娘のためだけにここに来た証。


 侯爵はリーザを見て、一瞬だけ言葉を失ったように立ち止まった。 娘が、自分の知らない間にこんなにも成長していたことに、遅れて気づいた顔。


 そして、ぎこちなく口を開く。


「……似合っている」


 リーザの頬が、ぽっと赤く染まる。


「……ありがとう、お父さま」


 その言葉は、私が促したものではない。 リーザが自分で選び、届けた言葉だ。


 侯爵は小さく頷き、リーザの前に膝を折った。 子どもの目線と同じ高さまで、降りてくる。 その動作だけで、この人がどれだけ不器用な努力をしているかが見て取れた。


「……遅れてすまなかった。あの日の誕生日も」


 侯爵の声は低く、硬い。 でも、もう逃げない声だ。


 リーザは驚いたように目を見開き、それから唇を噛んだ。 瞳に涙が滲む。 すぐに泣き出さないのは、彼女の成長だ。


「……わたしも。ひどいことした。エルナに……」


 侯爵の視線が一瞬、私へ向いた。 私は静かに頭を下げる。 この場面の主役は私ではない。私は橋であり、土台であり、背景だ。


 侯爵はリーザへ視線を戻し、短く言った。


「君が許しを求める相手は、エルナだけではない。……エリーザ、自分にもだ」


 リーザは、きょとんとした顔をした。 八歳の子どもには難しい言葉だ。 でも、意味は肌で伝わったようだ。自分を許すことも必要なのだ、と。


 リーザは小さく頷き、私を見た。 助けを求める目ではなく、これでいいのかと確かめる目。


 私は無言で頷き返した。


 リーザは、侯爵に向き直る。


「……お父さま。明日も、忙しい?」


 侯爵は少しだけ目を伏せた。 そして、誠実に答える。


「忙しい。だが……エリーザ、君のことも、知りたい」


 その言葉は、完璧な父親の答えではないかもしれない。 でも、今の二人には十分すぎる約束だ。


 リーザの口元が、少し上がる。 誇らしげな笑み。 それから、私の袖を握っていた手が、するりと離れた。


 私は胸の奥で、そっと安堵の息を吐く。


 ここから先は、ゲームの設定シナリオがない。 私はもう、未来を知っているから守れるわけじゃない。 ただ、子どもが独りで泣く姿を、もう見たくないだけ。


 扉が開く。 朝の光がまばゆく差し込む。


 リーザが一歩、外へ踏み出す。 その背中はまだ小さいけれど、確かに自分の足で前へ進んでいる。


「エルナ、行くよ」


「はい、リーザお嬢様」


 私は彼女の半歩後ろに立ち、歩き出した。 未来は白紙だ。 けれど白紙は、恐ろしくもあり、同時に救いでもある。


 書き直せる。 何度でも。


 この子が、独りではない限り。



最後まで読んで頂きありがとうございました。

評価、感想を頂けるととても嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
物語の悲劇の大半は人がそばに居る事、そして相手のために全力で支えて離れないよう努力しそばに居続けることそれが難しくもありそしてそれができる事こそが救いへの1歩である そんな気持ちになる作品でした
お嬢様の淋しさと不安が胸に迫ります。 それを気働きと気転でほんの少しずつ和らげようとする侍女。 間一髪で間に合った?と思わせる、後になるほど閣下の登場を増やす構成が巧みだと思いました。 面白かったです…
暖かくて、優しいお話でした♪ 大人って、優しい嘘を子供によく付くけど、あれって、返って傷つくんですよね それに子供の成長を阻害する気がする。 厳しい現実を、子供に対してでも、大人がしっかり認めて…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ