知りたくなかった感情
翌日。
教室に入った瞬間、
一番最初に目に入ったのは、湊くんだった。
……いた。
それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
昨日のことが、
何もなかったみたいに終わっていればよかったのに。
何も知らなければよかったのに。
(……おはよう、って言えばいいだけなのに)
足が、止まる。
湊くんも、私に気づいた。
目が合って、湊くんは私に優しく微笑みかけた。
右手が少し上がって、「おはよ」って言いかけているのが分かる。
でも、耐えきれなくて、私は先に目を逸らしてしまった。
どうしても笑って「おはよう」っていうか自信がなかった。
昨日。
門の前。
元カノ。
聞きたいことは、山ほどある。
あのあと、どこに行ったの?
何を話したの?
どうして、私を置いて行ったの?
……でも。
それを聞く権利が、
本当に自分にあるのか分からなくて。
私は何も言えないまま、
自分の席に座った。
⸻
「……由奈?」
小さな声で呼ばれて、顔を上げる。
咲だった。
由奈の親友。
一番、気づいてほしくなかった人。
咲「大丈夫?」
その一言だけで、
胸の奥が、ぐらっと揺れる。
(……やめて)
心の中で、そう思ってしまった自分に、少し驚く。
咲は何も責めてない。
ただ心配してくれてるだけなのに。
由奈「うん。大丈夫だよ。」
反射みたいに笑う。
でも、その笑顔が
自分でも分かるくらい、うまく作れていなかった。
咲は何も言わなかった。
ただ、少しだけ眉を下げて、
「そっか」と言った。
それが、逆に刺さる。
(……分かっちゃった、よね)
⸻
休み時間。
柏木くんが、いつもの軽い調子で声をかけてきた。
柏木「よ、由奈ちゃん。元気?」
……まただ。
昨日も、今日も、
みんな優しい。
優しさが、全部
「私が変だ」って教えてくるみたいで。
由奈「うん。元気だよ。」
また、笑う。
柏木くんは、すぐに空気を変えた。
柏木「ま、元気ならいーや。」
深く踏み込まない。
それ以上、聞かない。
触れたら壊れそうなものを見る目。
(……そんな顔しないで)
自分でそうなってるのに、
勝手だな、って思う。
廊下ですれ違う時。
湊くんは、私を見て、
ほんの少しだけ、足を止めた。
湊「……おはよう。」
声は、いつもと同じ。
低くて、落ち着いていて。
だけど私は湊くんの目を見れない。
湊くんがどんな顔で「おはよう」って言ったのかもわからない…
由奈「……おはよう。」
返した声が、
自分でも分かるくらい、弱かった。
湊くんは何か言いかけて、
結局、何も言わなかった。
それが、怖かった。
言い訳でも、嘘の弁解でもいいから、してほしかった。
「由奈」って呼び止めて、抱きしめて、
「ちゃんと好きだよ」って言ってほしかった。
(……私、ちゃんと笑えてた?)
教室に戻って、
机に突っ伏す。
これ以上、
好きになるのが怖い。
こんな気持ちを抱えたまま、
湊くんと一緒にいるのが、怖い。
だから——
無意識に、
距離を取ってしまう。
視線を合わせない。
近づかない。
話しかけない。
(……嫌いになったわけじゃないのに)
むしろ、逆。
好きだから、
元カノさんとの話を聞くのが怖い…
もし元カノさんと復縁するなんて言われたらと思うと…
これ以上、踏み込めない。
⸻
放課後。
帰り支度をしていると、
また、ざわざわとした声が広がった。
女子A「ねえ、またいるんだけど……」
女子B「昨日の人じゃない?」
心臓が、嫌な音を立てた。
ゆっくり、窓の方を見る。
……いた。
校門の前。
昨日と同じ場所。
長い髪。
まっすぐな姿勢。
あの人。
(……また?)
湊くんの方を見る。
湊くんも、もう気づいていた。
昨日と同じように、
困った顔をして、
少しだけ、頭を掻く。
その仕草が、
胸を、ぎゅっと掴む。
(……やっぱり、特別なんだ)
誰にも触れさせない距離。
でも、完全には切れない関係。
私は、
何も知らないまま、
何も言えないまま。
ただ、教室の中で立ち尽くしていた。
昨日よりも、
今日のほうが、苦しい。
それが、
はっきり分かってしまった。
——また、始まってしまう。
そう思った瞬間、
胸の奥で、小さく音がした。
壊れる音なのか、
閉じる音なのか。
その違いすら、
もう分からなかった




